誰もいない休日
誰もいない朝
誰もいない彼女の部屋
誰もいない食卓
誰もいない庭
誰もいない心
何人の進入も許さない鍵
その存在はすべてを拒絶する
のばした手をはねのけられた心には
歓びもなく
怒りもなく
悲しみもなく
それらを表す器さえない
その心には、ただただ暗い、闇が広がる
その心の内を照らすものは
彼女の真実か
母の音色か
今は、ただ闇が広がるだけ
見上げればどこまでも朱い空
第十話
約束
その日も暑く晴れた日だった。
空には太陽がさんさんと輝き、沈むことすらなくなってしまったかのようにその存在を誇示していた。雲はなく、強すぎる陽光をさえぎるものは何もない。
人々は、そのほとんどが、涼しくクーラーを効かせた部屋の中でその時をすごしていた。
「はぁ~・・・」
そのため息が聞こえてきたのは、そんな部屋の一つ、賑やかに騒ぐ声の響くとある小学校、2年2組の教室で聞こえるものだった。
ため息は周りの声に埋もれてしまうような静かなものだったが、とある少女の耳には確実にそれが耳に入ってきた。
それは彼女の気に障るものだった。教室にいる皆が楽しく談笑している中で、そのため息は見過ごせないほどに暗い雰囲気を放つそれはある少女、山川ゆかりの眉間を少しゆがめさせ、談笑していた友人との会話をやめ、視線を動かすのに十分な理由となりえた。
「?」
「はぁ~~・・・・」
今また、ため息をついた少年、碇、シンジはそんな自分をじっといぶかしく見据える視線にも気がつかずに、さらにため息をついていた。
その行為が幸せを逃がしてしまうものなのだとしたら、シンジは今まさに幸せをすべて逃がし尽くすほどの深いため息を吐いている。
シンジは、己のうちからにじみ出ているのではないかと思うほど不幸のオーラをその身にまとい、教室の黒板の両端にある掲示板を見つめ、ただひたすらに唸っていた。
その様子を見ていたゆかりは怒鳴りつけてやろうとした言葉を飲み込み、シンジに普通に声を掛けることにした。
「どうしたのよ、碇?暗い顔して。」
「あっ、山川さん・・・・。」
シンジはどんよりと暗い表情をゆかりに向けた。この様子では直接なにがあったかは聞きだすことは困難だろう。
ゆかりはシンジの表情から、なにがこのくらい少年をさらに暗く追い込んでいるのかを推察することにした。
「なんかあったの?あぁ、また男子に女の子ってからかわれたんでしょ!!」
「えっ・・・・そんな」
まずは一つ目から、己の作った少年のトラウマから攻めてみることにした。
シンジがこのクラスにきてからはや三週間が経とうとしていたが、いまだにシンジはクラスの男子と一部の女子から外見についてからかわれていた。
それはいつもシンジが朝教室に入るといつも行われていることでゆかりはシンジ自身にも原因があるとして、特に気にしていなかったが、どうやらシンジは毎回そのことについて時々頭を抱えている様子だった。
シンジは、ゆかりの指摘に戸惑った様子を見せた。
「まったく、だからまえから言ってんでしょ!!その前髪切りなさいって!!」
「あっ・・・えぇっと、山川さん?そうじゃなくてですね・・・・」
どうやら違ったらしい。
シンジの表情も晴れる気配を見せない。
ゆかりが話しかけてきたことで、暗い雰囲気は消えている。
しかしゆかりがシンジを無理やりにはっぱ掛けようとしている勢いがシンジにいやおうなしに伝わり、逆にシンジを先ほどよりも追い詰めていた。
シンジは己に対しての誤解を解こうと目の前の少女に話しかけるが、彼女の勢いは止められない。
「ん?じゃあ何?上級生に音楽室でからまれた話?」
