巻の二「女心と秋の空」「ここまでくれば、もう大丈夫―――でしょうか?」「妖精はそこまで執念深くありませんよ。今頃はもう、貴方の事も忘れているんじゃないですかね」「だといいんですけど……」 現在僕は射命丸さんに抱えられたまま、森の上をゆっくりと飛行してもらっている。 森の上、と言っても大した高さがあるわけじゃない。 具体的な数字は出せないけど、そうだなぁ……ビルの二階部分くらいの高さかな? 少なくとも、最初の時みたいなそこにいるだけで震えが来るような高さでない事は確かだ。「それで、高度の方はもう大丈夫ですか? くすくす、だいぶ高さは抑えましたけど」「うぐぅ。も、もう平気でございます」 ええ、そうですよ。僕がお願いしたんですよ。 つーか空も飛べない人間にあの高さは厳しすぎますって。 だからチキンとか言わないで。「それじゃあ、このまま人里の方まで運んでいきますね」 へぇ……人里―――人間が住む集まりが、幻想郷にもあるんだ。 ちょうどいい。行く当てもないし、まずはそこで今までの事を整理しようか。「わざわざすいません。お願いできますか?」「いえいえ遠慮はいりませんよ。ただちょっと、人里についた後で取材させていただければ」 悪戯を企む子供のような声色で言う射命丸さん。 ……そういえば、自己紹介の時に自分は幻想郷のブン屋だ、とか言ってたっけね。 なるほど。僕を助けてくれたのは、僕の事を記事にするためだったのか。 いや、出処不明の善意で優しくしてくれるよりは、よっぽど分かりやすくて良いんだけど……。 僕の事なんかで、射命丸さんの望むような記事が書けるのだろうか?「射命丸さん。一応言っておきますけど、僕は普通の人間ですよ?」「ええ、知ってますよ? だから取材するんじゃないですか」「……そうなんですか?」「そうなんです。能力持ちの人間は珍しいですからね、取り上げるだけでもそれなりの記事になるんですよ。もちろん、私ほどの記者が書けばそれなりではすみませんが」「へぇ……」 知らなかった。能力がある人間って幻想郷でも稀だったのか。 しかし幻想郷と言う世界の成り立ちを考えると、その言葉も納得出来る。 妖怪という明確な幻想が存在する以上、人間はより『無能』である必要があるんだろうね。 うーむ、早くも一つの事実を知ってしまった。後でメモっとこう。「そんな事より久遠さん。私の事は呼び捨てで構いませんよ? 喋り方も、そんなに畏まらなくても結構ですし」「へ? そう言われましても、命の恩人相手に砕けた喋り方をするのはちょっと……」「その命の恩人からのお願いなんですって。久遠さんもそういう話し方得意じゃないんでしょう? 雰囲気でわかりますよ」「確かにそうですけど……」 射命丸さんに助けてもらえなかったら、僕は間違いなく死んでいたんだ。 たとえ彼女が取材目的で僕を救ったのだとしても、その事実は変わらないのだからやっぱり抵抗はある。 それに―――「射命丸さんって、天狗ですよね」「あやややや? 良く分かりましたね。そのとおりです」 ああ、やっぱりそうだったか。 修験者の頭巾に、一枚歯の下駄っぽい靴と、それらしい要素が細部に見られたからもしやとは思っていたんだ。 だけど、彼女の服装がなぜか現代風の白いワイシャツと黒いプリーツスカートだったから、あんまり自信はなかったんだよなぁ。 けど彼女が天狗だというなら、やっぱり僕は今の態度を貫くべきなんだと思う。「天狗って個人差はありますけど、わりと上下関係とかシビアに定めますよね」「あはは、もっとはっきり『強い相手にへつらい、弱い相手を見下す』と言ってくれて構いませんよ?」 「…ゴホン。わりと上下関係とかシビアに定めますよね!」「……意外と気を使うタイプなんですか。はい、そうですよ」「僕は人間で、射命丸さんよりも力の無い存在です。そのうえ命を救ってやった恩もあるというのに対等な態度をとられたら、射命丸さんも不愉快でしょう?」 昔から幻想郷に憧れていたせいか、僕はわりと幻想に対する考え方が古臭い。 妖怪たちに対して好奇心や探究心を持ち合わせてはいるけど、彼らの領分を侵すつもりは毛頭ないのだ。 ……その、そうしないとこちらの命も危ないわけだし。「へぇ……」 射命丸さんが、背後から興味深そうな目で僕の顔を覗き込んでくる。 って、顔が近いよちょっと!? そりゃあ、相手が天狗様なら相応の慎み深い態度をとるけどさ。別に、男としての本能を捨てたわけじゃないんだよ? ああああああ。顔が近づいたせいで、流れるような髪の毛の匂いまでしてきましたよ。 正直たまんないです、ちくしょう。