「‥‥‥‥‥‥」
迂濶に声を出す事も許されない、極限の緊張状態。
(動けば、やられる‥‥)
いや、動かなくても同じか。そもそも、自分はこいつの動きにまともに反応する事が出来るのか。
目の前に立ちはだかるのは、獰猛な虎。今まで生きてきて、これほどのプレッシャーを感じる存在と直面したはない。
(どうする?)
どうもこうもない。自分に課せられた使命、役割を果たすだけだ。
(自分で決めた、事だ!)
「ガルルルルル!」
中国奥地の樹海で、今まさに池速人は絶体絶命の危機に陥っていた。
じりっ
動かない。
じりっ
まだ動かない。
ザッ! ‥‥パシッ!
冷や汗でびしょびしょになりながらも、太くて握りやすそうな棒を拾う。
眼前の虎は警戒しているのか、池が走り出した瞬間、ビクッと反応したのみだ。
だが、逆に今ので完全にスイッチが入ってしまったようだ。
牙を剥き出して唸り、少し重心を落とした、まさに飛び掛かるための予備動作のような構えになった。
(多分、次に動いたら、その瞬間に食い付かれる‥‥‥)
逃げるにしても何にしても、それはおそらく同じだろう。
こんな木の棒で虎の力を防げる自信は無い。だが、上手く鼻とかに当たれば怯んで、逃げてくれるかも知れない。
(どっちにしろ、命懸けには変わりないか‥‥)
木の棒を無事に手にできただけ、幸運だと見るべきだろう。
後ろを、一瞬振り返る。
(吉田さん‥‥‥)
前方の虎のプレッシャーのせいで、表情を確認する事は出来なかったが、それでも後ろに彼女がいる。
彼女だけは、絶対に助からなければならない。
(結局、坂井達の事は見届けられなかったけど‥‥‥‥)
「吉田さん、走って!!」
(僕は結局、皆の事情を知る事さえ出来なかったけど‥‥‥)
吉田が逃げるのを確認もせずに、虎に向かって飛び掛かる。
(君を守れるなら、本望だ!)
決死の覚悟を決める池‥‥の横を、
「ほーーー!!」
人間大の影が猛スピードでよぎり、
「グァウ!?」
虎の鼻にクリーンヒットした。
その正体は、池が今まで半ば意識的に認識から除外していた‥‥
「じいやさん!?」
じいや‥‥ではなく、"聚散の丁"ザロービのドロップキックである。
「この場は私めにお任せを、池殿は吉田殿を連れて安全な所へ‥‥ぬあ!?」
無茶をしようとする池を吉田共々避難させようとするザロービに、虎がのしかかる。まさに、今すぐにでも喉元に食い付かれてしまいそうな状態。
「う、うわあああ!」
そんな虎に向けて木の棒を振るおうとする池、よりも速く、
「「ほーーー!!」」
「へ‥‥‥‥?」
またも、意識外からの闖入者が現れ、再びのドロップキック、しかもダブルである。
「なっ!?」
池が驚愕の声を上げるのとほぼ同時に、
「「ほーーー!!」」
さらにダブルで現れ、虎のしっぽを踏ん付けた。
池が動揺するのも無理はない。
たった今ザロービを助けた二人‥‥否、四人が、"ザロービと全く同じ姿をしている"のだ。
唯一の違いは、迷彩服に不似合いな、首に巻いたスカーフの色がそれぞれで違う、という事くらいである。
『ほっ! ほっ! ほっ!』
同じ顔の中年五人が虎を囲んで構えを取り、それを池が呆然と見ている背後で、
「五つ子だ」
ジャキッという音と共に、吉田の落ち着き払った声が聞こえ、
ドンッ!
森に銃声がこだまして、先ほどから戸惑いまくっていた虎は、その音が決定的となって逃げ出した。
「吉田さん!?」
「大丈夫だって、素人の腕じゃ、この距離でも当たんないだろ。単なる威嚇だ」
誰も虎の心配などしていない。というか、その理屈で言えば誤って自分たちに当たる可能性もあったのでは?
