覚悟はいいですか?
そうして僕は自分に言い聞かせる
悲しくはない
うれしくない
怒りもないし
楽しくもない
感情すらない。
この心は
何も感じないのだと
ほんとうの気持ちなんてわからない
こんな暗いところで
捜し物なんて
見つかるはずがない
それが何なのかが解らない
自分に言い聞かせる。
自分に言い聞かせ、
何も解らなくなる
そのことに気が付かない振りを続ける
見上げた空はどこまでも朱く
第十一話
ヒビワレ 虚像
前編
二週間が経った。
その日は、珍しく曇り空だった。空に大きく広がるそれは、太陽の光を遮り、街全体が何かに沈められてしまったような重たい雰囲気が辺りに漂っていた。
そんな日でも碇シンジの朝は早い。
六時半にはベットを出て、朝の勤めをはじめる。
朝の空気に身をさらし、体の熱が奪われていくような感覚が気に入っていた。だから暗い曇り空の時でさえその朝の始まりの行為を欠かさなかった。
朝早くに、家の前を歩くご近所さんにも頭を下げるだけの挨拶をする。
玄関をきれいに掃除して、ポストから取り出した新聞を居間のテーブルに置いておく。読みやすいようにチラシを別にすることも忘れない。
お湯を沸かしてポットに移しささやかながら朝食の準備をすませる。
山川家の人々は、全員が二階で寝ていた。七時までに誰もおりてこなければそれを起こしに行くのもいつの間にかシンジの役割となっている。
その日もシンジは、足音を立てないようにゆっくりと階段を上がった。
シンジは朝のこのような場合と、叔母の手伝いで洗濯物を取り込んだりするとき以外は、ほとんど二階へは上がろうとしない。
二階と一階との距離がは今のシンジにはとおすぎた。
叔父達の部屋に行く途中にゆかりの部屋がある。
シンジは二階に行くときはかならすそのドアに一瞬だけ目を向けた。
ドアに目を向けるたびに、ゆかりの名前が書かれた名札の掛かっているいつもと変わりないドアノブに、気づかないうちに安堵のため息をこぼす。
ゆかりの部屋を素通りして、さらに奥にある叔父の部屋の前にたつ。
もう何度目になるか解らないのに、それでも慣れない様子でそのドアをたたいた。
コンコン
申しわけ程度に二階だけたたく。
「先生?もう朝です。起きてますか?」
それを何度か、返事がドアの向こうから聞こえてくるまで繰り返す。
「ん・・・・・?シンジ君?」
「はい、先生。時間は大丈夫ですか?」
「ああ。もうこんな時間か、おい公恵。起きろ。」
「では先生、僕は下におりてますね。」
その様子を聞き届け、すぐに下におりようとドアに背を向けたシンジを叔父の声が呼び止めた。
「ああ。ゆかりは・・・・」
問いかけにシンジは振り返らぬままドアに向かって答える。
「まだおりてきてないので、寝てると思います。」
「そうか。いや、ゆかりは私が起こすからシンジ君は下におりててもらえるかい?」
「はい、わかりました。」
その会話をすべてドア越しにすませてしまう。そんなやり取りも、シンジがこの家に着てからたびたび行われているものだ。
毎日そうしてシンジの一日は始まっていた。
「先生、どうぞ。」
運んできたコーヒーをそっと新聞を読んでいる叔父の前に置く。
「ああ、すまないね。シンジ君。」
居間のテーブルの上にはすでに朝食の準備が整っていた。叔父はいつもの場所に座り新聞を読んでいて、叔母はまだ台所でフライパンなどを洗っている。時刻はすでに七時半を回ろうとしていた。
シンジは未だ、何か運び忘れはないか、台所と居間の間を行ったり着たりしていた。
「シンジ君、あなたも学校でしょう。早く朝ご飯食べてしまいなさい。」
「はい」
そんな様子のシンジを見かねた叔母が食事をするようにと促した。
そこでゆかりが居間に現れた。なぜか朝食もまだだというのに、その背にはすでに、彼女によく似合う赤いランドセルが背負われている。
「・・・・・・」
また、夜更かしでもしていたのだろうか。居間に遅れて現れたゆかりは、まぶしそうに居間と台所を一度見渡すと、シンジと目があった。眉間に刻まれたしわが少しだけ深くなる。
