遥か遠くの彼方より、海中を進む一つの巨大な影があった。
魚群………ではない。明らかに、その影は『人』の形をしていた。
だが、形は人なれど、その姿と体躯は異形そのもの。恐らく、見た者100人が100人、声を揃えて『化け物』と言い、慄き怯えるだろう。
だが、そんな事に何の意味があろうか。
その異形なるモノは、水底に沈み滅びた街にも、そして其処を棲み家とする魚たちにも興味を示さず、ただひたすらに、ある場所を目指していた。
己の本能の奥底にある『目的』のために…………。
海岸線に沿うように造られた道路には、戦車の一団が勢揃いしていた。道は完全に封鎖され、猫の子一匹入れない布陣でズラリと並んでいる。
『UN』
――――― 第2次世界大戦後、国際平和と安全の維持を目的として成立した機構組織『United Nations(国際連合)』の略称をペインティングされた戦車部隊は、風穏やかで波静かな海へ向かって、その砲身の全てを向けていた。
とはいえ、辺りはとても静かだった。
波の音、海鳥の囀り、蝉の声。自然の豊かさを感じさせるもの以外は何も聞こえず、無駄口を敲く兵士もいない。
穏やかさと緊張が同居する奇妙な空間。
しかし、それは突然破られた。
ゴゴ
ゴゴゴ……………ザバァァッ!!轟音と共に水柱が立ち上がり、驚いた海鳥たちは我先にと逃げ出した。
とある場所。
〔正体不明の物体、海面に姿を現しました!〕
〔以後、物体を『目標』と呼称〕
〔目標、移動を始めました。 国連軍は攻撃を開始〕
〔目標を映像で確認。 主モニターに回します〕
正面の大型モニターに映し出されたのは、戦車部隊の攻撃など意に介さず、次々と蹴散らしていく異形の巨人だった。
それを見て、白髪で痩躯の男が口を開く。
「15年ぶりだね」
「ああ、間違いない」
白髪の男の前に座っているサングラスを掛けた髭面の男は、異形の巨人を見ても表情一つ変えずに答えた。
「使徒だ」
ジーワ ジーワ ジーワ ジーワ ジーィィィィィ………………
ジーワ ジーワ ジーワ ジーワ ジーィィィィィ………………
生態系の回復と共に、徐々にその数を増やしていく蝉の鳴き声が、この照りつける太陽の熱気を上げていくように感じられる。夏の風物詩とはいえ、これほど喧しいと正直、うざったい。
本来ならば、そんな蝉の声も街の喧騒が掻き消すのだが、この街は今、水を打ったようにひっそりと静まり返っていた。平日でも人の波で賑わう繁華街からは人影が消え、車の走行音とクラクションが常に聞こえていた道路には、主人の消えた車が乗り捨てられたように路肩へ放置されている。
いま現在、この『第3新東京市』は、さながら幽霊都市(ゴーストタウン)の様相を呈していた。
だが、それでもこの街は本来の役目を立派に果たしていた。セカンドインパクト直後の混乱期、新型爆弾により壊滅した首都・東京に変わって新たに建造中の『日本の首都』ではなく、『使徒迎撃要塞都市』として。
『本日12時30分、東海地方を中心とした関東中部全域に、特別非常事態宣言が発令されました。 住民の方々は、速やかに指定のシェルターへ避難してください。 繰り返し、お伝えします。 本日
――――― 』
騒がしい蝉の声を掻き消すほどの大音量で鳴らされたサイレンと共に流された放送を、少年は下車した駅のホームで聞いた。
ふぅ、と軽く溜息をつくと、外へ足を向ける。
日陰であった駅構内を出ると、一気に真夏の太陽が襲ってきた。「暑っ……」と呟き、光の眩しさに目を細める。
駅前のロータリーまで歩き、キョロキョロと辺りを見回す少年。
