闇の帳は深く、眠れる空は尚も昏(い。そこに瞬く煌星(の下では、巨大な人型の物体が二体、力無く佇んでいた。
ここは第3新東京市の南西方向にある駿河湾から測って、ちょうど真ん中に位置する場所。昼間、『勇者』を名乗る機神と、この人型物体、『使徒』と呼ばれる生命体との人知を超えた戦闘が行われた所である。
周辺に人家も街も無いここは暗闇に包まれていたが、使徒の周辺は異様に明るかった。それもそのはず。現在この使徒は厳重な監視下に置かれており、国連軍警備の中、NERVのチームがデータ採取を行っているのだ。幾つもの仮設テントが組まれ、その中に様々な機器類が設置されている。発電機のモーターの喧しい音、その電力が生み出す照明の光の下、書類やカメラなどを持った職員たちが忙しなく走り回っており、これもまた、今のNERV本部内の状況と同じく『戦争』と言っても過言ではなかった。
そんな彼らを尻目に、上空から使徒の頭部へ降り立つ何者かの影があった。身長は160cmほど。真っ白なローブを身に纏っており、ローブを目深に被っているために顔はおろか、男か女かも判らない。ただ、ローブの端から銀色の髪が見えるだけだった。
この人物の存在に、NERVも国連軍も気付いていない。いや、気付かないのである。警備用に設けられた対人レーダー等のセンサー類にも引っ掛からず、使徒を照らすサーチライトにも捉えられていないのだ。さらにそれ以前に、何の乗り物にも乗らず、空から使徒の頭に降りてくる者がいるなどと誰が想像するだろう。
そう、判らなくて当然なのだ。かの存在は、この巨大人型生命体と同等のモノ。そして、A.T.フィールドの使い方次第で多少なりとも『世界』に干渉できる『自由意志』を司っているのだから……。
「やあ、お疲れ様。 予定通りとはいえ、見事にやられたね」
それは、よく透き通った声だった。少なくとも女性のものではなく、声変わりはまだなのか、それとも間近なのか、少年と言っていい質のものだった。
「………、…… 」
「なぜ僕が来たかって? 君も予定(は把握してるだろう? 我らが姫は『お仕事』さ」
「…………、……、……… 」
「そう。 リリン達には目先の勝利に酔っててもらうさ。 彼らが何をしようとも、僕らの計画は揺るがない」
「……………… 」
「分っているよ。 それじゃあ、また……5日後の夜明けに」
そう言うと銀髪の人物はローブと共に身を翻し、曇り始めた夜空にその姿を消したのだった。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
ショウ・グランハム国連事務総長が綾波邸を辞した頃とほぼ同時刻、ジオフロントのNERV本部でも多くの職員が帰宅の途についていた。そのほとんどは技術開発部やケイジ整備班の人間で、今回の使徒殲滅終了までは本部施設に缶詰めになることを覚悟していた者達にとっては勿怪の幸いとも言えるものだった。
当初に予定されていた各員の作業シフト。それは徹夜・突貫が当たり前のように組まれていたが、赤木リツコの加勢により作業能率は格段に上がり、シフトは一から組み直された。
その結果、当直の職員は別として、彼らは日を跨がぬ内に自宅へ帰ることができるようになったのである。
半ば他部署の尻拭い的な形で仕事を強いられそうになった職員達にとって、リツコはまさに救世主だった。まるで、暴力に支配された世界を救う某伝説の暗殺拳の使い手のように。もっとも、こちらの敵は『世紀末覇王』ではなく、『新世紀酒乱女指揮官』であったが。
まあ、それはともかく、皆はその『幸い』を有難く受け取ったのだった。
「お先に失礼します、赤木博士」
「ええ、ご苦労様」
「じゃあマヤ、お先に」
「お疲れ様。 また明日ね」
プログラムチェックの関係で遅くなった阿賀野カエデ二尉と大井サツキ二尉が帰宅の挨拶をしてケイジ指揮監督ブースを出て行く。これでここに残っているのは、今日一日の作業の仕上げに入ったリツコと伊吹マヤ二尉技術開発部統括代理の二人となった。
と思ったのだが、実際にはもう一人、残っている人間がいた。何を手伝うわけでもなく、ただコーヒーをちびちびと飲みながら作業を見詰める女性。今回の忙しさの原因の一端となった葛城ミサト一尉作戦課長である。
実は彼女、リツコに嫌味を言われて一度は自分の仕事をする為に戻っていた。が、執務室に着いて扉を開けた後、すぐにそのまま閉めた。一歩もそこに足を踏み入れることなく。
ミサトは見てしまったのだ。自分の執務室に紙の海が出来上がっていたのを。放置していた書類の山々。それが無残にも崩れ、部屋全体に撒き散らされた光景を。
踵を返し、再びリツコたちの所へ戻ったのも無理ないのかもしれない。彼女の性格を考えれば。
という訳で、皆に白眼視されながらも、ミサトはこの時間までずっとここに居続けたのであった。
そんな彼女が今まで閉じていた口を開いた。
「ねぇ、リツコ? 教えてくれない?」
「何を?」
「あんたがNERV(から出てった理由(……まだ、ちゃんと聞いてないわよ」
「…………」
リツコはキーボードを打つ手を止めない。視線も動かさず、ディスプレイを見たままだ。しかし、心の中(は揺れていた。
もう夜も遅い。邪魔するだけなら適当にはぐらかして追い出そうと思っていたリツコ。だが、これまでの刺々しかった口調とは打って変わり、まるでプライベートの時のような柔らかく穏やかな物言いのミサトの言葉は、知らず知らずの内に作っていた彼女の心の壁の隙間を通り抜けたのだ。
リツコは思い返していた。考えてみれば、これまでの人生の中で一番付き合いのある人間はミサトだけであった。同じだけ長いと言えば加持リョウジも含まれるのだが、NERVの前身であるゲヒルンに入所した時には付き合いらしい付き合いは途絶えていた。大学時代から数えて約10年。それはとても長い時間だ。そう簡単に心というものは離れないものなのだな、と感じた。
そんな思いが自然とリツコを微笑ませる。
「なぁに? 戻ってこいって言うの?」
「そう言いたいのはやまやまだけど、あんた『ええ、分かったわ』なんて絶対に言わないでしょう? 見かけによらず頑固だしね。 でも、何も知らないままってのは友達として情けないじゃない」
友達――――
背凭れを胸に抱くような格好で椅子へ真逆に腰掛けるミサトが向けた柔和な笑みと問い。そこに含まれていた思わぬ台詞に、リツコはすぐに言葉を返せないでいた。あの時、何も語らず勝手に離れた自分である。彼女の中では『友人』などという関係はとっくに終わっていると思っていた。
