本文中には、グロテスクとも取れる表現が含まれています。そういった表現が苦手な方、またはお嫌いな方には、今回のお話はお勧めできません。もし、目を通していただいて方の中で、ご気分が悪くなった方がいらっしゃいましたら直ちにメール、感想板のほうへお知らせいただければ、直ちに変更、場合によっては削除いたします。利用規約には違反しないように考慮したつもりです。長くなりましたが、十五話をお楽しみください。最後に、ゴメンナサイ。
続けばいいと思っていた
続いてほしいと願っていた
続くわけが無いと気が付いていた
見上げる空はどこまでも朱く
第十五話
Lost in the red
And
Given by the red
【 Ⅰ 】
碇シンジは、よく笑うようになった。
親しい友達とお喋りの中、彼が男子と楽しそうに話している様子をちらりと目にし、山川ユカリはそんなことを考えていた。
例えば今、音楽祭に向けて、放課後に行われた練習が一段落した後の休み時間、こんな会話がされる。
「シンジってさー、あんな楽器、本当に弾けたんだなー」
「ほんまや。しかも一週間でここまで弾けてる様になってるやなんて、おもうてなかったわ。なぁ?」
「そうそう。びっくり」
「それにうまかったしな」
「うんうん」
こんな風にからかわれても、以前の彼なら、からかわれていることにも、純粋に褒められていることにも気がつかず、おろおろとするだけだったろう。
「あはは、そんな事ないですよ」
「ほんとだって!」
そう笑い合う。
ユカリは、そんな彼を目にするたび、うれしくなる反面、胸にちくりと射すものがあることも感じていた。
シンジが、そんな風に友達と話し合っているこの風景は、とても自然なもののはずだ。少なくとも、これは彼に対して向けられたものではない。
原因のわからない苛立ちは、この際無視しておこう。
ユカリはそう決めると、友達との会話へ意識を戻そうとした。
しかし
「ところでさー・・・」
「はい? 何ですか、田中君」
「碇ってさ、山川のことどう思ってるんだ?」
「えっ!! な・何でですか?」
「いやー、なんであんな性格きっついやつと碇が仲いいのかなーと思ってさ。知ってるか? あいつ握力45キロ以上あるらしいぞ?」
そんな会話が、また彼を囲んでいる集団から聞こえてきた。やっぱり、ああして困ってるほうがシンジらしいなぁと、思っいながらその会話を聞いていたユカリの頬杖をついていた手が、ピクリと動く。
「ゆ・ユカリちゃん?」
「なーに?」
「な、なんでもない・・・・」
そんな自分に欠けられた言葉にユカリはかわいらしい笑顔で答えたつもりだったが、声を掛けた友達は顔を少し青くしながら彼女から視線を逸らした。
そんな友人を気にする様子も無く、ユカリは再びシンジたちの方をちらりと見た。
表情には微笑が浮かべられている。
「ちょっと、いいかしら?」
「う、うん」
ユカリは友人にそう断って席を立った。そしてゆっくりと標的に近づいてゆく。
しかしそれに気がつかず、彼らは話を続けていた。
「なんだかんだでさ、碇が一番仲いいの山川だしさ~。山川のほうもまんざらでもなさそうだしさ~」
「そ、そんな事ないと思いますよ?」
「えー、絶対にそうだってー、なぁ?」
「せやっ・・・、いや~~・・・そうでもないんちゃうかな・・・」
そんな中、一人がその場の異変に気がついた。少し、シンジをいじめ気味にからかっていた田中は、そちらに気を向けた。
「ん?どうしたんだよ、声裏返ってんぞ?」
「田中、後ろ後ろ」
「あ?うしろって・・・・」
「た・の・し・そ・う・・・・・ね?」
彼が振り向いたそこには、まぶしいほどの笑みを湛えているユカリ嬢がいた。
もちろん、その場にいる全員が、その笑顔の意味をいやになるほど知っている。ユカリはちらりと、目の前に座っている田中に視線を落としていた。シンジはそれにつられるようにそちらを見ると、声が聞こえた瞬間に固まり、今は助けを求めるようにこちらを見ている彼と目が合った。
(助けてくれ!)
