冬月の案内で総司令官公務室に入った国連事務総長ショウ・グランハムは、嘲るように呟いた。
「相も変わらず、趣味の悪い部屋だな」
何故か不必要なほどに広い部屋は光量を抑えられて暗く、天井と床には『セフィロト』と『生命の樹』が描かれている。その手の趣味の人間ならいざ知らず、オカルトにまったく興味の無いショウにとっては正気を疑うレイアウトだ。
『セフィロト』と『生命の樹』はユダヤ密教と呼ばれる神秘思想『カバラ』において宇宙全体の概念図とされ、神を認識する為のガイドマップ、過去・現在・未来の全てを示した神の設計図とも言われている。
サードインパクトの儀式の際、S2機関を解放したエヴァ量産機がセフィロトを浮かび上がらせ、ロンギヌスの槍を取り込んだ初号機は生命の樹、または『さかさまの樹』と呼ばれるものへと還元された。このことから、GGGでもカバラを始めとした神秘学、宗教学の研究が進められていた。
特に、カバラの基礎となった三つの書、『
創造の書』・『
光明(の書』・『
光輝(の書』には今後の対策のヒントとなる記述が多くあり、これを綾波マイ、赤木リツコの両博士は、GGGが齎した三重連太陽系 緑の星と赤の星の科学技術と組み合わし、さらには応用することで古代に数多くのオーパーツを生み出していた失われし錬金術を復活させ、『情報制御型エネルギー結晶体・Jジュエル』の改良精製に成功した。この結晶体は『Jマテリア』と名付けられ、新型ディビジョン艦、そしてジェイアークの新たな動力源としての研究が続けられている。
あの赤い海でシンが手に入れた『知識』の中にもカバラに関するものは多くあったが、いかんせん、それらを引き出し、使いこなせるだけの『知恵』がなかった。こればかりは日々の学習がモノを言う為、時おり研究陣に混じって勉強中だ。
閑話休題。話が逸れた。
「
―――― しかし……いや、まったく…………」
改めて部屋を見回したショウ。思わず吐かれた溜息は、誰が見ても『呆れて物が言えない』という言葉を代弁しているのだと感じさせた。
国連事務総長という役職柄、彼は何度もここを訪れていた。セカンドインパクトの調査・研究機関であったゲヒルンから特務機関NERVへ組織体系が移行した際の表敬訪問を始めとして、視察、予算分担の話し合いなど、機密内容にも触れることもある為、ここに来た時は決まってこの部屋に通された。
その度にいつも思うことだ。
ここは、本当にNERVの総司令室なのか? と。
何も無いのだ。あるのは執務の為の机と椅子。そして来客用のリビングセットが一組。それ以外にはデータ管理用のパソコンと電話くらいだ。天井と床のオカルトめいた趣味・趣向は別にして、これほど殺風景な仕事部屋というのは見たことがない。
国連直属では唯一と言ってもいい特務機関の総司令室。組織の内情は非公開だが、時には各国政府の要人が訪れ、もてなさねばならない事もあるだろう。それにも拘らず
―――― ……いや、違う。六分儀ゲンドウは、そのような事に関心が無いのだ。他人に気を使う、ゴマをする、媚を売るなどという無駄な事を考えていないのだ。
虚飾に彩られた外面よりも中身が大事と言えば聞こえはいいが、あの男の頭にあるのはただ一つ。世界を動かす権威の追求ではない。かといってNERVのお題目通りに使徒の脅威から人類を救うことでもない。補完計画の果てにあるもの、消えてしまった妻に逢いたいという事、ただそれだけだ。目的達成の為なら、何の妥協も無く切り捨てていく。物も、人も。
その想いの一途さには、ある意味 感心するが、だからといって人類全てを巻き込んで良いということではない。
サードインパクト。ほんの一握りの人間の、その小さすぎる
我執(。
まさに子供の我儘と言っていいものだ。付き合わされる側は堪ったものではない。