「……ありがとう、ミサト。 まだそう思ってくれているのは嬉しいわ。 そうねぇ……『世界平和と人類の未来の為』なんてお題目を並べたら―――― 怒るわよね?」
「当然よ。 NERV(の仕事に嫌気が差した、なんて子供(っぽい理由も却下。 本音しか受け付けないわよ」
「それ、私も知りたいです」
隣で作業を続けていたはずのマヤも、いつの間にか手を止めてこちらを見ていた。彼女にしても黙って一人で行かれたのだ。どうしても理由を知りたい。
二人とも熱心に見詰めてくるので、リツコは根負けしてしまった。
「……つまんない話よ。 それでいて面白くない話」
「いいから」
「構いません」
「はいはい……」
キーボードを打つ手を止め、これまでの作業過程のバックアップを取るリツコ。マヤにも同じ事を指示して、それらが終わった後、言葉を選んでいるのか、たっぷり1分ほど黙し、深く息をついてミサトとマヤに向き直った。
「それを真剣に考えるきっかけになったのは獅子王博士からのお誘いだったけど、前々から私の心(には燻(っているものがあったのよ」
「燻る?」
「母さんへの想い……違うわ、対抗心ね」
「対抗……ですか?」
ミサト、そしてマヤも、リツコの言葉に疑問符を浮かべる。
「……私はね、母さんを超えたかった―――― いえ、超えたいのよ」
リツコは少し哀しげな顔を見せた。ミサトとマヤには、それが儚げながらも、とても美しく綺麗に見えていた。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
ところ変わって綾波邸。
ようやくシンが休める時間になったのは、もう夜の10時を半ば過ぎてのことだった。ショウ・グランハムを見送った後、遅い夕食を済ませて自室へ戻ろうとした所、マイが「先にお風呂に入りなさい」と入浴を勧めた。それは何とも抗いがたい誘惑だったが、アスカやレイの様子が気になっていたシンは首を横に振り、「お湯、せっかく張り直したんだから母さんが先に入れば?」と逆に勧めた。風呂の順番など特に決めてはいないが、大抵は子供達が先である。いつもマイは最後の残り湯だ。GGGの仕事だけでなく家事もしているのだから仕方ないことだが、たまにはそんな母が綺麗な湯に浸かってもいいのではないかとシンは思う。
そんな息子の気遣いを感じ取ったのか、マイは嬉しそうに微笑んで――――
「分ったわ。 ありがとう」
と、シンの額に軽くキスをし、頭を撫でた。
「~~~~ッ!?」
瞬間、真っ赤になって離れるシン。完全に不意打ちを喰らった格好だ。
「かっか、かっ、母さんっ!?」
「アスカちゃんやレイには黙っておいてね♪ 睨まれたくないもの」
「い…言えるわけないじゃないか!」
その反論に「フフ……」と何故か艶めいて見えた笑みを残し、マイは浴室へと消えていった。
一方、リビングに一人残されたシンだが、顔を赤く染め、額に手を当てたままの格好で固まっていた。
先程のキス、マイはただ、からかい混じりに欧米風の親子のスキンシップをしたつもりなのだろう。しかし、そういうことに慣れてない彼にとっては、少し刺激が強かった。
言うまでもなく、マイは美人だ。それに若い。シンとレイ、二人の母親としてここにいるものの、エヴァ初号機の中で肉体も精神も眠っていた彼女は、接触実験の失敗で溶け込んで消えたあの時のまま、まだ27歳の女性なのだ。ミサトやリツコよりも年下である。
シンは、そのマイを『母親』としてしっかりと認識・理解している。だが、忘れてはいけない。彼は思春期真っ盛りの14歳の少年である。『第18使徒リリン』として覚醒していようが、『クルダ流交殺法』という異世界の闘技を修得していようが、「綺麗なお姉さんは好きですか?」と問われて「大好きです」と迷わず答える健全な青少年なのだ。見た目『年上の綺麗なお姉さん』であるマイに額とはいえキスされて動揺しない方がおかしい。意識して当然である。
しかしながら、ドギマギしつつもシンは幸せな気分を味わっていた。母からキスを貰うというのは、とても気恥ずかしいものだった。だが、これは幼い時の記憶だろうか、誰憚ることなく母に甘え愛されていた頃の事が思い起こされ、何とも照れくさく、それでいて満たされた感覚でもあった。
「(これも『補完』って言うのかな……)」
この思いは、おそらく真実に最も近いだろう。
『人類補完計画』、すなわちSEELEの画策する『サードインパクト』とは、端的に言えば『母胎回帰』を意味している。人類みんなが持つ心の隙間を全て埋め、完全な生命体として生まれ変わる為に『種としての母』である『第2使徒リリス』へ還ろうとするものだ。
その時の心地良さをシンは覚えている。生きていく上で常に付き纏っていた不安や恐怖、重圧や緊張、怒気、虚偽、否定、疑心、憎悪、怨恨、悲哀、嫉妬、苦心、殺意といった様々な負の感情がどうでもよくなっていき、ただただ安らぎ、温もりに包まれ、まどろんでいく。それはマイのキスによりシンが受けた感覚と共通するものだった。
そう、結局は簡単な話だ。『エヴァンゲリオン』、『使徒』、『S2機関』、『A.T.フィールド』、『セフィロト』、『黒き月』、『ロンギヌスの槍』、これ程までに大仰な仕掛けと舞台を整え、数え切れないくらいの犠牲を払ってまで行う事ではないのだ。友人や親兄弟、愛しい人など、自分を分ってくれる人、理解してくれる者の慈愛と想いがあれば、人間は幾らでも補完されて心の隙間を無くすことができる。どれだけ傷付こうともだ。
シンは上機嫌だった。心は春の日向のように温かい。いろんな事があった今日の疲れも吹き飛んだ。「ンン~~♪」と鼻歌だって口ずさむというものだ。
けれども、幸福というのはあまり長く続かないのが哀しき世の常なのである。
「おかえり、シン。 随分とご機嫌ねぇ」
「……おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ぅひっ!」
何の前触れもなく背後から掛けられた声は、陽気のシンを一転させ、瞬時に固まらせた。おどろおどろしいA.T.フィールドの波動(を漂わせるそれは、頭からすっぽりと抜けていた「睨まれたくないもの」というマイの言葉を思い出させるのに充分なものだった。
「(見られ…た……っ!?)」
