それは、一頭の竜に幼女と呼ばれていた娘が。二十歳になった頃の話。
「レッドには、叶えたい願いはあるか?」
「人間になりたい」
気晴らしに出かけてきた草原に寝そべり、だらしなく伸ばした首の隣に立つ女性の問いに、マケドニアの守護竜レッドは間髪をいれずに即答する。
正直、その答えを予想していなかったわけではないのだが、自分ではどうしようもない願いを言われたのでは困る。
もっとも、それ以外の願いなら、レッドは大抵のことは自力で叶えてしまえるのだから、これは自分が悪いのだろうとミネルバは思う。
そう、レッドに叶えられない願いは皆無に等しい。
竜とは、世界の意志の一部なのだという。
世界に同化し、そこから無限にも等しい力と知識を汲み出し奇蹟を起こす存在。カタチを持って実体化した精霊とも言える超越種。地水火風を司り、いくつかの条件を満たさなくてはならないとはいえ死者の蘇生すら可能とする究極の生物。
そんな存在に、何かをしてあげたいと考えるほうが間違っているのかもしれない。
だけど、彼女は知っているのだ。
レッドという名を持つ竜の苦悩と絶望を。
そもそも、それだけの力を持つ竜という生物が何故滅びることになったのかと言うと、そう世界が決定したからなのだという。
世界は意志を持っている。
ただ、それだけを聞かされても、大抵の人間には納得出来ない話ではあるが、竜や精霊のような意志持つ、世界の一部の存在を知る者には、さして不自然に感じない事柄であるし、真なる竜の力を使うレッドの傍にいて、本人から直接聞かされたミネルバには疑う余地がない。
かつて、世界によって大地の管理者として生み出された竜は、その後に生まれた人間という種族が新たに地上の王として世界に選ばれた時に、もはや不要な種族とされ滅びが決定された。
世界という巨大なシステムの末端である竜に、それに抗う力があるはずもなく、彼らは知恵なき獣か人間の亜種でしかないマムクートになるしかなかった。
だけど、その呪いとも言えるそれに縛られない存在がいた。
それが、レッドと呼ばれる火竜。
自分は、元々は人間だった。気が付いたら、魂が竜の体に入っていた。
それは、出会ったばかりの頃のレッドが口癖のように口にしていた言葉であり、誰一人として信じなかった戯言である。
そう。戯言だ。
竜人たるマムクートならともかく、元々人間であったものが竜になるなどということがありえるわけはないし、レッド本人の口にする人間の頃の話を聞いても、意味の分からない単語ばかりが出てくるのである。
そんな馬鹿げた話を誰が信じるものか。
だけど、ミネルバは信じた。
もちろん、最初から信じたわけではない。だが、二十年の人生のほとんどの時間を共有した相手の言葉が嘘か真実かを理解出来ないほど、彼女は愚かではないのだ。
世界は、竜の滅びを決定した。そして、人間を大地の支配者に選んだ。
レッドは、竜である。しかし、その魂は紛れもなく人間のものであり、それゆえに世界が決定した滅びの呪いに囚われないのだ。
だけど、それは別なる残酷な呪いをレッドに科す。
レッドが世界の呪いに囚われないのは、彼の魂が正しく人間だと世界に認識されているからである。
だからこそ、レッドはマムクートのように人の姿をとることが出来ない。世界から無限に近い力を引き出す万能の真なる竜といえど、人間を人間に変身させることは出来ないのだから。
「それで、人間になって何がしたいのだ?」
「美人の嫁さんとか欲しいなあ」
冗談めかした答えに、「結局それか」と呆れた声を出しながらも、ミネルバは自分の心が沈んでいくのを自覚する。
レッド本人が自覚しているかどうかは知らないが、実際のところ彼が欲しがっているのは自身の同類なのだろうとミネルバは理解しているから。
竜は自分一人だけで生きていける生き物である。
知恵があろうとなかろうと、その肉体の強靭さはありとあらゆる他種族のそれを凌駕し、世界と繋がっているがゆえに巨体に見合うだけの食事も必要としない生物であるし、その精神も人とは異なり他者の存在を必要としないようにできている。
