「‥‥‥この世の本当のことを、変える?」
「そ」
中国大陸、その広い、広い空を、高く、高く、渦巻く何かが飛んでいた。
高すぎて、凍えるように寒い。だからこそ、下界の何者も彼女らを見いだせない。
何より、その速度はあまりにも速すぎる。
「やはりあの、ミステスか‥‥‥」
渦巻き、空を貫く琥珀の中に在る一人、『剣花の薙ぎ手』が、考え込むように頷いた。
「あら、あなた悠二と面識あったんだ? だったらヴィルヘルミナの報告の後にすぐ動いてよね」
虞軒の言葉に、軽く嫌みで返すのは、この特殊な空間を先頭で操る、"彩飄"フィレス。
「‥‥‥‥‥‥‥」
それに、虞軒は反論せずに口をつぐむ。虞軒には、その報告は届いていない。
『傀輪会』と他組織間との軋轢や、外界宿(アウトロー)自体の伝達の悪さ、想像すれば理由は幾らでも思い付くが、この百年、『傀輪会』の大老に限らず、人間の構成員に世事や些事を任せっきりにしていた自分たちフレイムヘイズに大きな落ち度があったのは確か。
何より、言い訳など無意味だ。結果として中国フレイムヘイズは壊滅したのだから。
そして、それがまず間違いなく、世界規模の戦いの流れを、大きく敵に傾けてしまったのだから。
「‥‥子供のわがままか。そんな理由に世界ごと付き合わされる俺たちにとってはいい迷惑だ」
「夢を見るのは結構だが、過ぎた妄想は少しばかり無様だね」
虞軒と違い、二人で一人の『鬼功の繰り手』は憮然として言う。
サーレに至っては大した気負いも憤怒もない。彼は教授の『強制契約実験』によって生み出されたフレイムヘイズ。
それゆえに、通常なら紅世の王が契約の際に目印にし、そして契約後も利用する、強烈な感情、あるいは戦う理由が無いのだった。
それでも彼がフレイムヘイズとして戦っているのは‥‥実は今でも大して理由など無い。
強いて言うなら、『ただなんとなく』である。
ちなみにキアラは話のスケールの大きさに、口をパクパクとさせて黙っている。
‥‥何も言えなくなっているの間違いか。
「さっきまで全然信じてなかったくせに、今度はやけにあっさり信じるのね」
フィレスは、つい先ほどの戦い、その封絶にサーレ達が飛び込む、否、"サーレ達を放り込む"前の事を思い出して言う。
初めから、フィレスは脱出に備えて封絶の外で待機していたのだ。この自在法・『ミストラル』の力で。
「そりゃ、"あれ"見た後じゃ信じるしかないでしょ?」
「それで? 信じたんなら、さっきの提案受け入れろって言いたいわけ?」
金魚になっているキアラに代わり、ヴェチェールトニャヤとウートレンニャヤが訊く。
「そう、"あの時"と同じよ。利害の一致、あなた達にとっても、悪い話じゃないでしょ?」
言ったフィレス、言われた二人にして五人のフレイムヘイズは、過去へと思いを馳せる。
遠くハワイの地で、片や酔狂な約束、片や討ち手としての戦い、双方の目的の為に共闘した事があった。
だが、フィレスのその言葉に、サーレは引っ掛かる。
「"利害"‥‥ねえ。お前さん達が『戦争』に加担するって事自体、俺たちからすれば眉唾物だ」
言外に、『理由を話さなければ信用出来ない』、と含ませる。
対するフィレスはあっさりしたものだった。
「別に? 私たちの『零時迷子』、他人任せにして壊されでもしたらたまらないしね。それに、ちょっと放っておけない娘がいるのよ」
「えっ、と‥‥‥‥?」
フィレスの言う『放っておけない娘』、の意味が今一つわからずに首を傾げるキアラの頭をポンと叩いて、
「それじゃ、"私"の所に向かうわよ!」
サーレ達の返事も待たず、フィレスは空を切って飛ぶ。