忌まわしきあの日に失われた三十億にも及ぶ
生命(に誓い、必ず止めてみせる。
その為にも
――――「さあ、正念場だ」
そう小声で呟いたショウは、己の決意を示すよう、拳をグッと強く握り締めた。
「どうぞ、こちらに…………事務総長?」
ソファーを勧める冬月を無視して、ショウはズカズカと奥へ歩を進めた。その堂々とした動きは、まるで彼がこの部屋の主であるかのように錯覚させる。
「あ、いや、あの……事務総長、そこは
―――― 」
「別に構わんだろう? 今日は世間話をしに来たのではないのだ」
目の前にあるのは、ゲンドウの執務机と椅子。誰に遠慮することなく、ショウはそこへ座った。
冬月の後ろに控えるように立つミサトは、事務総長を名乗ったこの老人の態度に眉を顰めるが、冬月は逆に訝しんだ。このようなショウ・グランハムは初めて見るのだ。
何かしらの意図があるのは明白だ。
「ご挨拶が遅れましたが、ご無沙汰しております、事務総長」
軽くではあるが、姿勢を正して頭を下げた冬月。それに倣い、ミサトも頭を下げる。
「突然のご訪問、驚きました。 ですが、何の連絡も無くここにお出でになるというのは、NERV設立以来、初めてのように思いますが……」
まずは軽く様子見といった感のある冬月の言葉。だが、それを見透かしているショウは、鼻で笑った。
「だろうなぁ。 私とて忙しい。 さして用も無いのに、わざわざこんな穴倉の中になどは来んよ」
「(
―― っ! どういうつもりよ、このジジイ……)」
かつて第3使徒襲来時、サードチルドレン・碇シンジを出迎えたミサトは、このジオフロントを『世界再建の要』、そして『人類の砦』と胸を張った。それをこの老人は『こんな穴倉』と呼ぶ。彼女は頭に来て、不快感に顔を歪めていた。
一方、さすがに老獪な冬月は至って冷静だ。厭味と皮肉が
綯(い交ぜになったような挑発も、さらりと受け流す。この程度でいちいち感情を露わにしていては、とてもゲンドウの副官など務まらないということか。
「では、今日は一体どのような……? 何か急を要することでしょうか?」
「まあ、待ちたまえ。 いざ話すとなると、何から話してよいか迷うのだ。 何しろ、山ほどあるからな。 覚えがあるだろう?」
「さ、さあ…どうでしょうか……」
思わず言い澱んでしまった冬月の頭の中は、心当たりでいっぱいだった。使徒戦の不手際と怠慢。GGG。赤木博士の件もそうだ。特にショウは反SEELE派のTOPでもある。どのようなネタを手に入れているか、気が気でない。
「一つずつ片付けていこうではないか。 最初は赤木博士の件だ」
「はっ……」
一つは当たった。この分だと全て当たりそうだな、と冬月は内心、覚悟を決めた。
「君らは、私と彼女が共にここへ来たことを疑問に思っているだろう。その経緯についてだが、まずはそれを説明しておこうと思う」
「はい」
「今日の使徒襲来における非常事態宣言が解除されて暫く経ってのことだったが、第2東京の国連本部事務局に彼女が私を訪ねてやってきた」
赤木リツコは、GGGからの使者として国連本部を訪れた。その際、同行者が一人いた。ミサトはGGGのメンバーだと決め付けたが、その人物はショウの古くからの知人で、彼女の母親である故 赤木ナオコ博士を通じて彼女自身も昔から親交があったことから紹介を頼まれたそうだ。
NERVからの報告書でリツコの離反とGGGへの参加を知っていたショウは、当初は会おうとせず、警備部に拘束を命じた。何故なら、彼女の行為は国際公務員としての服務規程違反、並びに軍律に準じる特務規定法ではスパイ罪に問われても仕方が無い事柄であったからだ。
同行者である人物の取り成しで、どうにか拘束自体は免れたが、彼女の容疑が消えたわけではない。