彼女は寝起きがいつも機嫌が悪く、朝は大抵こんなものだった。
シンジがまだこの家に着たばかりの頃、その事に気が付かず朝からゆかりに過ち倒し、だんだん目が覚めていったゆかりがその事に困惑しているとゆう事態が何度かあった。
ゆかりと目のあったシンジはいつものように朝の挨拶をした。
「あっ、ゆかりさん。おはようございます。」
「・・・・・・」
ゆかりは、返事をしなかった。シンジを交わして居間にゆくと、朝食のサンドイッチを一つつまんで口に頬ばると、今度は玄関の方へと歩き始めた。
「?」
「ママ、わたし演劇の練習があるからもういくわ!!」
シンジの前を、さっさと通り過ぎながらゆかりは台所にいる叔母にそう声を掛けた。
その時、シンジのことを見ようともしない。
「ちゃんと食べていきなさい!ちょっと、ゆかり!」
叔母が止める声も聞かず、ゆかりは玄関に向かい、扉の開く音が聞こえるとそれっきり静かになってしまった。
シンジはそんな様子を見送りながら、自分の席に着いた。
「ゆかりさん、どうかしたんですか?なんだか機嫌がよくなさそうですけど。」
「ははっ、あの子の機嫌が悪くなるのはいつものことだよ。全く女の子って言うのはいくつでもわからないもんだ。」
「はぁ・・・・」
シンジの目の前に座っている叔父が笑いながらそういい、その話は終わってしまった。
「ところでシンジ君、今週末に何か予定はあるかい?」
「いいえ、どうしてですか?」
叔父が、新聞を傍らに置きながら、シンジに話をそらすように新しい話題を切り出した。
「いやたいしたことじゃあ無いんだが。・・・・・実は週末から、私は出張でね。公恵も泊まりがけで同窓会が在るんだ。」
「・・・・・・」
「それが、今週の土曜からでね、ゆかりの方は演劇部の合宿なんだそうだ。」
「合宿ですか?」
シンジは最近、ゆかりとはよく話をするようになっていた。未だクラスメイト達とは表面的なつきあいしかできていないシンジは自然とゆかりとの接点が増えていった。しゃべる話題は、ゆかりの部活動についてや、シンジの音楽室での過ごし方など。
だから、ゆかりからそんな話を聞いていなかったシンジは、その言葉に少し驚いた。
「ああ、あの学校は熱心でね、毎年やってるそうなんだ。」
「そう・・・・なんですか」
「それでシンジ君には土日に一人で留守番ということになってしまうんだが、かまわないかな?」
少しうつむき加減になっていたシンジに叔父が覗き込むようにしながら聞いた。それに気づいたシンジは慌てた顔を上げた。
然し、視線は目の前の叔父のそれとは合わせていない。
「あっはい、大丈夫です。叔母さんにお料理も習いましたし、ご飯も大丈夫ですから。」
「ははは、そうかい?大変だったらお金を渡しておくから、出前でも取るといいよ。」
「はい。」
シンジは叔父の目を見ない。ちょうど叔父の動きを見るように視線をその口に向けられていた。
その話し方は、何とかシンジがこの家の中で暮らして行くには不可欠なものだった。実際、この話し方を身につけてから、人付き合いが多少楽になった。
ただ、他人との距離を遠くに感じる。今までよりも人との距離が近くなったはずなのに。
ただ、この方が楽な気がした。これなら叔父達とも話が出来そうな気がして。
でも、ちゃんと話が出来ているはずなのに、一向に冷さ解けていく気配はない。
目の前にいる人との距離がさらに開いていくような気がする。
それは当然だった。
意思疎通のないコミュニケーション。そんな表面だけのやり取りで感じられるほど、眼前の人の心はシンジにとって暖かくはなかった。
食事を終えて、シンジは玄関に立っていた。
「では、行ってきます。」
当然のように、返事は帰ってこない。
そうして今日もシンジは学校に向かった。
午前中の授業がすべて終わり、昼休みの今、シンジは六年生の教室の前に着ていた。
何の用事があるのだろうか、教室から出てくる生徒に声を掛けようとしては思いとどまり、また掛けようとしては怖がって逃げる。なんてことを繰り返していた。
