― サイレント・トーク:Part10 ―
「アルセイフ、状況は」
ヘルメット内部のヘッドフォンを通して聞こえた声の一つに対して、簡潔な説明を求める。
勿論、汚染獣を束縛する攻撃の手を緩めるような愚は犯さない。
『左腕がやられました。あと、右足の爪先が完全に粉砕されています。剄は練れます、錬金鋼も無事ですが、まともに動けません』
アルセイフは流石に天剣授受者らしく、こちらの状況に対して必要な情報を正確に伝えてくれた。
舌打ちをするほどの最悪さではなかった。剄が練れるなら問題は無い。
「なら、固定砲台替わりにはなるな」
『それぐらいは出来ますけど、カテナ先輩こそ平気なんですか。・・・その、前の時より凄い事になってますよね』
アルセイフは躊躇いがちにそう言ってきた。
そう言いたくもなるだろう。当たり前のように空中に静止しながら普通の雄性体なら千殺して余り有るほどの攻撃を連発し続けているのだから。あんまり考えたくない話だが、"今の"アルセイフよりも剄が練れているんじゃないだろうか。
「・・・・・・色々裏技を使ってるんだよ。だから、正直早めにケリを付けたい」
尽きる事などありえないと思えるほどに、剄脈からは剄が溢れ出してくるが、だからこそ不安がよぎる。明らかに限界以上の剄の行使、そのリバウンドがどのような物かなど、想像したくも無い。
こちらの不安を知ってか知らずか、アルセイフの声は冷徹そのものだ。戦いに勝利するためだけに思考が収斂されている。
『今の先輩の全力なら、老性体の殻も破れますよね』
「殻を破るだけなら、な。だけど内側に攻撃が通らないから意味が無い。僕はお前と違って通し剄も使えないぞ」
アルトゥーリア流戦舞は一対多数の戦闘方法に特化している。高高度からの雨霰の如き爆撃こそがその真価だ。その分、強大な一つに対しての攻撃に関しては後れを取る。ひたすら硬い外殻を有する今回の敵は、相性が最悪だと言わざるを得ない。
だから、この状況を突破するための方法は一つしかない。
『・・・僕と先輩の、一点集中攻撃。初撃で殻を破って二撃目で内側を完全に破壊する』
「それしかない。無いけど、お前が身動き取れないんじゃそんな器用なことは出来ないだろう」
この老性体、今は強引に身動きを取れなくしているが、その気になれば巨体にあるまじき超高速で飛翔できる。
アルセイフがまともに動けない以上、僕が彼の傍までコイツを誘導するしかない。
しかし僕が誘導役に専念してしまえば、攻撃手が一人になってしまう。外殻を破るだけではこの老性体の動きを妨げる事は無いと先ほどから散々理解させられているから、二撃目を放つ隙を与えてくれる可能性は限りなく低い。
そして、二撃目を狙おうとしている間に、身動きの取れないアルセイフがやられるだろう。そこで全てのチャンスが途切れる。
「・・・・・・賭けるしか、無いか?」
可能性は限りなく低いが、やるしか無いだろう。
戦える人間は二人しか居ない。これ以上時間を稼いだところで状況は何も進展しない。
ならば、戦える力の有る、今のうちに―――
『それならば方法は有る、カテナ、聞け』
必死の決意を固めた僕の思考の片隅で、そんな声が聞こえた気がした。
戦場にあってはならない声だ。
「黙ってろ学生」
集中力を妨げるそれを、切り捨てるように叱責する。何だってこの人の声が聞こえるんだ。
『まあ、待てよ。話を聞けって、隊長のありがたいお言葉だぜ?』
再び耳元から、今度は別の声が聞こえた。やはりそれは戦場に相応しいとは思えなかったから、無視してしまおうと思った。
今考える必要の無い戦線の経過が次々と頭に浮かんできた。
そうか、だからアルセイフは吹っ飛んだのか。
「これ以上邪魔になりたく無いならさっさと帰ってくれ」
『口調が酷いことになってるぞ、カナちゃん。こっちもそれなりに覚悟を決めてきてるんだ、いいから一回深呼吸した後ニーナの話を聞いてやってくれ』
そのグラム幾らで売っているような易い覚悟のせいでこんな状況になっているって、解っているのかコイツ等は。
場所も状況も弁えず、思い切り怒鳴りつけてやりたくなった。
