「ふっ!」
季節が季節ゆえにより一層冷え込む朝の空気を、少女が手にした一本の木の枝が切り裂く。
元々の、この坂井家で朝の鍛練をする必然性も無くなりはしたものの、誰が何を言うでもなくこの習慣は続いている。
ヴィルヘルミナは、どうやら考え事があるらしく今日は来ていないし、メリヒムは元々、この家で共に鍛練していた坂井悠二達に都合を合わせていなかった。ゆえに、今この場の鍛練には少女・『炎髪灼眼の討ち手』シャナ・サントメールと、その契約者たる"天壌の劫火"アラストールしかいない。
ヒュッ!
また一振り、風を斬る。
体を動かすと共に、自身の存在の力を繰る。
目まぐるしく動くその姿は、軽やかでありながら、小柄な少女とは思えないほどに力強い。
『"耽探求究"が目的だったみたい』
踏み込み、体全体で斬撃を繰り出す。
『ろくに話す余裕も無かったし、何が狙いなのかもわからなかったわ』
まるで、頭をもたげる何かを振り払うように。
『ただ、今わかってて確かなのは、もうヘカテーと合流してるって事と‥‥』
一心不乱に、斬撃を繰り出した。
『フレイムヘイズ二人相手に、攻撃を仕掛けたって事だけよ』
「はあっ!」
その動きは、一切の無駄を感じさせないものでありながら、
「っふ!」
どこか、精細を欠いていた。
「シャナちゃん、そろそろ時間よ」
一人で自身の動きを確かめ、さらに向上させるべく切磋琢磨するシャナに、穏やかな声がかかる。
これも習慣のうち、坂井家を支える誇り高き専業主婦・坂井千草が、縁側も兼ねる掃き出し窓から手招きしている。
『この世の本当の事』に関わる者、紅世の徒やフレイムヘイズも含めて一目置く女性であり、シャナも彼女の事は大好きだった。
惰性とも言えるこの家への訪問の継続も、彼女の存在による所が少なからずある。
「はい、どうぞ」
「うん‥‥」
居間の中央のテーブルには、超絶甘党のシャナのための砂糖とミルクたっぷりの熱々の紅茶が用意してある。
「ふふ、シャナちゃんが飛んだり跳ねたりしてると、ただでさえ狭い家の庭が箱庭みたい」
本来であれば、一番辛いはずであろう千草はしかし、そんな様子を少しも見せない。
(どうして‥‥?)
およそ一月前、そしてそのさらにおよそ二月前に、彼女の実の息子と、娘と呼べるほどに親しい少女が彼女の許から去っていた。
息子の方は、とっくに人間としての存在を失っていた。娘の方は、初めから人間ではない。
千草は、そんな『この世の本当の事』を何も知らない。
だからこそ、彼女にとっては『息子と娘の行方不明』こそが厳然たる事実。
そして、だからこそシャナには不思議だった。
(‥‥どうして、平気な顔でいられるの?)
千草は『この世の本当の事』を何も知らない。
だから、自分達以上に悠二達について何もわかっていないはずなのだ。
姿を消した理由も、それまでに何があったかも。
それでも、不安な様子の欠片すら見せない。
(‥‥‥‥‥‥‥)
強さを、普段自分が認識しているものとは全く違う次元で感じて、その『違う次元の強さ』に想いを馳せる。
自分の『それ』は、まるで形が不明瞭で掴めない。
その事に、苛立ちが募るばかりで出口への糸口すら見つからない。
「‥‥‥‥‥‥」
ふと、その千草のお腹に視線を向ける。
「まだ生まれないの?」
「ふふ、これから目に見えて大きくなってくるわ」
膨らみも僅かなそこには、新たな生命が宿っている(らしい)。
夏休みに坂井貫太郎が帰ってきた際に千草と共に"作成"したらしい(そういえば製作過程を知らない)。
「ほらシャナちゃん、次はお風呂。外側から温まってらっしゃい」
「うん」
促され、椅子から立ってくるりと浴室に向けて踵を返す。これも馴れた仕草。
「‥‥‥ふう!」
お湯になるのも待たずにシャワーの冷たい水を被り、全てが弾けて、後の暖かさにぼやけていく。
そんな、もうずっと繰り返して、続けてきた仮初めの日常。
先日、その不明瞭さが深まってしまった、空虚の時間。
ただそれも、いい加減見かねた存在も在る。
「シャナ」
それは、彼女の契約者。今は浴室の外の、服の一番下に隠されている、シャナの親、兄、師、あるいは友。
「‥‥この街を、出るか」
その言葉、いつ受けても何の不思議も無かったはずの問いに、
シャナは反応を返す事さえ出来なかった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
虹野邸の、一番大きな木の前に、給仕服に身を包んだ女性が佇んでいた。
『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルである。
彼女が先ほどからじっと見つめているのは、大木の根元、大切な『娘』の特等席であった。
「硬直給仕」
頭上の相棒の、「いつまでそうしている気だ」にも返事をしない。
「‥‥‥‥‥‥‥」
何が、あったというのか。
彼らが"頂の座"ヘカテーを探しに行った。それは十分理解出来る。
だが、再会を果たしても御崎市に帰って来ず、あまつさえ教授を狙い、その障害になりそうだったレベッカ達に攻撃を仕掛けるなど‥‥。
元々、フレイムヘイズの味方だと公言していたわけではないとはいえ、あまりに不自然すぎる。
考えられる、一番高い可能性‥‥‥
(『洗脳』‥‥でありますか)
ヘカテーを追い、何らかの方法で『星黎殿』に辿り着き、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』によって洗脳を受けた。
しかし、それをあのヘカテーが許すだろうか?