こんな時に待ち合わせでもしているのだろうか、少し苛ついているようだ。眉間に皺を寄せ、険しい顔で腕時計を見る。
「…………遅い。 非常事態宣言の所為で途中の駅で列車が停まったとはいえ、NERVの調査能力なら此処にいることぐらい、すぐ予想がつくだろうに」
苛々が募り、暑気がそれを倍増させた。汗で滲み、気持ち悪く額に張り付いた前髪を手櫛で梳き上げながら、少年はさらに愚痴る。
「前はこんなこと気にもしなかったけど、『復讐! 復讐!』って言っておきながら、この体たらくとは………。 ほんとにやる気があるのか? あの人は………」
ふううううぅっ、と盛大に嘆息すると、今度は駅から離れるように歩き始めた。
「13kmか………。 自力で行けない距離じゃないし、時間も迫ってる。 しょうがない、スキルを発動させて
―――――― んん?」
行く先地までの距離を記した案内板を見ていたところ、少年は自分を見詰める誰かの視線に気付いた。
歩みを止め、その視線を感じる方向に目を向ける。
「あ………」
道路の真ん中、そこには女の子がいた。
少年と同い年くらいだろうか、彼女は中学校の制服らしき服を着ており、特徴的な蒼銀の髪を風に靡かせながら、印象的な紅玉の瞳で、じっとこちらを見ている。
たった一人、静まり返った街中に佇み、脇目も振らず、ただ真っ直ぐに見詰める少女。
それに対して少年は、
「やあ」
にっこりと微笑み、挨拶した。まるで、大切な友達に逢ったように。
しかし、その直後
――――――ドン!!!何の前触れもなく、爆音と共に地面が揺れた。少年はその音の大きさに思わず目を瞑り、耳を塞ぐ。
前もやらなかったっけ? と思いながら音のした方向を見る
――――― と、そこには、多くの戦闘機を御供のように引き連れた全身緑色の異形の巨人がいた。
「来たか」
少年は驚いていなかった。予め、それが何なのか知っているように感じられた。
なのに、
「う~~ん、改めて見ると『ジャミラ』だよな。 白っぽい土色ならそのままなのに」
どこかズレている。
「ねぇ、そう思うだろ?」
先ほどの少女に問い掛ける。しかし、そこにはもう誰もいなかった。
「あらら」と少し残念がると、再び緑の巨人に目を向ける。
「せっかく逢えたのに邪魔をして………。無粋だね、サキエル」
少年はそう呼んだ。
その通りだった。 『第3使徒 サキエル』 それがこの巨人の名。
だが、なぜ少年がそれを知っているのか、それはまだ判らない。
「まあ、いいさ。 キミがここまで来たってことは、もうすぐ迎えが来るってことだからね。 あと少しだけ待つとするよ」
そう平然とサキエルを見上げる少年の頭上では、国連軍の兵士たちが必死になって戦っていた。
巡航ミサイルが飛び交い、砲弾が舞う。銃弾の雨が降り注ぎ、爆発の熱と衝撃が、辺りを焼き、吹き飛ばす。
猛攻とも言えるほどの国連軍の攻撃。しかし、巨人はその歩みを止めない。
兵士たちは焦り、恐怖していた。ありとあらゆる攻撃の一切が効かないのだ。己の脳裏に『死』の一文字が掠める。
だが、撤退の命令が無い以上、何があっても退く事はできない。軍人にとって、上官からの命令は絶対だ。
生き延びる手段はただ一つ、目の前の敵を倒すこと。
「くそがぁっ! 死ね、死ねぇぇっ!!」
自分たち、いや『自分』が生き残るために、兵士は必死で攻撃を繰り返す。
そして、そんな兵士たちの焦りは、それを指揮する将校たちの焦りでもあった。
「ミサイル攻撃でも歯が立たんのか!? 何て奴だ!」
「バケモノが!!」
「全弾直撃の筈だぞ!! なぜ効かない!?」
口々に怒号を放つ三人の将校たちを嘲笑うように、その後ろへ控える二人の男が口を開く。