そんなことを繰り返していたから、いつの間にか昼休みも終わろうとしている。シンジはますます慌てて道行く生徒に声を掛けようとするが、満足に声が出ていないせいか誰もシンジに気が付かずシンジの前を通り過ぎていく。
シンジは廊下のすみで困り果てていた。
もうあきらめて帰ろうとしたとき、シンジに声が掛けられた。
「ん?きみ一年生?」
「あ!えっと。」
それはシンジよりも頭二つ分ほど背の高い六年生だった。
「何でこんなとこにいるの。」
その背の大きさに怯えていたシンジだが、その六年生はかがみ込んでシンジに優しく聞いた。
「あ、あの・・・・・・、演劇部の関係者のひとはいませんか?」
「ああそれならあそこにいる彼女が部長だよ。ちょっと待ってて、呼んできてあげるから。」
彼は、シンジの探している人物と知り合いだったようで教室の中に入っていった。
良かった、親切な人がいて。
シンジがほっと緊張をほぐすためのため息を吐いていると、先ほどの彼が演劇部の部長だという女子を連れてきた。
「誰君?」
少々女の子らしくない口調の人だった。見た目からのギャップのある話し方のせいでシンジはまた緊張してしまうが、時間がもうほとんど無いことも手伝ってすぐに話し始めた。
「あ、僕二年二組の碇シンジといいます。」
「ありゃ、きみ二年生か。ごめん。」
男子生徒がッ先ほどのことをシンジに謝った。女子生徒の方はシンジの自己紹介を聞いてなにやら考え込んでいた。
「二年、二組・・・・・、あぁ、もしかしてゆかりちゃんと同じクラスの子?」
「はい、その・・・・少し聞きたいことがあって、その・・・・・」
「ん、いいよ。何が聞きたいの?」
言いにくそうにしているシンジに、女子生徒はそういって先を促した。
シンジはせかせかと話し続けた。
「あの、演劇部って今週合宿をやるってホントですか?」
「ああ、ホントだよ。合宿といっても学校でのお泊まり会みたいなものだけど。それがどうかしたの?」
「いいえ!、あっあのそれだけですから、えっと、しっ失礼します!!」
そうか、学校でやるのか。
シンジは一人、何かしらで納得しているところに、突然聞き返されたことに驚いたようだ。慌てて二人の前から逃げるように掛けだしていった。
「なんだか・・・忙しない子だなぁ」
その様子を見て、演劇部部長はぽつりと感想を漏らした。
「あっの・・・・、ゆかりさん?」
午後、最初の授業が終わったあと、シンジはゆかりに話しかけた。ゆかりは自分の席に座って相変わらず、不機嫌な表情を浮かべていた。
今日一日、ゆかりはこんな調子だった。他のクラスメイトが話しかけてもぞんざいな返事しか返していなし、そもそもシンジにそんなゆかりに声をかけることなんて出来なかった。
そんな調子だったからいつもは誰かと必ず一緒に居るゆかりの周りには今日は誰も寄りつかず、授業が終わると同時にほとんどの生徒が教室から出て行った。
「何よ?」
そんな中でも、ゆかりは態度を改めることもなく、シンジの方を向かないまま声だけでぞんざいな返事を返した。
ゆかりの少し問いつめるような話し方は、いやでもシンジの罪悪感を揺り起こした。ゆかりに内緒で部活のことを調べたこと、シンジには確かに後ろめたさがあったからだ。
「・・・・・・・・・・・・どうかしたんですか?」
「何が?」
ゆかりの返事には熱がこもっていなかった。
言い方を変えれば、まるで知らない他人に対するような冷たさだとシンジは感じた。
普段の彼女なら、決してこんな風に人と接したりしない。
なんだかんだで面倒見のいい彼女は、そういう理由でも皆から慕われている。それが今では見る影もない。
「いっいえ・・・・、ゆかりさん、なんだかいつもと様子が違ったんで、どうしたんだろうと思って・・・」
そんな様子は、例え声を荒げなくとも、シンジを威圧するには十二分な迫力があった。シンジはうまく喋ることが出来ず、思わずどもった口調になってしまった。
「そんなこと、あんたに関係ないでしょ!!」
「そっ、そうですよね。すみません・・・・。」
