扉を開けると、そこは一面の花畑だった。 ……幻想郷に来てから一か月以上経ったけど、自分の部屋の扉が知らない所に繋がっていた事は初めてだ。 さすが紅魔館! 館の中と外で明らかに総面積が合致していないだけはあるねっ!! 等と、見当違いな感心をしている場合ではない。 間抜けにも開けた扉の中に不用心に入ってしまった僕は、花畑の中に取り残されてしまった。 さて、いったい僕はどこから入ったのだろうか。 いつのまにか扉さえ行方不明になっていて、前後左右全てが花畑に。「………どうしよう」 そういえば似たような状況を、前にも経験した事があったっけ。 あれは確か、幻想郷に来る前の話で……。「あー、そういう事か」 この怪現象の‘原因’に思い当った僕は、僅かに頬を緩ませる。 以前の僕は混乱するだけで、良いようにあしらわれてしまったけれど。 幻想郷で得た経験値を持つ進化した晶君は、クールにこの事態に対応してみせるぜっ!「紫ねーさまっ!! ―――えーっと」 ……ほら、あるじゃん。 頭の中で考えていた台詞を言おうとしたら、出た声のテンションが違っていて言葉に詰まる時って。 今、まさにその状況に陥った僕は、肝心の部分を言えず口をパクパクさせていた。 ああ情けない。幻想郷で得た経験値はどうした、久遠晶。「……すいません、出てきてもらえませんかね」 そして、格好つける事を諦めた僕は素直にお願いするのでした。 「そんなに慌てなくても、私ならここいるわよ」 嘘つき、絶対言われるまでそこにいなかったくせに。 声のする方向に身体を向けると、そこにはいつのまにか一人の女性が立っていた。 妖艶に輝く月の光を受け、その金色の髪は蜜のように艶やかに輝いている。 そんな彼女の、聖女のような清楚さと淫魔のような妖しさを兼ね備えた美貌に浮かぶのは、自らの深淵を覗かせない満面の笑み。 なるほど、これは幻想郷の妖怪たちに『胡散臭い』と呼称されるのも分かるような気がする。 そもそも何でこんな夜更けに日傘を差しているのか、扇子で口元を隠しているのは何のつもりなのか、ツッコミどころはキリがない。「もう、酷いじゃない。「ねーさま」をつかまえて胡散臭いだなんて」「幻想郷の評価で僕に文句を言われても……」「あらあら、それなら貴方の評価はまた違っているのかしら?」「んー、そうですねぇ」 幻想郷で新たに得た評価を交え、考えてみる。 僕にとって、彼女がどういう人かと聞かれれば――。「悪戯好きの困った後見人?」 やっぱり、そういう評価になるワケで。 あ、すっごく楽しそう。 クスクスと上品に笑っている彼女だが、それなりに付き合いのある僕にはわかる。 アレは、相当ツボにハマった時の笑いだ。実際ちょっと涙目になっているし。「本当にあなたは……くくっ、面白い子よね」「そりゃーこの二年間、捻くれた性格の保護者に育てられたワケですし」「あら、そう言えばすっかり忘れていたわ。たかだが二年程度でも、人間は変わるモノなのよね」 いけしゃあしゃあと微笑みながら、彼女はそんな事を言った。 さすがに減らず口じゃ勝てそうにもない。何しろ相手は、僕の軽口の師匠とでもいうべき相手だ。 おそらくはこの舌戦の意味も、始める前から察せられていたのだろう。 もはや御馴染となったやりとりを終わらせるため、僕は両手をあげてニヤリと笑ってみせる。 ちなみに、不敵に笑って見せた意味は特にない。 強いて言うなら、相変わらず良いようにあしらってくれる相手への最後の抵抗とでもいうべきか。 ……我ながらだいぶ情けない。「まぁとりあえず、いつもどおりのねーさまで安心しましたよ」「うふふっ、私もいつもどおりの貴方で安心したわ」 口元を隠していた扇子をしまい、彼女は隠されていた顔を露わにした。 まるで面を外すようなその仕草は、彼女の放つ雰囲気さえも変えてしまう。 今まで出会った威厳溢れる妖怪たちともまた違った、得体の知れない存在感。 これが、この世界における彼女の正しい在り方なのだろう。「さて、ようこそ‘妖怪たちの楽園’幻想郷へ。異邦人、久遠晶殿」 そういって彼女―――八雲紫は優雅に一礼した。