「‥‥‥歌?」
「はい」
休日の昼下がり、買い物に出てきた一人の少女と一人の給仕が、偶然会った成り行きで河川敷を歩く。
(‥‥‥‥ふむ)
どうやら、この少女の想い人(自覚はないようだが)と親友による歌の話題について行けず、悔しい思いをしてしまったらしい。
いじけた雰囲気が妙に可愛らしいこの少女があの"頂の座"だというのだから、世の中わからない。
まあ、引きこもりとして有名な彼女が歌、というより世事に疎いのも仕方ないような気はする、が‥‥
(私も‥‥"新しい"歌舞音曲に素養が無いのでありますが‥‥)
(旧態以前)
ゴン!
「?」
声なき声で言葉を交わし、生意気なパートナーを自身の頭ごと殴ったヴィルヘルミナを、ヘカテーが怪訝そうな目で見る。
自らの醜態を誤魔化すようにゴホンと咳払いして、思考を巡らす。
(歌‥‥歌‥‥)
この少女やあのミステスには借りもあるし、共に『弔詞の詠み手』と戦った仲である。
何より、この無垢な少女が進んでこういう事を知ろうとしている事が妙に嬉しかった。
そういえば、この間から何故か『万条の仕手』ではなく、ヴィルヘルミナ・カルメルと呼ばれる。
(‥‥‥‥あ)
彼女の持つ、意外に広い音曲ほの親しみ、その中から一つ、浮かぶ。
無自覚で、それでいて泣いてしまうほどに大きな想いを抱く少女に、ぴったりの歌。
「古いもので、よろしければ」
「はい」
迷わず頷く少女。周りの民家は遠く、人通りもない。
少し間を置いて、ヴィルヘルミナは艶やかさよりも、巧みさにおいて賞されるべき清声を紡ぐ。
『新しい 熱い歌を 私は作ろう』
この少女の持つ純粋さ、それが持つ裏腹の弱さ、
『風が吹き 雨が降り 霜が降りる その前に』
それが、"自分のように"壊れてしまわないよう、心中で小さく祈りながら。
「‥‥オック語(オクシタン)?」
興味深げにこちらを見る少女を横目に窺いながら、構わず歌う。
『我が恋人は 私を試す』
「ヴィルヘルミナ・カルメル。その歌、後で教えてください」
やや身を乗り出してせがむヘカテー。どうやら気に入ってもらえたらしい。
しかし、
「了解であります」
この歌は、この少女に相応しく、しかし気軽には歌って欲しくない。
自分にとっても、特別な歌であるから。
ヴィルヘルミナは意外なほどに真剣な表情で告げる。
「この歌を歌うには、時と場合を選ぶこと。元の歌を我々に教えた人間は、この歌に大きな魔法をかけたと言っておりましたから」
「魔、法? 自在法ではないのですか?」
不思議そうに首を傾げるヘカテー。
「はい。そしてその時と場合がどういうものか理解できるまで、歌う事は許されない。そういう歌であります。それでも良ければ、お教えしましょう」
いつしか緊張した空気を漂わせる少女に、教える。
「題名は‥‥‥」
遥かな歌の、名を‥‥
「『私は他の誰も愛さない』」
「‥‥‥‥‥‥‥」
随分、昔の事を思い出した。
いや、長いようで一年も経ってはいないのか。
(今の私は、あの歌を歌う資格を持っている?)
自分が身勝手に御崎を飛び出してから、悠二と平井は追い掛けてきてくれたが、彼女達とはもう随分会っていない気がする。
少し前に再会した、『約束の二人(エンゲージ・リンク)』と二人の友達。
あの場は衝突を免れたが、自分はともかく、悠二と平井は姿を確認された。
彼女達にも、伝わっている事だろう。
(‥‥‥悠二)
愛する人。
(絶対に、守る)
例え、誰が相手でも。
「‥‥どんな時に、歌うべき歌?」
「何の話?」
星空を見上げ、零れるように呟いたヘカテーの後ろから、少年の声が投げ掛けられる。
「‥‥内緒です」
少し気恥ずかしさを感じて誤魔化し、踏み台からふわりと飛び退き、少年の胸に飛び込む。
悠二も、胸元にいるヘカテーを、包み込むように抱き締める。
二人で一つの影を作り、ゆっくりと降下していく。
(んぅ‥‥‥♪)
不思議だ。
こうやって抱き締めてもらうだけで、温もりを与えてもらうだけで、
どんな不安も忘れてしまえそうになるなのだから。
「ヘカテー」
「?」
呼ばれ、顔を上げた、まさにその瞬間。
ちゅ
「っーーー!?」
全くの不意打ち、予期せぬタイミングで、額に口付けられた。
「大丈夫?」
「知りません!」
未だに慣れない。いや、慣れる事など無いのかも知れない。不意打ちならば、尚更だ。
真っ赤になった顔を見られるのが気恥ずかしくて、悠二の腕の中でもぞもぞと動いて、悠二に背を向ける。
