巻の二十四「情けは人の為ならず」 静謐な空気がこの場を支配していた。 等間隔に並んだ本棚は視界の及ばぬ彼方まで続き、均等であるがゆえに歪んだ光景を映し出す。 それもまた必然。目の持つ正確さなど、せいぜいその程度のモノだ。 五感より仕入れた情報は必ず歪む。 精神が、肉体という異なる感覚よりもたらされた情報を正しく理解できていないが故に。 それは心に比重を置いている妖怪ですら逃れられない、絶対の法則だ。 知識の探求者である私ですら、その事実は曲げられない。 否、私であるからこそ、魔法使いであるからこそ、歪んでいく情報を正す事は出来ないのだ。 魔法とは、自己の世界より引き出した異なる秩序で構成された力。 それを操る魔法使いにより無限に分岐する、同じ名称を持ちながら違う力を持つ能力。 故に私――パチュリー・ノーレッジ――が扱う魔法は、私にしか扱えないのだ。 そう、本来なら。 魔理沙のように他人の魔法を‘真似る’事ならまだ出来よう。だが、他人の魔法を‘覚える’事は不可能なはずである。「……だというのに」 久遠晶。外より現れた異邦人は、その不可能を可能にした。 【相手の力を写し取る程度の能力】――その力を、花の妖怪は「惰弱な能力」と称したらしい。 力のみに主体を置く、あの妖怪らしい考え方だ。 私は最初に彼の力を聞いた時、自らの浅い考えを死ぬほど後悔したと言うのに。 ……相手の能力を知った時にはすでに手遅れだった。 私のスペルカードは、すでにあの人間に覚えられてしまっていたのだ。「あれ、どうしましたパチュリー様? 苦虫を噛み潰したような顔をして」「少し忌々しい事を思い出していただけよ」 先ほども言ったが、魔法は同じ名称を持ちながら個々によって完全に異なる力を顕現させる。 それは魔法使いがそれぞれ、自らの知識や力を使って独自に術を組むからだ。 あの色んなものを盗んでいく魔理沙でさえ、そのルールに則って‘術を真似る’のだけれど。 久遠晶はその概念を、あっさりとひっくり返してくれた。 生まれつき能力を身につけている鴉天狗や、能力を重要視しない花の妖怪には、この衝撃を理解する事は出来ないだろう。 私が、多くの時間と研究を重ねて編み出したスペルカードを、ああも簡単に……。「今思い出しても腹立たしいわ。奥の手で無かった事はせめてもの救いだけど、それでもやっぱり」 もし私が、美鈴のように能力を丸ごと盗まれたら? ……その時は、「七曜の魔法使い」パチュリー・ノーレッジの存在意義全てを賭けて、久遠晶を滅していたはずだ。 それほどまでにあの能力は恐ろしい。 レミィの客人でなければ、迷わず追い払っているのだが……。「そういうワケにもいかないわよね」「パチュリーさまぁ、そんな飛び飛びに話されても何の事だか」「独り事よ。いちいち相槌を打たないで」「ううっ、会話の相手がいるのに独り言ですか」 少なくとも、レミィが彼を追い払う事は絶対にないと言える。 奇しくも美鈴との弾幕ごっこで、それははっきりと証明されてしまったのだから。 ――そう。久遠晶は確かに、彼女の見たあの「運命」を起こす鍵になり得る人物であると。「まったく、ままならないモノよね」「せめて少しは私に興味を持ってください……」 私とて、レミィの見た運命を否定したいとは思わない。 だが積極的にアレに関わりたいかと言われると、やはり返事は否となる。 ……まぁ、それでも問題ないかしら。 あの人間には、花の妖怪や鴉天狗がついている。 美鈴も咲夜もそれなりにアイツを気に入っているようだし、私が率先して力を貸す必要はきっと無いだろう。 なら私は遠慮なく、この大図書館に籠らせてもらおうか。 ちょうど新しい本も幾つか入荷した事だし。しばらくは関わり合いを避け、新たな知識を深めていこう。「小悪魔」「は、はいっ! なんでしょうか!」「早く仕事に戻りなさい。職務怠慢よ」「……はぁい」 しょんぼりと肩を落としながら、私の使い魔である小悪魔が去っていく。 そういえばさっき何か言っていたような気もするが、こういう時あの子は大抵中身のない事を言っているので、特に気にしなくてもいいだろう。 私は、傍にあった新しい本に手をかけた。「そうそう、入荷した本の整理もあるから、咲夜か美鈴を呼んできなさい」「ううっ、分かりましたー」 小悪魔が陰鬱なオーラを放ちつつ、大図書館の外に向かっていく。 この大図書館の蔵書量は尋常ではない。当然、一度の入荷量も相当なモノになる。 