巻の九「親しき仲にも礼儀あり」 僕が幻想郷に辿りついて、早くも四日が過ぎようとしていた。 空を飛べるようになってからは……二日か三日かな、正確な時間はさすがに数えていない。 その間、僕はずっとにとりの工房周辺で飛ぶ練習をしていた。 ……アイディアは良かったんだけどなぁ。 我ながら会心の出来だと自負している氷翼は、思わぬ弱点を抱えていたのだった。「あー、しんどかったぁ」「ふふふっ、お疲れ様です」 射命丸さんがお茶を持ってきてくれる。 肩を叩きながら、僕は暖かな湯気を出す湯呑を受けとった。「久遠さん、あの翼の『欠点』は修正出来たんですか?」「うん。一応ね」「それは良かったです。時間制限付きの移動方法なんて、危なっかしくて使えませんものね」「ははっ、だよねぇ」 氷翼の欠点、それは「冷気」だ。 ただでさえ高度と速度の関係で身体が冷えると言うのに、翼からも冷気を垂れ流されたらそりゃ長時間使えないさ。 よって僕は冷気を自分以外のところへ排出するよう、氷翼を改良しようとしたんだけど……。 あまりにはっきりとした形で生み出された幻想の翼は、新たな変化をさせ辛いという思いがけない短所を持っていたのだ。 まぁ、考えようによってはちょっとやそっとじゃブレない強固な翼であるという長所にもなるんだろうけど。 冷気の逃がし道を作るのにだいぶ時間がかかったのはやっぱりいただけない。「とはいえ、まだ改良点はあるんでしょう? 練習あるのみですよ」「………うぐぅ」 まったくもってその通りです。 ああっ、僕の素敵な幻想郷ライフがまた遠ざかって行くぅ。 また空の上から幻想郷の景色を眺めるだけの日常が始まるんだね。「まぁ練習する範囲は、もう少し広げてもいいと思いますけどね」「え?」「ですから、翼の欠点も治ったことですし、もっと遠くに……」「射命丸さん愛してる!!」 仕方ないという感じで微笑む射命丸さんに抱きついた。 優しい、さすが射命丸さん優しい。「ちょ!? 久遠さん落ち着いてくださいっ。ああ、そんな頬を擦りつけてこないで」「もっと遠くへいっける~♪ うっれしいなったらうっれしいなぁ~」「変な歌を歌わないでくださいよ、夜雀じゃあるまいし! あうっ、顔が近いですよ!?」「……楽しそうだねぇ」「そ、そんなわけないじゃないですか! いいから助けてくださいよっ、にとり!!」「顔真っかだよ?」「にぃ~とぉ~りぃ~!!!」 にとりが風呂場から戻ってきたみたいだ。 この工房には、何と外の世界と同性能の湯沸かし器が置いてある。もちろんにとり作の。 原理は違うみたいだけど、様々な発明をする工房では意外とこの湯沸かし器は重宝しているらしい。 いちいち沸かさなくてもお湯が手に入るっていうのは、やっぱり便利な事なんだね。と、外の世界の利便性を再確認したものだ。 ……む、つまりそれは。「はいはい、離れた離れた。お風呂沸いたよ」「……沸いたの?」「沸いたよ」 射命丸さんから離れて、にとりと向き合う。 互いの空気が張り詰めていく。「さ、アキラ。一緒に入ろう」「入りません」「背中の流し合いっこしよっ」「流しません」「入ろ」「やだ」 満面の笑顔を浮かべあって、僕とにとりは対峙する。 にとりは友情を深めあうため、一緒のお風呂に入りたいのだという。 彼女は、男女の違いを大して気にしていないのかもしれない。 どうも異性に対する恥じらいというヤツが、ちょっと薄いような気がするんだ。 射命丸さん曰く、人見知りはするけど身内には遠慮がないんだとの事。 つまり僕は、男である前に身内であると言っているのだ。……嬉しいような、切ないような。 そういうわけで、僕がここに泊まる事になってからほぼ毎日、このやり取りは続いている。「入ろ」「やだ」「入ろ」 「やだ」 お互いの要求をぶつけていくだけのやり取りが続いていく。 