そこでショウは、リツコから弁明を聞くことにした。彼女は非常に優秀で聡明な人間だ。それはこれまでの彼女の実績が証明している。NERVを離れたのも、何かしらの理由があるのだろう。それを聞かずに判断を下すのは、少し面白くなかった。
「私は彼女の口から直にそれを聞き、考えた。 そして思ったのだよ、惜しいとな」
「惜しい……ですか?」
冬月には、ショウが何を言おうとしているのか判らなかった。それは一歩下がった位置にいるミサトも同様だ。
「一つ訊きたい。 NERVは赤木博士をどうするつもりだ?」
「……以前、報告書で述べた通り、彼女には然るべき処分を受けてもらいます。 最終的な内容は総司令である六分儀の決定を待つ必要がありますが、処分の是非は変わらぬはずです」
副司令として冬月は、毅然とした態度で答えた。ミサトはうんうん頷いている。
これは既に決定されていることだ。いくらこれまでに数々の功績を残した赤木リツコといえども、組織を裏切っては罪を免れることはできない。それ以上に、ゲンドウが彼女を許さないだろう。
「そうか……判った」
などと答えたショウだが、内心は ほくそ笑んでいた。こうも思い通りに行くとは思わなかった。
脚本通りなのだ。『制作 GGG ・ 構成 赤木リツコ ・ 主演 ショウ・グランハム ・ 助演 冬月コウゾウ 葛城ミサト』というシナリオの。
最初に述べた『事の経緯』にしても、完全に嘘八百である。
とはいえ、油断してはボロが出てしまう。あくまで
冷静(に、威厳を持って。
「では冬月君、私の意見を言おう。 先ほど私が『惜しい』と言ったのは、今後の使徒との戦いにおいて、彼女の
能力(は、非常に重要になっていくだろうと考えたからだ。 それはNERVの為、GGGの為など係わらず、人類全体の為にな。 規律を守ることは確かに大切だが、その為に人類にとって不利な状況が生まれてしまえば、それはまったくの本末転倒になってしまう場合がある」
「いえ、事務総長……それは……」
何かしら妙な方向に動き出した話に、冬月は戸惑う。
「赤木博士は弁明の中で、問われるなら大人しく罪に服する覚悟があると言った。 だが、使徒襲来の恐怖が絶え間なく続く現状では、それは難しいと言わざるを得ないばかりか、
人類(の不利益を承知で彼女を投獄するような愚かな真似はできない。 ゆえに、私は彼女の言葉を信じ、処分の執行に一定期間の猶予を与え、身柄と所属は
私預(かりのGGG付とした」
「ちょっ……! 何よ、それ!?」
感情が先走ってしまい、完全にタメ口で異論を唱えたミサト。しかし、ショウは無視して続ける。
「今後NERVは、私の許可無く彼女に接触、逮捕・拘束することを禁ずる。 これは国連事務局と、その長である私が持つ裁量権による決定だ。 口出しは許さん。 服務規程違反を犯した国際公務員の処罰も、私の仕事だからな」
一瞬、反論しかけた冬月だったが、あえて止めた。自分一人が何を言ったところで、この決定が覆ることはないと判断したからだ。
これは高度に政治的な話だ。ゲンドウと協議する必要がある。当然だが、作戦課長のミサトごときの異論・反論では何の力も持たない。
「赤木君の件に関しては『理解』しました。 ですが事務総長、『了解』はできません。 口出し無用と言われましたが、その決定について、NERVとしては異を唱えさせていただきます。 六分儀が国外に出張中の為、後日話し合いまして異議申し立ての意見書を提出させていただきたい」
と、はっきりNERVの意思を示した冬月だったが、後でこの話を聞いたゲンドウが、考える間も無く「問題ない」といつものポーズで答えた為に胃痛と頭痛が同時襲来してしまうことなど、今の彼には知りようがなかった。