シンジは、暇があればとりあえず音楽室に行っていた。
チェロの練習をすることがほとんどだったが、時折ボーとしていることもあった。そんなときに上級生からほぼ言いがかりに近い苦情を受けたのだ。そのことでシンジは最近は放課後にしか音楽室に顔を出していなかった。
「あんたねぇ、だからとりあえず軽音楽部に入っときなさいって言ったじゃない。」
「・・・・・・・山川さん、話を聞いてください。」
「?なによ、さっさと言いなさい」
やっとシンジが自分に何かを言おうとっしていることに気づいたゆかりは、とりあえず話を聞いてみることにした。
「ぼくは、みんなにからかわれたわけでも、上級生の人にからまれたわけでもありません・・・」
「じゃあ何でため息なんてついてたのよ。いってあるでしょ、辛気臭い顔してたらこっちまで気分悪くなるって・・・・・・」
ゆかりが言い終わらぬうちに、シンジはすっと己が見ていた先を指差した。ゆかりはそれにつられてシンジが先ほどまで恨めしげに見ていた掲示板に目を向けた。
「あれ・・・・・」
「ん?」
そこには二年二組のプールの日程が書かれた紙と健康面に関する注意事項等が書かれている。それ以外には学級新聞など特に目に付くものはそれくらいでゆかりの目にはシンジの憂鬱の原因となりそうなものは内容に思える。
「来週から・・・」
「ああ、水泳が始まるわね?」
「・・・・はい・・・・」
「なによ、それがどうかしたの?」
「・・・・・・」
「碇?・・・・」
シンジはそれきり黙ってしまい、話を続けようとしない。
何なんだろう、相変わらず暗い性格が直らない。これは今一度脅しておく必要が・・・・。ゆかりはそこまで思い至るとふと思考を戻した。あの掲示板で見えたものは何だったか?学級新聞、くだらない男子の落書き、健康についての注意書き、そして、プールの日程表・・・・・・、なるほど。
「ひょっとしてあんた・・・・」
「!」
にんまり、といった表情を浮かべゆかりはシンジとの距離をつめた。
彼女のこういった時の笑顔もかわいらしいとシンジは思っていたが、この三週間でゆかりがこういった表情を浮かべた場合、決まってよくないことが起こることをシンジは悲しいことに自らの経験を持って知っていた。
ゆかりはシンジが暗い表情を浮かべていた理由にきがついた。そしてそのことについてシンジが話したくない理由も察してしまった。
「んっふっふっふ・・・・。どおしたのぉ~~いかりちゃ~ん?」
「うぅ」
シンジもゆかりが気がついたことを察して、ゆかりが詰め寄ってくるのに下を向いて視線を合わせないようにすることで逃げようとしていた。
これまでのシンジとゆかりのやり取りを見守っていたクラスメイトたちは全員が同じ思いを抱いていた。
(あー、またはじまったよ。)
そう、このようなシンジとゆかりのやり取りはこれが初めてではない。ゆかりはシンジのことを何かとあれば先ほどのような問答を繰り返し、シンジの弱みを見つけ、最終的にこのように詰め寄ってシンジが困るさまを楽しむという、趣味の悪い事を日課としていた。
しかし、最初のときのようにシンジが泣き出すまで追い詰めたりしないのでクラス中が黙認している有様だった。
そうしているうちにゆかりが詰めに入っていた。
「んっふっふっふっふっふー・・・・あんたー、もしかして・・・・・」
「あ・あぁゆかりさ・・・・」
ゆかりに最後の一言を言わせないために、学校ではゆかりを名前で呼ぶことを控えていたシンジがゆかりを名前で読んででもとめようとしたが
「泳げないの?」
「!!!」
