「後漢の地方制度」「州」・「郡」・「県」の3段階制。「正史」によれば、州の数は13。郡は百余と記録され、黄巾の乱以前なら、1郡の人口は、数万から数十万、多いところで百万以上でした。幽州涿郡が、六十三万余人、予洲潁川郡が百四十万余人、荊州南陽郡が、二百四十万余人といった記録が残っていますが、これはあくまで、戦乱以前でした。「三国」の中で最大の筈の「魏」が、この頃の南陽郡程度の人口になってしまった、そう嘆いたと「正史」は記述します。… … … … … 「涼州」または「西涼」後漢帝国の13州のうち、もっとも北西の1州。北は長城の向こう側へ、西はユーラシアの中央へと続く「草原」の中国側から見ての始まり。そこに住むのは、戸籍上は後漢帝国の臣民でも、草原の騎馬の民と言い切ってもいいかも知れません。それゆえ「涼州兵」は騎兵としては優秀でも、中国本土の農民や都市民とは、異質の民であり、兵だった筈です。彼らを統率し、それを自らの強みとしてきた、西涼出身の武将たち、董卓・呂布・張遼そして馬超といった面々もまた、名前こそ中国風(記録したのが中国の史書)だけれども、彼ら自身、草原の騎馬の民だった可能性が高く、中国本土の豪族出身の支配階級、名士出身の知識人などとは、価値観も発想も異なっていて当然だったかもしれません。--------------------------------------------------------------------------------††恋姫無双演義††講釈の8『帝都蹂躙(じゅうりん)』~優しき魔王~幽州北平郡の太守公邸。先日、帝都の文官職を引退して来た、高名の儒学者、盧植を上座に迎えて、宴会が催(もよお)されていた。太守でこの地方の軍閥である、公孫賛(真名白蓮)は、かつて盧植の門下だったので、引退して、故郷に返ってきた恩師を、早速、礼をつくして招待したのだ。この北平を中心に、1地方を実効支配する軍閥でも、今回は弟子らしく、下座で姉妹弟子の桃香と並んでいた。問題は「引退」の事情である。直近の帝都の有様に憤慨したという。元々、白蓮たちを教えていた当時も、十常侍たちの跋扈する皇宮で、媚(こび)を振れず、田舎に引っ込まされていたのだ。その盧植を憤慨させた事情。恩師から聞いている、白蓮や桃香を仰天(ぎょうてん)させていた。もっとも「天の御遣い」だけは「来るものが来た」と心中、思ったのだが。――― ――― ――― 華琳と麗羽はようやく、連れ出された皇帝を追うべく、帝都の門外まで来たが、向こうから近付いて来る、1軍がある。「涼」に「董」の旗を立てた、何か異質の雰囲気を伴った軍。しかも、皇帝行幸の「プラカード」を押し立てている。「(絶句)」「(絶句)」流石に華琳をしても、これは想像の斜め上をさらに飛び去っていた。――― ――― ――― 盧植は、皇帝を追っていった曹操から、保護した大后の警護と、皇宮の消火を依頼されていた。が、皇帝を「保護」して乗り込んで来た、董卓軍に追い出されてしまった。そもそも、2度も宦官の横暴で失脚するくらいである。早速、抗議に向かった。それも、儒学者らしく「礼」は完璧にして。その時点では、特に問題は無かった。しかし、そのまま涼州軍は居座ってしまったのである。間もなく、盧植のみならず、帝都を仰天させる発表があった。なんと、少帝と生母の何大后が、2人とも急死したのだ。当然、裏が疑われた。特に、董卓軍によって占拠され、封鎖されたのも同然の皇宮の現状では。しかし、董卓というか、董卓軍の軍師は、強引に朝廷を取りまとめた。こうなっては、残った弟皇子を新皇帝に押し立てるしかないと。この、いまや唯一となった、この少年皇帝を盛り立てるのが、臣下の道であろうと。このこと自体は、他にしょうがないことである。しかし、その前に疑惑は、疑惑だ。先頭に立って、疑惑を言い立てたのが外戚、何一族とその取り巻きの生き残りだったが、その結果、新帝の即位に反対したとされ、一網打尽に捕らえられた。この結果、外戚勢力と宦官勢力が共倒れして、両者とも消えた結果になったのである。