そんな彼の声が聞こえてくるようだ。そこでシンジは、ちらりと視線を上に向け、ユカリの表情を盗み見た。彼女とは目が合わなかった。けれど彼女の表情を確認するや否や、さっと眼を逸らした。
それによって、彼の処遇はほぼ決定した。
そこに、ユカリから声が掛けられる。
「田中君?ちょっとお話があるの。(副音声:ちょっとそこまで面かせや)」
「ココジャダメデスカ?」
「いやん、ユカリこんなところでお話なんてできなーい。ねー? (副音声:ええからこいゆうてるやろコラ!!)」
聞く者すべての体を弛緩させるような、それでいて縛り付けるようなその声は、田中君の中に残っていた最後の抵抗する力を奪い取った。
「・・・・」
「じゃあね。皆さんごきげんよう」
ユカリは教室を出る時一度だけ振り向き、田中君はまるで見えない糸で操られるようにユカリに付き従い、みなが見守る中教室を後にした。
シンジの隣にいた男子生徒は、何も言わず祈るように手を合わせた。
「碇。お前も手を合わせろ」
「・・・・はい」
「せめて祈ろう。やつの無事を」
「そうですね」
二年二組が割り当てられている掃除場所は、教室以外に三つほどある。
中庭、校舎西側の階段二階から三階にかけて、そして、当番制になっている朝昼夕方の飼育小屋の掃除、これには飼育小屋で飼われている動物の世話も仕事のうちに入っている。
飼育小屋の外観は、大きめに作られたトタンの倉庫のようで、外から中の様子を見ることが出来る網で囲われた場所がある。裏側にあるドアから中に入ってみると、掃除道具などをしまってある部屋にでる。そこには荷物等をおいておくスペースなどもあり、中に入って掃除などを行う場合、そこに手荷物を置けるようになっている。そして次のドアを奥へと進むと、まるで小さい公園のようなつくりの飼育スペースに出る。天井は半分だけ網で覆われた吹き向けになっていて、飼っている動物が逃げられないようになっていた。
中で飼われている動物は、亀が二匹、鳩が五羽、それからウサギが六羽。飼育小屋は、その動物たちそれぞれのエリア三つに分かれており、グループのメンバーはそれぞれ手分けしてそこを掃除、または餌をやるなどの世話を行う。
飼育小屋は、校舎から離れたところに立てられており、掃除の際に行う作業も多く、作業時間もより多く掛かってしまうことから、その役目を押し付けあう生徒も多くいる。あえて決まった役員を決めず、クラス単位で生徒全員にその役目が回るようになっていたのは、『生徒全員に生き物と触れ合う機会を』との売り文句によるものだったが、残念ながら失敗に終わっていた。
つまり、あまり人気のない場所だった。
今月は二年二組の当番で、ローテーションが組まれている。
その日は、碇シンジと山川ユカリが含まれるグループの番だった。
「じゃあ、さっさと終わらせましょう!」
放課後の時間帯でやる気が極端に低下しているクラスメイトたち。そんな中でもユカリは、箒をたかく掲げ皆を促した。シンジもそれにならって自分の持ち場の掃除を始めた。
シンジが割り当てられたのはウサギのエリアだった。そこでの掃除は、まず彼らを小屋の隅に設けられたスペースに追い込まなくてはならない。
「こっちにきてください・・・、あっ、そっちは違います。あああ・・・」
ある程度人になれているとはいえ、右に左にと、気ままに動き回るウサギたちを追い込むのは容易な事ではない。そんなウサギたちを、シンジはまるで人に接するように話しかけながら追いかけている。
箒で道をふせいでみたり、思い切って大きな声を出してみたり、あの手この手で何とか穏やかに彼らを追い込もうとした。その際、シンジはけっしてウサギには直接手で触れようとはしなかった。不意に、ウサギがシンジのほうへと移動しようものならシンジは飛び上がるように逃げた。当然、終始そんな調子なものだから、シンジの掃除は皆よりも遅れていた。
「碇くーん、私たち終わったけど?」
「あぁ! すみません。お疲れ様です」
「まだ終わらない?」