巻の二十五「コチョウノユメ」「これはこれはご丁寧にどうも。―――で、突然何ですか」「あら、こういう演出の方が‘らしく’ていいんじゃないの?」 確かにその通りだけど、どちらかと言えば、それを今更やられてもなぁ……という気持ちの方が大きい。 そもそも、ちょっと前までこっち側だと思われていた妖怪にそんな事されても困るんですが。 いや、だからこそ有効なのかな? どっちにしろ時間経ち過ぎだけど。「確かに、ねーさまらしいと言えばねーさまらしいですが……」「もう、失礼しちゃうわね。まるで私が空気読めていないみたいじゃない」「というか、読んだ上で無視するんでしょーが」 しかもソレに合わせて、困った癖まで持ち合わせている。 もう病気と言っても差し支えのない、この人の「突発性イベント開催症候群」はかなり厄介なシロモノだ。 今回みたいな「気づいたらそこは……」系の悪戯は、もう何度か経験している。 後見人と言う名目で僕を援助してくれているこの人が、僕の所に顔を出す機会がそもそも少ないにも関わらず、だ。 だいたい、ほぼ三ヶ月に一回のペースでしか現れない後見人ってどうよ。 それなんてあしながおじさん? というツッコミも大分前に入れましたとも、ええ。「そのくせ、どこにいてもきっちり現れるんだよなぁ、何故か」「それは、私が貴方の後見人だからよ」 なら、幻想郷に来た直後にでも出てきてくださいよ。 どうしてこのタイミングで現れたのか、きっちり説明してください。「さて、何ででしょうか? 少し考えてみなさい」 さりげなく心を読みつつ、再び保護者モードに戻ったねーさまが扇子を広げつつそう告げた。 この人が毎度何でもアリな行動をとるのにも、もうだいぶ慣れてきた気がする。 おかげで、妖怪に対して妙な万能説を抱く様にもなってしまったけれど……いや、これはもっと前からか。「そうやってすぐに考えが明後日の方向に逸れてしまう所は、貴方の悪い癖ね」「うぐっ、すいません」 再会早々ダメ出しされてしまった。 成長したつもりだったけど、彼女から見れば大して変わっていないのかもしれない。 いや、落ち込むにはまだ早い! 成長した姿を見せる機会はまだ失われてないじゃないか!! ここでスパッと答えを示して、ねーさまに「貴方も成長したわねぇ」とか言わせてやるんだっ! さて、彼女が何故僕をこの時期に呼んだのか、それは――。「……………なんででしょうね?」 僕には、ちっとも分らなかった。 わ、悪かったね! どうせ考えても分からないお馬鹿さんですよーだっ。「くすくす、本当に貴方は変わっていないわね」「う、うぐぅ……」 その台詞は、今一番言われたくありませんでしたよ。 うう、やっぱり紫ねーさまから見れば、僕の成長なんて微々たるものなんだろうか。 というかそもそも、僕って成長してるのかな? その部分も怪しくなってきたぞ。「もう、そこまで落ち込むことないじゃない。心配しなくても、貴方はちゃんと成長しているわ」「そ、そうですかね」「そうよ。だからこそ私は、貴方に‘ここ’を見せようと思ったの」「ここって……この、花畑の事ですか?」 「ええ、幻想郷を訪れた貴方が‘受け止められる’ようになった時、必ずこの場所に案内しようと思っていたわ」「……受け止められる?」 言葉を続ける事を止め、彼女は白い花で埋め尽くされた眼前の光景を静かに見つめた。 過去の記憶に浸るような、優しい瞳。 この場所に、何か特別な思い出があったのだろうか。 とりあえず僕も彼女の態度に従って、大人しく花畑を鑑賞する事にした。 ――――って、あれ? そういえばここの花、どこかで見たような気がする。 確か、あれは……。「そうだっ、富貴蘭!」 所謂「古典園芸植物」と呼ばれる、江戸時代から続く園芸植物の一種だ。 現代の名称で言うところの「フウラン」がコレにあたる。 ……等といきなり詳しい風に語り出したが、実を言うと僕も特別園芸に詳しいワケじゃない。 だけど、この花だけは特別なのだ。何しろこの花は―――「ここに咲く花は、「天晶」という名で呼ばれているわ」「天晶……じゃあここが……」「ええ―――ここが‘貴方の名前の由来となった花’が咲く場所よ」 紫ねーさまの言葉が、僕の想像を肯定する。 ……さっきも言いかけた通り、富貴蘭には特別な思い入れがある。 かつて祖父は、「天晶」と言う種類の蘭を家で育てていた。 どちらかというと無趣味な祖父が不器用ながらも花を弄る姿は、当時の僕には不思議を通り越して異様に見えたモノだ。 その積年の謎が解けたのは、祖父が死別してからすぐ後の話だった。 爺ちゃんの残した遺書に、慎ましやかに書かれていたお願い。 ‘幻想郷の思い出に浸れる品’を出来れば貰ってほしいという祖父の言葉が、不自然な趣味の真実を浮かび上がらせたのだ。「ここが爺ちゃんの思い出にあった、富貴蘭畑なんですか」「そうよ。咲いている花は富貴蘭ではないけどね」「へ? でも今、「天晶」の花だって……それに、爺ちゃんの話でも富貴蘭畑だって」 爺ちゃんは、己の経験を「お伽噺」として僕に語ってくれた。 その中でも特に楽しそうに話してくれたのが、「富貴蘭畑」の話だった。 思えばここは、僕と違って幻想郷に対する免疫の無かった祖父が、唯一心休まる事の出来た場所だったのだろう。 だからこそ外の世界に戻ってきた後も、わざわざ花の種類を調べて買ってくるまでに……。「あ、そういう事なの?」「ええそうよ。貴方の祖父が思いこんでいただけで、本当に富貴蘭だったワケじゃないのよ」 苦笑する紫ねーさま。 なるほど。言われてみると、僕の家にある富貴蘭とは少し違った造形をしている。「ここに咲いていたのは、誰からも知られずひっそりと幻想の園に流れ着いた無名の花」「……『幻想入り』」「そう、良く勉強したわね」 幻想郷に流れつくのは、なにも妖怪だけではない。 外の世界で忘れられてしまったもの、失われてしまったものも、幻想としてこの世界に入ってくるのだ。 これも、その一つなのか。 誰もが忘れてしまった幻想の花。だからこそ、この花は幻想郷に群生して……。 ――あれ? ちょっと待った。「でもさっき紫ねーさま、名前呼んだよね?」 さすがの僕も、つい数分前の出来事は忘れないぞ。 園芸として多様な種類が存在している富貴蘭の一種、「天晶」の名を、ねーさまははっきりと呼んだ。「この花が無名だったのは、貴方の祖父がここに来るまでの話よ」「ほへ?」「誰も知らない花に、彼は名前を付けた。花を良く知らない貴方の祖父は「天晶」を花の種類だと思ったのね。それからこの花の名前は、「天晶」になったのよ」「……そう、なんだ」 爺ちゃんは、ここに咲く名無しの花達に名前を与えた。 そしてその花は、僕の名前の由来ともなった。 ……それを繋がりだと思うのは、僕の都合のいい思いこみなのかもしれない。 でも、今だけは信じていたい。 ―――爺ちゃんのくれた繋がりが、僕を幻想郷に導いたのだと。「ありがとう、紫ねーさま。ここに案内してくれて」「お礼は必要ないわ。これは私の、個人的な趣味だから」 そう答えた彼女の顔には、どこか陰りがあるような気がした。 ……ふと、幻想郷で聞いた彼女の評判を思い出す。 「神隠しの主犯」――八雲紫に付けられた、もうひとつの二つ名。 それが真実であるとするなら、僕の祖父が幻想郷に至った理由は―――。 ……いや、追及するのはよそう。 過去に何があったとしても、僕にとって彼女は「悪戯好きの困った後見人」なのだから。 遺書で爺ちゃんは、紫ねーさまを頼れと言ってくれた。 ――その事実があれば、充分だ。「……本当に、貴方は変わらないわね」 そういって苦笑する彼女の顔は、扇子に遮られて良く分からない。 まぁ、考えは読まれっぱなしだから、多分呆れられているんだろうなぁ。 我ながら、大雑把と言うか、いい加減と言うか。「それじゃあ晶。自分の由来となった場所に来た感想を、そろそろ聞かせてもらえないかしら?」「感想……かぁ」 ねーさまの言葉に、改めて「天晶の花畑」を見渡してみる。 色々な曰くを聞いた後なので、それなりに感慨深かったりするけど……。 悪く言ってしまえば、思い出補正だけで成り立ってる場所としか言いようがない。 いや、綺麗っちゃ綺麗なんですよ? けどどうも、花繋がりでどうしても「太陽の畑」と比較してしまって。