後漢王朝の慢性疾患は、誰も予想しなかった荒療法という結末を迎えたのだ。… … … … … ここまでは盧植も受け入れらなくもなかった。元々、正統的なエリート官僚であり、知識人だ。外戚や宦官が権勢を奪い合い、もてあそぶ朝廷から、1度は追い出されたくらいなのだから。だが、2点だけは、見過ごせなかった。まずは、董卓自身が「相国」という地位に就いたことである。前漢においても、創業の功臣2名のみがついた人臣最高位、以後は臣下の分を超える者が嫌われたため、その次席ともいう「丞相」までしか、しかも、後漢では、丞相ですらなく、三公までしか就任せず、空席が伝統だったのだ。同時に、少帝と何大后に対し、皇帝と皇后に相応しい「大葬」を、死後に格下げしてまで行わなかったこと。中国人にとっての伝統的思想では、子孫によって正式に祭られない死者は「キョンシー」になる。この思想は、19世紀まで残ったのである。だからこそ、祭る子孫を断絶するのは、本人1人の死刑以上の極刑となっていた。「礼」を論ずる儒学者としては、見逃せない。しかし、董卓軍の軍師は、盧植の抗議に対し、別の返答をした。外戚や宦官の権勢の下で、公正な人事を受けられなかった人材を、抜擢する。それは異論ない。その中に盧植自身を入れた事で、地位で釣るつもりかと、いわばカチンときたのである。実のところ、董卓の与党を朝廷に作る狙いでもあることは、隠してもいなかった。――― ――― ――― 帰郷した盧植が、弟子たちに「報告」したのはここまでである。しかし、帝都ではこれでは終わらなかった。――― ――― ――― 董卓軍の軍師は、皇宮で“クーデター”を実行した袁紹と妹の袁術には、いまだ、黄巾の乱に便乗した変なやつらがウロウロしている地方の、太守職をあてがって帝都から送り出した。さらに、現在、袁家の長老格の叔父には、三公より格だけは高い名誉職をあてがい、帝都に留(とど)めた。一方、曹操に対しては、空洞化した「西園八校尉」より将軍に昇進させて、帝都に留めようとした。ただし、彼女の母親は、霊帝の生前に十常侍から「買った」三公が、少帝の即位のドタバタで「ご破算」になった時点で、沛国に呼び戻されていた。流石に沛国に居る、曹家の当主は大ムジナだった。――― ――― ――― 麗羽と美羽姉妹は、出立の挨拶のため、華琳を訪問した。この人事を、好機としか思っていない。まあ、確かにそうだろう。華琳が潁川でした様に、拠点を手に入れられる。「四代三公」の間に蓄えた底力をもってすれは、難しいとは限らない。黄巾も残党に成り果てているのだし。「(でも、その後は)」天下を争う、ライバル同士になる。そこまで考えて、今日の挨拶に来たのだろうか?華琳の方は、校尉からの昇進を、謝絶し続けている。董卓一党に監視され続けている帝都で、潁川の拠点から引き離されるような、ミエミエの小細工に掛かるつもりもない。…結局、逃げ出すタイミングだけね……――― ――― ――― 董卓軍の軍師、賈駆(真名詠)は、自軍の武将たち、張遼(霞)、華雄、そして呂布(恋)とその参謀、陳宮(音々音)と言った面々に、詰め寄られていた。もっとも、普段から無口な恋は、もっぱら、音々音に代弁させていたが。一言で言えば「兵隊の統制がつかんのや!」元々、涼州兵は、帝都のような中原の「土の都」とは、価値観も、行動原理も異なる、草原の騎馬の民である。それを「土の都」に連れてきた以上、統制は細かく眼を届かせなければならない。それを怠(おこた)って「草原の掟」のままに行動させれば、どうなるか。「狼」を「羊」の群の中に放置するようなものだ。略奪される物を持っている者からは、略奪する。富裕階級でなくとも、帝都なら一般庶民でも、草原の素朴な生活からすれば、奪うものがあった。また、身1つでも女だったら…霞たちには吐き気すらするが。霞たちも、放置しているわけではない。しかし、兵たちの方が、いう事を聞かない。むしろ、霞や音々音みたいに五月蝿(うるさ)いことを言わない、むしろ、先頭に立って「草原の掟」を実践している、李傕(りかく)とか郭汜(かくし)とかの連中の方へ脱走していく始末だ。