「あははは・・・、ごめんなさい僕のほうはもう少しかかっちゃいそうです」
「私たち、この後塾があるんだ。先に帰っちゃっていい?」
「はい、後は僕でやっておきます」
「じゃあねー、またあしたー」
「またあしたー」
別のエリアを掃除していた彼女たちをシンジは朗らかと言っていいくらいの明るい表情で見送った。
ふぅ、と息を吐く。
シンジは、別のエリアで掃除していたクラスメイトたちをそうして見送ると、再び作業に戻った。やっと、すべてのウサギをスペースに追い込むことに成功した。これから本格的な掃除を開始しなくてはならない。
ふと、先ほど追い込むことに成功したウサギたちが目に入った。茶色いものや、ブチのもの、毛の長いものや、耳が垂れているもの、小学校で飼うにしては豊富な種類が飼われている。そのなかの一匹がシンジの目をひいた。そいつは真っ白なウサギで、ほかのウサギよりも少し大きい。心なしかほかのウサギ達も慕うように周りを囲んでいるようにも見える。シンジは、箒につかまるように身をかがめると、そのウサギに視線を合わせた。
そのウサギは真っ赤な目をしていた。大きく、瞬きをすることもなく。ほかのウサギがせわしなく周囲を見回しているのに対して、そのウサギはシンジから目を逸らすこともなくシンジをじっと見ていた。大きく、赤いその目からシンジが思い出せるものは、唯一つのはずだったが、シンジもそこから目を逸らすことは無かった。
シンジは、右手をゆっくりとウサギたちへと伸ばした。白いウサギを囲んでいたウサギたちは一斉にその手から逃げたが、その白いウサギだけは微動だにしなかった。シンジは、その他のウサギたちが急に動いたことに驚き、一瞬手を引きかけたが、一匹だけ逃げないウサギを見ると、そちらへと再び手を伸ばした。
ゆっくり、ゆっくりと、その距離は縮まっていった。
そしてついに、その距離がゼロになろうとしたとき、シンジの指に熱湯を浴びせられたような痛みが走った。
「っ!!・・・・・・」
ぱっと、その手を引くと、中指から出血していた。ウサギにかまれたのだ。シンジはその傷を、その血を、その赤を、まるで初めて目にしたかのように見つめると、視線をウサギ達へと戻した。
いつまにか彼らは、皆シンジのほうへと頭を向けていた。視線をシンジに送っていた。
「・・・・・・そうか」
シンジはつぶやく。
「そうか、君たちも・・・」
誰もいない飼育小屋の中、ウサギたちを前にして一人、言葉を落とす。
「・・・・君たちも、そんな目で僕を見るの?」
知らぬうちに、箒そ握る手に力を込めていた。見つめる視線も更に強いものになる。
「あっ・・・・・」
そしてもう一言、言いかけたそのときに彼女がそこにたった。
「あれ? 碇?」
「・・・・・ユカリさん?」
「みんなもう帰っちゃったよ? まだかかりそう?」
「いいえ、後はもうごみを集めるだけです。」
ウサギのエリアの扉を開けながらユカリはその中へと入ってきた。シンジは立ち上がりながらユカリを迎えた。
「また、月さんたちに手こずってたんでしょう?」
「あはは、その通りです」
シンジは笑ってユカリに対応しながら、ユカリに気付かれない様に右手をユカリから隠した。
月さんとは、先ほどの白いウサギの名前だ。本当の名前は月丸と言うが、命名した後でメスであることが判明した。そして彼女は、体も大きく、人にも大変なれているため、なぜか生徒たちからも人気があり、月さんという愛称で呼ばれていた。実質、彼女は飼育小屋のボスであり、ひそかに恐れられてもいる。一説によると、鳥を食べようと飼育小屋に進入した野良猫を、見事に撃退したとゆう。ユカリは、ウサギたちが隅に寄せられているのを確認すると、満足げにうなずいた。
「うん、何とか寄せてはあんのね。じゃあ、ちゃっちゃと終わらせるわよー。今日練習無いんでしょ?」
「はい。今日は黒田先生が、出張で学校にいらっしゃらないそうなので」
「ふーん、でもあんたカギもらってなかった? 私が付き添うけど?」
「ええ、そうなんですけど、今日は先輩方が教室を使うそうです」