『カテナ先輩、僕からも頼みます。・・・上手くは言えないんですけど、僕らはそうするべきなんです』
「アルセイフ、お前まで何言ってるんだ?」
対汚染獣戦闘に於いては僕より余程冷徹で以って挑むであろう天剣授受者のものとは思えぬ言い様に、気がぬけそうになってしまった。
『ここはもうグレンダンじゃなくて、僕ももう、天剣授受者じゃない。僕も先輩も、もうただのツェルニの学生なんです。だから、グレンダンのやり方でそのまま挑んではいけないんです。例えそれが危険だろうと、同じ学生なんですから、危機は等しく背負うのが当たり前なんです。ですから・・・』
アルセイフの言葉は、やはり天剣授受者のものとは思えない。だからそう、彼はもう天剣授受者ではないのだとまざまざと思い知らされた。
それならば、僕はどうなんだ。グレンダンを離れて、ツェルニにたどり着いた。
そこで起こるあらゆる出来事を、柳よ風よと受け流しながら此処まできた。何時ものように。
その生き方は、グレンダンでの僕の行き方そのままだったのではないか。
カテナ=ハルメルンであればそれは正しいだろう。全く、執着すべき物は自分の命だけで皆で勝ち取る結果なんて物には微塵も興味が沸かない。
今は、どうだろう。
天剣授受者ですら、場所を移せば変わっていく。
僕は、僕も変わるべきなのか。迷っているという事は、もう変わってしまったという事なのだろうか。
『あの人たちが、信用できませんか?』
悩んだままの僕の思考を代弁するかのように、僕らの会話をじっと聞いているだけだったフェリさんが口を開いた。
視界の端に映るインジゲーターには個人通話と表示されている。
『あの人たちは・・・ええ、貴方の考えている通り。あの人たちがこの危機を作り出した。でも考えてみれば、あの人たちがこういう行動に出る事は、きっと私達は解っていたんです。あの人たちは、自分が仲間だと決めた人間だけに苦労を押し付ける事を由としない人たちだから』
そうかもしれない。
だけどそれは現実の答えとは相容れないから、あえて考えないようにしていた事だ。
でなければ、怖くて戦場に踏み出せなくなりそうだから。
だから、その恐れこそが。
『その恐れこそが、答えです。貴方があの人たちが傷つく姿を見たくないのと同じように、彼らも貴方が傷つくのをよく思わない。・・・だから結局、この結果は必然なんです。必然としての、失敗なんです』
失敗、か。
そうだな。絶対に勝てると思って挑んだ筈だったのに、気付けばこの様だ。
それはきっと、最初の一歩から間違っていたから。
『この失敗は取り返せます。彼らは居る。貴方も居る。それから、私も』
一人では覆い返せない結末でも、力を、併せれば。
そんな夢みたいな理想論。とてもじゃないけど、僕は。
「・・・それでも、僕は怖いよ」
剄の導きにしたがって攻撃を繰り広げる体とは裏腹に、心は、恐怖に侵食される。
独りならばきっと、どんな結末も受け止められる。アルセイフとなら共に戦えたのは、きっと彼も同じように考えていると思っていたからだろう。
『なら、私を信じてください。私はもう、あの人たちを信じてみる事にしました。ええ、元々貴方達だけで決着をつけなければいけない問題じゃあ無かったんですから。ですから、貴方があの人たちを信じるのが怖いというのなら、』
あの人たちを信じている、私の事を少しだけ信じてください。
この子の言葉は、何時だって僕の心に響く。
だから、その言葉だけで、僕はもう変わってしまった。
「・・・ニーナ隊長、作戦。手短に頼みます。後、シャーニッド先輩は人をちゃん付けで呼ばないように」
『先輩・・・っ』
レイフォンの感激したような声がむず痒かった。
不安と期待と焦りと安心が混交したような、そんな感覚を覚えた。
勝てる。何故だか解らない理論で、僕はそう理解していた。
『聞け、カテナ。やる事自体は何も難しくは無い。相手の行動を制御し、有利な状況に持っていく。基本だ。まず・・・』
高速で飛翔しながら、時折背後に対して斬剄を打ち込む。
追っ手の反撃を旋回飛行でかわしながら、僕はメットのバイザーに映された簡易地形図の誘導光に従って天然の崖を飛ぶ。