「それも誰かが、兵を扇動してまわっている可能性もあるのです」いつもなら、音々音より先に、詠がそんなものを放置しない。「それに、盧先生が疑うのも、もっともなのです。というより、詠さんはきちんと釈明していないです」元々、音々音は中原の知識人だったが、恋との個人的な縁(えにし)で涼州まで来た。だから、盧植の名声を知っている。詠の態度の方がおかしいことも分かる。「(ボソ)月はどうしてる」恋だけではない。ここにいる面々ですら、彼女たちの主君(真名月)に会うことも出来ない。そもそも、兵達の乱暴も、月の顔を見れば、少なくとも、もっと前だったら、収まっている筈だった。「大体、月があんな事をする筈がないんや」… … … … … あんな事。あるとき、相国、董卓の一行が、城外に遊びに出た。そこに行き会ったのが、日々の労働の中で、1日の休みを村祭りにすごして帰る、普通の人々だった。それを、カンにでも触(さわ)ったか、捕らえさせた。相国の行列を遮(さえぎ)った。税を納めるべきものが怠けた。たったそれだけの罪で、裁判も無しに罰した。それも「車裂(くるまざ)き」「腰斬(こしぎ)り」などという、残刑酷罰で。しかも、そんな事を隠そうともしていない。李・郭といった連中は「これで「調達」がしやすくなった」などと、言いふらしている始末だ。… … … … … 本当に、そこに月がいたのか。それすら、今の霞たちには分からない。「そもそも前の陛下は本当にどうなったんや。「あれ」からおかしくなり始めたんやないか」「・・・」空気の密度が増したような、沈黙がしばらく、そこに急使が駆け込んできた。「校尉曹操、脱走」一瞬だけ、詠は軍師に戻った。「虎牢関と汜(し)水関を固めて。貴女たちの信頼する兵を率いて」・ ・ ・ ・ ・相国府。帝都の「独裁者」董卓の公邸。その奥の一室で、詠はただ2人、大多数が一目見て「人形の様だ」と言うであろう少女を抱き締めていた。「(月は、ボクが守る。どんな事をしても。この手を汚しても)」董卓を天下の主にする。その野望は確かに持った。幼い皇帝兄弟というかたちで、好機が飛び込んだ時。だから、皇帝を盾にして、皇宮を占拠していた“クーデター”軍を追い払い、涼州軍を居座らせた。なかなか、いう事を聞きそうもない何大后と実子の少帝を軟禁しもした。そこまでは、確かにやった。だが、その軟禁していた楼閣から、何者かが、母子を突き落として殺害したのた。月は無論、詠ですら、この事だけは、関与していない。だが、そんな弁明が通るだろうか。皇宮の状況から「董卓軍」の何者かのしわざなのは、詠も認めざるを得なかった。それどころか、あきらかな他殺死体を「大葬」などにして、人目にさらせば、たちまち「大逆」の大義名分を、権力を狙うものに与えてしまう。もはや、強引に事を進めるしかない。新しい皇帝、歴史上献帝とよばれる、幼君を押し立て、相国「董卓」を実現させる。そして、その権力を固める。その一連の「陰謀」に熱中している間に、兵の統制が甘くなっていたのは確かだった。元々、詠や音々音のような、中原の知識人とは、行動も価値観も違うのが、草原の民である涼州兵だ。今までは、その事を知っていて、手綱を放したりはしなかったのに。それが、目を放している間に、一般兵のみか、李・郭のような幹部までが、何者かの扇動に乗ってしまった。もはや“魔王董卓”の名で行われた、悪行の数々が中原に、知れ渡るだろう。そして、それを「大義名分」として、あの曹操のような、野望を抱(いだ)いた姦雄が押し寄せて来る。それでも、「(月だけは、守ってみせる)」--------------------------------------------------------------------------------今回の講釈に出てきた「丞相」といえば、「三国志」では曹操か孔明ですが、これも董卓が「相国」として先例をつくったから、復活した官職とも言えます。やっぱり、時代を切り開く結果にはなったのですね。それでは続きは次回の講釈で。次回は講釈の9『天下に諸侯もはや乱立し 連合に合同するも混戦す』の予定です。