「よい、しょ‥‥!」
軽く、干していた洗濯物を取り入れる。
‥‥一人分だと、随分少ない。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
庭から、家の二階‥‥息子の部屋の窓を見上げる。
いつの間にか、こんな癖がつくようになっていた。
朝起きる時間も、あまり一般的ではないほどに早い。
朝学校に行く前に、子供たちが稽古(彼らは古風に鍛練と読んでいた)をしていた‥‥それを見守る習慣が、今もしみついているのか。
いや、むしろ‥‥それを忘れないように早く起きているのかも知れない。
「‥‥‥‥お昼ね」
ほうれん草を炒めて、パンとベーコンを焼き、目玉焼きを作る。
簡単な昼食。どうにも、自分が食べる分だけを作るのには、あまりやる気が起きない。
「ごめんなさい、こんな事じゃ、ダメね‥‥‥」
ふと気付いたようにそう呟いて、自身の‥‥やや膨らんでいるお腹を撫でる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
昼御飯は、学校に行っていて、いない時がほとんどだったから、この風景は以前と同じ。
でも、晩御飯は違っていた。
春に、家の前にいた、そのまま居候になった‥‥娘同然の可愛い少女が、食器を出してくれたり、料理を作るのを横で穴が空くように見ていたり。
息子が、何かにつけてそんな少女に振り回されたり、じゃれつかれたり。
夏のいつからか、そんな二人の親友の少女も、よく遊びに来たり、泊まって行ったりするようになった。
他にも、息子の友人らしい、一風変わった‥‥そして素敵な人たちが訪れるようになった。
そんな彼らと一番交流が多かったのが、晩御飯から就寝までの時間だった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
このソファーで、よくおしゃべりをしていた。
少女二人が並んでテレビを見ていたりすると、外見はまるで似ていないのに、双子のように見えて可笑しかった。
夫との惚気話を聞かせると、息子はいつも通りにやや呆れて、少女たちは目を輝かせて聞いていた。
なんとなく小さい少女に膝枕していると、そのまま寝てしまい、その愛らしい寝顔を見るのが好きだった。
「‥‥‥‥よし!」
両手で頬をパンッと叩いて、立ち上がる。
自分は家族の留守に家を守る、専業主婦である。
これから、新しい我が子も生まれる。めげてはいられない。
確か、醤油と洗剤が切れていたから、買いに行こう。
晩御飯は、もっと栄養のある物にしよう。文字通り、自分だけの体ではないのだから。
今日は少し離れたスーパーで安売りだったはずだが、お腹の子の事も考慮して徒歩である。
のんびりと靴を履いて、玄関を出て、門前を抜けて‥‥‥‥
「‥‥‥‥!!」
こちらに、歩いてきている。それを見つけた。
こちらの姿を認めて駆け出す、あの日理由も告げずにいなくなった少女。
慌ててそれを抱き留めて、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝る少女の頭を撫でる。
それを、姉のような目で見守る‥‥あの日以来姿を消した‥‥やはり息子と共に旅立っていた少女。
(‥‥‥‥まだ、言わない)
そして‥‥この一年で目まぐるしく変わり、旅立つ時には立派な男の顔になっていた息子。
その息子が、また一回り大きくなって、帰ってきた。
「‥‥‥ただいま、母さん」
そうして、ようやく今まで堪えてきた言葉を、口にした。
「おかえりなさい」
「‥‥‥よろしかったのですか?」
今は静かに雪の積もる戦場後に、三眼の女怪は在る。
その目の前、黒と銀を揺らせる、紅世とこの世を繋ぐ象徴たる球体。『創造神』の名付けるその名は‥‥‥『界鎖紋』。
「余の不覚で、数千年もの永き時、不自由を強いてきたのだ。何より‥‥余は“縛る事”を好まぬ」
それは、『空間』であるが故に、破壊する事はおろか、触れる事すら出来ない。
たとえ、これを生み出した『創造神』自身でも、『天罰神』でも同じ事。人間にはおそらく見る事も不可能だろう。
とはいえ、このまま放っておくわけにもいかない。
「これまで通り、“今の世の”渡り方を徒たちに説いていく。ヘカテーに任せていた仕事を、俺たちで補う、か‥‥‥‥」
「‥‥‥特にお前は、道楽にかまけてばかりだったからね」
シュドナイの、今後の『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の方針を告げる言葉を、ベルペオルが茶化す。
「なに‥‥今生の別れでもあるまい。余らの因果は強く、深い‥‥必ず再び交叉する」
盟主の言葉を重く受けながら、ベルペオルはゆかりに渡され、使い方を教え込まれた『携帯電話』を見つめる。
「この地に、都を作る」
その言葉を聞いて、神の眷属たる二柱は思わず背筋を正した。
全くもって、相変わらずなお方だ、と笑みが零れる。
「名は如何に?」
「すでに、示してある」
期待通りの応えに、さらに笑みを深くして‥‥従う。
「仰せのままに、築きましょう。我らが都・『大縛鎖』を‥‥‥‥」
世界を変えた地で、世界を変えた象徴の上に、夢の都を作り上げる。
ざわざわ
ヒソヒソ
「‥‥‥何か今日、皆落ち着きなくない?」
部活の朝練が終わり、バレーボールやネットを片付けて(暗黙の了解として、それは一年の仕事だ)から体育館を出ると、何やら学校全体‥‥かどうかはわからないが、少なくとも目に映る範囲は随分と騒がしい。
あらゆる所でヒソヒソ話をしていたり、誰かが何かを大慌てで伝え、こぞってどこかに走っていく。
「もしかして、何かスクープかな!?」
「スクープ、ねえ‥‥‥‥」
部活仲間が眼を輝かせているが、自分は、少し前の事を思い出す。
何かにつけてトラブルを巻き起こしていた、特に仲の良かった友達たち。
色んな意味で規格外だった彼女らがいた頃は、こんな風景も珍しくなかった。
‥‥‥だから、あまり期待はしていなかった。
スクープスクープと騒いだ所で、拍子抜けするのが目に見えている。
「あ〜も〜、オガちゃんノリ悪いー! 見に行こ見に行こ!!」
「‥‥え〜〜‥‥‥」
「‥‥あ! オガちゃんは朝から彼氏と逢引きですか〜」
「あ、そっか、それは失礼致しましたー!」
‥‥‥む。
「行・き・ま・す」
照れ隠し半分、後は‥‥‥最近当の田中はすっかり元気を無くしている事の反発半分に、野次馬参加を了承する。
先ほど、どこかに走っていった二年生の後を追い掛けるように、こぞって走っていく。
「あれ‥‥一年生の階?」
「何か、転校生とかかな?」
一年生‥‥‥転校生‥‥‥‥?
