‥‥一体、これは何なのだろうか?
「準備は整いましたか?」
「まだ、もうちょっと」
中国に渡ってから二週間。自分が想像していたような展開に則したように時々、異様な緊張感を漲らせていた吉田だが、実際にしていたのは観光だった(少なくとも、自分から見たらそう思えた)。
てっきり、悠二たちの居場所が掴めないから慌てず騒がず、という事なのかと思っていた。
が、
「あの、吉田さん? これからどこに?」
「サバイバル」
自分も、吉田も、背中に大きな荷を背負い、迷彩服にその身を包んでいる。
じいや氏も迷彩服だが、首に巻いた赤いスカーフが何ともミスマッチである。
「‥‥‥今から、ここに入るの?」
目の前に広がる景色と今の自分達の格好から、予想がついてはいたが‥‥。
「ご心配なさいますな。あなた方の身の安全はこの私めが保証させて頂きます。これも我が身に余る栄誉ある務めなれば、全身全霊で以て当たるつもりでございます」
「じ‥‥じいやさん」
こんな、こんな何のために来たのかもわからないような子供にそこまで‥‥。
おまけに『務め』。これは、いよいよ自分の憶測が信憑性を帯びてきた。
池の予想(妄想)は実際は"要点としては"概ね正解である。
吉田や池自身がヘカテーの実家の関係で動いている事も、ザロービがヘカテー(仮装舞踏会)のために手助けをしている事も。
ただし、じいやではない。
そして、吉田は池に真相を話すつもりはこれっぽっちもない。
何も知らない少年・池速人、
「んじゃ、行くぞ」
今、とても普通の人間が入るとは思えない樹海に、足を踏み入れる。
『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルからの緊急の書簡に書かれていたのは、あまりにも突拍子もない事だった。
直接的で積極的な闘争行動を数百年もの間とらなかった紅世の徒最大級の集団、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』。
その『仮装舞踏会』が今、放逐された『盟主』、"祭礼の蛇"の力を操る『代行体』たる"ミステス"の少年をその玉座に据えて、再びかつての望みを果たすべく動きだした。
即時、全世界のフレイムヘイズに伝令を回し、その対処、野望の駆逐に全力を注げ。
まるで子供の空想、タチの悪いイタズラとさえ取れる文面であった。
この情報の出所が、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルでなければ‥‥‥。
それでも、情報の伝達と対処は驚くほどに、いや、あるいは当然のように鈍かった。
紅世真正の魔神、"天壌の劫火"直々の要請も、ほとんど効果無し。
彼が『炎髪灼眼の討ち手』と共にその大威令を誇ったのは数百年も前の事、今では外界宿(アウトロー)の中枢部に彼をよく知る者が、人間はもちろん、フレイムヘイズすらほとんどいなかったためである(シャナだけが知る事だが、アラストールはこの零落がかなりショックだったらしく、しばらく意気消沈していた)。
ただ、全く運がなかったわけでもない。
同じ国に、事情をよく把握、納得出来て、かつ今のヴィルヘルミナ達よりも信用度が高く、何より、直接外界宿に詰めていた者がいたからだ。
それが‥‥最も早く、この情報に食い付き、それを大々的に広めたのが、『輝爍の撒き手』レベッカ・リード。
自身の"直接的"な邂逅や、ヴィルヘルミナとは数百年来の知己である事もあり、そのあまりに信じ難い情報を、すぐさま公式な物として布達した。
それでも、伝達はともかく、対処は鈍い。
それも無理からぬ事。
信用できるのはせいぜい情報の出所たるフレイムヘイズの名前だけ。内容はお伽話に近く、要請は全世界規模。
そんな状況で、そう簡単に動けるわけがない。しかしそれでもフレイムヘイズも少しずつ用意が整っていっていた。
ただ、その遅々とした進みは、それに掛かる時間は、今という状況ではあまりに大きい。
「‥‥‥‥‥‥‥」
会えばわかる。何の根拠もなしに、そう思っていた。
ヘカテーが消えてから、いや、違う、きっと坂井悠二に出会ってから、ずっと胸の中で燻っていたもやもやしたものに、形を持たせられると。
自分が考えていたものとは違っていたが、それは結果として為し得たのかも知れない。
それは、「会えばわかる」などという曖昧な形のものではない。
自分、坂井悠二、ヘカテー、今まではその特殊な在り様ゆえに目を瞑っていた‥‥違う、目を背ける事が出来ていたものを、明確に見せ付けられたからだ。
『倒すべき敵』という明確な関係となった事で、目を逸らさずに見るしかなくなったのだ。
自分を、悠二を、ヘカテーを‥‥‥。
(‥‥坂井、悠二)
思えば、最初から気に入らないやつだった。
いきなり出てきて、こっちの在り方を否定してくる、生意気なミステス。
反発のような出会い、『監視』という大義名分を掲げて、彼らの近くで過ごすようになった。