「まあこの時期だから、仕方が無いか」
二人は話しながら掃除を再開させた。せかせかと、少し急ぎながら二人は掃除を進めた。
「はい、ですから家に持って帰って練習しようとも思ったんですけど・・・・」
「それはダメ」
「何でですか?」
「ちょっとは休みなさい。黒田先生にも言われてたじゃない。」
ユカリは、箒をいったん脇に置いてまで両手で大きな×印を作った。少々大げさな動作だった。その口調はユカリ自身気がつかぬうちに、咎める様な物になっていた。
「ほら、早く終わらせてかえろ! 暗くなっちゃうから」
「はい」
ユカリは会話をそういって区切り、シンジに背を向けて箒を動かした。ユカリが加わったことで、ウサギ小屋のごみはあっという間に集まり、二人はそれを指定された場所へ捨て、ウサギたちの餌をおき、しっかりと戸締りを確認してから、帰路に着いた。
そのころには、もうすっかり日が暮れ始めていた。
この町では坂道が多い、と言うよりも日本に限らず、町は標高の高いところにある。
セカンドインパクト後の大きな世界の変化の一つとして、海面の上昇、それに伴う海抜ゼロメートル付近、すべての水没が挙げられる。そのおかげで各国の主要都市は、標高の高いところにその中枢をすえており、日本ではその国土の狭さからか、ひしめき合うように役所、銀行、警察署に果ては郵便局までが高いところへと避難する形となった。もちろん学校という機関さえその類にはもれない。都市機能がそうして移動していくのにつれて、その他の生活機能、デパートや人々の住む場所まで、それに引っ張られていくように建設されている。
山の向こうに夕日の沈むその光景を、遠く離れてところから見れば、水を恐れて、喘ぐ様に逃げる人の群れのようにも見えるかもしれない。
そんなことは知る由も無い二人は、夕日を背に受けながら学校から続く坂道を下っていった。
「月さんたち、また肥ってたわねー。こう、何てゆうか恰幅が良くなってるってゆうか・・・」
「ふふふ、そうでしたね」
「看板も立てたのに、まだ勝手に餌やる人がいるのかしら」
「そうですね」
「みんな、餌だけはやりたがるんだから!」
ユカリはぷつぷつと、不満をこぼしながら、シンジは、そんなユカリの感情の起伏に富んだ不満を聞くだけで楽しいのか、特に自分の意見を返すでもなく、ユカリの言葉に耳を傾けていた。最近はこうして一緒に帰ることは少なくなった。シンジもこちらの生活になれ、ユカリも部活が忙しくなっている。けれど二人の間に会話がなくなったわけではなかった。ユカリは、シンジが一人でいるときに声を掛けにいったし、シンジが自分から話しかけてくることも多くなった。基本的に話をするときは、ほとんどがユカリがしゃべり、シンジが聞き手に回るという一方的なものだったが、なぜか話題は途切れることなく、会話は進む。
おしゃべり続けながらの帰り道は、今日も夕日に照らされていた。
そんな帰り道、シンジはふと、後ろを振り返った。
坂道をずいぶんと下りてきたその場所は、一戸建てや安アパートなどが立ち並ぶ、居住区ともいえる場所だった。今は、あまり人の姿は見られない。小学校の生徒たちは、ずいぶんと前に帰宅しているし、サラリーマンなどの労働者たちがこの道をにぎわせるのは、もう少し陽が傾いてからだ。坂道の上に立っている学校の校舎や、更に山の頂上付近に立ってるビルが、山の向こうへと沈みかけている夕日に照らされていた。ビルは、シンジたちのいる居住区の近くにまでその長い影を伸ばしていた。広い道路の一部や、すぐ横に目に入る脇道には、すでに夜の気配が漂っていた。
昼なのに夜、夜なのに昼。逢魔が時とも言われるその境は短くて、普段ならあっという間に過ぎてしまう時間。だけどそれに気がついてしまった人には、なぜか長く、悠久の時とさえ感じられてしまう。そして、まさに魔に逢ってしまうときさえある、その不思議とも、不気味とも取れる雰囲気は、夜が来て、自身が消え去ってしまう時を静かに待ち、けれど確実にそこに息づいていることを感じさせた。