最後の一言は無常にも、彼女の口から放たれてしまった。その一言でシンジの動きは石のように固まってしまった。然し表情には焦りの表情を貼り付けている。
もちろんこの事実を、聞き耳を立てていたクラスメイトが聞き逃すはずもなく、即ざま反応してきた。
「えー碇君泳げないのー。」
「・・・碇ーそれはおまえなさけないぞー?」
「ちっちがうよ!!」
「なにがちがうのー?」
にやにや
ああ、クラスの皆がゆかりさんとおんなじ表情になってる・・・・
シンジは事態の収拾を図ろうとするも、ゆかり化しているクラスの生徒たちはシンジの弁明を言葉半分にしか聞いていない。はっきり言って酔っ払いのようにたちが悪い集団と化していた。
それでもシンジはこの状況の打破のため、精一杯の強がりで切り抜けようとした。
「ぼっ僕泳げます・・・」
「へー」
もちろんそんな言葉では追及の手を緩めるようなゆかりではなかった。
「ほんとですよ!!信じてください!!」
「べつに嘘なんていってないじゃない?」
「うぅ・・・・」
「んで?ちゃーんと泳げる碇ちゃんは、何メートルおよげるのかなー?」
「ううぅ・・・・・、・・・ートル。」
「んーきこえないなー」
「・・・・・メートル。」
「きーこーえーなーいー。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
少々やりすぎただろうか、シンジはとうとう顔を伏せたまま何も言わなくなってしまった。その体もかすかに震えている。
それでもゆかりはにやにやとした笑いをやめずシンジがどんな反応を示すのか楽しそうに待っていた。しかしそうしているとシンジの体の振るえが止まり、突然その顔を上げ正面のゆかりを見据えた。その表情は決意に満ちている。反撃ののろしを上げた。
「・・・・・・もういいでしょう!おっ、泳げるったら泳げるんです!!」
(おお、新しい展開だ・・・・・・・だいじょうぶか?)
クラスメイトたちは、今までにないシンジとゆかりの新しい展開に目を見張っていた。もちろん当事者であるゆかり本人もシンジのこの強気な反応には驚いていた。
「あ、あんた・・・・」
「はっ」
しかし次の瞬間にはシンジ我に帰り、己の言葉を省みてしまった。目の前の少女がどういった少女なのかを考慮に入れなかった先ほどの自分の言動を悔いた。
みるみるシンジはしぼんでいった。その姿はむしろいつも以上に弱弱しい。優勢になたと思われた戦況はあっという間に元に戻っていった。
シンジはそっとゆかりの表情を確認すると、そこには先ほどのにやついた顔ではなく、自分に逆らった愚か者を見つめる冷笑だった。
「ふーん・・・・・、碇ちゃんはー、ちゃーんと泳げるのねー・・・・・」
「や、山川さん?。」
「へー・・・・ふ~~~~ん・・・・・・。」
ゆかりの突然の変化に戸惑うシンジ。ゆかりは意味深な言葉を残し、まるですべるように動き、後ろ向きに歩きながら、教室から出て行った。
最後にゆかりはシンジに笑顔を向けたが、それは向けられた者の背筋が凍るような邪悪なものだった。その笑みにこめられたものは、そう
(おぼえてなさいよ)
そしてゆかりは教室を後にした。
「ゆ、ゆかりさーん」
(あーあ)
教室には、我を忘れたシンジの叫び声と、クラスメイトたちのため息のみが聞こえてきた。
「こういう時って、なんて言うんだったっけ?」
「ゴシュウショウサマ?」
「「「「「それ!!」」」」」
合掌・・・・・・
それから、ゆかりの方からは特にシンジに対して何をするわけでもなく、穏やかに一週間という日は流れ、とうとうプール初日を迎えてしまった。
