漢文の表現では、しばしば「豹」は「虎」のほんの少しだけ弱い亜種、と言う意味に使われ、「虎豹」といった「対」の意味の、熟語表現もあります。今回は「虎」に例えるべき“2人”の“ヒロイン”が活躍する筈です。--------------------------------------------------------------------------------††恋姫無双演義††講釈の41『長坂虎豹』~赤壁へと続く道(その2)~荊州襄陽を通り過ぎて以来、何日目かの夜営。「このままでは危険です」竜鳳の軍師でなくとも理解できる。蜀軍は余りにも多数の難民を抱えた結果、退却離脱しようとする軍事行動からすれば、ノロノロとしか言いようのない速度にまで落ち込んでいた。「だけど…」「ここで民を見捨てて逃げる桃香様ではない。ないからこそ、主君に選んだのだ」それは愛紗だけではない。「そうです。しかし、このまま、無策で曹魏軍の追撃を迎える訳にもいきません」「ですから、水軍に迎えに来てもらいましょう」蜀の水軍は、長江の中流にある荊州水軍の「基地」江陵で待機している。現在の蜀軍は江陵を退却目標にしていた。「夏口にいた孫呉軍は撤収したようです。それなら、漢水をさかのぼって水軍に迎えに来てもらえます」「後は、水軍を動かす命令を急いで届けるだけです」それならば、赤兎馬に乗っている愛紗が一番早い。「しかし、夏口の呉軍は、本当に撤収したのか?」「それでは、私が夏口に行ってみましょう」朱里の発言に、一同が驚いた。「大丈夫です。護衛に騎兵の1隊も付けていただければ」それで危険なら、水軍に迎えに来てもらえなくなります。そちらの方がはるかに危険な事になります。「雛里ちゃん。後、お願いね」「あぅ…任せて」愛紗と朱里は出発した。「もう1つ、あります」雛里がさらに言い出した。「最悪の場合を考えて置かなければなりません」その場合、ご主人様と桃香さまか、あるいは阿斗さまのどちらかに生き残っていただかねばなりません。「その通りだな」北郷一刀は、雛里の言いたい事を理解した。「阿斗と「五虎竜鳳」が生き残っていれば、たとえ阿斗が赤ん坊であっても、蜀王国は維持できる」(…「正史」の阿斗はほとんど孔明1人だったから支えきれなかったんだし「北斗」の7人がそろっていれば…)「ですから、誰か1人、阿斗さまを救う事に専念して欲しいのです」(…そうなると、やっぱり…)「正史」の“長坂”を知っている一刀は、やはり星を見てしまった。その視線を、阿斗を抱いたまま桃香が追いかける。その視線の先に、いつものようにメンマをかじる星が居た。… … … … … 「承知いたしました。例え…」「肝脳、地にまみれても、なんてのは無しだ。それでは阿斗を守れなくなるだろう」「星ちゃん。お願いします。でも、無理はしないで下さい」――― ――― ――― 華琳は、荊州側の降伏で、襄陽を占領しただけでは、不充分だと見抜いていた。江陵を「基地」とする、荊州水軍を接収しなければ、結局は長江で進撃は止まる。襄陽は追走してきた「第2師団」に任せ、再び、快速の「第1師団」による「電撃戦」を続行した。目標は江陵。――― ――― ――― 「本当に「正史」通りに近付いてきたな」「我々も、適当なところで、流言を流したりしましたからね。劉表の側近とか、襄陽の城内とかに」「その程度でこれだけ効果があるのだからな。確かに、おそるべき自己修復だ」「それに、劉表も上手く「病死」してくれましたしね」――― ――― ――― 北郷一刀に取っては「これから」起きる事を、知っている事自体がつらかった。「長坂」が近付きつつあるにつれて、桃香の手を握り締める力が強くなっていた。(…先輩はどうなんですか…)まだ、曹仲徳の戦線離脱だけは知らない。・ ・ ・ ・ ・多数の難民を連れている事の、もう1つの不利は、軍本体は踏みこたえていても、先に難民が「パニック」になってしまう事でもある。この時は、まさしくそれが起こった。その「パニック」が軍までも巻き込んでしまい、蜀軍の精鋭のはずが総崩れになってしまった。予想していたはずの、最悪の事態になったのである。… … … … … 北郷一刀は、桃香を連れて逃げるだけで精一杯だった。ある意味、誰よりもこの事態を予知できたにも関わらず。「「みんな、生きている?」」