「‥‥‥‥‥‥」
ヴィルヘルミナ・カルメルは、彼女にしては少ない背嚢を、時間をかけて背負った。
細々とした着替えや日用品は持っていかない。
置いて行くのではなく、持っていかない。
(ふぅ‥‥‥)
きっかけは、吉田や佐藤、『約束の二人(エンゲージ・リンク)』から得た情報。
だが、決定したのは、あまりにあっさりとした一人の青年の一言。
『行くぞ』
自分が今まで悩んでいたのが何だったのかという、数秒程度しか間を置かずに返された一言で、この方針は決定した。
「ふふっ‥‥」
変わらない、全く単純な男に。それを頼もしく思ってしまう自分に、小さく吹き出す。
「気色悪」
余計な一言を告げる頭上のパートナー、“夢幻の冠体帯”ティアマトーを自分の頭ごとボカッと殴り、
「「っ〜〜〜〜!」」
つい強く殴り過ぎて、二人揃って身悶える。
「‥‥‥何をやっている? おまえは」
いつからそこにいたのか。ヴィルヘルミナの部屋の開いたドアの壁に背をもたれた紺色のコートを羽織った銀の長髪の男(こちらは手ぶら)。“虹の翼”メリヒムが、完全に馬鹿を見る目で呆れている。
「シャナも用意は済んでいる。馬鹿な事をしてないで行くぞ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
恥ずかしい所を見られたのを誤魔化すように首をブンブンと振り、気を取り直して立ち上がる。
「お待たせしたのであります。参りましょう」
「‥‥‥‥‥‥」
この街に来てから、平井ゆかりや坂井千草などの薦めもあり、必要性は今イチわからなかったが、親しい、と呼べるようになった人達の反応が嬉しくて、色々と服も増えた。
だというのに、今、旅立とうという時に、この街に来る以前のような格好をするのは、何故だろうか。
無骨な黒の上下に、黒衣・『夜笠』を羽織った姿。
窓ガラスに映った。機能性のみしか考えていない、以前と同じ姿を見て。
しかし、同じようには見えなかった。
「‥‥アラストール」
「うむ」
あれだけ、フレイムヘイズになってからは異例なほどに長い間考えて、結局わかった事は一つだけだった。情けない事に。
「‥‥‥‥‥‥‥」
幸か不幸か、フレイムヘイズとしての『大義名分』は、少し前の吉田達からの情報は出来た。
後は‥‥‥
「行く」
会ってみなければ、わからない。
「マージョリーさん‥‥‥」
「あんた‥‥何つー顔してんのよ?」
同刻、佐藤家の室内バーにも似たような光景があった。
必要なものは『神器』・『グリモア』に『収納』し、この室内バーの彼女にしては珍しくきちっとしたスーツドレスに身を固めたマージョリー。
「だ、だって! 世界最大級の徒の集団の本拠地なんでしょ!?」
最近少しはしっかりしてきたように思えてきた少年のいかにもみっともない狼狽具合にマージョリーが呆れる前に‥‥
「ヒャーハッハ! ケーサクよお、いくら殴り込みかけるったって、別に俺達で『仮装舞踏会(バル・マスケ)』を皆殺しにしようっとんじゃねーんだぜ?」
軽薄なようで情に暑いマルコシアスが、軽く佐藤に言い放つ。
それに、マージョリーも被せるように付け足す。
「そーそ。一発ド派手にぶちかまして、“お目当て”をひっさらって終了よ」
「そんな‥‥‥」
先日、ヴィルヘルミナが御崎の『関係者』を虹野邸に集めて開いた“とある提案”の告白会に、佐藤や吉田も参加していた。
いかに佐藤が未熟とはいえ、マージョリーやマルコシアスの言う言葉が気休めだと、実際には決して容易な作戦‥‥否、“行為”ではない事くらいわかっていた。
そして、佐藤がそれをわかっている事を、マージョリーもわかっている。
「念のために言っとくけど、あんたを連れてく気はないわよ。もう『玻璃壇』も無いんだし、そもそも今回はそんな悠長な状況じゃない」
佐藤も、伊達に今まで紅世の戦いを見てきたわけではない。
状況くらい、頭ではわかっているのだ。
だが、理解と納得は違う。ただ、感情で、心配を止められない。
マージョリーがこうやって言い含めるのは、それを佐藤に納得させていく儀式のようなものだ。
(ったく、ガキなんだから)
大言を吐いておいて情けない。
だが、その姿勢だけは、嬉しかった。
‥‥それでも、動かないわけにはいかない。
いや、そんな気はない。
『何度でも、受けとめてやる』
復讐に狂った自分の存在を受け止め、肯定した“銀”のミステス。
佐藤とはまるで意味が違う、しかし、坂井悠二は自分にとっても、特別な存在だったから。
「借り、返さないといけないからね」
「これで全員でありますか?」
御崎駅の前に、非常に目を引く一団が集結していた。
ヴィルヘルミナの情報、メリヒムの決定、そしてそれに乗った一同、という形で。
もっとも、大真面目に告げたメリヒムに対して、
「‥‥それ、作戦って言うの?」
「あっはっは!! 私は好きよ? そういう向こう見ずなのも?」