ギギ…ギ…という油(が切れて錆びついた機械のような身体の動きと、心の動揺そのままの青褪めた顔でシンが振り返ると、そこには寝間着(姿の少女二人、アスカとレイがいた。彼女らのイメージに合わせた桃色(と空色(、それぞれがよく似合っていて可愛い。
「た、たた…ただだいま、あアスカ、レイい。 は、はは…ははひ……」
噛んだ。その上、強張った笑顔―――― まるで悪戯を見咎められた子供だ。誤魔化そうとして無理やり表情を作った為、頬がヒクついてぎこちない。
そんなシンに対して、アスカとレイが向ける表情は笑顔も笑顔。にっこり全開だ。それを見て、女の子の機微に疎い鈍感少年の彼は、ほっと胸を撫で下ろした。あぁ……大丈夫だった、と。
安堵の息を漏らしたシンだが、そう都合よく事は運ばない。彼は気付いていなかった。彼女ら二人の気配には未だドロドロしたものが渦巻いていて、その笑顔には皮肉と嫌味と勘繰りが混じり合い、目が全く笑っていないものだということに。
「何よ、変な声だして……顔色も悪いわね、大丈夫? シン」
「……お兄ちゃん?」
アスカとレイが心配そうに(近寄ってくる。シンは慌てて首を振った。
「い…いや、何でもないよ! それより二人とも、まだ起きてたんだね。 部屋にいるって聞いてたから、もう休んでるかもって思ってた」
出来るだけ不自然でないよう、シンは話題を変えた。今は大事な時だ。余計な気を遣わせるわけにはいかない。
けれども、彼女らの思いはそうではなかった。
「そのつもりだったんだけどね」
今日はさすがに疲れたから、とアスカは嘆息しながら肩を竦めた。
「でも、『おかえり』と『おやすみ』くらい言いたいねってレイと」
アスカが目配せのように視線を隣に向ける。レイは、こくこくと頷いた。
シンは苦笑いを浮かべた。二人への申し訳なさと自らの不明が綯い交ぜになった複雑な表情(。何だかんだ言って、結局は気を遣わせてしまっていた。
「ごめん、ありがとう」
「―――― 感謝の言葉を付けただけ、まだマシね……ちぇっ、内罰的って言いたかったのに……」
「えっ? なに?」
アスカの声は小さすぎて聞こえなかった。疑問符を浮かべたシンが訊ねたが、アスカは「別に何でもないわ」と素っ気なかった。
「……お兄ちゃん、小父様は? もうお休みになったの?」
少し眠いのか、しょぼしょぼする瞼(を擦りながらレイは辺りを見回した。がらんとして静かなリビングが気になったのだろう。
「実はね、さっき緊急の用件が入ったんだよ。 それで第2東京へ」
「ふぅん……じゃあ、セミ―――― じゃなかった、チョウ―――― でもない……えーっと、トンボがえり……ってやつ?」
アスカは、まだまだ日本語の難しい言い回しが苦手だった。それは彼女も分かっているので、指摘すると「偉そうに……」と途端にジト目を向けて不機嫌になってしまう。だからシンは、敢えてそこに触れず、頷き返すだけにしておいた。後がいろいろ大変なので。
そんなアスカの隣で、レイは寂しそうに肩を落としていた。
「……小父様にも『おやすみなさい』が言いたかった」
「アタシも。 もっとお話したかったわ、楽しい晩ご飯だったし」
その事はシンもショウから聞いていた。今日の夕飯は、ショウが若い頃の話をしたり、アスカとレイが学校での事や友人の話をしたりと、とても賑やかなものだったらしい。セカンドインパクトの悲劇で血縁を全て亡くしているショウにとって、今夜は懐かしい家族団欒と言えるもので、嬉しくもあり、楽しかったようだ。それが『合衆国大統領の死』という予想も付かない事態が起ったとは言え、ああも早々に帰らねばならなかったのは、彼にとっても残念だっただろう。
「忙しい方だからね、仕方ないよ」
「そうね、それじゃあ仕方ないわ、誰もいないんじゃあねぇ…………おでこにチューされて喜んでる男がいても(」
「はへっ?」
またもマヌケで素っ頓狂な声を上げた少年は、がしりっ、とアスカに右腕を拘束された。
「リビングまで来てみるとねぇ……なぁ~~んかねぇ~……ママにキスされてニヤニヤ笑ってるヤツがいるのよ~……ムカつくわ」
さらに続けて左腕も掴まれる。今度はレイだ。
「うえっ!?」
「……お母さんばっかり、ずるい」
サァーッ、とシンの顔から血の気が引いた。今頃になって気付いたのだ。そう、とっくに―――― と言うより、初めからバレていたということに。
楽しかった夕飯の後、アスカとレイが先に部屋へ戻っていたのは、シンに大事な話があるというショウに遠慮してのことだった。シンが帰ってきたことは、リビングから少し漏れ聞こえてきた会話ですぐに分かった。しばらくして静かになったので、話は終わったのだろうと見当を付けた二人がリビングまで来てみると、マイがシンの額にキスし、頭を撫でていた。それだけなら、まだいい。母子のスキンシップで済むのだから。
しかし、誰もいなくなったリビングで含み笑いしたり、でれでれと照れ笑いしたりされると、想いを寄せる女としては流石にカチーンと頭にきて、怒りマークの青筋を浮かび上がらせた二人だった。
だが、同時にチャンスでもあった。これをネタに今夜はあれこれ我が侭が言える、と。
しっかりと目標を確保したアスカとレイは、ニヤリと口角を吊り上げ、笑みを深くした。何処ぞの魔女の如く「ケケケケケ♪」と聞こえそうなそれは「ちゃ~~んす」だったり「ばあさんはようずみ」だったりする笑顔であった。なお、ここで言う「ばあさん」は、決してマイの事ではないということだけは追記しておく、念の為。
「え? ええっ!?」
有無を言わさず、シンはそのまま引き摺られながら連行されていく。
「二人とも、ちょっと待ってよ、アレは―――― 」
言い訳しようにも全ては後の祭りである。自室に連れ込まれ、ドアがバタンと閉じられると、「あ~~~れ~~~」という少年らしからぬ悲鳴が家中に響き渡った。成仏してくれ、シン……合掌。
「フン、フ~ン♪ …………あら? 何か聞こえたと思ったけど―――― フフ、気の所為ね、きっと」
広い湯船の中で寛いで湯を愉しんでいたマイにも、微かではあるが、確実に息子の叫びは届いていた。けれども、それに緊急性が全く聞こえなかったことに気付くと、娘二人(一人は嫁の予定)が絡んでいると察し、面白いわ♪ と無視することに決めた。
何気に酷い 騒ぎの元凶(であった。
「誰か僕に優しくしてよ……」
他人が聞いたら確実に滅殺決定な―――― 何とも贅沢な悩みを吐露するシン。今、彼がどんな状態なのか、それは後に語るとしよう。