NERV副司令のそんな憐れな未来を知ってか知らずか、ショウはひとまず満足した。リツコの身柄の安全は確保したも同然であり、仮に彼女が何者かに狙われ、危害を与えられようものなら、それはGGGと敵対しているNERV、またはSEELEの息の掛かった者以外に考えられず、それを理由に彼らの組織力を削ぐ行動を堂々と起こせるきっかけと手に入れられるからだ。
しかし、肝心なのはここからだった。これを誤るわけにはいかない。
「では次の話に移ろう。 今日ここに来たのは、これが本題なのでな」
ショウは、持ってきたファイルから幾束かの書類を取り出し、冬月に渡した。
「これは……?」
「読め。 赤木博士がGGGの使者として国連本部に来た理由でもある。 彼女は
―――― いや、GGGは国連に、ある要望を提示してきた」
何か嫌な予感が拭えず、額に汗が滲む冬月。気のせいであって欲しかったのだが、それは的中してしまい、書類内容に愕然とした。
「副司令?」
固まった上司を怪訝に思い、ミサトは隣から書類を覗き込む。と、目に飛び込んできた文面に、彼女は冬月と同じく固まってしまった。
ジオフロント内に建設されたNERV本部の構造は、大深度地下施設の名に違わず、非常に深く入り組んでいる。空洞内の本部本館と別館、その下には10の階層に分けられた『セントラル・ドグマ』が深度4867mのところまであり、そこから下層、深度6875mまでNERVの暗部全てを詰め込んだ施設『ターミナル・ドグマ』が存在する。ここに人工進化研究所3号分室やエヴァの失敗作が廃棄されたゴミ捨て場、ダミープラントにL.C.Lプラント、そしてリリスの寝所たる『ヘブンズ・ドア』があるのだ。
その地下施設の上層、第3層部分に赤木リツコの姿があった。コツコツコツとハイヒールを鳴らし、颯爽と通路を歩いている。
NERV離反の契機となった使徒イロウルとGGGの戦いから数ヶ月。ここをこうして再び歩くとは思ってもなかった彼女の顔は、懐かしさで自然と微笑んでいた。
リツコは途中、何人かの職員とすれ違った。彼女に気付いた人間は一様に驚いた顔をし、中には侮蔑にも似た表情を浮かべた者もいた。勝手にNERVを離れ、別組織に移った身だ。その程度のことは最初から覚悟していたので気にもしていなかったのだが、むしろ「お帰りなさい」や「技術部の連中が悲鳴上げてますよ。 助けてやってください」などと迎えてくれる者の方が多く、逆に彼女の方が驚かされ、励まされていた。
もうリツコに迷いも憂いも無い。今の自分にできることを精一杯やるだけだ。
「あっ……と、ここだったわね」
いつの間に着いたのか、目の前には目的地のドア。落ち着く為か、気合を入れる為か、リツコは一回深呼吸すると、無断入室防止用の電子ロックにIDパスを通し、ドアを開けた。
ケイジ
―――― 本来は獣を閉じ込める為の『檻』という意味の言葉であるが、NERVでは決戦兵器エヴァンゲリオンの待機整備所を示す名称である。
ここでは現在、使徒イスラフェル戦で損傷を負ったエヴァ零号機と弐号機の修理が、急ピッチで行われていた。
〔 弐号機 右大腿部のマイトーシス作業は、数値目標をクリア 〕
〔 ネクローシスは現在、0.05%未満 〕
ケイジ内に満たされた赤紫色に見えるL.C.L冷却水に肩口まで浸かっている紅い巨人。その周辺、通路代わりにも使われるアンビリカルブリッジや隔壁のキャットウォークには、何人もの整備作業員の姿が見える。だが、彼らの中には通常の作業服を着た者以外に、潜水ダイバーのような装備を付けてL.C.Lに潜っていく者もいた。
実は、これも整備・修復作業の一環である。
エヴァの生体部分である『素体』の修復は、滅菌処理されたL.C.Lのプールの中で行われ、それにはそれ用の装備を付けた作業員が任に就いている。なぜ呼吸可能なL.C.L内でそのような物が必要なのかというと、答えは単純。無用な雑菌の繁殖を防ぐ為だ。