そんなシンジの様子が気に障ったのか、ゆかりはとうとう押さえていたものをはじけさせるように声を荒げた。
その言葉も、今のシンジを突き放そうとする
「ふん!!何よ。いつまでたっても暗いんだから。」
「・・・・・すみません。」
「・・・・・ほっんとうに!!どうしようもないほどくらいわね。あー!!気分が悪い!!。・・・あんたどっか行ってくんない?」
「!!そんな・・・・・・・・」
吐き捨てるようにそういった。はっきりと悪意がこもったゆかりの言い方に驚いたシンジは思わず後ずさった。
違う、ゆかりさんは、こんな・・・・・・
「はん!!なによその目は!!言いたいことがあるんならいいなさよ!!」
「・・・・・・・・・・・・」
ゆかりはその場に立ち上がり、さらにシンジに詰め寄った。
自然とゆかりの方が視線が高くなり、見下すようにシンジをにらみつける。
そんなゆかりをシンジは覗き込むように見上げた。その瞳は、意地悪だけど優しい彼女の、豹変したような姿が、悲しみと困惑の感情と共に映っていた。
少なくともシンジには、目の前の少女がまるで別人のように映った。
「なによ。あんた、言いたいこともいえないわけ?そんなだから女男ーなんてからかわれるのよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
『・・・・・碇、気をしっかりね。ぷふっ、くくくくっ』
脳裏にはあのときの彼女の笑顔が思い出される。だからその時以上に、今の彼女の態度が悲しかった。
けれど、シンジがその事で涙を流したりすることはない。
「だいたいねぇ、女にもあんたみたいな女々しいやつなんかいないわよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
なぜなら彼女の最初の一言で、シンジは【あの日の叔父達】を目の前にしたように、感情が止まり掛けていた。
胸が苦しくて息をすることさえままならない。右手で左手を、左手でズボンを掴む。
彼女の目を見ることが出来ない。
『笑いなさい。』
そういってくれたときの彼女のあの一言は確実に自分の中の何かを変えてくれたのに。
そんな彼女の目なら、彼女の、まるで自ら輝きを放っているような瞳なら、いつでも、いくらでも見ることが出来た。見続けていたいと思ったのに。今は恐ろしくて見ることが出来ない。
もし見上げた先に、彼女の瞳が【あの目】のように、熱を失ったまま自分を見ていたら。きっと、自分の【何か】が終わってしまうような気がしたから。
「ほーら碇ちゃーん、言いたいことがあるんなら、言ってみなさいってのよ!!」
「・・・・・・・・・・なんで・・・・・・・・」
ゆかりがさらに声を荒げて詰め寄るのに対して、シンジが何かを言いかけた。ゆかりは少しだけシンジの語気をゆるめ、言葉を待った。然し、それきりまたシンジは黙り込んでしまう。煮え切らないシンジの態度にゆかりは再び苛立ちを覚え、言いつのろうとした
「だからそんなんじゃ、きこえな・・・・」
「何でそんなこと言うんですか。」
突然シンジが、はっきりとしゃべった。
シンジは、自らに問いかけていた。
何故か、と。
何故、こんな気持ちになるのかと。
何故、こんなにも真っ暗なんだろうと。
何故、自分が行く道はこんな風に閉ざされてしまうんだろうと。
何故、先生は僕を受け入れてはくれなかったんだろうと。
何故、彼女に、突然自分にここまでの敵意を向けさせてしまったんだろうと。
何故、なぜ、ナゼ・・・・・・・・・
そんな湧き出すような疑問は、シンジの心を、荒く削り取っていった。
滅裂な思考は、感情さえバラバラに引き裂く。
そうして、増大する負荷に耐え切れず、感情が焼ききれてしまったんじゃないかと思わせるほど、それはシンジの声からは感情の消えてしまっていた。
シンジは気がついたら、それを口に出していた。
それはゆかりに対して放った言葉ではない、自分に向けた言葉だった。
「・・・・・・・・・・・」
「ゆかりさんに何があったかは知りません。でも・・・・・」