「まあ、ヴィルヘルミナがそれでいいなら、僕らも構わないけどね」
「へえ? 何だか楽しくなってきたじゃない」
「最近は随分と湿っぽかったからなあ。ッヒヒ!」
と、まあ、笑ったり呆れたり、評価は散々なものであった。
そして、皆が、理由は各々だが、一つの目的のために御崎を発とうとしている。
以前、『儀装の駆り手』カムシンがこの街を訪れた際に言い置いていった言葉。
この街が、『闘争の渦』と呼ばれる大きな戦いを生む地である、という“可能性”も考えて、“とりあえず”残していく者もいる。
そして、今、わざわざヴィルヘルミナが「全員か?」などと訊くのは、もちろん来るかどうかわからない人物がいるからである。
「‥‥‥‥‥」
佐藤は、ヴィルヘルミナの告白会で聞いた事を、田中栄太にも伝えている。
田中は、参加しなかったから。
佐藤も、“半端者を卒業した”田中を無理にこちらに引き込みたくはない。
だが、見送りにすら来ない田中との間に、深い溝が開いたような空寒さがあった。
“友達”の事だから、わざわざ来なかった田中にも伝えたのに。
そんな、佐藤が奇妙な寂しさを感じ、いよいよ出発の雰囲気が場に満ちる。
「待ってください!」
その雰囲気を、泣きそうな叫び声が破った。
「田中!」
周りの道行く人達が怪訝そうな目を向けるのにも一切構わず、田中栄太が走って来ていた。
そのまま、息も絶え絶えに辿り着く。
佐藤の横、マージョリーの前に。
「はあ、はあ、はあ!」
「‥‥‥‥‥‥」
マージョリーは、何も言わずに、しかし瞬きもせずに、田中を見る。
長く燻っていた少年が答えを出したのかどうか、親分として見定めるために。
「あ、“姐さん”。今まで散々逃げ回って、調子いい事抜かすなって言われるのも、覚悟してます。でも‥‥‥」
その、マージョリーの見立て通りに少年が出した、答え。
「坂井達の事、お願いします!」
「‥‥‥ふぅん」
その言葉の色の中に、答えがあった。
紅世に関わる事を避け、怯えていた少年に、この場に姿を現わす力を与えたものは、やはり“友達”、そして、欠けてしまった彼の『日常』。
紅世に向き合うために来たのではない。『日常』を生きる、そのために来たのだ。
その答えに、マージョリーは満足そうに呟く。
「‥‥‥‥‥‥‥」
深々と頭を下げた田中が、恐る恐る上げた頭、その額に、
「‥‥‥‥ちゅ」
「っうぇ!?」
軽く、口付けた。
「イイ男に、なんなさいよ」
田中にとって、最後まで眩しい憧れとして在った、『親分』として‥‥。
「ま、せーぜー惚れた女を泣かせねえくれえの男になりな、エータよお」
マルコシアスと共に告げた、最後の餞別。
「う‥‥く‥‥ぅう‥‥!!」
下を向いたままの田中が、堪え切れずに涙を流す。
腑甲斐ない自分を気に掛けてくれていた親分の優しさにか。それとも、自分の情けなさにか。
どんな種類の涙かが、わからなかった。
「あなたに、これを」
「?」
改まった表情のフィレスが、吉田に自分の掌を上に向けて見せる。
そこには、ギリシャ十字の上端に紐をかけたペンダントがあった。
「これは『ヒラルダ』。人間に大きな自在法を使わせるための宝具」
吉田は、その言葉の真意を掴むようにフィレスの目を覗き込んだままだ。
「私はこれに、強力な『風』の自在法を込めた。もし、あなたを守ってくれる存在が近くにいない時、これがあなたの武器になる」
まだ、吉田は喋らない。
吉田とて、紅世に関する『常識』は知っている。
人間が大きな自在法を使う。いかにも胡散臭い話だ。
その吉田の予測は、続くフィレスの言葉で肯定される。
「ただし、これは使った人間の存在の力を変換して発動する。つまり‥‥」
「使った人間は死ぬ、か?」
フィレスの言葉を先取りして、吉田が答えを言う。
それに、フィレスは頷きだけで応えた。
周りの皆も、二人の間に流れる空気からか、口を挟まない。
「何でこれを、私に渡すんだ?」
当然といえば当然の疑問を、吉田が口にした。
「この宝具は、人間の、それも女にしか使えない。それに‥‥‥‥」
「?」
一度止めたフィレスは、少しだけおかしそうに笑って‥‥
「あなた、無駄死にとか大嫌いに見えたから、かな」
「‥‥確かにな」
一同が、その答えに内心で大いに頷き、吉田が皆のその予想に違わずに伸ばした手で、
「‥‥‥‥」
フィレスの手を閉じさせ、『ヒラルダ』を握らせていた。
てっきり受け取ると思っていた皆が、呆気にとられる。
そんな中で、吉田だけが言葉を紡ぐ。
「使用者の存在の力を使う、って事は、『死ぬ』んじゃなくて、『消える』んだろ?」
吉田の、確信の響きを持った問いに、フィレスはコクリと頷く。
「なら、私にはそれはいらねえ」
以前の佐藤ならば安易に求めたかも知れないそれを、吉田は突き返した。
「私は、『人間』を貫く」
御崎市で関わってきた『この世の本当の事』を知る面々に堂々と告げる、吉田の生き方。
「あの二人の、分までな」