子供たちの喧騒(、果たしてこれは『補完』と言えるのか? 今の彼らに問えば、返ってくる答えは「YES」でもあり「NO」でもあるだろう。しかし、このようなスキンシップも人間(の成長には必要なものである。そう考えると、彼らが大人になった時、これらが良き思い出として笑い話になっているのであれば、それは間違いなく『補完』と呼べるものになるのかもしれない。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
「ふぅ……ああ、いい気持ち……」
淡く柔らかい電灯の光が照らし、湯気が濛々と立ち込める浴室に、シャワーを浴びる赤木リツコの美しい裸身があった。30歳には決して見えない張りのある肌と、無駄な贅肉など一切無い肢体(。同じ歳の女性なら誰もが羨むだろうその身体を少し熱めの湯が伝い、今日一日の汗や汚れを洗い落として疲れを癒す。
ここは、第3新東京市内のマンションにある伊吹マヤの自宅だ。潔癖症気味の彼女らしい性格がよく出ている。部屋は隅々まで掃除が行き届いていて、このバスルームにも水垢やカビなどのシミは一つも見当たらない。これを保つのは大変な労力がいることだろう。日々の忙しい仕事の中、貴重な休みの日に頑張ってゴシゴシ洗う後輩の姿を思い浮かべるとリツコの頬は緩んだ。
そんなマヤの所に何故リツコがいるのかと言うと、今回の使徒戦に関する仕事が終わるまでの数日間の宿としてマヤに誘われたからだった。
当初、リツコは手近なビジネスホテルに泊まることにしていた。短い間ではあるものの、わざわざ毎日オービットベースから通うという手間を掛けるつもりはないし、そうかと言ってNERV時代の自宅マンションは、離反後すぐに賃貸契約を解除して私物全てを引き揚げている為に使えない。同僚である綾波マイの家へ世話になるという手もあることはある。実際、地球に降りる際にマイからそう勧められていた。しかし、リツコはそれを断っていた。NERV内部の状況にも左右されるが、一日一日の作業終了時間が予測できないのだ。今日は何とかモノレールの終電前に帰ることができたが、明日はどうなるか分からない。組み直した作業シフトは、あくまで予定だ。日を跨いだ真夜中に「ただいま帰りました」と迷惑を掛けるわけにはいかない。ただでさえマイの所には、使徒との再戦で要になるだろうエヴァパイロットの少女二人がいる。彼女たちの体調(を崩させてまでエヴァを直しても意味が無い。それこそ本末転倒だ。
そこに声を掛けたのがマヤだった。彼女からの提案は渡りに船で、リツコ自身、今後の仕事やプライベートなどを含めた諸々の事を話したかったので、却って都合が良かった。
そういう訳で、リツコはGGGから出向の間、マヤの家に邪魔させてもらうことになったのだった。
「センパーイ。 タオル、ここに置きますね。 あと着替えなんですけど、もし良かったら私の予備のパジャマ、使ってください。 一緒に置いておきますから」
「ええ、ありがとう、助かるわ」
「いえ」
磨りガラスのドアの向こう、脱衣所の籠にタオル類を入れたマヤのシルエットが離れていく。そうしてまた一人になり、シャワーの水音だけが響く浴室で、リツコは濡れて額に張り付いた前髪を掻き上げながら今日の事を思い返していた。
「あんな話をするなんて…………私も歳を取ったってことなのかしら……。 でも……本当にスッキリしたわ」
良い気分だった。心の内奥に篭っていた悶々とした思いは綺麗に払拭され、憑きものが落ちたように晴れやかだった。あの時は話の流れであれこれ喋ってしまったが、いま思えば、それが却って良かったように思える。一人で抱え込んで、悩んで、苛ついて―――― 焦りが醜い情念を生み、似ているだけなのに少女に当り散らしそうになったのも一度や二度ではなかった。しかし、もうそんな事を考えることすらない。心の持ち方、意識の捉え方でこんなにも人間(は変わる。リツコは、今まで何をやっていたのかしら、と自嘲気味に微笑んだ。
「そろそろ上がらないとマヤに悪いわね」
身体は充分に温まった。リツコはシャワーを止め、浴室から出て身体を拭いた。冷めない内にと籠から着替えを手にしたところでピキッと固まった。
「ピンクの地に子猫の柄はまだいいとしても……このフリルだけはどうにかならないかしら……はぁ……」
早計という言葉が脳裏をよぎり、少しだけ後悔し始めたリツコであった。
「ありがとう、助かるわ」
「いえ」
リツコの礼を謙虚に返したマヤは、客間の準備をするため脱衣所を後にした。マヤの自宅は2LDKという間取りで、若い女性の一人暮らしとしては広すぎる感がある。賃貸なので月々の支払いも結構なものだろう。しかし、そこは国連の特務機関所属の国際公務員の彼女。給料もそこらの企業のOLとは比べ物にならないほど貰っているので、このくらいは何の問題は無かった。さらに言えば、セキュリティが完備されているというのも理由の一つだ。
リツコに使ってもらう客間は6帖の和室で、ボストンバック等の荷物は既に運び込まれていた。マヤは、押入れにしまっておいた予備の布団を出し、部屋の真ん中に敷く。
無言。憧れの先輩が泊まるというのにマヤの表情は少し暗い。就寝の用意をしながら、NERV本部でのリツコの話を思い出していたからだった。
「……私はね、母さんを超えたかった―――― いえ、超えたいのよ」
「お母さん……って」
「赤木ナオコ博士……ですよね?」
「ええ、そう」
リツコの告白は、少なからずミサトとマヤを緊張させた。NERVと袂を別った理由を聞かせろと言ったものの、それが本人だけではなく、家族の事にまで及ぶとは思わなかった。本当にこれ以上を聞いていいのか迷う。
赤木ナオコは既に故人の為、ミサトもマヤも直接の面識はない。だが、その名前は否でも知っていた。世界の科学史に足跡を残した偉大な科学者として。
「私は、自分が最初っていう大きな仕事を成し遂げたいの。 MAGIみたいなね」
そう言われ、ミサトはリツコの話に首を傾げた。MAGIのみならず、功績というのならリツコはとっくに超えていると思ったからだ。
「なに言ってんの? MAGIだってエヴァだって、あんたが造ったんでしょうが。 充分じゃない」
「あなた、何も知らないのね」
「それはリツコが私みたく自分のことをベラベラと喋らないからでしょう! フン!」
せっかくのフォローを呆れた口調で返されて、ミサトは不貞腐れた。