最初は、純粋に監視という目的だった、と思う。
(でも‥‥‥‥)
自分は、フレイムヘイズになるために、そのためだけに育てられ、自らも選び、その道を歩いてきた。
そんな自分から見た時、坂井悠二達は、自分の知らないたくさんのものを知っていた、持っていた。
そして、いつしか自分も少しずつ、そんな流れの中に身を置き、それを心地よいと感じるようになっていた。
ただ、それでも坂井悠二にある種の不快感をいつも感じていた。いつも、一定以上に近づかないようにしていた気がする。
いつもヘカテーやゆかりと一緒にいる悠二を、冷めた目で見ていた気がする。
でも‥‥‥
(違う)
ヘカテーが消えても、その不快感は消えなかった。むしろ、大きくなったとさえ言えた。
そして、今度はゆかりと一緒に悠二までも消えた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうしたらいいのかわからなくなった。
(私は‥‥‥‥)
そして、敵として自分の前に現れた悠二の隣には、あの二人がいた。
(私はずっと、目を背けていた‥‥‥)
この世に害を為さない存在として、"フレイムヘイズ以外として対する"存在だった彼らに対して抱いていた想いから、目を背けていた。
自分でも理解していなかった、だがそれは言い訳だ。
自分は、無意識の内に"逃げていた"のだ。
(理解出来なくて、でもフレイムヘイズとして対処出来ずに、ただ惰性の先に逃げていた)
そうする事に、何の問題もなかったから。
そうしていても、何がどうなるわけでもなかったから。
だが、変わってしまった。
少年は、目の前で自分に、剣を突き付けていた。
その隣に、少女もいた。
(私、だったんだ‥‥!)
あの時を経て、理解した。
それまで、悠二が悪いのだと、だから自分が不快になるのだと思っていた。
(‥‥でも、違った)
自分が、悠二に他の女性と一緒にいて欲しくなかった、仲良くして欲しくなかったのだ。
だから、いつもヘカテーやゆかりと一緒にいる悠二に、怒りにも似た感情を抱いていた。
原因は自分の、悠二に対する気持ちだったのだ。
掛けられる言葉、居心地の良さ、困ったような微笑み、時々持つ事があった、二人だけの時間。
それらが全ての原因だった。
(だから、私は‥‥‥)
距離を取ったのだ。
悠二の傍にはいつも、ヘカテーがいたから。
近づけば傷つくと、ヘカテーやゆかりとの近さをわかってしまうと。
そう思ったから。
(逃げた‥‥‥)
羨ましかった。
自分はあれほど悠二の近くにはいなかったから。
恐かった。
自分はあの二人よりずっと遠かったから。
(なんて、無様な‥‥!)
自分がそんな醜態を晒している事にすら、気付いていなかった。
自分に剣を向けた悠二と、その傍らを見て、ようやく理解出来たのだ。
(‥‥‥私は、フレイムヘイズ)
そんな自分の今の状態、それ自体がフレイムヘイズとして許されるのかどうかすらわからない。
まして、坂井悠二は今や世界のバランスどころか理すらもねじ曲げようとしている、フレイムヘイズの敵。
(‥‥ヴィルヘルミナ)
自分を育てたフレイムヘイズの顔が、頭に浮かんだ。
「話せ、シャナ」
呼び出され、しばしの沈黙を破るように、メリヒムが口火を切る。
この部屋には今、シャナ、ヴィルヘルミナ、アラストール、ティアマトー、そしてメリヒムがいる。
皆、『天道宮』での日々の中でシャナを育てた者達。
シャナの抱えていた憂い、呼び出された意味、皆、その全ての意味を理解している。
「‥‥‥‥‥‥」
閉じていた瞼を開くシャナ。その目に強い決意を見て取る。
前の戦いで悠二に斬り掛かった時のような薄っぺらな意思ではない、強い芯を感じさせる決意の色。
そのシャナが、単刀直入に、はっきりと告げる。
「破壊はしない」
『っ!?』
「何を」、そんな事は皆理解していた。
シャナが『それ』を抱えて苦しんでいた事に育ての親たる彼らが、理解していた分、あるいはシャナ以上に胸を痛めていたのだから。
シャナも、それを理解している。
その上で続ける。
「私はフレイムヘイズ、世界の変革なんて、させない」
何を言われても決意を言い切る、そんな頑固さが感じられる。
「使命は果たす、でも坂‥‥"悠二"を壊したくない。どっちも私、どっちが欠けても私じゃない」
力が、決意が、シャナの言葉に、瞳に宿っていた。
決意を言葉として紡ぐ、その内に湧き上がる言い様の無い熱い感覚に、体が奮える。
『自分を誤魔化すのはおしまい。貴女と貴女を一つにする時が来たのですよ』
『おまえの道は、おまえが決めろ』
『忘れるな』
「私は、『私』の信じる戦いをする。そう決めた」
咆える少女の心に呼応するように、その髪と瞳が煌めく紅蓮に染まった。
『じゃあ、君はシャナだ』
『君はシャナ。もうただのフレイムヘイズじゃない』
その言葉が、嬉しかったから‥‥‥
「『炎髪灼眼のシャナ』として!」