この三日間、僕とにとりはお互いの倫理観や価値観に基づいて様々な交渉を行った。 交渉というのはお互いの目的から妥協点を探し出し、双方できる限り得をしようと考える取引の一種だ。 ……そう考えると、この交渉が最初から成立しない事は明らかだった。「入ろ」「やだ」「入ろ」 「やだ」「入ろ」「やだ」 どちらも妥協しないと理解してから、僕たちは理屈で相手をねじ伏せるのを止めた。 後はもう、意地の張り合いだ。 どちらが先に折れるか。これは、そういう戦いなのである。 ……負けるわけにはいかない。 この戦いには、男の子としての意地がかかっているんだ。 例え相手がそんな事を気にしないとしても――いや、しないからこそ余計に負けられない。 なぜなら僕は男の子だからだ。 例え、以前男のクラスメイトに「お前って……意外と可愛いよな」とか真顔で言われたとしても。 クラスメイトがいつの間にか学園祭のミスコンに僕の事を応募していた上に、あっさりと予選通過をしていたのだとしても。 悪ノリで着せられたゴスロリ服でそのミスコンの本選に参加させられ、前回チャンピオンや他の参加者達に二倍近い差をつけて優勝したのだとしても。 高校進学後の始業式で、教師に「何でお前は男子の制服を着ている」とマジな顔で言われたとしても。 あくまで僕は男の子なのだ。 ……男の子なんだもん。「……どうしたのさ、アキラ」「なんでもない」 ちょっと泣けてきた。ちくしょう。「ならいいや。入ろ」「いや」「入ろ」「やだ」 ちなみに、ここ三日は全て引き分けという事でお互い別に入っている。 僕の勝ちではないところがポイントだ。 流れとしてはこんな感じ。 言い合う僕とにとり、お互い一歩も引かない。 ↓ 呆れた射命丸さんが先に入る。やっぱり言い合っている僕ら。 ↓ お風呂に入っている射命丸さん。意外と長風呂。そして言い合っている僕ら。 ↓ 出てくる射命丸さん。胸元が軽く開いたシャツから覗いて見える胸元とか濡れた黒髪とかしっとりとしたうなじがエロい。しつこく言い合っている僕ら。 ↓ ようやく仲裁に入る射命丸さん。諦めて風呂に行くにとり。僕が後なのはにとり突貫を防ぐため。 ……いや、やっぱり僕勝ってない? にとりの「今日のところは引き分けにしとくよっ」という言葉に何となく納得してしまったけど、これ引き分けじゃないよね? 「入ろ」「やだ」「入ろ」「やだ」 まぁいいや。 とにかく、今日の我慢比べにも負ける気はない。 男の子の意地と、誇りと、生理現象にかけて。特に生理現象。 ……あれは、自分の意思で制御できないという意味では邪気眼よりタチが悪いよね。「入ろ」「やだ」 意地の張り合いは続いていく。 かなり不毛だと思うけど、お互い相手を納得させる絶対の理屈を持っていないのだからしょうがない。 どうにかならないかな。僕、だんだんと疲れてきたよ。 いやいや、ここで諦めちゃ相手の思うつぼだ。 負けるもんか。絶対に負けない。何でこんなに負けたくないのか忘れそうだけど、とにかく負けたくない。「………ううっ」「ん?」「もう我慢の限界だぁーい!!」 先に根負けしたのはにとりだった。 四つ角の怒り記号が見えるかのように、彼女はプンスカと怒りだす。 ……ふっ、今度こそ勝った。「こうなったら力づくだよっ!」「あ、あれ?」 彼女の両手が、僕の体を掴む。 あ、そっちのベクトルにプッツンしちゃったんですか? しまった。そうなると僕に対抗手段はない。 そしてにとりは勢いよく、僕を風呂場に向かってブン投げた。「は、はわわわわわわわわわっ!!?」 ちょっ、いくら力づくでも限度ってもんがあるよっ!? この勢いで壁面に叩きつけられたら、最悪死ぬて。「くっ、風よ集まれっ!」 風を全身に集めて、一気に減速する。 