彼女は司書として優秀な存在だが、純粋な物量が相手となるとやはり一人では心もとない。 そのため私は新書等を入荷した時には、二人のうちどちらかを助っ人として呼ぶ事にしている。 門番やメイド長を長時間拘束する事になるけれど、他の妖精メイドにこの仕事は頼めない。 役に立たないだけならまだいい。何のための手助けか分かりはしないが、損害も出しはしないのだから。 問題なのは書の価値を知らない彼女らが、杜撰な取り扱いや低俗な悪戯で本に多大なダメージを与えるという点だ。 まったく、だからレミィには、常々咲夜に依存している紅魔館の家事事情を警告しているというのに。 一向に改善される様子がないのは、主としての意地か、単に面倒だからか。 ……きっと、両方でしょうね。「パチュリーさまぁ、助っ人を連れてきましたー」 数分も経たないうちに小悪魔が戻ってくる。 思いの外早く帰ってきた事にも驚いたが、それ以上に彼女の台詞に違和感を覚えた。 いつもなら、小悪魔は連れてきた方の名前を呼ぶ。 どちらが来たのかを分かりやすく伝えるためだ。 ……まさか、また妖精メイドを連れてきたのだろうか。 だとしたら早々に追い返して―――「どもっ! 助っ人久遠晶、参上しました!!」 次に聞こえた警戒心ゼロの声に、私は危うく椅子からずり落ちそうになった。 よりにもよってソイツを連れてきたのか、あの子は。 魔法使いの意地として目に見える形で慌てはしなかったが、私は内心、かなり動揺していた。「く、久遠晶、参上したんですけどー」「その、パチュリー様はご本に集中されているようですので、返事は貰えないかと……」「あーなるほど、そういうのってあるよねー」「久遠様もそういった経験がおありなんですか」「……昔、本を読みふけって女の子との待ち合わせをすっぽかしました」 「うわぁ……」 何故かやたらと親しげに会話する小悪魔と久遠晶。 関わらないと決めた矢先に、まさか本人が現れるとは思ってもみなかった。 これも、レミィの見た「運命」に繋がる事柄なのだろうか。 ならばやはり、私が関わらずにいる事は不可能なのかもしれない。 それもまた仕方ない、か。彼と無関係でいられない事自体は、もっと前から分かっていたのだし。「ダメですよ? 男性は優しく女性をエスコートしてあげないと」「うん。優しい子だったけど、さすがに何度も謝って許してもらう必要があったよ」「あはは、そうなんですか。――で、その後その人とはどんなロマンスが!?」「ロ、ロマンスって……その子とはただの友達で」 どうやら、私の背後で小悪魔が鼻息荒く彼に詰め寄っているらしい。 そういえばあの子、最近仕入れた「ハーレクイン」とかいう娯楽本にハマってたわね。 幻想郷では、人里にでも行かない限りそう言った話を聞く事が出来ないから、あの子が興奮する気持ちも分かるけど。 ……貴女、何のためにそいつを呼んだのか覚えていないのかしら?「小悪魔、仕事に戻りなさい」「は、ははは、はいっ!」「……ああ、一応気付いてはいたんだ」 当り前じゃない。私は貴方ほど間抜けじゃないのよ。 小悪魔が仕事に戻るのを確認して、私は再び本を読み始める。 ……が、すぐに本を閉じた。 失望の溜息を吐きつつ、私は作業を始めようとしている小悪魔を呼びとめる。「小悪魔」「はい、なんでしょうか」「この本もついでに仕舞っておいて」「あれ? その本、もう読まないんですか?」「前に読んだ本を意訳した本だったわ。……価値が無いワケじゃないけど、今は違うものが読みたいの」 新しい解釈を知る事も悪くはないけれど、今はそういう気分ではない。 ……仕入れる本が多くなると、こういう事も増えてくる。 本の鑑定をできる人間が、紅魔館には私と小悪魔しかいないからである。 まったく、いちいち内容を確かめながら読んでいたら、落ちついて本の世界に浸る事も出来ないと言うのに。「じゃあ久遠様。私は本の整頓をしますので、久遠様は図書館の掃除をお願いします」「はーい、わっかりましたー」 テキパキと久遠晶に指示をして、小悪魔が本の整頓を始める。 ……しまった。このままでは、何故こいつが来たのかを聞き損ねてしまいそうだ。 やはり、極力関わり合いを避けるため会話に参加しないようにしていたのは間違いだったか。 自らの往生際の悪さが招いた事態に、悟られないほど僅かな量の冷や汗を流す。 まぁ、小悪魔が受け入れているのだから、大きな問題はないのだろうけど。 やはり図書館の責任者としては、きちんと来た理由も訪ねておかないといけないだろう。