緋色の衣と漆黒の竜尾を靡かせて、一人の少年が夜空を見つめていた。
『盟主』、"祭礼の蛇"坂井悠二である。
「‥‥‥よし」
夜に溢れる光の下、身の奥底で力を充溢させてゆく。呼応するように、黒い火の粉が周囲を漂う。
悠二の隣で、自らの功績から期待の眼差しを向けるヘカテーの頭を、くしゃくしゃと撫でる。
くすぐったそうにそれに身を委ねるヘカテーに目を細め、再び空に目を向ける。
その黒い瞳が、月も星も越えた先に在るものを捉えんと、光を吸い込んでいる。
遥かな太古に"祭礼の蛇"を放逐した秘法・『久遠の陥穽』によって生じた微かな歪みが、月日と共に漂いきたのが、この地。
それを、ヘカテーがその、誰にも真似出来ない力で見つけたのだった。
炯炯たる黒を宿した瞳が夜空の一点を捉え、悠二はゆっくりと腕を差し上げた。
明るい星天をすら塗り潰す力、創造神の証たる黒き炎が、その掌から溢れ出し、渦巻いてゆく。
その光景を見つめるのは、悠二やヘカテーだけではない。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の全ての徒が、この創造神の御業を見ていた。
黒き炎は既に、頭上一円の空を埋め尽くす。暗雲とは異なる渦巻く力感が、闇ではない黒の在る事を、見る者の目に、心に刻み付ける。
悠二は、その力の充溢を全身に感じて、歓喜のままに、差し上げた腕を引き戻し、胸元で拳を作る。
拳には、鋼をも容易く握り潰す剛力が宿っていた。
悠二の左手の『ウロボロス』にその意識を表出させる真の盟主も、感情が高まるのを抑えられない。
まさに、まさに今、この時のために必要だった、代行体。その役割を引き継いだ少年が今、『大命』への道を創り出す。
誰もが、黒天の空を見上げる。
天を埋める黒い炎は、緩く深い脈動を、大気に伝えている。
脈動と合わせて、悠二は胸元で握った拳に、全力を込めた。
「‥‥‥‥‥‥」
黒い炎と時の刻みが同調し、迫る予感が、確信へと変わる。刹那‥‥‥
「命ず‥‥‥」
拳が、
「『神門』よ、在れ」
指の一差しとなって、中天を突く。
ズンッ
と、脈動が強く大気を震わせて、『仮装舞踏会』の徒たちが沸き立つように喝采を上げる。
「ひゅう♪ 惚れるねぇ悠二!」
「ふっ‥‥」
「これは‥‥‥!?」
「大丈夫、なんですか!?」
傍にいた仲間の内の何人かも、興奮からか口々に騒ぐ。
黒く燃え立つ空が、指を差され、窪んだ一点に向かって、収縮を始める。
爆縮とも見える現象は渦も巻かず、ただ引き込むように炎を呑み、月と星の空を蘇らせた。
残されたのは、要塞にほど近い宙に浮く、漆黒の珠。
その輪郭から銀の炎がほとばしり出た。
目を煌きに焼く炎は一頻り暴れると、凍り付くように固まり、流麗壮美な銀細工の縁取りと化す。
珠もいつしか平面となり、その全貌は、何物も映さず、返さない、巨大な黒き鏡へと形作られていた。
(何か、私の『銀沙鏡(ミラー・ボール)』に似てる‥‥)
その『神門』の姿に、ゆかりは自身の自在法に近しいものを感じた。
それが、自分が悠二によって生まれ変わった存在だからなのか、それとも悠二の願い‥‥その象徴となった自分がイメージに反映されているからなのかは、よくわからない。
だが、何となく繋がりを感じて、嬉しくなった。
「っ! ‥‥‥‥」
『神門』の完成から間を置かず、時は零時を迎え、悠二はほぼ全て放出した力をすぐさま取り戻す。
ふわり、と、悠二が舞い降りた。
今立つ尖塔よりも幾らか低い、半円形のテラスの突端部へと。
悠二の周りにいた者たちもそれに倣う。
