乾いた音が天幕に響いた。耳に痛いほど静寂が天幕に充満し、その場にいた誰もが凍り付いていた。
張郃は目の前の事態に、狼狽しながら当事者二人を見回し、何も出来ないでいる。そして天幕の出入り口のところでは入ってきたばかりの白い服で黒髪の女が固まっている。
かく言う私も、洛陽との連絡が途絶えたと言う報告の途中で話を遮られたまま、呆気にとられてしまっていた。
「・・・何故じゃ・・・」
それは嗚咽の混じった声だった。
「・・・何故父上を守れなかったのじゃ!」
それは父親の死に対する悲しみと、あたり構わず撒き散らさねば済まない形なき怒りだった。
立場もない、配慮もない、唯一つの感情のうねりがこの場を支配していた。
「お~い、麗羽、今やってる馬超軍の訓練が終わったら次は私のところ、が・・・あれ?どうした?何だよ・・・なんで皆こっち見るんだよっ!?」
この時彼女に注がれた目線に、彼女は半分泣き出した。
黒羽視点
麗羽様と一緒に孟徳さんから彼女の側の草に関する報告を受けていた最中だった。
「麗羽はここかえ!」
突然入ってきたのは長い金髪に豪奢な衣装の、ひどく小柄な少女だった。
「・・・美羽さん・・・」
口にしたのは麗羽様、それはたしか妹様の真名。つまりこの小さな娘が、公路様と言うことになる。
「えと・・・あの・・・」
取り敢えず挨拶はするべきだろう。そう思って声を掛けようとしたが、公路様は他に見向きもせずに麗羽様に向かって行く。
「・・・み、美羽様~、待ってくだ・・・」
天幕からもう一人、婦警と言うかスチュワーデスみたいな服の女性が駆け込んで来たその時だった。
パンッと乾いた音がした。右手を振り抜いた姿勢の公路様と、片頬を紅く染めて呆然としている麗羽様。何が起きたのか、見えはしなかったけど、大体分る。
でもこの場合どうすればいいんだろう?えと、麗羽様を殴ったのはアレだけど、相手は妹様だし、理由も察せられるし・・・
「・・・何故じゃ・・・何故父上を守れなかったのじゃ!」
滲み出すような声。正直、動けない、どうすればいいのか分らない。
「お~い、麗羽、馬軍の訓練が終わったら次は私のところ、が・・・」
出入り口からの声に反射的にそっちに視線を向けてしまう。
「・・・あれ?どうした?何だよ・・・なんで皆こっち見るんだよっ!?」
私以外も伯珪さんの声に反応してしまったのだろう。私以外も彼女に目を向け、伯珪さんはどうやら軽いトラウマになっているらしい。だが、申し訳ないけどそんな事を気にしている余裕は、こっちにはない。
ああ、どうすれば、どうすれば・・・
「すみませんが、皆さん。美羽さんと二人にしてくれませんか・・・」
俯いている麗羽様が、搾り出すようにその言葉を口にする。
「え、ですけど、その・・・」
「お願いします・・・」
そう言われてもなぁ、俯いたままの麗羽様を見て、離れて大丈夫な様には見えない。
「分ったわ。必要な事は張郃に伝えればいいのかしら」
返事をしたのは孟徳さんだった。
「・・・ええ、それで構いません・・・黒羽さん、お願いしますね」
「えっ、いやっ、・・・お言葉ですけどっ・・・!」