未だに単体だと上手く扱えない他人の能力だけど、今回は思ったとおりに動かせた。 脱衣場の扉のギリギリ手前で停止する。「セ、セーフ……」「甘いっ!」「ちょうようかいだんとうっ!?」 追撃で体当たりをくらい、吹っ飛ぶ僕とにとり。 もはや手段を選んでないっ!? そのまま、扉を破壊して脱衣場へとなだれ込む。 きょ、強硬手段にもほどがあるっ。「あぐっ!?」「ふっふっふ~、覚悟しろー」 馬乗り状態のにとりが、僕の上で手をワキワキしながら笑っている。 ……この状態で風呂に入れと言うのですか、貴方は。「にとり、河童は服を着て風呂に入るの?」「へ? 何言ってるのさ。そんなわけないだろ」「だよねぇ」 だったらどいてもらえると嬉しいんですが。 このままだと、服も脱げません。 いや、一緒に入る気はないんだけどさ。「ほら、だから」「………なんですか、その手は?」「さっ、ぬぎぬぎしようねぇ~」「はわわわわ!?」 そういって微笑む彼女の手が、僕の服に……って、わー!? わーっ!? ぬ、ぬぬぬ、脱がされる!? 僕は必死に抵抗するが、河童の腕力にはとても対抗しきれない。 にとりからは邪気みたいなものは感じられないので、変な意味がないことくらい僕も分かっちゃいるんだけど。 だけど僕自身が無理っ! 邪念満載でごめんなさい!! でも男なら無理だからっ!「あっ! あっちでウォーカーギャリアーがICBMボムを担いでギャグ走りしてるっ!!」「何それ!? 超気になるっ」 僕の指差した方角を、勢いよく振り向いたにとり。 自分で言っといてなんだけど、何一つ分からないであろう単語に引っ掛かるのはどーよ。 それとも、河童の本能が僕の単語に含まれたメカ臭に引き付けられたとか? どちらにせよ、チャンスである事には変わりない。 「いまだっ」 咄嗟の隙をついて彼女の下から抜け出す。 そのまま風の力と宙に浮く力を合わせて使い、滑り込むように風呂場に逃げ込んだ。 扉を閉め、追撃を封鎖して逃走完了。「ふぅ、何とかなった」 ……まぁ、力づくで壊されたらおしまいだけど。 さすがのにとりでも、ここまで逃げ込まれたら諦めるよね。 僕は流れる汗を拭きとるように額を腕でこする。 ううっ、風呂が沸いているせいで湯気が凄い事になってるや。「服着ていると蒸すなぁ。ちょっと冷やそう」 体の周りに冷気を流すと同時に、周囲を覆っていた湯気が晴れていく。 曇っていた視界が晴れるとそこには―――――お風呂に肩までつかっている射命丸さんがいた。「………あれ?」「…………」 あれれー? 何でこんなところに天狗様が? あっちも僕がいるのは予想外だったのか、同じような顔でこちらを見ている。 人間は突発的な事態に追い込まれると現実逃避するか思考停止するかの二種類に分かれると聞いていたけど、妖怪も同じだったんだ。 さしずめ、僕が前者で彼女が後者と言ったところか。 さて、何でこんな事になったのだろう。ちょっと考察してみようね。 えーっと、普段の流れ的に考えると……。 言い合う僕とにとり、お互い一歩も引かない。 ↓ 呆れた射命丸さんが先に入る。やっぱり言い合っている僕ら。 ↓ お風呂に入っている射命丸さん。意外と長風呂。そして言い合っている僕ら。 ← 今ここ。 ああ、納得。そういう事ですか。 いつものノリで僕らを放置し、射命丸さんはお風呂に入ったのだろう。 だけど今回は、プッツンしたにとりが強硬手段に出たわけで。 結果、こうして僕らはハチ遭わせしたという。「なるほどぉ! あはははははー」「……何が、おかしいんですか」「い、いえそのっ」 僕が笑いだすと同時に、射命丸さんも動き出す。 顔の下半分まで湯船の中に隠し、ブクブクと泡を立てて抗議する射命丸さん。 ……お湯は乳白色か。残念。