ゆかりはシンジの様子に驚いていた。何も反応を返すことができない。
端から見ても、シンジが身を固くしていることは見て取れる。
けれど、見える肌からはすべて血の気が引き、白い顔で呟く様子は、思わずそれを見ている者にまで冷たい何かを感じさせる。
シンジはゆかりを見ないまま、まるで独り言のように、ゆかりに問い続けた。
「でも、なんで何ですか。」
「・・・・・・・・・」
バラバラだったシンジの思考が一つの形を取り始める。
「何があったか、教えてもらえませんか?」
「・・・・・・・・・・」
「僕が、なにかしてしまいましたか?」
「・・・・・・・・・・」
ゆかりは答えない、じっとシンジの様子を見ている。
「ねぇ、ゆかりさん、答えてください。」
最後の問いにだけ、シンジの心が戻っていた。俯いたままだったが、ゆかりに対してこの言葉は投げかけられた。
しばらく、たったまま静かな時間が流れた。
その沈黙を今度はゆかりが先に破った。
「・・・・知らない。」
感情が戻ってきたのは、ゆかりも同じだった。
然しそれは聞き取りにくく、腹の底で響くような声だ。
「え?」
「あんたなんか知らないって言ったのよ!!。」
然し次の瞬間には再び感情が爆発した。
思わず、シンジの視線が上がる。
「そんな・・・」
「何かしたかですって!!自分の胸に手を当てて考えてみなさいよ!!」
そう吐き捨てると、シンジを押しのけて教室の外へと向かった。
「ゆっゆかりさん!」
「ついてこないで!!!」
シンジはゆかりを引き留めるため後を追おうとした。
その時初めて、シンジはゆかりの表情を見た。
怒りの表情を、苛立ちの表情を隠さず浮かべているものだと思っていた。
確かに彼女からは、怒りと苛立ちの感情が見て取れた。然しそれだけではない。眉間にしわを寄せにらみつけている。睨みつけているはずなのにはずなのに、その眉は潜められていて泣き出すのをこれ得ているような深い悲しみの感情が見て取れた。
それを見てしまったシンジは、彼女の拒絶の言葉の前に、彼女を引き留めるのをやめてしまっていた。
そのまま彼女は教室を出て行き、教室にはいつの間にかシンジ一人になっていた。
彼女の先ほどの表情の意味が、シンジには理解できずにいた。
彼女の出て行った扉を見つめ教室で立ちつくすしかなかった。
二日後。
シンジは玄関先に立ち、出かける準備をする叔父達を見送っていた。
その日の天気はいくつか雲が浮かぶ晴れ。快晴とは言いがたい。天気予報では、夕立があるかもしれないとのことだった。今は太陽が雲に隠れていて見えない
「じゃあねシンジ君。留守番、頼んだよ。」
「はい。」
週末までの時間はあっという間に過ぎ去った。
あれからゆかりとシンジは一言も口をきいていない。
とても、お互いに話しかけられる雰囲気ではなかった。
シンジは気まずさから、ゆかりの姿さえ見ることが出来ず、ゆかりもシンジを見かければそっぽを向いて視界にさえいれようとしなくなっていた。
そうしてシンジが玄関の前で立ち尽くしていると、奥からゆかりが出てきた。彼女には珍しく、アイボリーホワイト、ノースリーブのワンピースに麦わら帽子という、夏らしい出で立ちでシンジの横を何も言わず通り過ぎた。
シンジはその背中をさびしげに見つめることしかできない。
ゆかりは道路に出してある車のそばまで行くと、出かける準備をしているおじに何か話しかけていた。
彼女も叔父と一緒に家を出発する。
荷物とあわせて彼女をを学校まで送ることになっていた。叔母も駅まで行くのに叔父に送ってもらうので、山川家の人々は、一度に車で出かけることになる。
シンジはその様子を、眩しいものを見るように眺めていた。
シンジの視線は先ほどからゆかりに注がれていた。彼女の表情はうかがうことはできない。麦藁帽子を目深にかぶり、叔父の作業を見つめているせいで、シンジにはその背中しか見ることができない。
不意に、雲から太陽が顔を出した。照りつける日の光は一瞬でアスファルトを焦がした。その熱気は地面の空気を揺らめかせる。