何か、身に覚えのある単語のような気がする。
(まさか、ね‥‥‥)
さらに歩を進める。どんどん、近づいていく。
‥‥‥自分の、教室に。
(本当、に‥‥‥‥?)
そして、見つける。
自分の教室の前に出来ている、人だかり。
「っ‥‥‥ちょっとすいません!!」
壁のようになっている先輩や同級生を押し退けて、進む。迷惑そうな声も、今は耳に入らない。
そして‥‥‥‥
「おー! オガちゃん、おひさあ♪」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
屋上から見下ろすこの景色も、懐かしい。
久しぶりに来ると、案外自分もこの景色が好きだったのだと気付く。
‥‥‥ここに来ている事は、当然気配で気付かれているだろう。
気持ちに整理がついたら、一時限目が始まる前には、行こう。
『君たちだから、わがままは捨てない』
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
これ以上、無様は晒せない。失望など、させられない。
(いや、それも違うか‥‥‥‥)
“彼が信じてくれた自分”で在りたい。
義務でも、責務でも、使命でもない。自分の意志として‥‥‥‥‥。
期待以上のもので、応えよう。
『炎髪灼眼のシャナ』として。
キィィ‥‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
屋上の扉が開き、自分と、気を遣って黙ってくれているアラストールだけの空間に、誰かが入ってくる。
いや、誰かは、わかる。
「‥‥‥‥何の用?」
向こうから来られる、という予定は無かった。
自分がどんな顔をしているのかわからずに、背を向けたまま、ぶっきらぼうに訊く。
「‥‥‥‥“シャナ”」
「!?」
初めてのその呼び方に、つい振り返る。
見れば、冬の制服を着た水色の少女‥‥‥“想い人の想い人”が、こちらに歩み寄ってきていた。
そして‥‥‥‥‥
「ん」
持っていた、やや大きめの紙袋を差し出してくる。
「何‥‥‥‥」
「んっ!!」
事情を訊こうとした自分の胸元に、ぐっと紙袋を押し付け、受け取ってしまうと、そのままクルリと踵を返して早足でトコトコと屋上から出ていく。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
全く意味のわからない行動をした恋敵の背中を呆然と見送って、再び静寂を取り戻した屋上で、一分ほど立ち尽くして‥‥‥‥
「何だろ、これ‥‥‥」
半ば無理矢理渡された紙袋を、開けてみる。
預けただけかも知れないが、知った事か。事情も話さないあっちが悪‥‥‥
「っ!!」
紙袋の中から、香ばしい香りが漂う。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
そこら中のパン屋のメロンパンが一つずつ、袋一杯に入っていた。
「‥‥‥‥‥‥ぷっ」
いくらなんでも、これで全てのわだかまりを捨てられるほど、自分も単純ではない‥‥と思う。
「あははははは!!」
でも、可笑しかった。
あの少女の、実にわかりやすい『仲直りの意思表示』が可笑しかった。
「‥‥‥‥‥‥はむっ」
とりあえず一つ取って、遠慮なくかぶりつく。表面が固すぎ、中はパサパサしすぎている。まだまだ、選定眼が甘い。
あっという間に一つ平らげて、もう一つ、食い付く。
「んむっ」
今度のは、悪くない。表面はカリカリ、中はモフモフ、網目のセンスは50点、といった所か。
「あむっ‥‥‥」
‥‥‥世界が変わったとて、自分は‥‥変わらない。
自分で見極めて、自分で決めて、自分で歩く。
後悔なんて、絶対にしない道を。
「アラストール‥‥‥」
「‥‥‥何だ?」
とりあえず、
「私、悠二が好き」
これからはもっと、“自分自身に”素直になろう。
メロンパンをもう一かじりした少女は、満面の笑みを作った。