トン トン
黄緑色の球体が、面の上を跳ねる。まるでウォーミングアップのような仕草だ。
「行っくよ!」
空高く放られた球体、否、ボールは、少女の振るうラケット、体のバネを最大限に活かしたフォームから繰り出されたそれに捉えられる。
スパァン!
「くっ!」
低すぎる。
ネットに当たらないギリギリの角度で、ラインを越えないギリギリの位置を容赦なく、的確に狙ってくる。
「っだ!」
何とか返すも‥‥
「アウト!」
入らなかった。
「‥‥ゲーム」
コートの横に設置されている高い椅子(名前は知らない)から、小柄な少女が試合終了を告げる。
試合をしていたのは坂井悠二と平井ゆかり。椅子に座っているのは"頂の座"ヘカテーである。
そう、三人は『星黎殿』を抜け出してテニスをしに来ている。
「勝ったー! 何してもらおっかなー?」
「ちょっ、罰ゲームなんて聞いてないぞ!?」
「何言ってんだか、基本でしょ♪」
「次は私です」
あまり人目につかないように"人間としての顕現"を心掛けてはいるものの、戦闘では平井より上な悠二。
しかしまあ、スポーツとなると話は別である。
「ふふん♪ ヘカテー。学校の体育でやり方はわかるね?」
「問題ありません」
何やら調子に乗っている平井。
「‥‥‥‥‥‥」
ヘカテーと入れ代わりに椅子に登る悠二。
対峙する二人を見学する。
上からジャージを着ているとはいえ、二人のテニスウェアは何というか、目に毒である(ちなみに平井は緑色、ヘカテーは白だ)。
ついつい外野からの視線が無いか、とかも気になってしまう。
「‥‥‥‥‥‥」
キュッ、キュッと右に左にステップを踏むヘカテー。
その思考は、先ほどの平井と悠二のやり取りに向けられている。
(‥‥勝ったらご褒美)
恋人同士になったのだし、すでに思う存分甘えているくせに、ヘカテーは貪欲だ。
狙うは、再会の時以来、悠二が恥ずかしがってしてくれない口付けである。
平井を負かして悠二にご褒美を貰おうとしているという妙な矛盾には気づいていない。
放られたボール、狙いすましたヘカテー。
「『星(アステル)』よ」
水色の光弾が、炸裂した。
「‥‥‥‥‥‥」
あれから結局、自在法ありのマジカルテニスに発展し、結局、帰りにラーメンまで食べて夜遅く(時間的に)帰った三人。
実質的な『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の指導者、ベルペオルにお叱りを受けてしまい、ヘカテーはおかんむりである。
何やら平井はそのままベルペオルと話しているし、悠二は風呂。
やや退屈な一時の中にヘカテーはいる。
(‥‥‥風呂?)
風呂、入浴。一糸纏わぬ生悠二。
今までは嫌われたくなかったり、悠二の母・千草に止められたりして好奇心を抑えていたが、今の自分達は恋人同士。
「‥‥‥‥‥」
くるりと反転。
風呂の扉越しに話して、許可を貰おう。もしダメでも、湯上がり状態は何か不思議な魅力があるのだ。
と、意気込むヘカテーの前に、小さな影が立ちふさがる。
広い廊下のど真ん中に立ちふさがる、小さな『それ』。
茶色い毛並みの小さな子犬である。
「‥‥‥‥‥‥」
屈んで、ジィっと見つめる。
ぬいぐるみではない。本物の子犬である。
「‥‥‥‥‥‥」
『星黎殿』には無数の徒がいるため、気配が実に掴みにくい。
しかし、触れようと至近に寄った時に、違和感を感じた。
この子犬、徒である。
そして‥‥‥
「何をしているのですか。"千変"シュドナイ」
決定的。タバコ臭い。
子犬はビクッと震え、その目にワイルドなサングラスが現れる。
もはや自白したも同然である。
ダッ!
本人もその自覚はあるのだろう。
四本足で一目散に後方に全速前進する。
しかし、そんな抵抗はヘカテーには無意味である。
すでにその両手の指には、長めのチョークが構えられていた。
「『星』よ!」
放たれたヘカテーの『おしおき星』。
逃げるシュドナイを追い、チョークが白の軌跡を描いて飛んで行く。
それだけではない。
ここは『星黎殿』。人間の目を気にする必要はないのだ。
ボンッ
飛来する白のチョーク全てが、水色の炎を纏う。
それらが、逃げ惑うシュドナイに収束し、
「爆ぜよ」
パパパパパパァン!!