舞い降りる少年に照らされて、地に、銀影の輝きが映った。
空を黒天に染めた者が、今、地を銀影に染めて、『仮装舞踏会』に告げる。
彼らを束ねる者として‥‥‥。
「心に、予感は在るか?」
ここにいるのは、征討軍を除いた、『星黎殿』の守備隊と直衛軍のみ。
それでも悠二は、彼の兵らに向かって傲然と、燃え立つ喜悦を込めて、声を投げ掛ける。
「身に、戦きは在るか?」
悠二の言葉に、一度は静まり返っていた空気が、また爆発を堪えるように淀み始める。
「それが、余と進む者の証だ」
興奮が、張り裂けんばかりであるようだった。
「余は、これより自身、大命の第二段階を敢行する。すなわち頭上、創造せし『神門』を抜け、『久遠の陥穽』の彼方で待つ、我が義父‥‥『創造神』"祭礼の蛇"の神体を帰還させる!!」
鈍い響きが、遂に緊張を破って、興奮を露にしていく。
「残される汝らに命ず! 余の帰還の時まで、この『星黎殿』を守り抜け! そのために、研ぎ澄ませた剣を振るえ、牙を剥き出して咆えよ、熱くたぎる炎を燃やせ、知勇を振り絞り駆けよ!! 存在だ、存在し顕現する身の証に、全てを奮い起こせ! 戦え! 戦え!!」
今まさに爆ぜる寸前だった全軍が、圧倒されて静まり返る。
ただ、次なる行為への準備だけは万全であった。
「さすれば、大命の最終段階、世界の変革へと手は届く! 今度、こそ!!」
いつの間にかヘカテーと繋いでいた手とは逆の片腕を、悠二は野望のまま振り上げた。
一拍、
空気の爆ぜるような歓呼の声が、沸き上がった。
『創造神"祭礼の蛇"万歳!!!』
その一声のみを合わせて、後はもう、言葉にならない大狂熱の轟音が、醒める事なく響き渡る。
悠二の周りも、旅立ち前に言葉が交わされる。
「ちょっと、演出過剰じゃない?」
「いや、これからの戦いへの鼓舞にするなら、あれくらいで丁度良いくらいさね」
茶化すゆかり、それを笑って否定するベルペオル。
「フェコルー、俺たちの出立後の事、任せたぞ」
「はっ、プルソンらもおります、後事はお任せを」
シュドナイとフェコルーが、最終確認をし、
「ふふ、いよいよ面白そうになってきたね。私の可愛いマリアンヌ」
「え、はい! でもちょっと不安が‥‥‥」
フリアグネが子供のように目を光らせ、マリアンヌが怖じ気付く。
「おじ様、不測の事態への対処、くれぐれも宜しくお願いします」
「んーっふふふ! ルゥーックヒア! 心配はナァーッシンです! 起ぉーこり得る事象も全てっ! こぉーの"我学の結晶"ェエークセレント252548『論誼のぉー笈』により『大命詩篇』との照合を‥‥‥‥‥」
ヘカテーが念を押し、教授が怪しげな機器類を山ほど背負って騒ぐ。
最後に、どういうわけかリュートを奏で歌っている楽師・ロフォカレを視界に認め、悠二は一度目を瞑り‥‥‥
「‥‥‥‥‥」
再び開く。
視線の先には、黒の『神門』。
(自分が人間じゃなくても、ちっぽけなトーチでも‥‥徒でだって、関係ない)
その先にこそ、道は在る。
(‥‥‥やってやる)
決意を新たに胸に抱いて‥‥‥
「いくぞ!」
悠二は舞い上がった。
それに、ヘカテーが、ゆかりが、ベルペオルが、シュドナイが、フリアグネが、マリアンヌが、教授が、ドミノが、ロフォカレが続く。
旅立ちを知った軍勢のあらん限りの歓声に送られて、舞い上がる。
その中で、旅立つ者たちだけに聞こえる声で、ヘカテーが呟いていた。
「未踏も遼遠も、越えてみせる‥‥今こそ!」
その呟きに皆が微笑み、悠二がその手を取った。
願いを抱き、その成就を目指して、少年たちは突き進む。
向かうは『神門』、両界の狭間へと‥‥‥。