「全然平気なのだ―」「まだまだ戦えるぜ」「お姉さまらしいよ」「さあ、もう大丈夫よ。どうしたの?」「ふぇ~ん。阿斗ちゃんがいないよ」一刀、桃香、鈴々、翠、蒲公英、紫苑、璃々…確かに、阿斗と星の姿が無い。――― ――― ――― 星は阿斗を乗せた婦人用馬車の側を離れたりはしなかった。夜もまた、その車輪に寄りかかって休んでいた。しかし「パニック」を起こした難民が津波のように押し寄せた時、切り伏せることも出来ないままに、車を巻き込まれてしまったのである。――― ――― ――― 「これでは、本当に、魏軍が罪も無い難民を虐殺しているみたいなものじゃないの!劉備たちはどこ?」華琳の方も不本意だった。――― ――― ――― 「あぅ…星さんを信じましょう」雛里は軍師の務めとして、主君たちをいさめていた。「漢水を目指しましょう。愛紗さんと朱里ちゃんが、水軍で迎えに来ているはずです。ただし」しんがりは必要だ。「お任せなのだ―」――― ――― ――― 「へっへ。赤ん坊の産着にしちゃ、いいものを着せてもらっているじゃないか」どこかで見たような3人組。曹魏軍に追い散らされた難民が置き捨てていった、荷物や荷車が散らばる中、かすかに聞こえる泣き声に誘われるように、近付きつつあった。「アニキ―。今の大将は、追い剥ぎとかがお嫌いですぜ」「バーカ。考えてみろよ。あんないい産着を着せてもらっている赤ん坊なんて、きっと親がいい身分だぜ」「ってことは」「生かしたまま、大将のところへ持って行きゃあ、いい人質ってことよ」「さぁすがぁ。あったまいいっすね」「そうと決まったら、横取りされる前に………」3人組を思わず絶句させ立ち止まらせるほどの、すさまじい殺気が背中から襲い掛かって来た。「寄るな」「「「……」」」「その御方(おかた)に近寄るなあ!」「龍牙」の槍が1振り、2振りそして3振りされた。「ふぎゃっ。ふぎゃっ」「阿斗さま…」赤子のかたわらに片膝をつき、「ひぐっ」「遅くなりました。申し訳ありません」あやすように抱き上げる。「きゃはっ」「さあ、参りましょう。ご両親がお待ちですよ。ん…」「と、冬蘭様。相手が悪過ぎます。あれは趙雲です」「その趙雲が、あれほど大事そうに抱(かか)えている赤子を前にして、後ろを見せられるか」華琳様自らの御手からいただいた、この「青釭」の剣にかけて。本人は真剣である。曹夏侯一族の若武者として期待され、初陣のはなむけにと手渡された。華琳自身が常に戦場に帯(お)びて行く、その剣と対の「青釭」の名剣を。星の方は相手にするつもりもない。黙殺して白馬に騎乗したが、冬蘭の方が見逃さない。追いすがって何騎かで取り囲もうとした。いつもなら槍の1振りで追い払えるところだが、今は片手に阿斗を抱いている。長柄の武器は、基本として両手で扱う。さらに馬上、両足だけで馬を操縦し全身のバランスを取って戦うとなれば、これはもはや雑技だ。無論、いつもの星なら、その雑技も冬蘭などに引けは取らない。しかし、片手では逆に得物の長さを持て余していた。ならばと、あっさり、星は愛用してきた「龍牙」の槍をあきらめた。今は阿斗の方が大事だ。投げ槍の構えに切り替えると、冬蘭の馬の足元を狙う。当然、棹(さお)立ちになった。そのすきに片手を伸ばすと、冬蘭が背に斜めにしていた宝剣の柄をつかんで引き抜いた。「役立たせてもらう。わが宝のために」言い終わる前に手綱を両断していた。当然、落馬した。… … … … … 「このォ!曹夏侯一族の面汚し」「姉さん、やめなさい。冬蘭を絞め殺すつもり」つもりかもしれないと、誰かが思った。「生きて帰ったから、報告も出来るわ。出来るだけ正確にして」華琳は寛容だった。正直、相手が趙雲では剣の代わりに首を持って行かれているはずだった。「趙雲は、その赤子が大事だったのね」華琳は念を押す。「おそらく、あの子供ね。北斗に守らせようとしたとかの」「では、やはり逃がしては」「無用よ。あの趙雲が“乳虎”になっているのよ」古典的に中国では、危険人物を例えて、「アイツに出会うなら、乳飲み子を連れた母虎の方がましだ」などという。「おまけにその乳虎の爪が、あの「青釭」では、無駄に兵士を死なせるだけよ」「ですが」「それより、その子供を連れて逃げていく先には、親が待っているはずよ。全軍、追跡よ。追撃でなくね」――― ――― ――― 「行く手をさえぎるな!」ボキッ!「命を捨てるな!」ベキッ!