『距離・8時の咆哮3754メイル、高度10~17で安定。・・・問題なく誘導できています』
『おっしゃ、そろそろだな。・・・ウデがなるぜ』
フェリさんの精密な誘導指示を受けて、シャーニッド先輩が気勢を上げる。
それが虚勢だったとしてもたいしたものだなと僕は思いながら、扇に込める剄を強めて更に加速する。
『有効視界内、入ります。カウント開始。15、14、13、12……』
『…行くぞ』
崖の間を飛ぶ僕の耳に、シャーニッド先輩の鋭く尖ったような声が響いた。
『・・・3、2、1』
零。
フェリさんのカウントが途切れるのに従い、僕は直角に急上昇する。最大速度で、光点を目指すが如く。
汚染獣は突然眼前から目標が消えた事に狼狽し、ついで上昇していた僕を見定めて攻撃をしようとした刹那、小さな小さな銃声と、瞳をえぐる剄弾に気を逸らされた。
動きが、止まる。
その瞬間、爆音と共に崖の片面が崩れ落ちる。荒波のような落下岩に塗れて、汚染獣が地に打ち付けられる。
撃ったのはシャーニッド先輩。崖を崩したのは、フェリさんの念威爆雷だ。
僕はその結果を確認する事もせず、唯ひたすらに天を目指して上昇する。雲すらつきぬけ、高く高く。
そして其処にたどり着く。
曇天を抜けた先。太陽と空の青しか存在せぬ空間。真白い月が、光天の中、薄く浮かび上がっている。
そこで、加速を止める。
バイザーの端に小型の映像モニターが表示され、岩石の山の中から這い出した汚染獣の姿を映し出した。
それはゆっくりと首をめぐらせ、得物の姿を探していた。
そして、見つけた。
崖の上、二厘のランドローラーに饐え付けられたサイドカーに座ったままの、矮小な少女の姿。
だが不屈を訴えるその目だけが、彼女を武芸者たらしめていた。
僕は、自由落下に任せていた身体を、反転させ、頭を地表にに向け、扇を振りぬき加速。更に加速。フルフェイスのメット越しにすら唸る風が轟音を響かせるほどに、地表へ向けて加速する。
モニターの中の汚染獣は、囮となったニーナ先輩を食い散らかさんとゆっくりと崖から浮かび上がった。
『―――今ですっ!』
そして、フェリさんの緊張に満ちた声と共に、黄金に輝く剄の刃が老性体を襲う。
殺剄を使って存在を隠していたレイフォンの、渾身の一撃が、汚染獣の外殻を打ち据える。
振り下ろされた衝撃は内部に貫通して外と内より衝剄の波を発生させ、ついに老性体の外殻に致命的な亀裂が走り、おぞましい色をした体液を噴出させた。
黄金の剣により再び崖に突き落とされる汚染獣。苦悶の咆哮は最早この大地すら呪い尽しそうなほど凄まじい物であった。
だが、それだけで終わらすつもりはない。
加速に、加速を重ね、沸きあがる衝剄の尾を伴って最早一個の雷尖とかした僕は、右の扇を閉じて眼前に突き出す。
打ち抜く場所は、遥か眼下、最早数瞬の間もなく到達する、老性体の斬撃痕。
加速。最大の加速。その一瞬のために、閉じた扇を鏃に見立て、最大の剄を送り込む。
先端に捻り込む様に形成された化錬剄。空気を切り裂き、金切り声を響かせる。宛らそれは、雷鳴の如し勢いで、空を裂いた。
この歌こそが終末だ。
アルトゥーリア流戦舞・秘奥之壱 雅楽奏葬
遥か天上よりの、雷鳴を響かせての一撃。
対多数を基調としたアルトゥーリアの戦舞に於いて、唯一の対個体に特化した奥義である。
ハルメルンにより顕現した膨大な剄を伴ったそれは、破壊された外殻、剥きだしとなった骨肉を深々と抉って、絶望的なまでの破壊を引き起こす。遂に大地に縫い付けられた老性体の悲鳴は、最早可聴域すら超えた。
だがまだ、終わりではない。身体を捻り、突き刺した腕を捻り、扇を握る手首を返す。閉じた扇を、閃開する。
際限なく押し込まれた剄が開く扇の流れに乗って、白く輝く衝剄の刃となって老性体の体内を切り刻む。
アルトゥーリア流戦舞・秘奥之壱之変化 雅楽奏葬・閃華
その名の如き、光の華を描き出す。
老性体の体内に満ちた光は、やがて外殻を内側から照らし出し、硬い鱗の端々から、光の線を針の如く立ち上らせる。
やがてそれは膨大な白光の柱となって汚染獣の長く太い体全てから噴出していった。