「ちょっと、あなっ―――」「……あな?」 そうやって覚悟を決めて振り返った私は、すぐに言葉に詰まってしまった。 何故なら久遠晶の外見が、私の知っているモノから大きく変わってしまっていたからだ。 ――腋メイド。強いて彼の恰好を表現するならば、そう言えるだろう。 どう考えても性別を間違えているとしか思えない服飾を、しかし彼は普通に着こなしていた。 また、えらく似合っているのが微妙に腹立たしい。「……何よ、その恰好」「あはははは―――気にしないでください」 どうやら、本人にとっても不本意な格好であるらしい。 苦笑するその姿に、少しだけ安心した。彼に好んでメイド服を着る趣味はさすがにないようだ。 しかし、そうなると何故好まない服を着ていたのか、と言う事になるのだが……。 悲しい事に、その原因が私には容易に想像できてしまった。「レミィの仕業でしょう」 こんな服装を強制するのは、彼女ぐらいしか考えられない。 紅白のような雰囲気を持つ彼にこの服を着せる事で、最近巫女に会ってない寂しさを紛らわせようと考えたのだろう。 ……何とも悲しくなる代償行為だ。 「髪型はね。服装は文姉と咲夜さんの共同開発です」「む、むきゅ!?」 ……迂闊だったわ。思わぬ答えに動揺したとはいえ、それを態度に出してしまうだなんて。 しかし、どうやら事態は私が思っていたよりも遥かに面倒な事になっていたようだ。 確かに咲夜は可愛いものに目が無い所はあったし、あの鴉天狗の執着っぷりも相当なものであったけど。 それにしたって、これは何か違うでしょうに。「ま、まぁいいわ。それで、なぜあなたがここにいるの?」「えーっと、どこから話したものかな」「とりあえず、咲夜でも美鈴でもなく、アナタが来た理由を教えなさい」「その咲夜さんから頼まれたんだ、二人とも手が空かないからって。僕自身、世話になりっぱなしなのは我慢できなかったしね」「ふぅん……」 なるほど、その精神は評価していい。 レミィとしては将来的に別の形で返してもらうつもりだろうから、不要な対価ではあるが。 この紅魔館で真っ当に働ける人間が一人増えた事は、大きな助けとなるだろう。 しかし、こう言っては何だが……。「あなた、とても家事ができるようには見えないわよ?」「……えーっとまぁ、出来ますよ? それなりに」「『生兵法は怪我のもと』ってことわざ、知ってるかしら」「何一つ反論できません」 どうやら本人も、戦力としては「妖精メイドよりマシ」程度のものである自覚はあったらしい。 私の言葉に、彼は素直に実力不足である事を認めた。 少なくとも図書での掃除経験は、知識のみと言った具合らしい。「そんな奴に、この大図書館の掃除を任せろというの?」「ぼ、僕としても、もっと簡単で力のいる仕事を任せてもらえるのかと」 確かに能力的な観点から言えば、コイツは美鈴と同じく力仕事を得意とする方になるはずだ。 しかし、どうもメイド服を着ているせいだろうか。目の前の人物は、一見すると家事の方が上手そうに見えてしまう。 小悪魔も、だからこそ久遠晶に掃除を依頼したのだろう。 とはいえ結局のところ安請け合いしたのはコイツなのだから、その責任はやっぱり彼自身にあるはずだ。 通常なら、己の発言の責任をしっかりとってもらうべき、何だろうが……。 その場合一番被害を受ける可能性があるのは、私の大図書館なのよね。「とりあえず、新しく仕入れた本を纏めてなさい。小悪魔が戻ってきたら別の仕事をあげるから」「ううっ、すいません」 仕方なく、一番簡単な仕事を指示する事にした。 その言葉に一応反省の意思を見せながら、とぼとぼと肩を落として本の山に向かう久遠晶。 ……この姿だけ見ると、とてもコイツが警戒に値する相手だとは思えない。 だがそれは、裏返せば‘実力を見た上でも油断してしまう’という厄介さを持っているとも言えるだろう。 いや、さすがにそれは考え過ぎか。 ……私とて、過大にコイツを評価をするつもりはない。 しかし能力的な相性の悪さから、どうにも必要以上に久遠晶を警戒してしまう。 今後の事を考えると、お互いのためにある程度親しくなっておくべきなのは分かっているのだが……。「せめて、きっかけがあればね」「へ? 何の話?」 「こっちの話よ、気にしないで」「はぁ……?」 怪訝そうな顔で、久遠晶が新刊の整理を始める。 思ったよりも手際のいい動きだが、やはり「少々出来る」程度のモノだ。 