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする池を見て、吉田も訂正し直す。
「それも冗談、空砲だ」
池としては、「本物じゃなくてオモチャだ」と言って欲しかったが、今の言い方からして本物ではあるらしい。
「「「「では、我々はまたフォーメーションを組み直しますので」」」」
「ああ、周囲の警戒よろしくな」
虎去りし後、ザロービ*4も散り散りになっていく。
どうやら、今までも彼らが見えない所でサポートしてくれていたようだ。
「‥‥吉田さん、あの人たち‥‥‥」
「五つ子」
「‥‥‥‥その銃は?」
「本物」
「‥‥‥‥‥‥」
先ほど、命懸けの覚悟を決めはした。しかし‥‥‥‥
(何か、やっぱり‥‥)
それはそれとして、自分たちは何か、とんでもない事に首を突っ込んでいる、と再認識する池であった。
「はあっ‥‥はあっ‥‥はあっ‥‥!」
地の利はこちらにあった。自分たちが永く守り続けてきた、この上海の地だったのだから。
支部を各個撃破する、という敵の思惑に気付き、総本部に討ち手らを集結させた。これも、適切な判断だったはず。
何より中国のフレイムヘイズは集団戦闘に長ける、という特性を持ち、有能な指揮官も同時に存在していた。
(万全の状態で迎え討った‥‥‥)
そのはずなのに、結果は惨敗。
こちらの戦力集結の意図を敵に看破され、信じられない事に、敵の『軍勢』の総数はこちらを軽く上回っていた。
それだけではない。地の利を得、集団戦闘に長ける、と自負していた自分たちの用兵を容易くいなし、逆に虚を突き、士気に溢れ、敵勢総崩れを狙って襲撃した敵の部隊長を相手に、こちらのフレイムヘイズは全敗を喫した。
個の力、集団の結束、連携、全てに於いて悉く上を行かれたのだった。
勝てる自信があったからこそ、他国に応援を求める、という選択肢を取らなかった。いや、応援を呼んだとしても、間に合ったかどうか‥‥‥。
(『傀輪会』を逃がせただけでも、良しとするしかないか‥‥‥)
もはや大勢は決し、上海外界宿(アウトロー)総本部は陥落した。
その中枢たる『傀輪会』は、人間のみで構成されている、という特色を持っていた。
だから逃がした。逃げ場を完全に塞がれる前に、人間であるという特色を活かして。
そして、自分という囮を用いて。
フレイムヘイズ、『剣花の薙ぎ手』虞軒は今、それこそを自分の目的としていた。
万全の態勢で迎撃した屈強な中国のフレイムヘイズを、容易く壊滅させた強大に過ぎる敵の情報を、一刻も速く同胞たちに知らせる必要がある。
そして、
(項辛、お前は‥‥逃げ切れたのか‥‥‥?)
自分を愛してくれた、人間の男も、生かしたかった。
『今、我らが真に為すべき事を考えろ』
偉そうに説教を垂れて‥‥‥‥
『案ずるな、奴らの気を引く事さえ出来ればそれで良いのだ。むざむざやらるなどしない、上手く逃げ仰せてみせるさ』
不敵に笑った。
上手く笑えたつもりだったが、長い付き合いだ。気付いていた可能性はある。
事実として、逃げ切るのは難しい。
これほどの相手。そう易々と逃がしてくれるとは思えな‥‥‥
「っ!?」
考えながら建物の屋上を跳び渡っていた虞軒、その一帯を丸ごと、陽炎のドームが包み込んだ。
(馬鹿な、早すぎる!)
斥侯に目撃されたとしても、それから本体が動くにはあまりにも早すぎた。
斥侯が独断で攻めてきたわけではない。気配の大きさ、封絶の大きさでそれはわかった。
(! ‥‥これは)
そして、さらにもう一つ気付いた。
封絶を埋める炎、その色である。
濁った、紫。
(よもや、こやつら‥‥)
向かう先のビルの上でだらしなく足を投げ出して寝転ぶ男を、見つけた。
(『仮装舞踏会(バル・マスケ)』とはな)
男は傍らにあった槍を取り上げて立ち上がり、一跳び、虞軒の向かいのビルに跳び移る。
その後ろに、黒服の男と白服の女が追従していた。
その大敵を前に、まずは虞軒の腰にある直剣・『昆吾』に意識を表出させる"奉の錦旆"帝鴻が賞した。
「久しいな、"嗤尤"。古にはない並み居る猛き討ち手らを、古にはない起伏間隙の戦場を、よくぞ討ち平らげた」
対する男、"千変"シュドナイはその古めかしい言いざまゆ逆に笑う。
「古にはない、か。これでも大分、当世かぶれしてるつもりなんだが、な」
それに対して今度は虞軒が、シュドナイの行動を笑った。
「だが、大将自らがこんな所まで出て来ようとはな。悪癖は相変わらず、か」
言い、腰の直剣を抜き放ち、突き付けた。
「悪癖とは随分だな、機を見るに敏、と言って欲しいもんだ。事実、もうお前たちしか残っていない。深追い、という状況でもないだろう?」
「‥‥‥‥‥‥」
分かり切っていた事実を口に出され、今さら動揺はしない。
ただ、シュドナイの言う『全滅させた連中』の中に、『傀輪会』の大老が、項辛が混じっているかどうかだけが気になり、しかし当然確認など取りはしない。
ただ、せめて一矢報いんと剣を構える。
シュドナイもその意気を理解し、槍を一回し、ドシッと脇に掻い込んだ。
「"嗤尤"、か。未だその名を呼んでくれる知己を失うのは辛いな、だが、せめて‥‥‥‥」
その仕草だけで、見る者を身震いさせるほどの剛力が見て取れた。
「スッパリ、気持ちよく別れるとしよう」