それは谷底を照らしつくして白に染め上げ、そして―――
「ああ・・・・・・まったくしまんねぇ」
シャーニッド先輩が、愚痴を零しながらランドローラーの傍に仮設テントを組み立ててゆく。
「愚痴るな。全員無事だった事を素直に喜ぶべきだろう」
「そう、ですね・・・上手く行って、良かったですよ本当に」
本来病床に伏せていなければならなかったニーナ隊長がそれを嗜め、今やまさしく病人そのままのレイフォンが、サイドカーのシートの上から追従する。
僕はそれを、少し離れた岩山に寄りかかりながら眺めていた。
全て無事、万事解決・・・と思ったら。
一難去ってまた一難と言うべきか。いや、本物の災難を通り越したから後だから言える冗談だな。
戦闘開始と同時に僕とレイフォンの乗ってきたランドローラーは破壊された。
そして、補給のための車両も、どうやら僕が独りで逃げ回っている間に潰されていたらしい。
荒野に四人の人間。
だが、ランドローラーはシャーニッド先輩が横にニーナ先輩を乗せてきた物一台のみ。
二輪車は四人を乗せられるようには出来ていない。
そのまんま、フェリさんが呼んだ救援が来るまで立ち往生だから、こうして荒野に座り込んでぼうっとしているしかなかった。
恐らく一番元気だろうシャーニッド先輩がテントを組み立てる様を、弛緩した思考で眺める。
『・・・身体、平気ですか?』
ぐったりと岩山に背を預けた僕の目の前に、念威端子がふわりと寄った。
安堵を含んだ心配そうな声に、疲れを隠さず笑いかける。
「帰ったら、しばらくまともに動けないでしょうね」
全身の剄路が燃え出したような熱を放っているのが解る。むしろこれだけで済んで安堵しているくらいだ。
『何もせずにぼうっとしているだけの方が、貴方らしくて良いですよ』
「それはどうも。・・・・・・ああ、そうだ。戻ったらどっかに飯でも食いにいきましょうよ」
僕の言葉に、念威端子は驚いたように飛び跳ねた。
『・・・いきなり、如何したんですか』
凄い警戒した声を上げるフェリさんに、苦笑してしまった。
「そういえば長い事、二人だけで喫茶店めぐりとかしてないって思いましてね。そろそろ初心に返って見るのも良いでしょう?」
僕がそう言うと、無言のまま悩むフェリさんの姿を映し出すように、念威端子がぐるぐると回転を始めた。
ピタリと止まる。ワンテンポずれて、声が窺がうような響く。
『・・・・・・最近仲が良さそうな一年生は放っておいて良いんですか?』
身体の力が更に抜けた。悩んだ末にそれかよ。
「僕らの日常的な商店街への嫌がらせに、誰か別の人が居た事はありましたっけ?」
ロンゲの事はこの際無視して、フェリさんに畳み掛ける。
「僕は貴女と二人で、のんびりお茶をしたいんです。・・・勿論、僕の奢りで良いですよ」
僕がそういうと、念威端子は再びぐるぐると回転した後、ポツリと一回明滅して、言った。
『・・・それは、当たり前ですけど』
そのままテントを組み立てているシャーニッド先輩達のところへ飛んでいってしまう。
・・・当たり前って言うのは、僕が奢る事を言っているんだろうか。それとも、二人きりだという事を指しているのだろうか。
詮無い事だ。
僕は自分をあざけった後、大きく息を吐いて空を見上げた。
そうして。
僕を見据える白い蛇の姿を幻視した。
ハルメルン。かつて僕の半身だった存在。
今やそれは、全く違う個として存在する。
僕の眼前に。
だから、見えてしまった。今まで見えなかったものが、見えてしまった。
『然り。同一であったが故に、汝は己の背を見る事は叶わなかった。人は自らの背を見る事は適わぬ。故に汝は自らたる己の背に有るものを見ずに済んでいた』
だが最早、それは適わない。ハルメルンは僕とは別の存在だから、僕はハルメルンの背負う全てが見えてしまう。
それは怒り。破壊をもたらしたものに対する、煉獄の炎。
それは嘆き。滅んだ自らを哀悼する、冥府の沼。
それは、それはハルメルンの全ての死する者達の嘆きと怒りを背負って立つ、亡者の姿。
幾千幾万の散っていった魂の結晶。
故に。
『旅立ちの時だ。愛し子よ。汝は最早、守られるだけの子であった時は終わった。己と共に立つ戦人となったのだ』