流石にそれは駄目だろう。そう思い、それを断ろうとしたが、それも出来なかった。
「いいから来なさい。これは二人の問題でしょう?」
「ちょっと、空気を読みましょうね?」
孟徳さんと、白い服の女性に両脇から抑えられ、天幕の外に引き摺られていく。
「ちょ、でも、あの・・・!」
「いいから!公孫賛、貴女もよ」
孟徳さんはものの序に伯珪さんも外に引っ掴んでいく。
結局あたしらは麗羽様たちの天幕からそれなりにはなれた場所に移動した。後から気付いた事だが、伝令とかを見逃さないよう、天幕と出入り口を結ぶ道の近くを選んでいた。
「儁乂、戻りたいでしょうけど駄目よ。あれは他人が入り込んではいけない話よ」
麗羽様と公路様を二人だけにした事に納得いかないあたしに、孟徳さんはそう言った。決して強い語気ではないのに、妙に強制力を感じるその言葉に、あたしは頷かざるを得なかった。
「それじゃあ、袁術の部下か何かかしら?自己紹介して頂戴」
そう言って孟徳さんは白い服の女性に向き直る。そう言えばテンパって気にする余裕もなかった。
「あ、失礼しました。私、美羽様の部下で張勲と申します」
無邪気さを纏う笑みを浮かべる女性は張勲と名乗った。今まで何かと聞く機会の多かった名前だ。
「これは・・・始めまして、張儁乂の名前はご存知ですよね?義姉上、とお呼びするべきですかね?」
「・・・ああ、貴女が・・・そうですね、従姉妹同士で、私が年長さんですからお姉ちゃんですね、確かに」
この人があたしの従姉妹さんね。そう認識すると途端にその笑みが胡散臭く感じられるから不思議だ。
「あら、貴女たち縁者だったの?全然似てないわね」
・・・?いや、縁者といっても従姉妹だしな。直接的な血縁じゃないからそこまで似ないと思うけど?
その時、麗羽様たちの天幕に向かう影を見つけた。裏亞だ。トテトテ走る姿が微笑ましいと思う、多分普通に顔が露出していたら。
「裏亞~、急いでどうした~?」
今、天幕に行かせるのはアレなので呼び止めておく。
「お、おねえ、さま・・・ぜは・・・袁じゅ、つさんが・・・ぜぇ・・・先に・・・と、裏禍は・・・伝え・・・」
ああ、成る程。ぜぇぜぇ、と肩で息をするその姿に、大まかな事情は理解できた。君がしっかりと公路様を抑えていれば、なんて身勝手な考えが過ぎってしまった不甲斐ない姉を許してくれ。
「・・・ああ、そのことならもういいよ。こっちで何とかするから」
過ぎてしまった事だものな、それ。
「所で、後ろで走ってくるあれは何かしら?」
孟徳さんが指差した方向に、丁度裏亞の後ろを追うように走ってくる紅い服の女性が見え、思わずあたしは釘付けになった。
メイドカチューシャのような髪飾りに、ふわりと広がるかのような特徴的な浅緑の髪。ちょこんと鼻に乗っかった小さな丸眼鏡の女だった。やたら袖のでかい服で(あたしも人のこと言えんが)露出も激しい。本来だったら目のやり場に困りそうなものだが、あたしの視線はある一点に集中させられていた。
一言で言おう。巨乳派のあたしにはアレ程の誘惑は未だ嘗てなかった。たゆんたゆん揺れてますよ!身内で一番大きい麗羽様より二周り以上でかいですよ!これが所謂乳革命と言うアレか!?