そんなやり取りをしている間に地に到達し、壁にもたれるように座った悠二と、その悠二を背もたれにして座るヘカテー、といった体制になる。
自然に、二人で同じ星天を見上げる。
「‥‥‥‥くす」
悠二が、小さく笑いを漏らす。
照れ隠しに背を向けたヘカテーの耳が真っ赤に染まっているのが何とも可愛らしい。
「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
少し、この場の神秘的な静寂を楽しみたくて、黙り込む。
悠二は、ヘカテーが御崎から消えてから変わった。
元々、悠二自身はさして自覚していないが、ヴィルヘルミナやマージョリーなどは気付いていた。
坂井悠二は、"その本質が感情の面にない"という事。
冷静な判断力も、自身の不安定で不気味な在り様を平然と受け入れているのも、全てそれに裏打ちされたもの。
激昂しようと、絶望に暮れようと、それらの感情は、理性によって方向づけられた『意志』を超えはしない。
だが、その特殊な性質のせいで、日常における"感情のみで対処すべき事態"にはひどく疎くて鈍い。
ヘカテーの想いを知り、また自身もヘカテーへの想いを募らせながら、あれだけ長く自覚が持てなかったのも、その性質による所が大きい。
ヘカテーがいなくなって、ようやくそんな性質を持ってしても想いに気付く事ができたのだ。
あれ以来、無意識下で、悠二は感じた気持ちをそのまま受け入れる事を、自分に戒めている。
そんな認識が、今の悠二の積極性を形作っていた。
「ヘカテー」
「‥‥はい」
しばし、美しい星空を眺める間に、ヘカテーも狼狽から脱する。
それは平静になったわけではなく、ひどく慌ただしく、落ち着かなかった熱さが、穏やかな温かさへの変化。
「大丈夫、自分を犠牲にして、望みを果たそうなんて気はないよ」
「!」
自分の不安を悠二に言い当てられ、ヘカテーは小さく身を震わせる。
温かさに忘れかけていた寒さを、再び想起させられる。
だが、悠二の抱擁で誤魔化した不安は、またすぐにヘカテーの心に陰を落とす。
だからこそ、悠二は言う。
「僕は消えない。"これ"は誰でもない、僕の願いなんだ」
悠二の言う"これ"が、自分達が歩む道を指している事を、ヘカテーは悟る。
穏やかな、それでいてあまりに強い声と表情に、惹きつけられる。
目が、離せない。
「君と一緒に歩いていく。そのためにも、願いを果たす」
「悠、二‥‥‥」
自分を守ると言ってくれた少年が今、どうしようもなく眩しく映る。
「一緒に行こう。僕の、大好きなヘカテー」
少女の頬に、星の光を受けた、一筋の光が在った。
『星黎殿』、そして、『天道宮』。
かつて一人の紅世の王"髄の楼閣"ガヴィダによって作られた、世界最大級の宝具。
ガヴィダは当時、芸術を生む人間に敬意を抱き、人間を喰らう己が在り様を忌み、宝具・『カイナ』に座して隠居し、『天道宮』で何処かへと消えた。
そして、その際に協力関係にあった『仮装舞踏会(バル・マスケ)』に、離別の代償として明け渡したのが宝具・『星黎殿』。
その後、ガヴィダはとある大きな戦いで命を落とし、『天道宮』は『万条の仕手』、"虹の翼"、そして"天壌の劫火"の手に渡り、新たな『炎髪灼眼の討ち手』を育てあげる揺り籠となった。
そのガヴィダは、『仮装舞踏会』には伝えなかった"注意"を、ヴィルヘルミナ達には伝えていた。
「俺の『天道宮』と、奴らの『星黎殿』は、迂濶に近付けちゃならねえ」
「理由は?」かつての『炎髪灼眼』、最強のフレイムヘイズは訊ねた。
「この二つの宝具は本来、日常を暮らす『陽光の宮廷』と、敵を迎え撃つ『星空の神殿』として作ってある。つまりだな、こいつらを一定距離まで近付けると、一つの宝具として"修復"を始めちまうんだよ」
"『天道宮』と『星黎殿』は、本来一つの宝具だった"。
「ほれ、この礎石で今は力を封じているが、それでも近付きすぎると、こいつの効力を越えて、機能が発揮される‥‥要するに、徒の大組織の本拠地と、自在に行き来できる通路が繋がっちまうってことさ」
ガヴィダは、危険を回避するためのつもりで注意を促した。
それは、数百年の時を経て、全く逆の意図で、ヴィルヘルミナ達の力となる。
「では、行くのであります」
「またあそこに戻る日が来るとは、な」
「ま、とりあえず一発ブン殴るトコから、かしらね」
「足、引っ張らないでよね」
「行こう、『天道宮』へ」