いや、元々ヘカテーがこの街を去ったという事は、それも無いとは言い切れない。
いや、最悪、ヘカテーもろとも洗脳を受けた可能性も‥‥‥。
いや、悪い方にばかり考えてどうする。
何か理由があるのかも知れないではないか。
そもそも、自分やマージョリーだって坂井悠二と初めて会った時は戦ったのだ。
血の気の多いレベッカと戦ったとしても、それほどおかしな事はないのではないか?
そうだ、少し前のクリスマスの事にしても、もし彼らの仕業なら、洗脳を受けた者の行動にしては不自然では?
こんな思考を、ヴィルヘルミナはずっと巡らせている。
「‥‥‥‥‥‥」
そして、目の前の特等席の持ち主たる少女の事を考えると、自分の事以上に胸が痛む。
まだ、自覚していないだけマシなのかも知れないが‥‥‥‥
「考えは、まとまったか?」
「っ!?」
余程深く考えに耽っていたのか、突然頭上から掛けられた声に狼狽してしまった(今まで、そこにいた事に気付かなかった)。
見上げれば、少し太めの枝に腰掛けて大木に寄りかかる銀髪の青年。
いつまで経っても恋人と呼ばせてくれない傲慢な想い人。
「いくら考えようと、所詮は推測の域を出ん。直接会って訊かなければわからん事だろう」
考えていた事を読んだかのような事を言ってくる。
基本的に自分の事しか考えてなさそうな癖に、こういう所は変に鋭い。
「で、何を隠してる?」
「‥‥‥何の事でありますか?」
何となく、心の内を見透かされるような感覚から、とぼけてみる。
いや、とぼけてみる、とかいう以前に、軽々しく話せる内容ではない。
「‥‥数百年の腐れ縁だ。気付かないとでも思ったか? 何より、お前はわかりやすい」
「‥‥‥‥‥‥」
まただ。いつか、宿敵たる鋼の竜に余計な忠告を受けた時にも感じた事。
いくら無表情の仮面を被って内心を隠しても、いとも容易く見透かされてしまうというのが甚だ面白くなかった。
(ただ、彼の言う事ももっともな事実‥‥)
いつも、この男は単純な物の見方しかしない。
でも、今回は、それに救われたような気がする。
いつまでも変わらない現状に対して何もしないのは、好きじゃない。
ヴィルヘルミナの心が、覚悟へと向かう中、その目の前に飛び下りたメリヒムが、
「話せ、ヴィルヘルミナ」
命令口調で促した。
「‥‥‥‥‥‥」
自宅のベッドで仰向けに寝転がりながら、シャナが手にするのは一枚の手紙。
以前のシャナは、フレイムヘイズの情報交換支援施設である『外界宿(アウトロー)』を全くと言っていいほど利用しない、フレイムヘイズから見ても異端な存在であったが、この街に来て、養育係たるヴィルヘルミナと再会して以来、その利用法について念入りに教え込まれていた。
状況報告や必要な情報の要求は、以前なら平井ゆかり、そして現在は佐藤啓作と吉田一美に委ねられているが、この手紙は、自分から出した手紙の返事である。
手紙の相手は、『震威の結い手』ゾフィー・サバリッシュ。
歴戦の勇者たるこの『肝っ玉母さん(ムッタークラージュ)』は、シャナにとっては師の一人でもあった。
『天道宮』を巣立って直後、シャナは彼女について旅する事で最低限の社会常識を身につけたのである。
つまり、御崎市に現れた時点のシャナも、ゾフィーが"見られる程度"に教育を受けた、実は『天道宮』時代よりはマシな状態だったという事だ。
別れて数年経った今も、シャナはこの貫禄満点、穏やかさと激しさを兼ね備え、どこか稚気までも漂わせる修道女が大好きだった。
だからか、吉田一美に、必要報告のついでに、彼女への手紙を混ぜて送った。
元々が実用本位な性格のシャナであり、何よりも手紙に"込めた"のは、自身でさえわからない『何か』。
それも、伝言のような、吉田達が外界宿に送っているような内容、御崎市の現状を、シャナの視点から書き連ねたもの。
ただ、末尾には、『炎髪灼眼の討ち手』"シャナ・サントメール"と付けて。
それだけで、あの女傑なら何かを察してくれるのではないか、という甘えのような感情はあり、それに、おそらくゾフィーは応えてくれたのだ。
『自分を誤魔化すのはもうおしまい。貴女と貴女を一つにする時が来たのですよ』
「‥‥‥‥‥‥」
おそらく、それはゾフィーなりに自分の意図を汲んでよこしてくれた答え、なのだろう。
だが‥‥‥
「私と‥‥‥私?」
ゾフィーがくれた答えも、シャナには不可解なものだった。
(私は、私なのに‥‥)
結局、どうすればいいのか、全くわからない。
『‥‥‥この街を、出るか?』
「っ‥‥‥!」
胸の痛みと共に、この街で得た全てを反芻する。
だが、確かに、このまま何もわからず、変わらないものを待つわけにもいかない。
(私は、私)
なのに、何故あの時、黙ってしまったのか。
(フレイムヘイズ、『炎髪灼眼の討ち手』)
「‥‥‥‥‥‥」
胸元の『コキュートス』は、そんな少女に対して、何も言わなかった。