あまりに子供っぽい仕草に、マヤは「歳を考えてください」と言いそうになったが、目の前のリツコが微笑んでいたので余計な茶茶は入れずにおいた。
「そうね……私はMAGIをシステムアップしただけ。 基礎理論を作ったのは母さんなのよ」
一息いれようとリツコはサイフォンからマグカップにコーヒーを注ぎ、一口つけた。温かさが染み渡り、落ち着く。
「人格移植OSって知ってる?」
リツコの問いに、ミサトは少し考えて口を開いた。
「えっと……第7世代の有機コンピューターに個人の人格を移植して思考させるシステム……エヴァの操縦にも使われている技術よね」
「あら? 少しは勉強したようね」
「何よ、嫌味? それとも馬鹿にしてんの?」
「両方……って言ったら怒るわね。 冗談よ。 MAGIはね、その第一号らしいわ。 母さんが開発した技術なのよ」
第7世代有機コンピューターとはバイオテクノロジーと電子論理回路を活用したもので、それに人格移植OSを搭載したシステムが『MAGI』である。これらの基礎理論の構築と本体開発により、セカンドインパクトによって数年以上も停滞していた人類の科学技術は格段の進歩を約束された。
そんな母の偉業は、同じ科学者のリツコにとって途轍もなく大きな壁であった。
「母さんはMAGIオリジナルの開発に成功して、科学者としての地位を不動のものにした。 でも、私には何もない。 私だけの『証』がないのよ。 それを残すような仕事がしたいの」
「だからGGGだって言うの?」
「NERVでは難しいからね」
「何が難しいってのよ……」
ミサトは納得がいかないようだ。マヤも同じような表情をしている。
リツコは全てを話してしまいたかった。難しい理由など一つしかない。それは、NERVという組織本来の目的だ。サードインパクトという滅びの果てに『証』を残しても意味はない。
だが、これを話すのはまだ早い。機は未だ熟していなかった。
「MAGIが違うってんなら、エヴァはどうなのよ? あれもそうだっての?」
リツコはミサトの問いに頷いて答えた。
「エヴァは、元々は母さんと一緒に『東方の三賢者』と呼ばれた人たちが造ったの。 まずはシステム理論と素体建造のノウハウを確立させた碇ユイ博士が初号機を、そして弐号機を惣流・キョウコ・ツェペリン博士が。 零号機は初号機の劣化コピーみたいなものだし、半分は母さんが仕上げていたから私が一から造り上げたとは言えないわね。 結局のところ、私がエヴァに対してやった事と言えば、完成間近のそれを引き継いで、使徒との戦闘に耐えられるように調整したってだけなのよ」
「え? 零号機が全てのベースになったんじゃないの? ナンバリングだって『EVA-00』だし……前に私はそう聞いていたわよ」
「それ、私もです」
ミサトやマヤが言っているのは、NERV上層部と人類補完委員会(が国連会議での報告用に作成した表向きの建前である。エヴァンゲリオンの建造、特に初号機は、その全てが機密と言っていい代物だ。上位組織の国連にも隠したものを職員に話すことは決して無い。その辺りをあまり詳しく話をすると却って困惑させてしまうので、リツコは当たり障りの無い部分だけを話すことにした。
「開発自体は零号機の方が先よ。 けれど、生体部分の開発が上手くいかなくて、後発の初号機に追い抜かれたの。 それで初号機の設計をベースに組み直して完成させたのが零号機なのよ」
へぇ~、と驚き混じりに嘆息する二人を尻目に、リツコはいつ間にか話の筋が逸れていることに気付いた。
「話が横道に行っちゃったから戻すわね。 大学を卒業した私は、望んで母さんと同じ組織に身を置いた……NERVの前身、ゲヒルンね。 科学者として、研究者として誰よりも尊敬する母さんの傍で頑張り、いつか必ず超えてみせると心に誓ったわ。 でも―――― 」
本当にいいのね?
ああ、自分の仕事に後悔はない。
嘘。 ユイさんのこと、忘れられないんでしょ…………でも、いいの。 私は……。
…………。
接吻を交わす二人。だが、母の想いに応えるべき男の表情は、完全に冷めたものだった。
「母さんは司令と情を通じていた。 それを見て、私の心(には母さんを軽蔑する気持ちが生まれたの。 ああ、所詮あの人も只の女だったのね、と」
けれど―――― 同時に羨ましくもあった。
「いろいろあって、母さんは自ら命を絶った。 本当に突然のことだったわ。 それは、とても惨めで…………だから、母さんのお葬式の時、私は思ったわ。 あんなふうにはならない。 女としての自分なんていらない。 母さんのようには絶対にならないって」
それは独白のように続けられる。衝撃的な内容に、誰もリツコに対して何も言えず、ただ黙って聞くだけだった。
「でも、出棺が終わった後―――― 」
君だけだ。 ナオコ君が亡くなってしまった今、私を支えられるのは……。 力になってくれ、お母さんのように。 私を……助けてくれ。
「そう言って縋ってくる司令を見て、私は『勝った』と思ったわ。 あの母さんが手に入れられなかったモノが私のモノになる……それがとても心地良かったのよ。 けど、いま考えれば、それも司令の謀(だったのよねぇ……」
はぁ、とリツコは悔恨の溜息を漏らした。あれからの自分は、まるで熱に浮かされたように男に入れ込んでしまった。ほとんど強姦そのままに劣情をぶつけられて結ばれた肉体関係も、あの頃は身を焦がし尽くすくらいの愉悦を感じていた。詰まるところ、それは母親ナオコへの意趣返しが含まれていたのかもしれない。尊敬する『科学者』ではなく、愛する『母』ではなく、醜い『女』の情念に負けて死んでしまった母親に対する気持ちの当て付けが……。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。勉強ばかりで人間関係が稀薄だった世間知らずの小娘が見事に騙された。それをリツコは心底悔やんだ。
一方、話を聞いていた側は愕然としていた。内容が内容である。ミサトはまだ耐性がある方だ。自分の紙コップに残っていたコーヒーを飲み干して、なんとか落ち着いた。しかし、問題はマヤである。潔癖症気味の彼女の表情は真っ青で、身体は小刻みに震えていた。持っていたマグカップを落としそうになる。リツコが気付いて直させた。
「変な話しちゃったわね……ごめんなさい、マヤ」
「……あ、いえ……いいんです……話してくださいって言ったのは私たちですし……」
マヤの言う通り、リツコが謝る必要はない。つまらない話、面白くない話と前置きされた上で聞いたのだから。