いざ行かん。無限の槍衾。その向こう側へ。
敵地へ。あの月を追い落とし。そこに住まう何者をも、我らの絶望で焼き尽くしてやろう。
身体が、剄路が、剄脈が。
脳が、心が、魂すらも。
白い光で塗りつぶされる。それは憎悪、それは絶望、そして憤怒。散っていった全てに対する、哀悼と愛情。
湧き上がるそれら全てが、僕に戦いの時を告げていた。
だから僕は、体を包む白い光に全てを任せ、ゆっくりと瞼を閉じた。
戦場に赴くために。
閉じた視界の漆黒の闇に、虹色に煌く光の幕を幻視した。
これをもって。
・
・・
・・・
『ああ・・・・・・まったくしまんねぇ』
『そう言うな。良く持ったと言うべきだろう』
念威端子の向こう側で、シャーニッドとニーナ、二人の声が荒野に拡散していく。
ランドローラーを整備する二人の傍らで、レイフォン=アルセイフがサイドカーに座ったまま寝息を立てている。
荒野には、彼ら三人の姿だけ。
汚染獣の脅威は、最早無い。戦いは、レイフォンの一撃で確実に終了したのだ。
その光景を端子越しに見て、フェリは暗いシェルターの中で独り、安堵の息を漏らす。
皆無事。全員、生きて帰れる。ランドローラーは修理可能だし、今さっき生徒会長である兄に救援を送るように連絡したところだ。
だから、彼女が仲間と認めた人たちは、必ずこのツェルニで再会できるのだ。
長く座りっぱなしだった椅子から立ち上がる。
老婆のように固くなった膝が震えかけたが、その程度で今の彼女の高揚とした気持ちを止める事は出来ない。
戦いは、終わったのだから。
彼らが帰ってくるのは一日以上後だろうけど、それは確定した現実として直ぐそこに迫っている。
だから、共に荒野に出る事の無かった彼女は、せめて彼らが望むであろう日常そのままの態度で出迎えてやりたい。
暗い部屋から、外の世界へ。
戦いから、現実へ。
待っていた日常へ。
それは例えば、・・・・・・例えば?
暗がりの中でフェリは立ち止まった。
歩みの一歩を進めるたびに、大切だった何かが零れ落ちそうになったから。
振り返る。
背後には彼女が今さっきまで座っていた椅子が一席。手には使い慣れた重晶錬金鋼。滅多に使わないから、新品のような輝きを放っている。フェリは普段、手を抜くために学園支給品の質の悪い錬金鋼を使っていたから。
そこまで考えて、フェリは思った。そんな手の込んだ仕込み、自分らしくも無い。まるで、誰かの入れ知恵のようだ。
首を振る。
元々友人も少ない自分だ。自分の事情を話した事が有るのはレイフォンくらいなんだから・・・なんだから。だから、これは自分ひとりで考えた処世術に違いない。
頭を振って、疑問を思考の片隅に追いやり、また一歩扉へと踏み出す。
大切な物がまた一つ、フェリの中から零れ落ちる。
もう一歩踏み出せば、何かが零れ落ちたと言う事実すら零れ落ちていた。
それでも、自分の手で扉を押し開いた時、最後に一度だけ、フェリは暗い部屋の中を振り向いた。
大切な何か。
約束が、あったのではないか?
それだけは、きっと絶対に、忘れてはいけない些細な事。
だが暗闇は彼女に答えを返す事は無く、彼女自身の中にすら、最早答えは存在しない。
そうして、彼女は思い出した。
「レイフォンじゃなくて、フォンフォンと呼ぶのでしたね」
フォンフォン。
嬉しそうに唇をもう一度動かして、フェリはその響きに微笑を浮かべる。
その顔に、心底幸せそうなその顔に。頬を薄紅に染めた、その微笑に情愛以外のものを見つけるのは困難だろう。
早く彼らを、出迎えないと。
あと一日以上先の話なのに、彼女の心は今や急いていた。
平穏な日常に帰れる事は、これほど嬉しい事なのだから。
フェリ=ロスは扉を抜けて、独り通路を進む。そこには最早、不安など無い。
扉は閉まる。記憶は閉じる。日常は遥か彼方へと過ぎ去っていく。
それは既知の領域からの欠落を意味していた。
戻らない。二度と戻らない。零れ落ちて、もう絶対に戻らない。
つまりそれは、初めから無かった事と同じ。
これをもって。
カテナ=ハルメルンはこの世界から消失した。
― サイレント・トーク:End ―