「・・・袁じゅ・・・さ・・・一緒・・・に・・・」
「ああ、無理せんでいいから」
さっきから息も絶え絶えのこの娘から何か聞こうってのも酷か。そしてやって来た紅い服のおっぱ・・・もとい女の人。
「・・・ぜぇ・・・ぜぇ・・・置いてい・・・な・・・はぁ・・・ひど・・・」
取り敢えずこの人も駄目そうだった。
結果、二人が回復するまで待つ事になりました。
「で、伯言さんが伯符さんの代わりに挨拶にと」
「はい~、蓮花様が袁術さんの軍の設営の指揮も押し付けられてしまいまして。失礼ですけど私が代理で来させていただきました~」
どこか審配に通じるのんびりさを感じる彼女は陸遜だった。彼女の登場で高知能=貧乳説は覆されてしまった。
そして、この会話の後ろで我が従姉妹殿は、「そう言えばそんなお願いもしてましたね~」とにこやかな笑顔で言っている。
「まあ、仕方ないでしょう。では、正式な挨拶は後日と言う事で、今日の所はあたしが承るという事でよろしいでしょうか」
「はい、お願いします~」
裏亞の竹簡に情報を書き出してもらって、一応の手続き完了とする。まあ、手続きと言うほどのものでもないが。
「それにしても今日は問題の多い日ね。走ってくる人間が絶えないわ」
「・・・そうですね。こう言う日を厄日と言うのでしょうか・・・」
孟徳さんが、またこっちに駆け込んでくる影を見つけて呟き、あたしは溜め息を吐いた。だが、やってきた兵士が伝えてくれたそれは、とても溜め息で済むものではなかったが。
翠視点
事の発端は末端の兵士同士の喧嘩だった。所属の違う部隊が集まればよくある事だし、それがこんな幾つもの違う地方の軍隊が集まるような事になれば、そういうことも増える。だから、最初聞いたときはそんなに問題だとは思わなかった。
相手が孫策の軍だって知ってたらこうはならなかったんだろうな。いや、言い訳か。兎に角、因縁ある相手に、ただの喧嘩は武器を持っての殺し合いに発展していた。
「・・・久しぶり、とでも言えばいいのかな。孫策」
「・・・ええ、そうね。嬉しくない再会だけど」
江東特有の露出の多い赤い服を纏った褐色の肌の女、孫策。そしてそいつと向かい合うあたしはそれぞれ得物を構えている。そしてそれぞれの後ろには百人単位の興奮した兵士たち。
何年か前、あたしらは韓遂の叔母様に乗せられて漢王朝に対する反乱の片棒を担がされたことがある。その時に戦い合った相手が孫策の母親の孫堅様の軍で、あたしも孫策とは直接刃を交えた事もある。そして、そん時からの兵たちは、そん時の恨みを覚えていたって事だろう。
「で、事の詫びはないのか?こんな時期だから、今ならそれだ目を瞑ってやる」
高圧的な態度だけど仕方がない。個々で下手にあたしから歩み寄ったら、後ろの奴らが暴発しかねない。今ここにいる奴ら以外に増えてこないのは、多分蒲公英が裏で押さえてるからだろうし。
「それはこっちの台詞だと思うけど。先に手を出してきたのはそっちだって聞いたわ」
孫策も恐らくそこのところはおんなじなんだろう。けど、こっちも引く訳にはいかない。引いたら不味い事になる。それに、こいつらに良い感情がないのはあたしもだ。戦だから、って頭で分ってても、それで感情は納得しない。
「それにしてもどう言う風の吹き回しかしら。涼州勢の貴女たちが董卓と敵対するなんて」
「・・・そう言うのは関係ない。寧ろ董卓のやっていることが天道に反しているなら、あたしらが見ている訳にいかないだろ」
以前の反乱の時は最後の方で董卓に恩を受けたって母様から聞いたけど、だったら尚更董卓を止めなきゃいけない。
「恥知らずの上に恩知らずなのね、馬家の連中は。それが反乱を起こして涼州を騒がし、王朝を脅かした貴女たちの言葉かしら。実の所、どこかの有力な勢力に取り入って何か企んでるんじゃないかしら?董卓に情けを乞いで罪を免れた時のようにね」
「お前ぇ!」
思わず体が動いていた。不味い、と思うと同時に、頭のどこかでこいつを殺してしまえと叫ぶ自分がいるのにも気付いた。こいつは母様を侮辱した。あたしたちにも非があったとは言え、あの戦いで失った仲間たちまで侮辱する事だ。皆、母様やあたしたちを信じて戦って散ったんだから!
あたしは槍を構えてが孫策目掛けて突き進む。狙いはその心の臓。同時に、孫策も剣を抜いて待ち構えている。
「仕掛けてきたのはそっち、死んでも恨まないでよねっ!」
「おおおおぉぉぉ!」
得物の違いで、先に間合いに入るのはあたし!一突きで終わらせる!