そのころのシンジはプールのことで頭がいっぱいで、ゆかりとの出来事を思考の隅に追いやり、いつの間にか忘れ去っていた。
そのため、憂鬱ながらもシンジは今、曇ることを知らぬ太陽の真下で平均よりも白すぎる肌をちりちりと焼かれながら、準備体操にいそしんでいた。
シンジの今の格好は、標準の小学生の水着をはき、きっちりと水泳用のキャップをかぶり、長めの前髪もその中にきっちりとしまわれている。
「はーい、みんなきっちり準備運動したかなー?」
担任の中野教師が、準備体操を終えクラスメイトたちに呼びかける。
「「「「「はーい」」」」」
「・・はぁい」
生徒たちのほとんどがそれに元気よく答えた。一部の生徒はすでに暑いだの早く水の中に入りたいだのと文句を言うものもいる。シンジも返事は一応するが、その声にはいつも以上に覇気がない。
「よーし、それじゃあまずは・・・・・」
そんな様子も、中野教師にはいつもどうりの光景に映ったのか、満足げにうなずくと準備運動をプールの中の運動に移した。
ばしゃばしゃ・・・
いま二年二組の生徒たちは、プールサイドに腰掛けて水面をけっていた。
「はぁ・・・・・」
とうとうここまできてしまった。
シンジはまだ水をけっているだけでこれからの授業のことを考えて憂鬱に拍車をかけていた。そんなときに隣で同じことをしている男子の一人がシンジに話しかけた。
「碇ー、まだうなってんのかよ。」
「だって・・・・」
「大丈夫だって今日はたぶんプールで遊ぶだけで、タイムはかったりするのはまだ先だって。」
「いや、うん・・・・」
シンジはゆかりとの問答の後、何とか泳げるということだけは信じてもらえたが、体育全般があまり得意ではいこと自体は隠しようがなかった。
「ところでさぁ、何で山川は碇にちょっかいかけるんだろうな?」
「あー、それ俺も聞きたかった。最初っから仲良かったよなー。」
「前から知り合いだったみたいだし。」
「なんか親戚かなんかなん?」
「えっ、えーと・・・・」
シンジは口ごもった。ゆかりとシンジとの関係は実はクラスのほとんどが知らなかった。
シンジは特にゆかりから口止めをされているわけでもないが、そのことについてはクラスの誰にもしゃべらなかった。
家に遊びに行かせてほしいというお願いも習い事や、家の手伝いなどを理由に断り続けている。
そのためシンジにはゆかり以上に親しいクラスメイトというものはいなかった。そしてそのことがシンジとゆかりの関係をほかのものとは違うものに見せてしまったかもしれない。
シンジはすこし迷った様子を見せた後、ゆっくりと話し始めた。
「僕今、お父さんと離れて暮らしているんです。」
母が死んでいることは、もうクラスメイトのほとんどが知っていた。母がいないことについては、詳しいいきさつはゆかり以外には話していないが、すでにクラスの全員に質問されたことだったからだ。
そのことに関してシンジが普通に答えられたのは、三週間前の出来事のおかげだったかもしれない。
実は、他のクラスにも片親がいない生徒が少なからずいた。
セカンドインパクト。
原因不明の災害、一般に隕石の落下によるものではないかとされている、地球規模の異常気象のため、南極の氷はほとんどが溶けてしまい、日本も海抜0メートルの場所はすべて海の底となった。
2,3年ほど世界の中の治安が荒れてしまっていたり、病院などの機関がうまく機能していなかったことが大半の理由としてあげられた。今も発展途上国では、細かな紛争が絶えない。
そのためシンジが特別同情されるようなことはこの学校では希だった。
「へー、そうだったのか」
「ん?じゃあ今一人暮らし?」