「………ぶくぶく」「ごめんなさい」 今、確実に「ぶくぶく」という擬音に殺意がこもっていたよ。 発言はしていないけど、全てを察されたっぽい。「と、とにかく、これはわざとじゃないわけで……」「ぶくぶく」 ああ、責めるような視線が「早く出て行ってください」と告げているのが分かる。「分かりました。それじゃ、僕も出ていきま……」「どっかーん!!!」「ぶくぶくっ!?」「はわわっ!?」 背後から衝撃が加えられる。 散らばる木片と一緒に前方に押し出される。 間違いない、にとりだ。まさか、ここまで力づくにされるとは。 というか僕まで吹っ飛ばされてるじゃないですか。「あぶふっ!?」「ぶくぶ……きゃあ!!!」「―――おや?」 思いっきり吹っ飛んだ僕は、頭から湯船に突っ込んだ。 当然、その先には射命丸さんがいるわけで……。 ……なんだろう。この視界を覆う肌色は。「あやややや! 久遠さん何やってるんですか!!」 何もしているつもりはありません。私は巻き込まれただけです。「おおっ、仲良いねぇ二人とも。そんなに抱きあって」「抱き合ってるんじゃなくて、彼が私の胸に顔を突っ込んでいるんです!」 状況説明ありがとうございます。感触しか分からないのが残ね……もとい、せめてもの救いです。「久遠さんも、早く立ち上がって……って、湯船が凍ってますよ!?」 あー、そういえばさっきから、冷やすために能力使いっぱなしにしていたっけ。 やたらと身体が安定しているのは、湯船が凍って固定されているからか。「さ、さささ、さむっ!? 寒いですよ久遠さん。後、吐息が胸にあたってます! どいてくださいっ」「……いいなぁ、文は一緒にお風呂入れて」「この状況を見て出てくるセリフがそれですかっ!?」 ちなみに、幸せそうに見える僕の状況ですが、実はだいぶ辛いです。 氷の拘束具で体がどんどん冷えていくし。そもそも呼吸がしにくいわけですし。 …………あれ? 僕密かに死ぬピンチ? いかんっ! このままだとマジでヤバい!! とはいえ冷気を止めても意味は無いし、どうすれば。「いい加減にぃ……してくださいっ!!!」 どかーんと破裂音がして、凍っていた湯船が吹っ飛んだ。 さすが女の子に見えても天狗。氷の塊程度じゃ動きを止める事すら出来ないとは。 同時に僕も吹っ飛ばされ、風呂場の床に尻もちをつく。 た、助かったぁ。「まったく、久遠さんもにとりも、いい加減に」「あちゃー」「は、はわわっ」「へ? どうしまし……た」 再び硬直する射命丸さん。 そりゃあ、全裸で仁王立ちなんてした日には固まってしまうでしょうね。 あ、大丈夫。僕は見てないよ? とっさに視線を逸らしたから。 ………ごめんなさい、ちょこっとだけ肌色の部分を見てしまいました。いや、はっきりではないよ?「あ、あ、あああ―――」 分かる。見てもないのに、真っ赤になっている彼女の顔が容易に。 しかし下手な事は言えない。 今の彼女は破裂寸前まで空気をためた風船みたいなものだ。口にする内容次第では……。「文……もうちょっと恥じらいを持とうよ」 あ、アウト。 君にそれを言われちゃあ……。「う、ううう、うわぁぁぁぁぁぁあああああああああん!!!!!」 ―――――――塞符「天上天下の照國」「どひゃああああああああ!?」「う、うへぇぇえええええ!?」 射命丸さんのスペルカードで、風呂場ごと僕らは華麗にすっ飛びましたとも。 ……当然の話だがその後、にとりが一緒にお風呂に入ろうと言う事はなくなった。 おまけの落書○フルカラー久遠 晶(服適当、氷翼装備)( http://www7a.biglobe.ne.jp/~jiku-kanidou/akira.jpg )○在りし日の晶(ミスコン編)( http://www7a.biglobe.ne.jp/~jiku-kanidou/arisihi.jpg )