あたしは彼女の心の臓目掛けて渾身の一撃を繰り出した。
やってしまった、と思わなかった訳じゃない。でも同時に、やってやった、とも思ってしまった。そしてそれは止められた。
「あっぶな~・・・ちょっとお二人とも何やってんですか!」
気の抜けた声に次いで、怒鳴り声。あたしに背を向けるような格好で槍の穂先を踏み付けて軌道を地面にそらし、手甲みたいな物を嵌めた手で孫策の剣を受け止めていた。
「張郃・・・どうして・・・?」
「・・・貴女、何者?」
何故、彼女がここにいるんだろう?
「取り敢えず、二人とも武器を下ろしてくれませんか?正直貴女たち二人に挟まれているのはきついんですよね」
そう言った張郃の表情は、確かにどこか辛そうだった。もしかしたらあたしたちの攻撃を防いだ時、どこか怪我をしたかもしれない。
「お二人とも、後でお話を聞かせて頂くことになるでしょうが、先ずは後ろで殺気立っている連中をどうにかして下さい。これ以上は我らも軍を持って介入せざるを得なくなります」
しかたなくあたしは得物を引く。孫策も剣を鞘に収めた。
「さっき馬超が張郃って呼んだわね。貴女は袁家の張郃?」
「ええ、それが何か」
「いえ、分ったわ。ならばこの諍い、袁家に預かって貰うとするわ」
そう言って、孫策は片手を振って後ろの兵士たちの元に向かっていった。多分、袁家の介入を理由に兵士たちを納得させるんだろう。
「ああ・・・その、張郃、悪いな、迷惑掛けちゃって」
片手で脇腹を押さえる張郃に、取り敢えず謝る。下手をしたら董卓と戦う前から内輪揉めで戦争どころじゃなくなっていたかも知れないんだ。
「いえ、大事にならずに何よりです。けどさっき言った通り、後でお話を聞くことになると思いますので」
腹に据えたものがあるんだろうな、丁寧な口調だけど態度がぎこちない。
「それにこの事は他の軍の方たちにも伝わっているので、話を聞く時にはそっちの方たちもいて貰う事になると思いますので」
それだけ言って、彼女は立ち去っていった。その後姿に弱々しさが漂っていたのはきったあたしたちのせいなんだろう。
雪蓮視点
「で、言う事はあるかしら・・・?」
諍いを起こした兵士たちを引き連れて陣地に戻ったところで冥琳に平手を貰った。その後ろでは祭がこっちを睨みつけている。
「ないわね。完全に私の過失だわ」
本当は兵士たちを止める積もりだったんだけどね。自分でも驚くくらい自制が効かなかった。
「頭では分ってたんだけどね・・・自分でも驚いてるわ」
馬超の姿を見たら頭に血が昇ってしまったわ。
「全く・・・仲裁に入った彼女には感謝してもしきれないわね」
そうね。確かに、下手をすればあそこで孫家の独立は消えていたかも知れない。そう考えると、彼女には感謝しておくべきなのよね。
「策殿、確かに堅殿の死因となった戦傷は馬騰たちとの戦によるもの。だがあれは・・・」
「分ってはいるのよ、私だって」
母様は一人の将として戦場に立ち、傷付き、そして斃れた。それを何時まで経っても恨みとして胸の中に抱え込むのは、決してして良い事じゃない。
「難しいわね。将をやるっていうのも」
やがては袁術から独立するためにも、嘗て母様が治めていた呉を取り返すためにも、ほんとに難しいわ。
後書き
久方振りにカードゲームがマイブームな今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか?どうも、郭尭です。
今回は出だしで盛大にこけました。お陰で違う作品が一つ出来上がってしまうほどに。
さて、今回は連合軍の内部の問題点を描いてみましたが、どうでしたでしょうか。それなりに上手くややこしく出来たと思います。実際こんな色んなとこの混成軍隊(しかも殆どが潜在的敵対勢力)で問題が起きない方がおかしいと思うので。
それでは、次回はもう少し早くできるよう努力します、また次回。