その光景に、シンジは自分でも気がつかないうちに息を呑んでいた。それなのに、なぜか見入ってしまう。
「碇? どうしたのよ。早く帰んないとママに怒られるんだから」
「! えへへ、ごめんなさい」
ユカリの声が耳に届くと、シンジはすぐにそちらに向き直り、照れたように笑った。
「急ぎましょうか」
そうして、シンジは先ほどよりも足を速めて歩き出した。ユカリを引き離してしまいそうになるほど早く歩き出したシンジに、競争かと勝手に勘違いしたユカリが、シンジがそういった冗談をしてきたことが嬉しくて、なりふり構わず走り出し、逆にシンジを追い抜いてしまった。自分の横を、すごい勢いユカリが走り去るのを見て、シンジも慌てて走り出した。
遠目から見るその光景は、酷く楽しげだった。
けれど時折、シンジは後ろを振り返った。
その瞳は、覗き込んだものを不安にさせるほど暗い何かに揺れていた。
次の日、
何事もも無くその日は過ぎ去り、今日割り当てられた教室の掃除も無事終えたシンジは、教室で教科書を鞄に詰めていた。
「碇、ちょっといい?」
「はい?」
そこへ、少々慌てた様子のユカリが、シンジに駆け寄りながら声を掛けてきた。
「私ね、ちょっと今日は遅くなっちゃうの。だから今日は先に帰ってて」
「劇の練習ですか?」
「うん。発表、近いから」
「僕も、今日は音楽室に残ってますけど・・・・」
「ダメ」
彼女は開いていた両手をすばやく交差させ、大きな×を作った。それは昨日の掃除のときよりも箒を持っていなかったせいか、より早く、シンジには口を挟む余地を与えなかった。
「私、六時くらいになるのよ? あんたの練習は、二時間までっていう約束でしょ。五時にはちゃんと帰んなさいよ」
「はい・・・」
少しさびしげにシンジはうなずいた。
「ごめん、もう行かないと」
「あっ、頑張ってください」
「うん、アリガト!」
ユカリはシンジにそう言い残すと、駆け出していった。
傾き始めた日の光が差し込む音楽室には、シンジの演奏するチェロの音色が響いていた。
その曲はもともとは歌謡曲だったが、シンジが音楽教師の黒田にチェロでの演奏は出来ないかとお願いした。幸いなことに、黒田には弦楽器を演奏した経験が豊富だったため、曲自体はすぐに出来上がった。若干のアレンジが加えられたその曲は、歌詞のないまま聞くとまるで違う曲を聴いているかのようだった。
加えられたアレンジは、シンジの技量ではまだ扱いこなせないらしく、テンポの速い曲調に付いていけず、一つ二つ音を落とした。しかし演奏に没頭しているシンジは、そこで手を休めたりなどはしなかった。悪戦苦闘し、顔をしかめながらもシンジは弓を動かし続けた。
時に激しく、時に優しく、強く弓を引いたかと思えば、次の瞬間には静寂が待っている
そしてそれはやがて終わりを迎える。
「はい!そこまで」
ぱん、と切れの良い一拍の拍手で演奏は終わった。
「ふぅ」
シンジはそこでやっと弦から弓はなした。少々肩で息をしながらも、自分の演奏に納得いかなかったのか、その眉根が少し寄せられていた。そんな彼の様子を察してか黒田から声が掛けられた。
「碇君、だいぶ上達したわね」
「・・・・たくさん間違えちゃいました。」
「気にすること無いわ。この時期にこれだけ弾ければたいしたものよ?」
「すみません」
黒田は、そういってシンジを励ましたが、シンジは顔を上げないまま楽譜に視線を落とした。その様子を半ばあきれように見つめ、一息つくと諦めたように続けた。
「じゃあ、今日はこれでおしまいにしましょうか」
そういって、黒田は手に持っていた本を閉じ、席を立った。
「あっ、先生。僕、一人でもう少し残ってもいいですか?」
「・・・・構わないけど、約束の時間まで、後三十分よ?」
黒田はその一言を予想していたのか、少々あきれ気味に腕時計を見ながらシンジに確認した。
「はい、解ってます」
「あまり詰めてやっても、良くないわ。この前みたいになるわよ?」
「けど! ・・・・・あと、もう少しだけ。お願いします」