とは言え、何もしないというわけにもいかない。リツコは声を掛けたり手を摩ったりしてマヤの強張りを解いていった。
「母子そろって司令の愛人か……」
「葛城さん! そんな言い方……っ!」
ぼそりと呟かれたミサトの率直な感想に、マヤは弾かれたように俯いていた顔を上げ、非難した。まだ声は震えているが、彼女は、それでも友達か、と言うようにミサトを睨み付けている。リツコは、そんな後輩を「いいのよ」と苦笑しながら柔らかに抑えた。
「謝んないわよ、私は」
ミサトは、悪びれもせず言い切った。
「怒ってんだからねっ! 何が対抗心よ、バカバカしい! グズグズ悩んで一人で爆発して……だったら何で相談しに来ないのよ!! 私はそんなに頼りない? 友達甲斐のない奴っ!」
「ごめんなさい、ミサト……」
リツコには謝ることしかできなかった。
「フンッ!」
頭を下げるリツコにそっぽを向いて、ミサトは肩肘を怒らせてケイジ指揮監督ブースを出て行こうとする。
「葛城さん!」
責めるマヤの言葉にも耳を貸さない。出入口ドアの開閉スイッチを押した直後、ミサトは大声で喚いた。
「あ~~あ、損したっ! くだんない噂ふりまいてるバカな連中、ブン殴って損したぁっ!!」
「―――― え?」
わざとらしい上に恩着せがましい台詞に、リツコは訳が分からず、顔を上げた。
そして、扉が閉まる間際。
「理由は分かった……ありがと。 じゃあね、リツコ」
打って変わった優しい声。「待って」とリツコが止めるも間に合わず、扉は無慈悲に閉じられた。
「ミサト……」
彼女は許してくれたのだろうか。リツコはそう思いたかった。だが、分からないことがある。「ブン殴って損した」ということの意味だ。
その疑問に首を捻っていると、マヤが答えてくれた。
「私がNERV本部(に配属されて暫くのことなんですけど、食堂で先輩のことを整備班の何人かが口汚く噂話してたんです。 聞くに堪えない内容だったんで私は出て行こうしたんですけど、ちょうどその時、別の席で食事してた葛城さんがその人たちに突っかかっていって、そのまま乱闘に…………覚えてませんか?」
思い出した。数年前、あまりの騒動の大きさに保安部の精鋭まで出動した事件だ。事情聴取を行っても当事者は皆、「申し訳ありません」としか喋らず、それ以外は口を噤んで何も語らなかった為、全員3日間の独房入りになったのだ。
「なるほど、あれはそういう事情があったのね。 整備班にはゲヒルン時代からの古参の作業員もいるから……」
リツコは嬉しかった。自分の為に怒ってくれ、そのまま何も言わず、これまでと変わらずに接してくれていたのだから。
ミサトは友達だ。所属する組織、進む道は別々になってしまったが、友達であることに違いはなく、ミサトもそう思ってくれている。それが確かめられただけ、今日はここに来て良かったと思った。
「さ、ミサトも帰ったし、仕事も一段落した。 私たちも帰りましょうか、マヤ」
「はい」
笑顔を向けるリツコ。マヤには何の異論も無かった。
「いいなぁ、葛城さん……先輩にあんなに思ってもらって。 私にも、何かできることはありませんか? 先輩……」
呟くマヤ。その問いかけに答える女性(はここにはいない。しかし、だからこそ口にできた言葉だった。ただの羨望ではなく、嫉妬が入り混じった醜い感情。渇望。
「葛城さんのこと言えない……馬鹿だ、私」
そう自覚して沈んだ気持ちでいると、ふと、マヤの耳に水の滴る音が聞こえてきた。それは窓の外から。カーテンを開けると、そこには予想通りの夜景が見えていた。
「はぁ、憂鬱……明日までには止むかなぁ」
彼女の心を表すように、いつの間にか、外は雨が降り出していた。
「マヤ、お先に。 いいお湯でした」
「あ、はーい」
こんな顔は見せられない。パン、とマヤは自分で自分の両頬を張って気合を入れ、努めて明るく、お風呂上りのリツコにお茶を用意しようとリビングに戻った。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
次の日の朝、空は雨が残ることなく晴れ渡った。まだ雲は少し在るが、綺麗に澄んだ空の青に対するコントラストとしての白だと思えば全く気にならないものであり、それが尚のこと蒼天の美しさを際立たせていた。
その空の下、水溜りを器用に避けてランドセルを背負った子供たちが楽しそうに声を上げながら小学校への路(を走っていく。同じように、今度はちょっと年上で制服姿のお兄さん、お姉さんたちが和気藹々とお喋りに興じながら中学校への路を歩いていた。
彼らの中の一人、鈴原トウジは、珍しくジャージ姿ではなかった。理由は昨夜の雨である。妹に「汗臭い」と鼻を抓まれたので、洗濯して干しておいたのだ。しかし降り出した雨に気付かず、見事に湿ったまま朝を迎えたのだ。服に無頓着なところがあるトウジも、さすがにこれは着ていく気にならず、久しぶりに制服での登校になったわけだ。ちなみに、一緒に登校している友人たちは、普段とは違うトウジの格好に「似合わない」「キモい」「変」と言いたい放題だった。特に女子が。
少し凹み気味のトウジだったが、それ以上に疲れた様子でいる友人に気付いた。いろんな意味で尊敬し、「センセ」と好意を持って呼ぶ少年、綾波シンであった。
「何やセンセ、えらい元気ないやんか。 朝メシ食わへんかったんか?」
「あ、トウジ……違うんだよ、ちょっと寝不足で」
「何で寝てへんねん。 昨日センセ、身体の調子が悪い言うて早退したんちゃうんか」
「い、いや……あれは……その」
言い澱む友人の態度に、トウジは「やっぱな」と納得した。非常事態宣言が解除されたあの時、体調不良と言いながらシェルターからダッシュで帰っていったのだ。そう思うのは当然だった。
「仮病やったんか。 ずっこいのう、センセは。 ワイも今度はそう言うて抜けようかいな」
トウジは、からかい混じりに笑った。怒ったり責めたりはしない。むしろ上手くやったと賞賛した。真面目ぶってお堅いだけの人間より遥かに良いし、面白い。
「なに笑ってんだよ、トウジ」