手を伸ばしても、声を掛けても、彼女には近づけない。
シンジはその陽炎の先に見える彼女が、遠い存在になってしまったように感じていた。
そんなゆかりが、突然シンジに振り返った。
シンジと眼があう。
ゆかりは、驚いて目を見張っていた。そしてその口が何かを言いたげにわずかに動いている。
シンジは驚き、ゆかりから視線をそらすことも忘れて、しばらくの間ゆかりと見つめあった。
シンジはそっと手を伸ばす。今ならゆかりに自分の声が届くんじゃないかと感じた。
然し次の瞬間、ゆかりの表情はくしゃっと悲しみに崩れ、口をかみしめるように閉じてしまうと帽子の縁を掴みさらに深く帽子をかぶり直す。
「・・・・・・・・ゆかりさん」
「・・・・・!」
ゆかりは、シンジが話しかけるまもなく顔をシンジから背け、そのまま車に乗り込んでしまった。
やり場のない手を上げたまま、シンジはその様子を見送った。
「どうしたのかしらね、ゆかりったら。」
そこに最後の荷物を運んできた叔母が奥から出てきてシンジに声を掛けた。
シンジは、ゆかりが乗り込んだ車に視線を向けたまま、叔母に答えた。
「いいんです。きっと僕が悪いんでしょうから。」
「何かあったの?」
「いいえ、僕にはわかりません。でもきっと僕が悪いんです。」
なにを聞いても、シンジは自分が悪いとしか言わない。要領を得ない会話を叔母は早々に切り上げる。
「・・・・あとでちゃんとゆかりと話し合ってね。」
「・・・・・はい。」
再び雲が太陽を隠す。あたりが巨大な雲の陰に多い尽くされ、シンジは空を見上げた。
雲が風に流されていく。その動きは早く、雲はその形を刻々と変化させている。
シンジはその様子を見て、なにを想うのだろうか。
荷物を積み込み終わった車は、そんなシンジを家に残して、出発した。
山川家の人々を見送った後、シンジはしばらくの間、車の去った道をさびしげな瞳で見つめていた。
シンジは家に入ると、朝食の後片付けを始めた。
手を動かしながら、考えることはゆかりについて。
シンジには本当に、ゆかりがあんな態度をとる理由に、シンジは本当に心当たりがなかった。
どうしてなんだろう?
彼女に、あんな態度を【とらせてしまう】ようなことを自分はいつしてしまったのだろう。
シンジには、自分が悪いという考えしかなかった。それほど、シンジにとってゆかりのあの態度は、不自然なものだった。
あんな風に人に優しくできる人が、あんな風に笑える人が、怒れて、泣いてくれる人が、理由もなく、人にあんな風に接するはずがない。
だから、理由があるとするならば、きっと自分が何かしてしまったに違いない。
しかしシンジは、そう思っていながらもゆかりに対して、未だ態度を決めかねていた。
彼女は叔父のように、心の裏に冷たい壁など隠していなかった。
ありのままで接してくれた。
態度を変えず
心を変えず
不思議なくらいに・・・・・・・・・
そう、不思議だった。
何故、彼女は変わらぬままでいてくれるのか。
あんな言い方をしながらも、自分に向き合ってくれる彼女を僕は信じてもいいのかと。
彼女は言ってくれた。
”そんなことは関係ない”
僕は僕、お前はお前、君は君、碇シンジは碇ゲンドウではないと。初めて自分を肯定してくれた他人だった。
『・・・・・それは、そんなに重要なことなの?』
『それでもそれは、あなたには関係ないじゃない。』
『・・・・少なくとも、私はそう思うし、そう思ってるわ。』
こちらがどう感じているかはわかっていないが、自分の考えに自信を持ち、そしてそれを誇るかのような言い方は、とても彼女らしいものだったけれど。
だからこそ、自分は彼女を信じてみることが出来るんじゃないかと。
しかし、
いや、だからこそ、
別の疑問も同時にあった。
【それ】はシンジの心の暗い部分からにじみ出てくるように現れ、今では先ほどの考えと、頭の中を二分するほどに膨れ上がっていた。
洗いものを終えて、シンジは居間で一息つき、孝策をゆっくり再開させる。
その時、改めてその疑問は姿を現す。
本当に?