汚い言い方だが、病理学的に見て『人間』の身体というものは雑菌の塊だ。普段、どんなに身体を清潔に保っていても、それは変わらない。そんな人間が何十人も入れ替わりで作業するのだ。L.C.Lはすぐに汚染されてしまい、生体部品の素体が感染症を引き起こす可能性が出てくる。
また、だからといって浄化の為にL.C.Lを循環させるわけにもいかなかった。それによって起こる僅かな水流が作業ミスに繋がる恐れがあるからだ。
ゆえに、この作業では皆、あのような重い装備を付けて仕事に当たっている。
まったくもって頭が下がる思いだ。碌な仕事もせず、いつも遅刻出勤に定時退社をする何処かの誰かに見習わせたい。
〔 アポトーシス作業、問題ありません 〕
〔 生体内細胞環境のホメオスターシスの維持を確認。 作業をフェイズ
3(へ移行 〕
いま修復が行われているのは、転倒時の擦傷とN2の爆発熱による火傷の治療だ。とはいえ、火傷の方はGGGに庇われたお陰で非常に軽微で済んでいる。人間でいえば第1度。擦傷と合わせても充分に自然・自己修復できるレベルだが、いつ使徒の侵攻が再開されるか判らない現在、態勢は常に万全でなければならない。戦闘に支障が出る可能性は、限りなく
0(に抑えておく必要がある。僅かな傷とはいえども、放っておくわけにはいかないのだ。
〔 零号機の形態形成システムは、現状を維持 〕
〔 各レセプターを第2シグナルへ接続してください 〕
〔 了解。 スケジュールを再度調整 〕
同時に、隔壁で仕切られた向こうのケイジでは零号機の修復作業も行われていた。
こちらの方にはL.C.Lはない。運良く、装甲版の換装作業だけで済んでいるようだ。周りに設置された移動式クレーンが、せわしなく動いている。
使徒戦序盤に消えてしまった紫の鬼に代わり、今はこの紅と蒼の巨人がNERVのお題目である『人類防衛』の双璧だ。近頃は黒き破壊神にお株を奪われているようだが、二機が大切な機体であることに何ら変わりは無い。使徒との再戦に向け、修理は着々と進む。
しかし、いま最も問題となっているのは
ハードウェア(ではなく、
ソフトウェア(の方だった。
「聞こえてるのか!? ほら、そこの神経素子はまだだって!」
〔順番なんか守ってたら間に合いませんよ!〕
「20号の装甲版は零号機のハンガーに移動させてくれ。 腰部装甲版、どうなっている」
〔おーい、弐号機 右足首のチェックだ。 プログラム回してくれ〕
〔よぉしっ! 胸部装甲の接続は慎重にな。 自己修復をアテにして生体部分に傷でもつけたら、貴重なお休みが二日減ると思え!〕
「センサー系の部品、今すぐ発注しとけ! 明日の朝イチに届けろと念を押せよ!」
「ええっ!? ここの
回線(もエラーなの!? いったいどこから壊れてるのよ!」
プシュッという
圧搾空気(が抜ける音の後、開かれたドアの向こうから聞こえてきた喧騒。怒号にも似た各整備班と指揮監督担当者との指示・報告のやり取りは、今の状況の全てを物語っている。
ここは、エヴァ弐号機のケイジ上部にある整備監督用のブース。
中は『戦場』と言ってもいい忙しさであったが、そこは勝手知ったる何とやら。赤木リツコは誰に遠慮することなく足を踏み入れた。
「……ん。 さて…と」
キョロキョロと視線を巡らす。と
――――「ああん、もう! 仕事が溜まってるのに~~」
左奥の方から、愚痴りながらも一生懸命コンソールのキーボードとノートパソコンに指を走らせている可愛い後輩、伊吹マヤの声が聞こえた。
「ふふ」
頑張っている彼女の姿に、笑みが零れる
―――― が、それはすぐに引っ込んだ。