「やはりATフィールドか?」
「ああ、使徒に対して通常兵器では役に立たんよ」
その男たちの声は、周りの喧騒に紛れて将校たちの耳には入らなかった。仮に、入ったところで結果は何も変わらぬようだが…………。
ここは第3新東京市地下、ジオフロントと呼ばれる空洞内部にある国連直属の特務機関『NERV』の本部、その中央作戦室・指揮発令所。そこも地上同様、まさに戦場だった。
書類を抱えて走る者、マイクに向かって怒鳴っている者、戦闘データの取り溢しが無いようにコンソールパネルを叩き続ける者など、誰一人として暇な者はいない。
―――――― いや、いた。先ほどの二人だ。
机の上に肘を付け、顎の前で手を組んで表情を隠す髭の男。そして、その傍らに立つ白髪に痩躯の男。
二人は、サキエルを映し出すメインモニターを余裕の表情で見ている。すでに結果が判っているかのように。
「後退命令が出てないのかな? 状況は判っているだろうに」
少年はうんざりした表情で戦闘を見ていた。
「どんな組織でも、上が無能だと下の者が苦労するんだよなぁ………。 国連軍しかり、NERVしかり
―――――― って、おおっ!?」
ゴ
ゴゴゴゴゴ………!!轟音と共に炎に包まれた物体が落ちてくる。サキエルに撃墜された重戦闘機の残骸だ。直撃コースではないものの、地上に激突し爆発でもしたら、少年の身体など軽く吹き飛んでしまう。
「まったく………」
そう呟くと、右の掌をスッと前に出す。
少年が何かをしようしたその時、彼と残骸との間に一台の青い車が割り込んできた。結果、それがバリケードの役目をし、爆発の衝撃と熱風から少年を守った。
「やっと来たか」
「ごめ~~ん! お待たせ、シンジ君」
そう言って車から顔を出したのは若い女性だった。二十代後半ぐらいだろうか。
「葛城さんですね?」
「そうよ! 早く乗って!!」
シンジと呼ばれた少年は荷物を抱え、滑るように車に乗り込む。
「しっかり掴まってんのよ!」
キュキュキュキュキュキュッ!!葛城と呼ばれた女性は、リアタイヤを空転させながら素早く車をターンさせ、全速力でサキエルから離れていった。
「遅くなってゴメンね」
「いえ、途中の駅でモノレールが停まってしまって、本来の待ち合わせ場所に着けなかった僕も悪いんですけど…………それにしても、これは遅れ過ぎなのでは?」
「いろいろあってね、すぐ迎えにいけなかったのよ。 非常事態宣言の所為で電話も通じなかったしね」
「まさか『寝坊しました』ってオチはないでしょうね?」
「…………………………やぁ~ね、そんなことはないわよ」
「やけに長い間が空きましたが?」
「…………………」
図星を指されたミサトの頬を冷や汗が伝う。
「まあ、いいでしょう。 危ないところを助けてもらったし………。 初めまして、葛城さん。 碇シンジです」
「ミサト、でいいわよ。 よろしくね、シンジ君」
「こちらこそ、葛城さん」
「………ひねくれてるわね(怒)」
「そんなことより………アレって何です?」
「そ、そんなことって………状況のわりにけっこう落ち着いているのね。 まあ、いいわ。 アレはね、『使徒』よ」
「使徒? 神の使いですか?」
「今は詳しく説明してるヒマはないの。 早くあいつから離れないと」
二人がそんな会話を交わしている時、地下の発令所では将校の三人が苦虫を潰したような顔でモニターを見ていた。
国連直属の特務機関ということで我が物顔の感がある いけ好かないNERVに対して、本物の軍隊である国連軍の力を見せつけてやろうと意気込んだ戦いであったが、目標である未確認生物(?)に対して、何ら損害を与えることができなかった。