本当に彼女を、このまま信じていいのか。
彼女も所詮、自分を受け入れてくれなどしない。
彼女も、叔父たちと同じように、影では自分のことを、
疎ましく思っていたのではないか?
本当は彼女も・・・・・・
「ホントウハ・・・・・・・・・・・・・」
「ちがう!!」
気がつくと、シンジは誰もいない居間で声を上げていた。目は見開らかれ、一瞬頭をよぎった疑問をを全力で否定してた。
空調を切ってある部屋は蒸し暑い。そんな中、シンジは汗ばんだ胸を両手で強く握り締めた。その胸に不意に自分で落としてしまった黒い影を握りつぶして消し去ろうとするかのように。
違う。
彼女にそんな冷たい部分があったのだとしたら、僕の心はあの時、間違いなく砕け散っていた。
けれどそんなことにはならなかった。
彼女の瞳にはそんな暗い部分などひとかけらもありはしなかった。見とれるほどに自ら輝きを放っていた彼女に瞳にはそんなもの、在りはしなかった。
だからこうして僕は彼女を信じて、僕の事を置いていった父のことも信じていられるんだ。
朱い夕日の思い出に、宝物のような一ページを刻み付けてくれたから。
自分にそう言い聞かせ、シンジは無理やり【その考え】に蓋をした。
乱れた息を整える。
二度とそんな考えが浮かばないように、深く息を吸い込み、思考の中に深く沈める。
思考を切り替えるために、シンジは今日の予定を考えた。
部屋の掃除をする。買い物に行く。宿題を済ませる。お昼ごはんを食べる。このまま一人で家にいる。
普段から、活動的でないシンジにはそれだけしか思いつくことができなかった。
それすらも、
部屋の掃除は昨日一通り終わらせてしまっていた。これ以上すると、床が磨り減ってしまう。
冷蔵庫には、昨日僕がお使いに行って食材はそろっている。
その後、やることもなかったので、宿題は昨日のうちに終わらせた。
お昼にはまだ早いし、そもそも食欲がない。
このまま一人でいるには、あまりにこの家は静か過ぎる。
あっという間に、選択肢がなくなった。
思わず笑いたくなってしまうほど、シンジにはやりたいことがなかった。
チェロを弾くにも、あれは今、学校の準備室にある。
そして学校には、ゆかりがいる。
「はぁー・・・・」
シンジは自分の行動範囲の狭さを呪った。
「はぁー・・・・・・」
ため息をついて天井を見上げた。
学校にいるゆかりのことを想う。
もうひとつ、シンジには気に掛かっていたことがあった。
ゆかりは、何故あんな悲しそうな顔をしていたのだろう。
シンジの視線が天井で固定された。
シンジの目には白い天井や、シャンデリアじみたおしゃれな蛍光灯は目に入ってはいない。
ゆかりの、悲しげな瞳が浮かんでは消える。
「・・・・・・よし!」
シンジは、その一呼吸でソファから立ち上がると、、戸締りを確認して玄関へ向かった。
玄関を出るとそこには、輝く太陽と、晴れ渡った空が広がっている。
人気のない広々とした正面ホール。
日も入らないせいか、廊下はひんやりとしていて、休日にある学校の静寂にまるで出つの世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こさせる雰囲気を付け足していた。
そう、シンジは今学校に来ていた。
その足取りは重く、視線は辺りをうかがうように絶えず動いている。
(こない方がよかったかな・・・・・)
いまさらながらに、後悔していた。
どうしても、彼女のあの顔が離れなかった。
自分が何かしたのなら、たとえまた彼女からひどい言葉が掛けられても、彼女にあんな表情はさせられない。
まずは、明るくなってみよう。ゆかりさんが常々僕にそうなるように言っていた。それにはまず、自分から行動できるようにならなければ。
その思いだけでシンジはいま此処に立っていた。
しかし、実際にきてみても演劇部の練習場所がわからず、学校の中をうろうろする始末だった。
勢いもすっかり萎れてしまっている。それどころか突然ゆかりに遭遇してしまわないように、先ほどから、周囲を警戒していた。
そんな、怪しさ丸出しのシンジに声が掛けられた。
「あ、きみ!!」
びくっ、見つかった!!