カメラ片手に近付いてきたのは、シンと同じく友人の一人である相田ケンスケだった。今まで離れていたのは、自分たちの前を歩いている女子連中を撮影していたからだ。勿論のこと、無断ではない。卒業アルバム用ということでお墨付きを貰っている。しかし、それでもケンスケは物足りない感じを拭えない。第壱中の男子生徒御用達であり、小遣い稼ぎの最重要拠点でもあった体育館裏の販売店が、『紅い竜巻』と『蒼い吹雪』を中心した女子連合軍に叩き潰されたからだ。死刑(私刑)寸前のところをシンに助けられ、なんとか許してもらったものの、無難なカットしか撮影できなくなったというのは結構つまらないものだった。まあ、カメラ自体を取り上げられなかっただけ、まだマシというものだが。
「おう、ケンスケ。 昨日センセが早う帰ったんは仮病(やったっちゅう話や」
「なんだ、やっぱりそうか。 分かりやす過ぎだよな、アレは」
そう言ってケラケラ笑いながら、ケンスケはシンにカメラを構え、笑え、とも何とも言わずにシャッターを切った。「こんなところ撮らないでよ」とシンは困った顔を向けたが、「被写体は自然なのが一番なんだよ」と構わず撮り続けた。
「せやけど、それやったら寝不足のワケは何やねん。 何ぞ用事でもあったんか?」
トウジは、シンの窶れ具合は変だと思った。たった一日で目の下に隈ができているし、足元も少しふらついている。だが、一緒に暮らしている妹のレイや同居人のアスカに変わりはない。昨日の非常事態宣言の原因である化け物との戦いでロボットのパイロットの彼女らが怪我をしたという様子もなく、それどころか、いつにも増して元気で機嫌が良いように見える。となれば看病ということもない。何か、夜通しで疲れるような事をしたのだろうか。
「あ~ん?」
そう考えてトウジは、あることに気付いた。綾波シンは、あれ程の美人と同居している男だ。それが夜中、疲れることがあるとすれば――――
「ちょ、ちょお待てぇっ!!」
年頃のオトコノコは、その例に漏れない想像をした。
「シ…シシ、シン! おま、おまおま、おま」
汗だくで噛みまくる挙動不審なトウジに、シンとケンスケは首を傾げた。
「トウジ? どうしたのさ」
「変なもんでも食ったか?」
「ちゃうわい! シン、お前ェ! 抜け駆けして一人でオトナの階段上ったんかぁっ!!」
シンはコケた。それも頭からズザサーーッと。あまりに予想外で下らない指摘に、身体の力が一気に抜けた。起き上がるのも億劫だ。
しかし、そのシンを無理やり起こし、ガクガクと揺さぶる人間がいた。ケンスケだった。
「シン! それは本当かぁっ!? 俺たちの友情は何だったんだ!!」
半泣きになって責めるケンスケ。その必死さにシンは少し引いた。
「何でそういう話になるのさ」
「オノレが妙に疲れとるからじゃ! ヤることヤったんやろが!!」
「くっそぉっ! 何でお前ばっかり! くぅぅぅ……」
「ち、違うよ! 昨日はアスカとレイが僕を挟んで抱き枕にして寝ちゃったから、逆に僕は寝れなかったんだよ。 だから眠たくて―――― って、あっ」
シンは言ってから気付いた。墓穴を掘ったと。
「だ、だ…だだ、抱き枕ぁ!?」
「間に挟まれ、組んず解れずっ!?」
シンジの口から出た衝撃の真相に、トウジとケンスケはお約束通りにあのポーズを取った。
「「イヤ~ンな感じ」」
「それは、こっちのセリフ……よっ!!」
勢いよく投げつけられた鞄が、ドゴンッ! と見事にトウジとケンスケの顔面にヒットした。投手(は真っ赤な顔のアスカだった。今年の沢村賞は彼女に決定か。
「くだないことをいつまでもグチグチと……いい加減にしなさいよ、このエロバカコンビが!! ほら、シン、早く立ちなさい! 遅刻しちゃうわ―――― 」
がしりっ
「―――― よ?」
倒れたままのシンに手を貸そうとしたアスカは、後ろから羽交い絞めにされて拘束された。捕まえたのは、一緒に登校している友人の一人で、本人非公認団体『綾波シン愛好会』のメンバーだった。
「ア~ス~カ~……? 今の話は聞き捨てならないわねぇ……キッチリ全部、丸ごとズバッと吐いてもらいましょうか 」
「イツキぃっ!? ちょっ……何よ!?」
もがくアスカだが、ビクともしないことに吃驚した。幼い頃からチルドレンとして訓練を欠かしたことのないアスカ。同い年なら男にだって絶対に負けないと自負するだけの力は持っている。けれど、今の佐藤イツキの力は、それを上回っていた。げに恐ろしきはジェラシー・パワー。
「レ、レイ! 助け―――― てぇっ!?」
もう一人の当事者も、同じく友人で愛好会メンバーの雪島エリと夏目ショウコに捕まっていた。黒いオーラを放つ二人を相手に逃げられずにいる。
頼れるのは、あと一人。
「ヒカリ!」
「アスカもレイさんも綾波君も、不潔よぉっ!! で、どんな感じだった?」
味方は誰もいなかった。
男子どもは全員ダウン。女子連中は姦しく大騒ぎ。そして周りの皆は他人の振りを決め込んだ。
「あー……もうこのまま寝ていい?」
なんだかなー、とシンは倒れたままで諦観し出した。しばらくして遠くから遅刻を告げる学校の鐘の音(が聞こえると、朝のHRは完全に放棄した。
―――― と、そのまま終わるわけもなく。
この乱痴気(騒ぎを鎮めたのはルネ・カーディフ・獅子王だった。キャアキャア喧しい女子たちに拳骨を一つずつ落として静かにさせ、鞄の一撃で目を回して倒れているトウジとケンスケ、地べたで眠りかけていたシンを引き摺り起こし、ぽいっ、と一投げして「学校に行け」と睨み付けた。いきなりの美女の登場にトウジとケンスケは色めき立ち、彼女が誰だか知らないヒカリやイツキたちは困惑した。
「NERVの人だよ。 アスカとレイを護衛してくれてるルネ・カーディフさん」
シンが紹介すると、トウジとケンスケの「「おおー!」」という野太い歓声が上がった。
「ひどい、ルネさん!」
「……痛い」
頭を押さえ、ブーブー文句を垂れるアスカとレイ。イツキたちも、いきなり小突かれては面白くなく、涙目で膨れている。ただ、ヒカリだけは鼻を伸ばしている関西弁の同級生にジト目を向けていた。
「バカだね、あんた達は。 あと10分で一時間目が始まるよ」
呆れるルネの言葉を聞いて、子供たちは「え゛っ?」と立ち竦んだ。慌てて腕時計や携帯のディスプレイを見ると、8時40分が示されていた。
「「「「「「「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」」」」」」」
顔に焦りの色を貼り付けて、子供たちは駆け出した。だが、もう既に遅刻に気付いて諦めていたシンだけは落ち着いていて、ルネに、ぺこり、と頭を下げた後、学校に向かった。
「やれやれ……」
そう嘆息するも、ルネは笑顔で手を振り、彼らを見送った。