水色の火の粉と白チョークの花火を巻き起こした。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ぐったりとして動かないグラサン犬・シュドナイ。
カッ カッ
一歩一歩、彼にとっての死の秒読み、ヘカテーの足音が近づいてくる。
やはり甘かった。
可愛い子犬に化けたら『前の事』を許してもらえるきっかけを作れる(ヘカテーに接近出来る)かと思ったが、見事に裏目に出た。
怒りを上乗せしてしまったらしい。
(今度こそ‥‥終わりか)
しかし、絶望に暮れていたヘカテーの、あんなに輝かしい姿を見れた。
もう、思い残す事はない。あとの事は坂井悠二に託して、自分はヘカテーの手で天に召されるのだ。
‥‥せめて、痛くしないで一思いにやって欲しい。
そんな風に覚悟を決めて倒れ伏す、まな板の上の鯛なシュドナイ。
その眼前(床)に、
コロン
「?」
何かが、転がされた。
「あげます」
「‥‥‥は?」
飛び上がるように起き上がると、ヘカテーはもう背を向けて歩きだしていた。
(助か、った‥‥?)
何が何だかわからないまま、シュドナイはヘカテーが転がしたと思われる物を見る。
「‥‥‥‥‥‥」
白い包みに包まれたそれは、一見してあめ玉。
包みを開いても、実際にあめ玉(グレープ)だった。
しかし、その包みの裏側に、メッセージが書いてある。
『あの時は、すみませんでした』
簡潔な一言。
シュドナイは『あの時』が何なのかすぐに察しがついた。
そう、ヘカテーが悠二と離ればなれになって塞ぎ込んでいた時、シュドナイはヘカテーを慰めようとして失敗し、逆にヘカテーの逆鱗に触れて殺されかけたのだ。
そして、悠二と再会し、絶望から解放されたヘカテーは、その"八つ当たり"の事を少し気にしていたのだ。
確かに、シュドナイの発言も悪かったが、いくらなんでもやりすぎだった。
その謝罪が今、果たされたのだ。
「‥‥‥‥‥‥」
たかがあめ玉一つ。しかし、ヘカテーがわざわざこんな物を持ち歩き、自分に申し訳なさを感じていてくれた事が、シュドナイはたまらなく嬉しかった。
今なら、『自分のあの時の発言』でヘカテーが怒り狂った理由もわかる。
きっと、明日からは普通に接する事が出来る。
心してあめ玉を味わうシュドナイのサングラスの縁から、少しだけ光が反射した。
「‥‥‥それで?」
「‥‥最初は親友だったんですよ」
ヘカテーの城の酒保にて、未だに平井とベルペオルは話し込んでいた。
とは言っても、今は説教という雰囲気は完全に無くなっている。
水割りの酒(2:8)でちびちびと飲みながら話し込んでいる。
まあ、今まであまり知らなかった互いの身の上話といったところだ。
平井は元々ああいう性格である。打ち解けるのに難は無かった。
「ふむ。つまり坂井悠二によってミステスに変じた、と?」
「‥‥その事は良いんですよ。元々二人に近づきたくて外界宿(アウトロー)に入ったんだし」
先ほどまでは、ベルペオルの日々の苦労を平井が聞く側だった。
気まぐれすぎる盟主、さぼりまくりの将軍、最近ずっとおかしかった巫女。
そして、それらの不穏な要素に喜びを感じてしまう自分自身。
答えの出るはずの無い悪循環に伴う愚痴を聞かされていたのだが、今はより重要な‥‥
平井ゆかりという存在の話である(ついでに坂井悠二の説明にもなる)。
坂井悠二、そしてヘカテーとの出会い。
ヘカテーが『星黎殿』を出てから今までの事。
人間を失い、ミステスへと変じた過程。
話はどんどんと進み、ある意味で一番大事な部分、"何故こんな所まで悠二に付いてきたのか?"という話題にまで到った。
「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
沈黙が、場を支配する。
平井は別に、何も言えないわけではない。
とうの昔に割り切っているからだ。
ただ、ベルペオルが何を言えばいいかわからずに黙っているから敢えて何も言いはしないのだ。
「お前は‥‥それでいいのかい?」
「‥‥‥ええ」
長い沈黙を経たわりに、随分と落ち着いた調子で告げたベルペオルの問いに、平井は当然のように落ち着いて返す。
ただ、この場の雰囲気のためか、久しぶりに少しだけ感傷的になっている。
「‥‥‥‥‥‥」
そう、とっくに割り切った事。
今さら、何を思うでもない。
『ずっと、一緒にいるからね!』
あの時、自分の生き方を、あの少年の側に定めた。
だから、『全部』わかった上で、ああした。
勝手なのも、ずるい事も全部わかった上で‥‥
あれが、あの口付けが、最後のわがまま。
あれから予期せず、互いにファーストネームで呼び合えるようにもなった。
これ以上、何を望む事もない。
「‥‥私は、世界一の幸せ者ですよ」
「‥‥‥‥‥‥」
『星黎殿』は、徒が多く存在するため、気配が掴みにくい。
そんな酒保の柱の影にいた一人の少女が、
「‥‥‥‥‥‥」
石のように固まっていた。