シンジは驚いて声のしたほうへ振り返ると、そこにはいつぞやの演劇部部長が立っていた。
ほっと安堵を抱きつつ、きちんと挨拶を返した。
「あ、今日は。」
「うん今日は。今日も暑いね?」
「はい。・・・・・その格好は?」
ふと落ち着いて目の前に女生徒を確認すると、シンジは彼女の格好が目を引くほどおかしいことに気がついた
彼女は、少し変だった。おそらく演劇の衣装なのだろうが、この暑い中、先端に白い飾りのついた赤いニット帽に、同じく赤と白の上下の服を着ていた。
その格好から、彼女に与えられた配役を想像するのは簡単だった。
「ああ、これ?二ヵ月後に公演する、『季節はずれのサンタクロース』のサンタ役なんだ。似合うかい?」
「あはは・・・・、ええ似合ってると思います。」
相変わらず、周囲とは違った空気を持ってる人だった。先ほどまで練習があったのか、少々息が荒く、その肩は心なしか上下している。
「君は、何をしているの?」
「ちょっと、音楽室に用事があって・・・・・」
シンジは咄嗟に、言い訳を考えた。
「ふーん?きみって軽音楽部?見ないけど。」
「僕、先月転校してきたんです。軽音楽部には入っていませんけど、時々音楽室を使わせてもらってるんです。」
そこで、彼女は首をひねった。
「ん?じゃあ君は何か楽器でも出来るとか?」
「はい、チェロが弾けるんです。」
「あーいつの間にか準備室においてあったあのチェロか!」
そして、シンジの特技に手をたたいてうなずく。演劇部員だからだろうか、反応がいちいち大げさなところがあった。
「あ、それ僕のです。」
彼女の反応に戸惑いながらも何とか会話を続けた。
「へー、ああいうのって高いんだろう?すごいなぁ。良かったらこのあと聞かせてくれない?」
「えっ!」
それはゆかりに対面することをを意味していた。
「やっぱりダメかい?」
「そ、そんなにうまくありませんから」
「いいじゃない、聞かせてよ。」
決心してここまで来ていたはずなのに、ここに来る間にすっかりしぼんでしまったシンジには今、ゆかりの前に出て行く勇気がなかった。
なんとしてもここは断りたかった。
「恥ずかしいですから・・・・」
「ああ、ゆかりさんのこと気にしてるんだろう?それなら大丈夫だよ。」
「?・・・・・どういうことですか?」
目の前の人の言ってる意味が解らなかった。
「だって・・・・・」
彼女、今回の合宿には参加してないから。
世界に ヒビワレが 走る。
「え?」
さぁっと、血が引いていく音が聞こえてきた。
彼女から伝えられた事実はまったくの予想外の言葉だった。
「あれ?知らなかった?」
「・・・・・・は・・・・い。けっけど、そんなはずは!」
思わずシンジは演劇部長との距離をつめた。
その表情には困惑以上に驚きに彩られ、色を失っていく。
彼女は確かに朝、出かける様子を自分は見ている。それに彼女がここにいると信じて自分はここまで足を運んだんだ。
突然、シンジの様子が変わったことに驚きながらも、彼女は彼女の持つ真実だけを彼に告げた。
「彼女はきっとこれからの演劇部を支えてくれる子だと信じてるんだけどね。今日はなんだか用事があってこれなかったんだって。」
「どこに・・・・・どこかに出かけるとか、言ってましたか?」
シンジは焦り気味にゆかりの行方を聞いた。
「いいや、家の事情だって言ってたけど。でもどうして?」
そこで、シンジは目の前の先輩に失礼なことをしてしまったことに気づいて、頭が冷えた。
「いいえ・・・・なんでもないんです。失礼・・・・・しました・・・・・。」
それだけを言うと、シンジは背を向けて、その場を跡にした。
その顔は、陶磁のように白い。
すでに、彼は、歪められ、ヒビワレた真実にそれとは知らずに手を掛けていた
『ソレ』は、 容赦もなく、 慈悲もなく、 受け入れることしか彼には許されていない。