「久遠さん、変わってますねぇ」「そ、そうですか?」「ええ。最近は妖怪に対する恐怖や警戒も薄れてきましたけど。普通の人間はやっぱり、恐怖や畏敬の念で私たちに接してきますからね」「僕もその普通だと思うんですが……」「いえ、そうでもないですよ。私を立てる態度はとっていますけど、久遠さんからはあんまり恐怖とか畏敬とかの念を感じられません」「……敬ってなくてすいません」「あやややや、責めているわけじゃないんですよ。貴方のその隣人と接するような態度が珍しいなと思っただけなんです」 うーん、僕は外から来た人間だからなぁ。 幻想郷が妖怪と人間の関係を残したままの世界である以上、世界の住人達が妖怪を恐れることは必然であり必要なことなんだろう、きっと。 そんな彼らと、妖怪がいない世界の住人だった僕の態度が異なることは、至極当然なことなんだけど……。 今後は、接し方一つにも気をつかうようにしとこうか。 射命丸さんは本当に気にしていないみたいだけど、相手によっては下手な挑発よりも効果的な喧嘩の押し売りになってしまいそうだ。「その……育ちが少々特殊でして」「あやや、そこらへんの話も後で詳しく聞かせていただきたいですね。けどその前に、少し話を戻す事にしましょうか」「えーっと、なんでしたっけ」「もっとフランクな程度で接してください、って話ですよ。貴方の主張も理解できますが、私にも新聞記者としての誇りってものがあるんです」「誇り……ですか?」「はい。伝統の幻想ブン屋、清く正しい射命丸が、取材相手に気をつかわせたとあっては恥もいいところです! 正しい記事は正しい取材から。自然体の久遠さんから話を聞いて、初めて私は久遠さんを取材したと言えるんですよ」「な、何だか大袈裟な気がします」「そんな事ありません。情報はブン屋の命です、なら、命を与えてくれる取材相手に敬意を払うのは当然じゃないですか!」 未だ抱えられた姿勢のため、僕の方から射命丸さんの表情を窺う事はできない。 だけどきっと、声の調子と同じくらい自信に溢れた笑顔をしているんだろう。 その態度はとても眩しくて―――うん、すごく羨ましいな。「……分かった。命の恩人がそう言うなら従う事にするよ、射命丸さん」「ですから、呼び捨てで構いませんって」「しょうがないよ。さん付する事に慣れちゃったんだから」「あやや、慣れてしまったのなら仕方ないですね」「うん。仕方ない」 どちらから言い出すでもなく笑い合う、僕と射命丸さん。 こんな事言うと、射命丸さんは笑って否定しそうだけど……いい人だよなぁ。 善人ってわけじゃなくて。自分のやりたいよう自由気ままに動くんだけど、だからこそ憎めないと言うか。 ―――そう、何だか風みたいな人なんだ。 誰にも縛られず、一陣の風のように動き回る自由人か。 射命丸さんを表現するのに、これほど的確な表現はないだろう。 ……うん、ようやくはっきりとした形で実感できた。 ここは間違いなく、僕が憧れた妖怪たちの住まう楽園、幻想郷なんだと。「……まぁ、射命丸さんは人じゃなくて妖怪なんだけどさ」「あやややや? 人がどうかしましたか?」 なんだか自分の考えが無性に恥ずかしくなって、誤魔化すように小声で自分にツッコミを入れた。 しかし、そんな僕の呟きはしっかりと射命丸さんに届いていたようで、再び興味深そうに顔を近づけられる。 いや、だから正直たまらんので顔を近づけるのは勘弁してくださいって。 妖怪にとって人間の雄雌の違いはあまり重要じゃないんだろうか。今度是非とも聞いてみたいもんだ。 だけど、今重要視すべきなのはさっきの言葉を誤魔化す事だ。もしバレたら僕は死んでしまう、恥ずかしくて死ぬと書いて恥死してしまう。「あはは、そのー……これから向かう人里ってどんなところかなーって思ってさ」 で、おまえは何を言ってるんだ久遠晶。それで誤魔化したつもりなのか。 いくら射命丸さんに聞こえた単語が「人」だったからって、そんな言い訳をするな。 真実を追求するブン屋である射命丸さんに、そんな嘘が通用するわけ……。「なるほど、そうでしたか」 通じましたよ、おい。 射命丸さんって結構……いやいや、これはきっと彼女なりの気遣いなんだ、そう思っておこう。うん。「それにしてもおかしなことを気にしますねぇ? 人里なんて、久遠さんにとっては見慣れたものでしょう?」 なんかこー、色々と失礼なことを考えていた僕は、危うくそのセリフを聞き逃すところだった。 あれ? なんか、おかしいぞ? 今、僕と射命丸さんの間にとんでもない認識の齟齬が見つかった気がする。「……あのー、射命丸さん?」