星が手に入れた名剣「青釭」は、雑兵どもの鉄刀などとは材質からしてちがう。正面衝突すれば折れるのだ。片手に阿斗を抱いている事すら忘れさせるほどの星の早業で、そんな代物を振り回されては確かに近寄れない。ひときわ体格のいい兵士が自分の頭ほどの自然石を振りかぶり、頭上に落ちて来る「青釭」の剣を受け止めた。流石に一旦、剣を引く。その兵士はニヤリとして、その石を投げ付けるつもりになったか「バックスイング」したが、その拍子(ひょうし)に“2つに割れて”手元を外れてしまった。唖然(あぜん)とした兵士どもの頭上で「青釭」を一振りする。首をすくめさせておいて、その上を白馬が飛び越えた。――― ――― ――― 戦場となった平野から見れば、蜀軍が逃げる方向の行く手を一筋の流れが横切り、ただ一本の木橋が架かっていた。その木橋の真ん中に立ちふさがった鈴々は元気一杯に「蛇矛」を振り回していた。「ここは通さないのだ―」――― ――― ――― 「ぶ…ぶろ…」とうとう、馬の方が疲れを見せ始めた。「頼む。走ってくれ。阿斗さまのためだ」いっそ、追って来る敵の馬でも奪うか?そんな考えも星が思ったとき、「お―い!」元気一杯な戦友の声が、聞こえて来た。「あれは…。…よし、もう一駆けでいい。頼む」… … … … … 「大丈夫なのか―?阿斗ちゃんはどうしたのだ―?」「ここにおいでだ。後は任せた」「お任せなのだ―」――― ――― ――― 「今度は張飛か?!」最悪な事に、木橋の幅より「蛇矛」の方が長い。つまりは、その有効範囲を通らずには、向こう岸へ渡渉できない。たった今、蜀の「五虎大将」がどれほど猛虎か、思い知らされたばかりの兵士たちは突撃する勇気も無かった。それどころか、「どうした―鈴々がこわいのか―!!」橋の中央から何歩か前進されると、その1歩ごとに10歩以上後退する有様。華琳すら、持病の頭痛がぶり返す気分だった。無論、魏軍とて、これを「1騎打ち」の好機と考える雄将は何人かいるのだが、「“1騎打ち”の間に、劉備たちに逃げられるじゃないの。それこそ張飛の思うツボよ」上流と下流に分かれて、新しい橋を架けなさい。張飛のいないところにね。兵士たちの大部分は明らかにホッとしていた。真ん中の橋の上で今も元気一杯に叫んでいる鈴々を見ないようにして、架橋作業にとりかかった。… … … … … ようやっと、架橋作業が終わって魏軍が渡渉し始めた時には、当然、鈴々の姿も消えていた。しかし、兵士たちは明らかにホッとしていた。・ ・ ・ ・ ・それでも、追撃体勢を立て直して進軍を再開したのだが。再び前方に蜀軍、というより、ここまで蜀軍に付いて逃げて来た難民が見え始めた。しかも、その向こうに漢水が流れており、その岸辺で止まっているように見えた。だが、その岸辺に船団が帆を降ろし、難民たちをすでに乗船させ始めていた。――― ――― ――― 愛紗と朱里が、江陵から夏口を経由して回航してきた蜀の水軍が、やっと到着していた。「急げ」「弱いものが先だ」「荷物はすまんが人がのってからだ」「敵軍が来る前に乗船を終えるぞ」…ガヤガヤ…という状態だった。――― ――― ――― 「逃げられたわね。結局は趙雲と張飛に、いい格好をされただけ」華琳はそれでも冷静だった。現在の、本来の目的を忘れてはいない。「江陵へ急ぐわよ」… … … … … 長江本流の北岸にある江陵は曹魏軍に占領された。江陵を「基地」としていた荊州水軍も、総帥である蔡瑁・張允の降伏にしたがった。――― ――― ――― 一方、漢水から長江の本流に入った蜀水軍は本流の南に通じる洞庭湖に入っていた。洞庭湖の周辺の荊州南部は、すでに蜀の勢力圏である。脱出には成功した。――― ――― ――― この時点で、長江下流の孫呉軍も始動していた。彼女たちとて、魏と蜀の荊州争奪戦を指をくわえて見物するつもりなどありえなかった。--------------------------------------------------------------------------------原典「三国志演義」通りならば、どこまでも趙雲と張飛の大活躍の筈なのですが、そうでなければ、ひたすら作者の力不足に責任があります。それでは続きは次回の講釈で。次回は講釈の42『争論斬卓』(論を争いつくえを斬る)~赤壁へと続く道(その3)~の予定です。