「‥‥‥‥‥‥‥」
柔らかく、温かい。
自分が今まで当たり前に受け入れていた物が、実はかけがえのない物だと思い知らされる瞬間である。
(ここは樹海でもジャングルでもない。寝袋も、野生の動物にも恐がる必要もない、ごく平凡なホテルの一室‥‥‥)
昨日今日樹海を抜けたわけでもないのに、この目覚めるか目覚めないかという一時には、こんな思いでいっぱいになる。
だから‥‥‥
(あと、5分‥‥‥)
「起きて‥‥池君‥‥」
(ん‥‥‥‥?)
耳元で囁く、聞き慣れた声の‥‥懐かしい口調。
「よっ‥‥‥よよよ吉田さん!?」
「もう‥‥鍵開いてたよ、無用心なんだから☆」
これは‥‥一体何なのだろうか?
確かに、今までも‥‥というか今も、普遍的な高校生から逸脱した冒険をしている自覚はあった。
もう大抵の事には驚かないという自信があり、それを裏付けるアクシデントにも遭遇してきた。
しかし、これは‥‥
(ア、ア‥‥アクシデントのベクトルが違う!!)
朝の眠気に抗う中、好きな女の子が、耳元で優しく起こしに来てくれる。
(これは‥‥‥夢か!?)
今までも、確かに寝起きに吉田が現れる事は確かにあった。
それはベッドの上のジャンプから繰り出されるスーパーエルボードロップだったり、寝袋ごと川に放り込まれたり、色っぽい展開とはかけ離れたものだったが‥‥それでも自分は幸せだった。
それが‥‥今日のこれは何だ?
(何‥‥だと? 一体、何が‥‥)
両手で自分のほっぺたを力いっぱいつねる、さらに思いっ切り引っ張る。
‥‥‥痛い。
「あははっ、池君面白い顔! 遊んでないで、早く支度してね、朝ごはんにしよ☆」
‥‥‥‥‥痛、い?
(夢じゃ‥‥ない、のか?)
信じがたい現実は、池の理解を越えて雪崩込む。
「ほ・ら☆ 早くしないと、その分、今日の"デート"の時間が減っちゃうよ?」
「デ、デデデ、デート!?」
動揺が動揺を呼び、もはや池の頭の中は収拾がつかない。
(そ、そうなのか? 僕は自分でも知らない間に、吉田さんともう何回もデートを? あれは‥‥シティーデートだったのか? サバイバルデートだったのか‥‥‥?)
もはや、自分たちが中国に渡って来た理由すら忘れかけている池である。
「それじゃ、急いでね☆」
にこやかに微笑んで、吉田は部屋を後にする。
完全に放心状態の池を残して。
「ふぅ‥‥‥」
一度自分の部屋に戻った吉田。吉田自身の準備も、後一歩という所で済んでいない。
「遅かったかも知れんけど、やらんよりはマシだろ‥‥‥多分」
その十分後、何やらいつも以上に身なりに気を遣って現れた池速人を出迎えたのは、機動性抜群の迷彩服に身を包んだ吉田一美であった。
秘法・『久遠の陥穽』。
太古のフレイムヘイズが、『創造神』を封じるために編み出した、対象物をこの世と紅世、両界の狭間へと追放する究極の"やらいの刑"である。
秘法、とは言っても、作動させるための手間が大掛かりなだけで、その原理自体は然程難しいものではない。
通常、徒らが紅世からこの世に渡り来る際に使う(と、いうほどに意識すらしない)『狭間渡り』の術法の応用だった。
通常、『狭間渡り』は、紅世からこの世に渡る際には『人間らの感情』、逆にこの世から紅世に帰る際には『同胞らの渦巻く力』、それぞれとの共振を以て道標とする。
これら共振が、闇夜の灯台、あるいは太い引き綱となって、海=両界の狭間が荒れていようと、泳ぎ着く先を示し、引き寄せる力となるのである。
ちなみに、フレイムヘイズらが危惧する『歪み』とは、この『海』が荒れてしまう事を指す。
秘法・『久遠の陥穽』は、この共振を遮断した状態で、対象物を両界の狭間に転移させてしまう。
つまり、目隠しをしたまま大洋に迷うも同然、広大無辺の彼方を、永遠に彷徨うしかない。
だからこその、破られるはずのない、不帰の秘法。
それが、数千年の時を経て、破られる。
「おおぉー! これが『詣道』! 意外と地味だけど、天然のトンネル?」
まず、ゆかりが好奇心丸出しの、やたら嬉しそうな声を上げた。
霞んで失せる何処までも、全てが大地という、"天の無い世界"。
足下、左右、頭上、前方、その全てに、大地が在る。
両界の狭間に創られた、彼方に眠る神の本体へと至る道。大きく曲がりくねった管の内面、その全てが大地で構成されていた。
両界の狭間には、物理的な距離や位置関係は存在さない。
ここは、いつか必ず帰る自身を、眷属らが見つけやすくするために"祭礼の蛇"が、『創造神』の力を振るって作りだした道‥‥名を、『詣道』。
それを見てはしゃぐゆかりを見て、悠二の左手の『ウロボロス』から声が上がった。