だけど、人は違う。レッドは違うのだ。
人は一人では生きていけない生き物である。群れなくては生きていけない脆弱な生物であるし、支えあう誰かがいないと、その精神を健全に保てない心弱い存在なのだ。
竜の肉体を手に入れ、真なる竜の万能の能力を手に入れ、生物として他者を必要としない完璧な存在となったレッドも、その内面はただの人間でしかない。
自分の悩みを理解し、笑い合い共に歩いてくれる誰かが欲しいと考える弱い人間なのだ。
しかし、彼の気の遠くなるような長い生を、共に歩いてくれる者などいない。
大抵の人間は、彼の内心を理解しない。彼の持つ強大な力に憧れるから。
マムクートは、彼を理解しない。人の姿を取れる者たちに、怪物の姿しか持てない者の心など分からない。
知性を持たぬ、獣となった竜は彼に共感しない。最強の獣は他者など必要とはしない。
かつて滅んだ知恵ある竜にも、彼の心は分からない。世界と繋がり、その一部であることを理解している者たちに孤独を感じる弱さなどないのだから。
ミネルバは、そんな彼の心を理解している。彼女だけが、彼の孤独な魂に気づいている。
そして、そのことにレッドもまた気づいていた。
だけど、それを彼が心の慰めにすることはない。
彼が望んでいるのは、自分と同じ立場の者であり、それ以外に孤独を埋める存在がありえるとは思っていない。
彼女にその弧独が埋められたとしても、それは長くても百年足らずの期間でしかない。
気の遠くなるような長い寿命を持つ竜からすれば、一瞬のきらめきでしかないだろうそれに縋れば、それを失ったときに自分は取り返しのつかない傷を心に負うだろうから。
そして、その考えがミネルバの心を傷つけていることに、彼は気づかない。
ミネルバは、レッドという竜の心を誰よりも理解している。
レッドの孤独な魂を理解し、その心を慰めてあげたいと思っているのに、彼はけっしてミネルバに縋らない。
いつかいなくなってしまうのなら、大切な人間などいらないと断じる彼の生き方は寂しすぎると理解はできても、ではどうすればいいのかという問いに答える言葉が見つからない。
別れがあるなら出会いもある。大切な者との別れが避けられないなら、その大切な者のことをいつまでも覚えていればいい。大切なものは失っても、思い出があれば人は生きていけるはずだ。
そうは思っても、それは残される者の寂しさを理解しない者の独善ではないのかとミネルバは思ってしまう。
胸が痛い。
そう思っていると、黙り込んだ彼女を訝しんだレッドが、どうしたのかと尋ねてきたので、なんでもないと返して、ミネルバは話を戻す。
「レッドは、よく嫁が欲しいと言っているが、どんなメ──女の子が好みなのだ?」
その言葉に、考えるように頭を持ち上げて空を見上げた火竜は、しばらくして答えを口にする。
「そうだな。好みとしては美人、可愛い系じゃなくて、つり目がちのきつめの美人さんで、もちろんスタイルも良くて……。ああ、もちろん人間の女の人ね。それで、優しくて、でも俺は甘やかされるとダメになるタイプだから、表面上はきつい性格で……」
と、何かを思いついたように、ミネルバを見る。
「なんだ?」
「いや、忘れてくれ。俺は何も言わなかった」
それっきり沈黙したレッドに、? と疑問符を頭に浮かべる彼女は、自身の外見に対する自覚に乏しく、彼が何を思ったのかなど理解しない。
このやり取りを見ている誰かがいたなら、レッドにもげろと思ったかもしれないが、そんな誰かはいない。
ただ、ミネルバは思うのだ。
自分はずっとレッドの傍にいてあげようと。彼の寂しさを少しでも癒してあげたいと願いながら。
-------------------------------------------------------------------
たまに、切ない系の話が書きたくなることがあります。
だから書いた。ちゃんと書けてるかどうかは別として。
需要? 知ったことか!!
次くらいに、その他板に移ろうかしら。
次があるかどうかは分からないけど。