すこし語気を強めながら、ほとんど叱るように彼女シンジに諭そうとするが、けれどもシンジは一向に諦める様子を見せなかった。黒田は大きくため息を吐いた。
「・・・・仕方ないわね、それなら戸締りお願いね。五時にはちゃんと止めるのよ?」
「はい、さようなら」
シンジは、片づけを終えて音楽室から出て行く黒田を椅子に座ったままの姿勢で見送ると、再び楽譜と眼を向け、弓を取った。
もうすぐ時計の針が六時を射しかけたとき、練習を終えたユカリは下駄箱へと向かっていた。練習で疲れているためか、その足取りは重たげだったが、表情には疲労の色は無かった。しかし彼女が下駄箱についたときその表情は驚きに、そして次の瞬間には怒りを含んだものへと変化した。それは彼女よりも先に下駄箱で靴を履き替えていた人物が、この時間にこの場所にいるはずの無い人物だったからだ。
彼女は一転して歩調を速めるとその人物に鋭く声を掛けた。
「アンタなにしてんのよ!!」
「あ、ユカリさん・・・」
その声に驚いて慌てて振り返ったのは、紛れも無く碇シンジだった。きょとんとした表情の次に、気まずい表情を作り、彼女から視線を逸らした。それが更に癪に障ったのか、ユカリは更にシンジをきつく睨みつけ、声を荒げて問い詰めた。
「約束、破ったわね!」
「ち、違いますよ!」
「問答無用。明日、黒田先生に言いつけてやるんだから。」
「違います、ユカリさん。ちゃんと練習は五時でやめました。」
一言では収まらず、ユカリはおおいにシンジを追い詰める言葉をたたきつけた。シンジはそれに慌てて弁明する。
「・・・・・・じゃあ、こんな時間まで何してたのよ」
シンジの訴えかけに、ユカリは少しだけ、ほんの少しだけ態度を緩めた。そして更にシンジに問いただした。語気の強さは依然として強いままだったが、そこに込められた感情は決して怒りだけでなく、むしろ相手を気遣うあまりの悲しみとも取れるものだった。
「え・・・と、その・・・・」
「・・・・約束したわよね、碇君。『自主練習は、二時間まで、それ以上は、許さない』」
「・・・・・」
ユカリの教師が生徒に対してしかりつけるような態度はシンジを言いよどませた。そして更にユカリがシンジに思い出させるように、一字一句区切りながらシンジに詰め寄った。
「・・・・・・・本当に、違うんです・・・」
「じゃあ、何してたか言いってみなさいよ!」
「・・・・・」
「・・・・ほら! 何も言えないじゃない」
シンジがやっと搾り出した返事は、それでもただ否定の言葉だった。ユカリはもどかしさを隠さずに、更に問い詰めよるが、シンジはそれきり俯いたまま黙り込んでしまった。ユカリはそんなシンジを視界からはずすと、自分の下駄箱に向き直った。
「明日は覚悟しなさい。先生と一緒にお説教なんだから!」
靴を履き替えたユカリはそのまま出口へと向かおうとしたが、シンジの気配がないことに気が付き振り返ってみると、彼はまだ下駄箱の前でうなだれていた。その姿はユカリから見るとなんとも言えない情けない姿で、まるで雨の中に捨てられた小型犬のようだ。その姿を見て、ユカリは諦めたように手を差し伸べた。
「なにしてんの?」
「え?」
シンジは差し出された手と、ユカリの顔を交互に見つめた。ユカリは、先ほどとはうって変わって憮然とした表情で、シンジから視線を逸らしながら更に手を突き出した。
「一緒に、帰るんでしょ?」
「・・・・・・、はい」
そして、その日も、ユカリとシンジは、いつもと変わらない夕陽に照らされた帰り道を歩いた。
次の日の朝、ユカリは、なぜかいつもよりもかなり早く目が覚めた。もう一度寝なおそうかと思ったが、カーテンの隙間から見えた窓からちらりとのぞいた空が、寝てしまうのがもったいないと思えるほど晴れていたこと、もうすでに起きているだろうシンジをびっくりさせれば面白そうなことが、ユカリを惰眠をむさぼるには最適な布団から決別する決意をさせた。
「ふぁ・・・」
布団を出たユカリは、眠い目を擦りながら着替え、一階へとおりっていった。