「フレイムヘイズは誰一人として知るまいが、余はあの秘法に飲み込まれる寸前、余の『軍師』より『旗標』を受け取った上で放逐されたのだ」
何やら得意気に語りながら、ベルペオルの方にチラリと視線を向ける。
話を継ぐように、今度はベルペオルが続ける。
「その『旗標』の所縁を巫女たるヘカテーが手繰り寄せ、『託宣』として受け取っていたのが、数千年掛けて編み出し続けた自在式・『大命詩篇』。それによって、多少風変わりな形にはなったが、『盟主』がこの世で力を振るう『代行体』‥‥まあ、今の悠二になったわけさね」
知っている者、知らない者、等しくその言葉に耳を傾け、『詣道』を眺める。
否、そんなおとなしい反応をしない者もいた。
「ェエーックセレント! ェエーッキサイティング! 素ぅー晴らしいっ規模! 確ぃーっかなっ存在感! 在ぁーっり得ない事を在らしめる、前代未聞空前絶後奇ぃー妙奇天烈摩訶不思議の、まっ、さっ、にっ! 神のぉーっ御業!!」
「そうだ。余が業を振るい、作った、余に至る‥‥細く、小さく、脆い道だ」
傍らの大回転、やや自嘲気味な左手のブレスレット、双方に目をやった後、悠二はヘカテーに訊く。
「ヘカテー、どう?」
「‥‥このまま、前へ」
錫杖を前に翳し、告げる。
今度は、その行動に対して、フリアグネが反応した。
「前へも何も、大きな一本道だけじゃないか。さっさと行って、終わらせてしまった方がいいと思うけどね」
全く、当然の疑問。傍目に見れば、大きな一本道を前に、小さなヘカテーが「このまま真っ直ぐ!」とやっている姿は、ややシュールですらある。
その疑問に、悠二が応える。
「この『詣道』は、見たままの単純な道じゃない。距離なんて概念は存在しない。"そこ"に至る業苦や艱難、あるいは不可能という"状況"を、神の力で『道』という形に"実体化"した仮初の物だ」
つまりは、何が起こっても何の不思議もない、全く予測不能の地。
『三柱臣(トリニティ)』をはじめとする、相当な大戦力をこちらに割いたように見えて、実際はこれでも十分な戦力だという確証は全く無いのだった。
言って、緋色の衣と凱甲が、漆黒の竜尾が解け、悠二の姿がミステスのそれへと戻る。
「そういう事だから、ヘカテーからあんまり離れすぎない」
「はうっ!?」
やや先行して駆け出そうとするゆかりの首根っこを引っ掴む。
その様を、ベルペオルがほんの少しだけ険しく見て取った。
「『大命詩篇』の持続時間、どこまで延ばせたね?」
訊かれ、一瞬何の事かと思案した悠二は、すぐにそれが『彼』との共鳴時間を指している事を悟って、応える。
「‥‥うん、ただ同調したまま立ってるだけなら、一時間くらいは持続出来る。‥‥まあ、戦いの状況次第で、どれくらい縮むかわからないけど‥‥‥」
それを聞いて、ベルペオルは少し、表情を明るくした。『詣道』に入ってすぐに解くから、もっと短時間しか変われないかと思ったのだ。
「ふむ‥‥まあ、せいぜい肝心な時にしくじらないようにしておくれ」
「はいはい」
悠二の通常時の能力と合わせて、一応の安心を得るベルペオル。そして、何となくうやむやになったフリアグネの疑問には、シュドナイが応えた。
「つまり、ただ真っ直ぐ進んでも行程は捗らん。『旗標』の大きな指針、そしてヘカテーの共振による小さな指針を頼りにして初めて、俺たちは確かな道を行ける、そういう事だ」
悠二、そしてシュドナイの言葉を言葉を耳に入れて、今度はゆかり。
「‥‥ドミノの機械は、そのため?」
見ればゆかりの視線は、ドミノの背負った機器類、その内に見えるメーターの様な物に向けられていた。
「はいでございますです、姫様。現在、この地の『詣道』は実体化率にして54%、ごくごく初期の作例につき、狭間の状況によっては39%まで落ち込むようでございますです。現状では、方向さえ確認していれば、所に迷う危険性も少ないかと〜」
ピーッと蒸気を吹きながら、くるくると目を回すドミノ。何となく、その上にゆかりが搭乗する。
先ほどの「離れすぎない」発言に反応してか、ヘカテーが悠二にぴったりと寄り添う。
こんな時にも相変わらずな二人に苦笑しながら、悠二が一歩を踏み出した。
「行こう、先は長い」
そんな悠二も含めて、暢気だと呆れるシュドナイとベルペオルが、顔を見合わせて肩をすくめ、忠告に従い、マリアンヌの手を取って遅れないようにフリアグネが続く。
はしゃぐ教授は、ゆかりを乗せたドミノが気に掛ける。
「人間たちよ、陽気にやろう♪ くよくよ嘆くは愚の骨頂♪ ふところ具合は悪くとも、回る世界は踊るが勝ちさ♪」
最後尾を、リュートを爪弾くロフォカレがフラフラと歩きながら、一行は未踏の『詣道』を行く。