「バカ、んな訳ねーだろ。」
横で聞いていたほかの男子たちが話しに混ざってきた。
「あははっ。それで今は親戚の人のところでお世話になってるの。ゆ、・・・や、山川さんとは家が近所だったからそのときちょっと知り合ったんです。」
どうやらここまできてもシンジはゆかりとのことは話す気がないようだ。少しだけついたうそを悟られないようにか、そっと視線を隣からはずした。
「へーそうやったんかー。いや山川ってやーちょっと堅いとこあるやん?せやからずっと不思議やったんやけど。」
「そ、そうなんですか?そんなふうには・・・・・」
「あっ、じゃあ碇の父さんって何してる人なんだ?」
「あ、お父さんは、いま神奈川で・・・・。」
シンジはその質問には素直に答えようとした。
「おっ、知ってるか?神奈川県に今度、新第3東京都市ができるんだってさ。」
「えー、じゃあここは?前の・・・・長野県だったっけ?それに戻るのかな?」
「んーそのまんまじゃねぇ?せんせーに聞いてみれば?」
「おまえ等、邪魔すんなって。で碇の父ちゃんは何してる人なんだ?」
「え?ええと、けっ研究所で働いてる人だよ・・・・。」
「へー、頭いいんだなー。」
「ばか、そんなレベルじゃねぇって、むちゃくちゃいいんだよ。なっ!」
「う、うんたぶん・・・」
父がどういった人か、シンジはあまりそのことについては考えたことがなかった。シンジにとっては、気難しくも、母を愛した父の姿しか記憶になかった。しかし、こういった父の評価は、聞いていてうれしかった。
「あー俺の父さんが言ってたけど、神奈川の研究室ってもしかして・・・・・えーと何つったっけなー」
「あ、あの言われても僕よく分かんないから。」
「んー・・・・、とにかくすげーんだな!!碇の父ちゃん。」
「・・・・うん、たぶん。」
それからしばらくして、水に慣れるための運動を終えた二年二組の生徒たちは、それぞれが自由に水の中に入っていた。その中でシンジも恐る恐る水の中に入り、つかの間の浮遊感を心なしか楽しんでいた。
そこに中野教師の次の指示が聞こえてきた。
「はーい、それじゃあみんな今日は水になれるってことで、これから自由行動だよー」
「「「「「やったー!!」」」」」
「くれぐれも危ないことはしないようにねー」
「「「「「はーい!!!」」」」」
隣に座っていた男子の言ったとおり今日は自由に過ごしてもいいようだ。
シンジはほっとして、うれしそうに少しだけその体を水の中に沈めた。ぶくぶくとあぶくを出して遊び、水の感触を楽しんだ。水に触れること自体は嫌いではないのだ。
「ぶくぶく・・・・・ぷはっ、あはは・・・ぶくぶく・・・・・」
何とも幸せそうな様子で水の中を歩いて遊んでいた。しかし、
「碇ー!!」
びくっ
そんなシンジの小さな幸せは聞こえてきた彼女の声で打ち切られた。シンジは、鼻まで水の中に隠れている。
ゆっくりと声がした方へ視線を向けると、ゆかりはプールサイドに立ち、シンジのことを見下ろしていた。女子用の水着も彼女には似合っているが、シンジは素直にその感想を言う気にはならなかった。
その顔は満面の笑みでシンジにほほえみかけている。シンジは、はっきりと今の彼女には近づきたくはないと感じていた。彼女のあの表情はいつも何か良くないことが自分に怒ることの前触れだ。
いや、一つだけあった。そのとき一週間前の出来事を思い出した。あのとき彼女は今以上に機嫌が悪く、しばらくシンジと家でも口を聞かなかった。然しそれはプールの日が近づくほど良くなっていたため、シンジも忘れていたのだ。
このタイミングで、いったい何をされるんだろう?