「あやや、なんでしょうか」「何で、僕にとって人里が見慣れたものだとか思ったの?」「へ? 何でって……人間が人里以外のどこに住むって言うんですか」「ほら、外の世界とか」「あはは、外の世界の人間が幻想郷に入れるわけないじゃないですか。入れたとしても、外の世界の人間に能力持ちなんていませんよ」「いやぁ……それは偏見だって」「偏見って、何でそんなことが―――――」 そこまで言って、射命丸さんが突然停止した。 その急激な減速についていけず、僕の体が逆さまの前屈みたいな姿勢になったのだが、彼女は気づいていないようだ。「……あ、あの、久遠さん? 一つ訊ねてよろしいですか?」「答えられる範囲でなら」「久遠さんって……『外来人』、なんですか?」「うん」 ―――唐突な沈黙。 はっきり言って超気まずい。 これはひょっとして、とんでもない事を言ってしまったんじゃなかろうか。 いや、外来人が珍しいのは知ってたんだよ? そこらへんは事前に調べていたからね。 だけどまさかここまでの反応が返ってくるとは思わなかった。 せいぜい来歴とか備考欄あたりに、「出身:外の世界」とか書かれるぐらいのものかと―――「久遠さん」「は、はい。なんでせう!?」 突然射命丸さんに抑揚の無い声で問いかけられました。凄い怖い。 そりゃ、畏まった言い方にも戻るってもんですよ。泣いていいですか。「……こちらに来られたのは、神隠しに遭われたからですか?」「えーっと、原因は僕にも分かりません。ごめんなさい」「いつ頃からこちらの方に?」「さっきです」「…………………そのわりには、幻想郷の事にお詳しいですね。すでにだいぶ馴染んでいますし」 そうでもないです。なんだか早くも地雷を踏んでいるみたいですし。 後、返答するまでの異様に長い間は何なんですか。「えーっとその、話せば長くなるんですが」「手短にお願いします」「幻想郷に行くために色々と調べてました、能力もその時の経緯で目覚めたものですごめんなさい許してください」 だから、両手をプルプルと震わすのは止めてもらえませんか。 移動している時より、止まっている時の方が引力を感じて怖くなるんです。 つーか今確信した。人はビル二階から飛び降りても死ねる。絶対死ねる。「だ……だ……だい」「Die!?」 え、死ぬの? 僕死んじゃうの?「大スクープですよぉぉぉぉぉぉぉおぉぉ!!」「……え?」 いきなり大声で、射命丸さんが叫び出した。 えーっと、大スクープって……ひょっとしなくても、僕のことなのかなぁ。「神隠しにあわず幻想郷に足を踏み入れた外来人! それも能力持ち!! 氷精を退け、目指すは幻想郷最強か!?」「いやだから、幻想郷にどうやって入れたのかは分かんないんだってば。それに後半、事実が一つも含まれてないよ? チルノから助けてくれたの射命丸さんじゃん」「文々。新聞は話題の人物との独占インタビューに成功! その詳しい内容は裏面にて記載しております!!」 ダメだ。全然聞こえてない。 これから書くのであろう記事の内容を垂れ流す、伝統の幻想ブン屋。 で、その内容の半分以上に、僕も初耳の事実が含まれているのは何故でしょうか。 そこらのゴシップ紙よりタチ悪いぞ、君の記事。 さっきの感動を返せ射命丸。もうさん付けなんてしてやらん。「こんなオイシイ人間、人里に持っていくわけにはいけませんね。妖怪の山……はさすがに問題が……あ、でもにとりのいる所くらいなら」「おいちょっと待て、清く正しい射命丸」 最後の親切心までかなぐり捨てようとしてないか、この天狗。 一応取材に協力しようとはしてるんだから、それぐらいの約束は守ろうよ。 命を与えてくれる取材相手にその対応は正しいのですか。「正しいジャーナリズムの前には、親切心も良心の呵責も意味をなさないのです!!」「堂々とサイテーな事を言うな!! あと人の心を勝手に読まないで!」「問答無用です! 進路変更、全速力で飛ばしますよ!!」「え、全速力ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーー!?」 それはもう、比喩ではなく本当に風となりましたよ。 今まで彼女がどれだけ優しく飛んでいたのか、文字通りこの身で体感しました。 ―――問題があるとするなら、その速さが人間に耐えられるモノでなかったという事でしょうか。 「いぃぃぃぃぃやぁぁぁあああああああああああ!! たぁすぅけぇてぇぇぇぇええええええええええ!!!」 その叫びを最後に、僕は生身でブラックアウト現象による気絶を経験することと相成ったのでした。 ―――ええ、幻想郷が、ちょっと嫌いになりました。