今の時間なら、シンジはまだ玄関前の掃除だろう。
驚かせる前に顔を洗おうと、居間の扉を通り過ぎて家の奥にある洗面所へと向かおうとしたところ、かすかに台所から何かが焼けた、いい匂いがした。ユカリはそちらが気になると、奥へと向かっていた足を止め、居間の扉を開けた。
するとそこには、三人分の朝食が用意されたテーブルがあった。どうやらにおいの元は、ユカリが好きなベーコンの匂いだったらしい。一度、朝食の用意ならほとんど一人で出来るようになったシンジが、初めて整えた朝食のベーコンに、もっとカリカリに焼いたものがいいと文句を言った折、自分の好物だといったこと思い出した。辺りを見渡すと、ユカリの両親の姿は無かった。どうやらまだ起きてないらしい。しかし、これを用意したシンジがこの場にいないのはなぜだろうか。
「あ・・れ? 碇?」
不思議に思い、見渡してみたが、彼は居間にはなかった。それどころか、ユカリが居間を出て探しにいった先の玄関にも彼の姿は無かった。
「何処、いったのかしら」
見上げた時計は、七時を回ったばかりだった。
「掃除の当番?・・・・は一昨日だし、何しにこんなに早く?」
首をかしげて、いまだ眠気が抜けきらない頭で考えた。とりあえず、冷めてしまう前にせっかくの朝食を済ませてしまおうと席に着き、コーヒーを一口含んだところでユカリは閃いた。
「まさか! あいつ・・・・」
学校に行ったのかもしれない。
カフェインで目の覚めたユカリの行動はすばやかった。トーストとベーコンをあっという間に平らげると、部屋に戻ってかばんをとり、両親の部屋のドアを思い切り叩き、返事を聞かぬまま階段を駆け下り、そのままの勢いで外へと飛び出した。
「現場を取り押さえて、今度こそこってり絞ってやるんだから!!」
朝のひんやりとした空気を頬に受けながら、ユカリは学校への道を駆け出していった。
学校に着いたユカリは、一度下駄箱の前で呼吸を整えると、まっすぐ音楽室を目指した。あいつはそこにいるはずだ。
しかし、いざ音楽室にたどり着き、その扉に手をかけたとき、扉はビクともしなかった。
「あれ? いない・・・」
扉に、耳を押し付けて中の様子を探ってみる。けれど何の音もしなかった。
(何処いったのかしら)
教室に行ってみると、彼のランドセルはキチンと彼の机の横に立てかけられていた。
ユカリはそこで、隣のクラスや、トイレ、そしてもう一度音楽室へと、シンジを探しに走った。しかし、彼は何処にもいなかった。誰もいない音楽室を前に、ユカリは仕方なく教室へと戻ろうとしたとき、一昨日の夕方の帰り道、シンジとの会話を思い出した。
「あそこか!」
身を翻らせると、ユカリは飼育小屋へと駆け出した。
ユカリは校庭に出ると、ちょうど校庭をはさんで向かい側の隅に設置されている飼育小屋にむかった。遠めで見た限り飼育小屋の前に人影は見えない。シンジは中にいるようだ。ユカリは唯一飼育小屋の中から外の様子が伺える場所から隠れるように迂回しながら、飼育小屋の裏のドアへと向かった。
飼育小屋の裏は、木々植えられていて、天気のいい日でもほとんど陽が射さない。そのためいつでもそこは湿り気があって気味が悪い。ユカリがそんな飼育小屋の裏にたどり着いてみると、木の陰に隠れてドアが半分開いていた。どうやらユカリの目論見どおり、シンジは中にいるようだ。
ユカリは中に入ろうとドアノブに手をかけた。
ぬるっ
しかし、ドアノブに嫌なヌメリ気を感じ、何かとそれに眼をやった。そこには木の陰に隠れて日当たりの悪いところでもわかるくらいに濡れていた。ユカリがその匂いを何の気なしにかいでみると、ドアノブの鉄さびの酷い匂いがした。少しはしたないが、ユカリはそれを服の裾でぬぐうと、ふたたびドアに手をやり、今度はかまわず中に入った。
しかし、ドアを開けた途端、その場に立ち止まった。
「なに・・・これ・・・・」
目に入った光景に驚いた。そこは薄暗く、中の様子ははっきりとはわからないが、掃除用具の入っていたロッカーがめちゃくちゃに壊されていて、中に入っていた箒はすべてが折られていた。かなり荒らされていることがわかった。無事なものは何も無い。