「そうだ、シン。 忘れない内に渡しておくな、これ」
学校への道すがら、後から追いついてきたシンにケンスケが走りながら1枚のCD-Rを手渡した。
「あ、これって!」
そのラベルには『弦楽四重奏 Kanon パッヘルベル』と書かれてあった。
「頼まれてたヤツ、昨日の夜にやっと見つけたから」
「ありがとう、助かったよ」
それは以前、シンがケンスケに頼んでいた物で、ヨハン・パッヘルベル作曲の『Kanon und Gigue in D-Dur für drei Violinen und Basso Continuo(3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調)』の第1曲『Kanon』の楽譜データだった。シンは一応、この曲をそらで弾くことができる。だが先週、自室の掃除や整理整頓をしていた時に楽譜の一部が無くなっていることに気付いた。そんなに必要ではなかったが、揃っていないというのは気持ち悪いもので、ケンスケにプリントアウト用のデータを探してもらっていたのだ。祖父に頼むという手も考えたが、もしかするとパッヘルベル執筆の原本を持ってくるかも、というような、趣味で音楽をやっているに過ぎない人間にとっては洒落にならないことをするかもしれないで、敢えてそこは外しておいた。金持ちは、あらゆる意味で怖い。
ともあれ、手に入って良かった。セカンドインパクトの被害で、今は西暦2000年以前の古いデータが見つけ難くなっていた。
「でもシン、お前クラシックやるんだな。 何か楽器できんの?」
「小さい頃からチェロをね。 ケンスケに探してもらったやつは、そのチェロと3つのヴァイオリンを組み合わせた四重奏曲で有名で―――― 」
あ……、と。
そこまで言いかけた時、シンの脳裏に何かが閃いた。浮かんで消え、消えては浮かんでくる情景。それは昨日のイスラフェルとの戦いの映像。敵味方の動きや様々な状況、バラバラだったそれらがパズルのピースのように組まれていく。そして全てが一つになった時、シンは踊り出したいくらいの興奮に包まれた。
「……おい、シン、どうしたんだ?」
立ち止まったシンにケンスケが声を掛ける。それでも呆けたように宙を見つめるシン。前を走っていたアスカやレイ、友人たちも様子が変だと心配して駆け寄ってくる。
「シン、大丈夫なのか!?」
業を煮やしたケンスケがシンの肩を掴んだ。その途端、最上の笑顔と輝く瞳を向けたシンがケンスケに抱きついた。
「ぎゃあ!!」
ケンスケは悲鳴を上げた。当然だ。彼にそっちの趣味はない。トウジも青い顔で引きまくっている。さらには、ビキッ! とヒビ割れのような音がした、女子側から。
そんな周りの様子など全く気付かず、シンは喜色満面の笑みでケンスケを抱き締めたまま飛び跳ねた。
「ありがとう、ケンスケ! 君は最高の友達だ!! そうだよ、四重奏だよ……何で気がつかなかったんだ!」
「お、おい……」
ケンスケは戸惑った。最高の友達だと言われて悪い気はしない。いや、寧ろ嬉しい。だが、この喜び方は異常だ。それに何より、周りの雰囲気が恐ろしい。
「よし! これなら大丈夫だ、上手くいく……ごめん、みんな! 僕、今日は学校休むから!」
何か一人で納得したシンは、理由なしに欠席だけを伝えて学校とは逆方向へ駆け出した。
「シン! おい、ちょっ……!」
止める間もなかった。ケンスケは、俺を置いていくな、と言いたかった。変な意味ではない。ただ単純に、ここにはいたくなかったのだ。
「シンが男色に走った……」
「……BLは小説の中だけで充分だわ」
「何で相田なのよ……」
「コロしていい?」
「シネバイイノニ」
誰が何の台詞を言っているのか、それはご想像にお任せする。
すまない、ケンスケ。君を救うことは誰にもできない。
「ちょっと待てぇぇぇっ!!」
ぐちゃり、と何かが潰れる音がした。
「なあ、委員長……ワイらは何も見んかったよな?」
「え……? え…ええっ! 何も見なかったわ! 何も……」
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
地球衛星軌道上に位置するGGGオービットベース、その作戦司令室であるメインオーダールームでは昨日の会議に引き続き、使徒イスラフェルとの再戦に向けての作戦が練られていた。様々な角度からの戦闘データの検証が行われ、フォーメーションが組み立てられる。そして、それに基づく何通りものシミュレーションの考察を経て、またデータの検証がなされていく。
しかしながら、それのどれもが具体性を欠くものだった。ネックになる4つに分裂した光球(の同時回収。これを可能にする行動パターンが、どうしても構築しきれずにいた。
GGG機動部隊オペレーターの卯都木ミコトは、カタカタと打っていたキーボードの手を休めた。自分用のカップにインスタントコーヒーを注いで一息つく。今日の彼女は、いつもより2時間も早く席に着き、仕事を始めていた。
「ふぅ……」
目頭を押さえるミコト。ずっとモニターと睨めっこしているのは、さすがに疲れた。しかし、泣き言は言えない。最悪でも明日の朝までには作戦を決めなければならないのだ。他のオペレーターのスワン・ホワイトや猿頭寺コウスケ、作戦参謀の火麻ゲキも同じように早く出てきており、作戦を練っている。自分だけ休んでいるわけにはいかない。
「よし!」
気合を入れて席に戻ろうとしたところ、前触れもなく出入口の扉が開いた。誰が来たんだろうと思っていると、入ってきた人物に驚いた。平日の今日、この時間にここにいることは絶対にないはずの少年、綾波シンだったからである。
「シン君!?」
ミコトの声で皆がこちらを向いた。シンの姿を見て一様に驚いている。
「シン、お前どうしたんだ? 今日は夕方まで学校のはずだろうが」
火麻の言う通り、皆がそう思っていた。だから今日の作戦会議は、夕方にシンが来てからを予定していた。
「すみません、火麻さん。 学校は休みました」
「おいおい……」
「Oh,シン。 ズル休み、よくないデース」
「ズルのつもりはないんですけどね……。 で、ミコトさん」
お姉さん口調のスワンに苦笑しながら、シンはミコトに主要スタッフ全員を集めてもらうように頼んだ。
「どういうこと?」
「作戦について提案があるんです。 今すぐ検討をお願いします」
真剣なシンのその言葉は、皆を一瞬で仕事の顔に戻した。
第四拾陸話へ続く