時折、シンにくっついてオービットベースを見学に訪れる(遊びに来るとも言う)レイやアスカからマヤのことは聞いていた。「先輩、先輩」と自分の後についてくるだけ、自分の言うことに従うだけと、ある意味で盲目的だった彼女が、こうして独り立ちして立派に仕事をこなしているというのは、やはり嬉しいものだ。
しかしその反面、すまないという気持ちもリツコの中にあった。
いま彼女が背負っている苦労は、九割ほどが自分の所為だ。後任人事や仕事の引継ぎ作業などを全くせずにNERVを離れ、GGGに入ったのだ。マヤ、そして部下だった技術開発部員達には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
そう思うのならばと、それを謝ることは容易い。だが、何の解決にもならない。
自分の我が侭から起こした行動。それを通す為に必要なのは、誠意を持って果たさねばならない
義務と責任(であり、今日はその為に来たのも同様なのだ。
ここに来た理由を再確認したリツコは、僅かに沈んでいた顔を上げた。そしてマヤの元へ向かおうとすると
――――「ちょっと、あなた!」
後ろから呼び止められた。見ると、それは元部下の女性オペレーターだった。
「どうやって入ったの!? ここは関係者以外……って、ああ!」
向こうも彼女が誰なのか気付いたようだ。
「カエデ、久しぶりね。 お仕事、ご苦労さま」
「……お、お、お疲れ様ですっ!」
いきなりの元上司の登場。MAGIバルタザールの主任オペレーター・阿賀野カエデ二尉は、そう返すのが精一杯だった。
「おい、あの人……」
「赤木博士……か?」
「いつ戻ってきたんだ?」
「そういえば、さっきブリーフィングに行っていた最上二尉がそれらしきことを……」
リツコの姿に気付いた幾人かが、作業の手を止めた。
それを尻目に、リツコはマヤの傍まで歩み寄ると、彼女の背中越しに仕事の進捗状況を覗き見る。
マヤは気付かない。目の前の作業に没頭しているようだ。
「うう~~~……手が足りない~~」
多くの付箋が貼られた資料とノートパソコンのモニターに映ったデータを見比べ、破損したシステムを修復している。
「(あら……)」
リツコは、少し驚いていた。マヤの能力が格段に上がっていたからだ。
以前なら目を回していただろうシステムプログラムの構築作業を、多少は危ない箇所もあるが、問題なく進めている。
しかし、まだ甘い。この辺りの作業効率の上げ方は、知識を伴った経験がモノを言うからだ。
「そこはC-28からの方が早いわよ」
「えっ? その声
―――― 」
「ちょっと貸して」
声の正体にマヤが気付く間も無く、横から伸びた手がコンソールのキーボードの上で舞い踊った。
ピーーーッ!【
システムチェック中…… ………… ………… ………… ………… …………システム オールグリーン プログラムの正常起動を確認しました 】
電子音と共にモニターに点滅する表示。
マヤが
梃子摺(っていたプログラムが、あっという間に終わった。
「
―――― せ、せんぱい……?」
「お久しぶり。 頑張っているようね、マヤ」
「うあ……」
突然いなくなった敬愛する先輩。その人に、また逢えた。そして、助けてくれた。
マヤの先ほどまでの真剣な顔が途端に崩れる。わんわん泣き出し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてリツコに抱き着いた。
「ったく、何て顔してるの。 いい大人がみっともない」
「だ、だって……だって、せんぱ…い、えぐっ……私…えぐっ……ふえ~~ん」
「ほらほら、涙を拭いて」
差し出されたハンカチを受け取ったマヤは涙を拭い、お約束通り、ぶび~~~ と盛大に鼻をかんだ。
「…………それ、洗って返しなさいよ」
リツコは眉間にシワを寄せ、ちょっと嫌な顔をした。
第四拾参話へ続く