「・・・・・・」
「何してんの?早くこっちきなさいよ!!。」
「えぇっと、その・・・」
シンジは近づくにも恐くて近づけず似ずの中でおろおろしていた。そうしていると、遠目でも解るほどみるみるゆかりの顔が険しいものになっていく。
「「「碇・・・・」」」
「え?」
そんなとき後ろから声がかけられた。
いつの間にか何人かの男子がシンジの後ろに集まっていた。どうやら先ほどまでのシンジとゆかりのやり取りを見ていたらしい。
そのうちの一人がそっとシンジの肩に手を乗せた。何事かとシンジも混乱している。シンジはしばしゆかりのことを忘れて、なにやら哀れんだ目でこちらを見るクラスメイト達の言葉を待った。
「?」
「「「・・・・・・・・逝ってこい」」」
「・・・・・・・・・・・・」
どうやら友情とは儚いものらしい。
「もう何やってたのよ。呼んでんだからすぐ着なさいよね!!」
「・・・・・どうかしたんですか?」
幸せな水の中から言葉で引き出され、シンジはぐったりと陸に上がった。
そんな様子のシンジをよそにゆかりはとても上機嫌だった。
「競争しましょ!!」
「ええ!!」
上機嫌なゆかりの口から出てきた言葉はシンジが今もっともさけたい内容だった。
「なによ、泳げるんでしょ?」
「・・・はい」
然し逃げ道はすでに自分でふさいでしまっていた。
「じゃ、いくわよ。みんなーちょっとコースあけてー。」
「うぅ・・・・・」
ゆかりは暗くなるシンジをよそに、喜々としてコースの準備を進めていた。
「それじゃあ、位置についてー」
(うう、逃げ出したい。)
クラスの女子が手を前に出してレースを仕切る。シンジもいやいや水の中にいた。クラスのほとんどがプールのコースを明けるどころか、勝負をよりよく見守るため、プールサイドに並んでいる。
誰も止めようとはしない。
「さあ、下克上なるか、第1コース碇シンジ!!」
「「「「「おおお!!」」」」」
「二位年二組の支配権はやはり彼女の手に治まり続けるのか!第2コース山川ゆかり!!!」
「「「「「おおおお!!!」」」」」
それどころか司会者までもうけ、事態をさらに煽る始末だった。
ゆかりは、笑顔で声援に答えているがシンジにはそんな元気はない。
ちらりと横にいる彼女を盗み見る。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
互いに目があっても何も話そうとはしない。ゆかりの顔には余裕の笑みが見て取れるだけ。シンジはますます憂鬱になったが無情にも火蓋は切って落とされる。
「よーーーい、どん!!」
ばしゃっ
鋭い飛沫を上げてゆかりは勢いよくクロールで飛び出した。さすがに早い。あっという間に五十メートルプールの中ほどにまで泳いでしまう。その姿にクラスメイト達は釘付けになった。
「おおさすがだな。」
「ゆかりちゃんはやーい!!」
「い、碇は?」
そこで一人がその哀れな存在を思い出した。クラスメイト達もシンジが泳ぎが苦手なことはとっくに察しガ付いていた。然しこの一週間、ゆかりの牙が見え隠れし、今このときもシンジに手をさしのべることが出来なかったのだ。
もっともゆかりに便乗して事態を楽しんでいるものがほとんどだったが。
一人の一言で皆がシンジの姿を探した。然し十五メートル付近にもその姿は見つけることが出来ない。
「あれ?どこだ?」
「あ、あそこ・・・・・」
一人の指し示す方向に皆が目を向けた。スタート付近、プールで一番深いところだった。其処には微かに気泡が浮かばせながら消えるように沈みゆく碇少年の姿があった。
もう水の中でもがく様子すら見えない。
「碇ーーー!!」
「せんせー碇君が、碇君がーーー!!」
ゆかりがその事に気が付いたのは、ゴールしたあとのことだった。
「ううん・・・・・」
うなされながら目を覚ましたシンジはつんとした臭いに顔をしかめながら目を覚ました。頭がずきずきと痛む。