そんな彼の手が、何の前触れもなく唐突に止まる。 手に持っている本は――装丁だけでは、どんな本なのかイマイチ分からない。「どうしたのよ。その本を睨みつけて」「いや、何かコレがすごく気になってさ」「中身を少しぐらい覗き見たって怒りはしないわ。作業を止められる方が面倒だから、気になるなら開けてみなさいよ」「うーん、捲りたくはないんだよねぇ。やっぱり良く分からないんだけど」「……どういう事よ? 少し貸してみなさい」 私は彼から本を受けとって、適当なページを開いてみる。 ―――そして、そこに書かれたモノを見て、思わず絶句した。「驚いた……これ、巧妙に隠してあるけど魔導書の写本だわ」「そ、そうなの!?」「危なかったわね。迂闊に開いていたら発狂していたわよ」「は、はわわわ」 本を読み進めながら、私は思わず感嘆のため息を吐く。 どうやら焚書対策のため、巧妙に魔力を隠ぺいした写本のようだ。 ただし表記されている内容は相当な狂気度を誇っているため、開いた瞬間耐性の無い相手を狂わしてしまうようだが。 ……何と言うか、あまり意味の無い隠匿である気がする。「それにしても良く気がついたわね。私でさえ、開いてみるまで分からなかったのに」「いや、何となく」「……何となくって」 困ったように頭をかく久遠晶は、ウソをついているように見えない。 しかし、ここまで都合良く「何となく」で分かってしまうモノなのだろうか。 疑問に思った私は、少しばかり実験してみる事にした。「久遠晶」「な、なんですか?」「ちょっとあの本棚から、適当に何冊か本を取って来てくれない?」「別にいいけど……」 不思議そうな顔をして、久遠晶が近くの本棚に向かっていく。 そこでしばらく目線を上下させた彼は、迷わず貴重な魔導書や危険な魔導書を幾つか選んで戻ってきた。「はい、どうぞ」「……ありがとう」 彼から本を受け取りつつ、私は確信した。 間違いない。どうやら久遠晶には、楽園の巫女に匹敵するほどの鋭い勘があるようだ。 そうでなければロクに魔法も扱えない彼が、あそこまで迷いなく‘厄介な魔導書’を選びとる事なんてできはしない。 ただし厄介なのは、‘本人もその事に気づいていない’と言う事か。 危機もチャンスも同様に把握してしまうのだから、判断を間違えるととんでもない窮地に陥ってしまうというのに。 ……まぁ、死なない程度の危機回避能力は持っているみたいだけどね。 そうでなければ、久遠晶はとっくに死んでいた事でしょう。「あなた、相当に悪運強いわね」「……えーっと、良く分からないけどどうもありがとう」 さて、思わぬ発見をしてしまったわけだけど。 そんな久遠晶の特性を知って私がどうするのかと言われれば、それはもうひとつしかない。「じゃあ今度は、そこの新書から適当に書物を見繕ってちょうだい」 ――もちろん全力で、彼の勘の良さを利用させてもらうのだ。 彼に任せると危険な本を選んでしまう、というデメリットもあるにはあるが、私には何の問題も無い。 久遠晶にとっては危険な本でも、私にとっては有益な書物となるからだ。 実際、本棚に並んだ本の内容を知っている私が選んだとしても、選ぶ魔導書はほとんど変わらなかっただろう。「見繕うって……パチュリーの読む本を?」「ふふっ、そういう事よ。もちろんタダとは言わないわ。そのかわり、ここにある本を好きに読ませてあげる」「やりますとも!!」 ……やっぱり、興味はあったのね。 新書に向かって嬉しそうにスキップする彼の姿を眺めながら、私はほくそ笑む。 どうやら久遠晶と上手く付きあうのは、それほど難しい事では無さそうだ。 最初に受け取った本を読みふけりながら、私はレミィの見た「運命」に思いをはせる。 ―――それは、本来なら当たり前だったはずの普通の光景。 ―――そして、今まで見る事の叶わなかった泡沫の景色。 ―――彼女が見たのは、紅魔館の庭で‘家族揃って’お茶会を楽しむ。そんな些細で幸福な未来の姿。 ―――そこで彼は、無邪気に微笑む‘彼女’を膝に乗せ、困ったように笑っていたのだと、紅魔館の主は嬉しそうに話していた。 さて、そんな未来へと続く「運命」が本当に動き始めたのか。 ほどほどに関わりながら、確かめていく事にしましょう。 ちなみにその後、本を読みふけっていた久遠晶が小悪魔に散々怒られた事を、最後に付け加えておくわ。 まぁ、仕事はサボっちゃだめよね。 そこまではさすがに、私も面倒見切れないわよ。 ………………ええそうよ。私も読みふけってただけよ。