驚きに足が止まり、いつの間にか震えていたユカリは、こんなところにシンジがいるのか、と思いもしたが、更に奥の、飼育スペースにつながる扉が、わずかに開いていることに気が付いた。
ユカリは、震えるからだを押さえつけた。そして意を決すると、物音を立てないように、恐る恐る奥のドアへと近づいた。
しかし、ユカリがある程度進んだ矢先、パキッと何かを折るような音がした。
「ひっ!」
静かな用具室ではその音はやけに大きく響き、その乾いた音に心臓が跳ね上がり、ユカリは思わず声を上げてしまった。
その場所の薄暗さから気が付かなかったが、散らばっていた箒の破片の一つを踏んでしまったようだ。身を硬くし、今すぐにこの場所から逃げ出そうとしたとき、中から声がした。
「だぁれ?」
少し幼く、感情の起伏が感じられない声だったが、それはユカリのよく知る人物の声だった。
「シンジ?」
ユカリはその声に、ほっとした。
彼が中にいるということは、少なくともここを荒らした犯人がもうここにはいないことを意味していたからだ。するとすぐにあれほど取り乱した自分が恥ずかしくなってきた。カッと体が熱いことを感じさせるほど、いまだにユカリの心臓は鼓動を早めたまま、大きく脈打っていた。
「もう!! びっくりさせないでよ!!」
そう大きな声を上げ、恥ずかしさをごまかし、自分の鼓動の大きさを、扉の向こうにいるシンジに気づかれないように隠した。
ユカリは今度は物音を気にすることなく壊れたロッカーをよけながら奥へと進み、
最後の扉を開けた。
「え?」
ユカリは、それが何か解らなかった
視界いっぱいに目に飛び込んできたのは、赤色。
地面も壁も、その赤色に塗りたくられていた。
何かいやな匂いが鼻についた。
ユカリはその中を進んだ。
「なに・・・・・・これ・・・・・・」
一歩進むたびに、先ほどまであんなに早く脈打っていた心臓が、だんだんと熱を失いながら、静まって行くのを感じた。
それどころか、まるで冷水を頭から浴びせられたかのように手先の感覚がしびれ、震えが止まらない。
何処までも同じ色しか見えないその世界に、別の色を探そうとしたとき、ユカリは彼を見つけた。
彼は飼育小屋の真ん中にいた。
校庭の見える場所から入ってくる光に照らされながら、
地面に直接腰を下ろし、
その手の中にあるものに視線を落としていた。
表情は陰になっていて、よく見えない。
「シンっ・・・」
彼の名前を呼ぼうとしたとき、彼が手に持っているものが目に映った。
彼の名前の最後の一文字をを呼ぼうとした空気は、掠れて言葉にならなかった。
それはウサギだったもの、
首が切り取られ、
耳が引きちぎられ、
足がすべてむしり取られていた。、
それがウサギだと解ったのは、彼の前で元の位置に並べられていたからだ。
元は白かったその毛皮は、
周りの景色と同様に、色で汚れていた。
ユカリは自分の手を見やった。
そして、そこで初めて、自分の手についたものが、同じ赤だと気が付いた。
立ち込めていた匂いは、酷く錆びた鉄の匂いで、
辺りは、『赤』一色の世界を作っていた。
「ユカリさん?」
この場おいて、不自然な程に落ち着いたその声に、返事をすることは出来なかった。
ただ、体がびくりと反応しただけ。
心臓の鼓動さえ、もう脈打っているかどうかさえわからない。
「ぼく、わからないんです」
そう、解らない。
「こんなとき、ぼくは、どんな顔をすればいいんでしょう?」
ユカリは、こわばっていた体を、ゆっくりと動かして、彼を見た。
シンジは、いつの間にかユカリを見上げていた。
その表情に、感情の色を浮かべることも無く。
「ユカリさん?」
そんな彼が、ユカリに手を伸ばそうとした。
その手は、自分と同じように、
『血』に濡れていた。
それに気が付いた彼女は、
「イヤアアアアアアアア!!!!」
己の魂をすべて吐き出すような悲鳴を上げた。
To Be Continude 【 Ⅱ 】