その目には真っ白な色しか映らない。
「あ、気が付いた?」
「あれ・・・・・?、ゆかりさん?ここは・・・・」
すぐ横に座っていたゆかりは目が覚めたシンジにすぐに声をかけた。
シンジは未だ痛む頭に手をあて、きょろきょろとあたりを見渡した。周りは白いカーテンに囲まれており辺りをうかがうことが出来なかった。
「保健室よ。」
さぁ、っと右側にいたゆかりがそういいながらカーテンを開けた。其処には様々な薬品がしまわれている棚と、カルテのようなものやバインダーなどが立てかけられている机などが目に入ってきた。どうやら先ほどの臭いは消毒液の臭いらしい
「あんた何があったか覚えてる?」
ゆかりが頭にて当てて俯いているシンジを心配そうにベットのそばから覗き込んだ。
「えーと?確かプールで・・・・・・あれ?」
シンジは少し頭振って記憶を探ろうとする。然し記憶にはもやが掛かっており何があったか思い出すことが出来ない。
シンジの様子を心配そうに見ていたゆかりがそっとこぼすように呟いた。
「溺れたの・・・・。」
「あぁ・・・・そうなんですか。」
シンジは未だぼぅッとする頭でのんきに答えた。その事実を自分のこととして受け止めることが出来ないでいた。
「そうなんですか・・・・じゃないわよ!!びっくりしたじゃない!!このー!!」
そんなシンジの様子が気に入らなかったのか、ゆかりはベットの脇から身を乗り出してシンジの両頬をつまんだ。そのしぐさには手加減をする様子はない。
シンジの柔らかい頬が左右にぎゅうっと広げられる。
「いひゃい!いひゃいでひゅ、・・・・ひゅみまひぇん・・・・・」
「まったく、変なとこで見栄はるからよ。おかげで国語の時間出れなかったじゃない。」
シンジの聞き取りづらい謝罪の声を聞き届け、ゆかりは最後に今までで一番頬を広げるとぱっと手を離した。
シンジは少し赤くなった頬を両手でさすりながら、少々恨めしそうにゆかりを見た。
「うぅ、いたい・・・・」
「ふんっ!!」
そんなシンジの様子をゆかりは気にもとめていない様にぷいっとそっぽを向いた。
然し横目でしっかりとシンジの様子を確認していた。もうシンジは大丈夫なようだ。ゆかりはシンジに見つからないようにそっと息を吐いた。
シンジはそんなゆかりの様子には気が付かず、そっと自分の正面にあった壁に掛けられている時計に目をやった。午前最後の授業だったプールの時間から2時間近くが経とうとしていた。
シンジはゆかりに視線を戻した。
「あ・・・・あの、ずっと、付いててくれたんですか?」
「!・・・そ、そうよ!」
不思議そうに時計を見ていたシンジを心配そうに見ていたゆかりは突然のシンジの指摘に少々あわてた様子を見せる。
ところが、シンジもあわてていた。確か午後の授業はゆかりの好きな国語の時間であったことに今気が付いた。
「え!えええとその、・・・・すみません」
シンジは必死に謝った。自分のために付き添ってくれたゆかりに対してとても申し訳なく感じてしまったからだ。
しかし、そんなシンジの態度はゆかりの気には召さなかったようだ。
「ふん!!何よ、せっかく人が・・・・したのに・・・・。」
「え?」
「何でもない!!」
「はっはい!」
取り付くしまもない。
ゆかりはそうしてシンジを黙らせるとさっさと事務的なことを話し始めた。
「あんた今日はここで寝てなさいって。別に息が止まったりしてないから大丈夫だと思うけど、体がびっくりしてるだろうからって保険の先生が言ってたから。」
「はい・・・・」
それきり、二人は黙ってしまった。
シンジからはゆかりには話しかけられない。未だゆかりからはなにやらいらいらした雰囲気が伝わってくるからだ。
ゆかりはシンジのベットの横においていた椅子に足をぶらぶらさせながら座り、少しうつむき加減だ。