軍に半生を捧げた自分たちにとって、これほどの屈辱はない。
既に潰れたかもしれない面目を何とか保とうと、将校たちは『切り札』を使うことを決めた。
「予定通り発動しろ! あのバケモノに一泡吹かせるんだ!!」
使徒から逃げながら目的の場所に移動しようとする車の中から、シンジは戦闘の様子が変わったのを確認した。今まで何機やられようとも、使徒に攻撃を掛けていた部隊が一斉に離脱していく。
「あれ? 葛城さん、戦闘機が離れていきますよ」
「えっ? ちょ、ちょっと待ってよ!」
キキーーーーーッ!!ミサトは急ブレーキを掛けて車を停車させると、窓から身を乗り出して使徒を見る。
「N2地雷!? 本当に使うの!?」
ミサトの顔が青褪める。
確かに既存の兵器に比べれば威力は十分、いや十二分にあるだろう。でも、あそこで爆発させたら、ここだって被害を…………。
そうこう考えている内に、国連軍の戦闘機は全機退避を完了させる。
マズイ!「伏せて!!」
ミサトはシンジを庇い、車の中で体勢を低くする。しかし、庇われたシンジは至って冷静であった。
………30秒………1分………
「…………………………………………………………………………………??」
一向に何も起こらない。ミサトは恐る恐る体を起こし、使徒を見た。
使徒は、邪魔な蟲共がいなくなって清々したと言わんばかりに、悠然と目的地に向かって歩いていた。
「どう……なってんの?」
「何故だ!? 何故、爆発しない!?」
将校たちは今までに無いくらい慌てていた。最後の手段であるN2地雷があろう事か不発だったなどと、上にどう報告すればいいのというのだ。
「地雷設置班より入電。 不発の原因が特定されました」
「何があったのだ!?」
「制御盤と信管部分に、外部からの破壊工作と思われる損傷部分を発見。 これが不発の原因だと思われます」
「「「!!??」」」
将校たちは言葉を失った。
誰が邪魔するというのだ? あの怪物は人類の天敵だと聞いている。どんな事をしても倒さなければならないのではないか。いったい何処の誰が…………ハッ!!
将校の一人が後ろに控えていた男二人を見る。怒りと疑念のこもった視線を向けられて、二人はヤレヤレと肩を竦めた。
「何をやった?」
「何もしていない。 失敗することが分かっている作戦をわざわざ邪魔するほど、我々は暇ではない」
「確かにな。 では誰の仕業だ?」
「大した問題ではない。 問題なのは寧ろ、これからの事だ」
「そうだな」
慌てふためく将校たちを無視して話を進める二人。
そんな中、そこに外部からの連絡が入る。国連軍統合本部からだった。
「わ、判り……ました」
連絡に対し、将校の一人は力無く応えると、後ろの二人に向かって口を開く。
「碇君………本部から通達があった。 これより本作戦の指揮権は君に移る。 お手並みを拝見させてもらおう」
「了解です」
「我々の所有兵器が目標に対して無効であった事は認めよう。 だが碇君、君なら勝てるのかね?」
碇と呼ばれた髭の男は立ち上がり、クイッと眼鏡のずれを直しながら余裕の表情で言い放つ。
「ご心配なく。 その為の特務機関NERVです」
「…………朗報を期待しているよ」
悔しさと皮肉を込めた台詞を残し、将校たちは退席した。
「国連軍もお手上げか………。 さて、どうするね?」
「初号機を起動させる」
NERV総司令 碇ゲンドウの言葉に白髪の男、副司令 冬月コウゾウは軽く首を傾げた。
「初号機をか?………パイロットはどうするね?」
「問題ない。 もうすぐ予備が届く」
そう答えたゲンドウは、ニヤリと口の端を歪ませた。
第弐話へ続く