「ううぅ~ん」「特に感想はない、ってところかしら?」「あ、いえ、そんな事はっ」「ふふっ、いいのよ。そうだろうと思っていたから」「へ?」「貴方は、貴方の祖父とは違う。知識が、心が、存在が――なら、抱く感想が違ってくるのも、至極当然の流れでしょう?」「そ、それはそうですけど……いいんですか?」「私は貴方にここを知ってほしかっただけ。心に留めてくれれば嬉しいけど、そういった感情は強制するものじゃないわ」 いつのまにか真正面に立っていた紫ねーさまが、僕の頬を優しく撫でる。 慈しむような優しい瞳は、僕の良く知る「後見人」である彼女のモノだった。「幻想郷には、まだ貴方にも祖父にも見せてない顔がたくさんあるわ。貴方はそれを、全て見たいと言うのでしょう?」「……はい」「ならここは、貴方にとっては‘ただの花畑’。それでいいのよ」「―――はいっ!」「ふふっ、いい返事ね」 いつの間にか、間近まで迫っていた距離は元に戻ってた。 最初とまったく同じ位置は、まるで時間が遡ったような錯覚を僕に与えた。 ねーさまは再び、扇子を広げ日傘を差す。 そして現れた時と同じように、意味深な笑みを浮かべながら一礼した。「さぁ、久遠晶殿。未だ全てを明かさぬ幻想の園、どうか存分にお楽しみください」 ……最後まで、‘らしい’演出が好きな人である。 僕はその言葉に少し捻った台詞を返そうとして―――すぐに、思いなおした。「ありがとうございます。遠慮せず、好き勝手に歩き回らせてもらいます」 飾り立てる必要のない思ったままの言葉。 不格好だけど、まぁ、かっこつけ損なうよりはずっといいさ。 言葉の最後に僕も礼を返す。 それが、このおかしなイベントの終わりだった。 顔を上げた時にはすでに、僕は紅魔館の廊下に立っていた。 ――手に、いつのまにか一輪の花を握りしめ。「……何が「強制はしない」ですか、ねーさま。バリバリ主張してますよ、コレ」 本当にあの人は、悪戯好きの困った後見人だよ。「さて、咲夜さんか幽香さんは起きてるかな」 富貴蘭と同じように育てられたら楽なんだけどね。 新しい思い出を右手に、僕は紅魔館の廊下を進むのだった。「紫様、こんな所におられましたか」「……………」「まったく、いつもいつも、出歩く前に一言くださいと言っているではありませんか」「……………」「紫様? どうなされました?」「風が、吹くわ」「……風?」「ええ、二柱の風が、幻想郷に吹き荒れようとしている。困ったものね」「申し訳ありませんが、私には紫様のお言葉が理解できません」「気にしないでいいのよ。いつもの戯言だから」「そうですか、‘戯言になる’のですね。それは良い知らせです。最近の紫様は働き過ぎでしたので、少々心配しておりました」「あら、今日は随分と優しいじゃない。いつもは働け働けとうるさいのに」「私が心配しているのは、怠け者の紫様が頻繁に働くほど厄介な「異変」が幻想郷に与える影響です。この前はついに、偽りの月が出てきたじゃないですか」「いつの話をしているのよ。大分前の異変じゃない、それ。最近は大人しいものよ? 貴方は生真面目過ぎなのよ」「紫様の式をやっていればそうなります」「育て方を間違えたかしらねぇ……」「……とにかく、問題がないようならお戻りください。紫様が散歩するだけで、力の無い妖怪たちはざわめくのですから」「はいはい、分かったわよ」「まったく、気まぐれな行動ばかりする主を持つと苦労しますよ」「……今回の散歩は、気まぐれでもなんでもないんだけどね」「何かおっしゃいましたか、紫様」「何でも無いわ。ただ、天晶の花が風に呑まれそうになってる。そう言ったのよ」「元々、ここの花は環境の変化に弱いですからね。ですが問題ないでしょう。幻想郷に咲く花は、自ずから強くなるものですよ」「ふふっ、そうね。でも……」「……?」「強くなりすぎた花は、以前の花と同じであると言えるのかしら」「はぁ、今度は植物にでも興味が湧きましたか?」「そういうわけではないけど……出来れば私は、ずっと最初のままの花でいてほしいわね。そうでないと――辛い選択を、する事になるから」