少し高い位置にあるシンジの目線からは、その表情は伺うことは出来ない。
「・・・・・・・あ、暑いですね。今日も・・・・」
「・・・・・・・・・」
とりとめもない話で事態の改善をはかろうとしたが効果は上げられなかった。
ゆかりは顔をシンジに向けないまま黙り込んでいた。
ゆかりに対してシンジは負い目を感じ始めていたシンジにはこの場の空気は少々辛い。
しばらくの間、白い保健室には蝉の鳴き声だけが遠くで響くだけだった。
保健室の窓から見える校庭には誰もいない。
空には当然のように雲が無く、
心なしか傾きかけている太陽が、未だ高い位置にあり校庭をちりちりと焼いている。
窓から見える校門もゆらゆらと蜃気楼のように揺らめいていた。
外は未だ暑そうだ。
シンジが少しだけ窓の外に気をやりながら、ゆかりに再び話し掛けるか、掛けないかの迷いに落ちいている間に、ゆかりはすっと席を立った。
「それじゃ、私教室に戻るわね。帰りにまた寄るから。今日はチェロ、あきらめなさい。」
「・・・・すみません。」
その時、ゆかりの顔をシンジは見た。
いつもの元気がない顔を見たシンジには、謝罪の言葉しか口にすることが出来なかった。
ゆかりはシンジに背を向けて保健室の扉に向かった。
思わずシンジは引き留めようと手を伸ばしたが、引き留められる理由がないことにその手は途中で止められる。シンジは寂しげにゆかりの背中を見送ろうとしていたときに、扉に手を掛けたゆかりがその歩みを不自然に止めた
「・・・・あのね、碇・・・・。」
「はい?」
ぽつぽつと、まるでいつものゆかりらしくない話し出しに、シンジは言葉をそれ以上挟むことが出来ない。
静かにゆかりの次の言葉を待った。ゆかりはシンジに背を向けたまま、話し続けた。
「うちってね、毎年この時期に土日に泊まりがけで海に行くの。」
「?」
「だからさ、そこでさ、・・・泳ぎの練習しよう!!。」
「!」
「今年はシンジも一緒に、ね?」
「・・・・・・」
ゆかりがくるっとシンジに方に振り返りながらシンジにそういった。その表情は先ほどとは違い、晴れやかな笑顔が浮かべられている。
シンジはゆかりの言葉が理解できずに固まったままその笑顔に見とれていた。
「特別にこのあたしが教えてあげるってんだから光栄に思いなさい!」
「・・・・・・・・」
どんっとゆかりは自分の胸をたたき、ふふんと鼻で笑った。
それでもシンジは、ゆかりの勢いついて行けず、ベットの上でどういうことかと首をひねっていた。
「ちょっと!聞いてんの!!約束よ!!わかった!!」
「は・・・い・・・・・」
気の抜けたように惚けているシンジにゆかりは、無理矢理返事をさせ、約束を取り付けた。
「なによ、気のない返事して。忘れたりしたら、酷い目に遭わせてやるからね!!」
「はっはい!!。」
理不尽な怒りが降りかかりそうになり、シンジは慌ててはっきりと返事を返した。
その様子にゆかりは満足げにうなずいた。
やっとそこで落ち着いたのか、ゆかりは自分の言動を思い出した。さっとその顔がほんのりと赤く染まる。
「じゃ、じゃあそれだけだから、またあとでね?」
そういってゆかりは慌てた様子で保健室から出て行った。
がらっ!!ぴしゃ!!
鋭いととを出しながら保健室から出て行った。
それでも恥ずかしさは紛れなかったのか、ぱたぱたと走る音があっという間に廊下から聞こえなくなった
「・・・・・・・・。」
ゆかりの様子に唖然としつつ、ゆかりが元気になって良かったと思いながら、シンジは閉じられた扉をしばらくの間眺め続けていた。
続く
ちょっとだけ後書き
お久しぶりです。haniwaです。
エヴァンゲリオン・クロニクル買いました。そのため少し話を書き換えたところがあります。シンジ君が居たのは鎌倉ではなく、神奈川にしました。
次回、覚悟してください。(そんなたいしたことでもないかも)