いつものように、朝目覚めて、顔を洗う。
「おはようございます」
「おはよう。ヴィルヘルミナ」
今は一緒に暮らしている養育係の女性に挨拶を交わし、制服を用意する。
家を出て、『そこ』に向かい、たどり着く。
表札には、『坂井』とある。
「‥‥‥‥‥‥‥」
この街で暮らすようになってから、ほどなくついた習慣。
その習慣は、今なお続いていた。
「ふっ!」
剣に見立てた木の枝を一閃。
自分でも最高のタイミングだと思うその一撃を、しかし、眼前の女性は掌で押さえ、何事も無かったかのように"流す"。
「っ!」
次の斬撃を繰り出す余裕はないと判断し、軸足を"溜めて"蹴りを放とうとする。
しかし、そんな少女の対応より早く、
「遅い(のであります)」
ドッ!
眼前の女性、フレイムヘイズ『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルの掌底が、少女、『炎髪灼眼の討ち手』シャナ・サントメールの横腹を捉えていた。
「くっ!」
緩やかな動きしかしていないヴィルヘルミナの掌底。その一撃でシャナは数メートル弾き飛ばされる。
そして膝をつく。
まるで手品であった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
おかしい。
確かに、目の前の女性は世に名高い『戦技無双の舞踏姫』。
鍛練であしらわれる事もいつもの事。
だが、それらを差し引いても‥‥‥
(‥‥調子が悪い)
ヴィルヘルミナも気づいているのだろうが、何故か何も言わない。
それがより、悔しさを助長させる。
「もう一度!」
と意気込むシャナに、
「シャナちゃん」
穏やかな声が掛けられる。
「そろそろ切り上げないと学校に遅れちゃうわよ。カルメルさんも、朝御飯食べていって下さいね?」
「いつもお世話になるのであります」
「多謝」
声を掛けた女性は、夫が空けたこの家を支える誇り高き専業主婦、坂井千草。
シャナもヴィルヘルミナも、彼女を知っている者は大抵一目置き、気に入る。
「うん」
ヴィルヘルミナに続き、手招かれるままに縁側に腰を下ろし、差し出されたオレンジジュースを飲む。
以前なら、もっとたくさんあったコップが、今は二つしかお盆の上にない。
「‥‥‥‥‥‥」
最近、口数が減ったな。と自分でも思う。
理由にも見当らしきものはついてはいるのだが、それ以上深く考える事はしない。
コップと一緒にお盆にあったかりん糖を、バリバリと噛み砕く。
行儀の悪いシャナを見ても、千草はあらあらと笑うだけ、嬉しそうですらある。
(‥‥何で)
いなくなったのだ。
坂井悠二。
元々はこの家に住んでいた、彼女の息子。
(何で‥‥)
笑っていられるのだろう。
"残された者"の中で、間違いなく一番深いつながりを持つはずなのに。
(‥‥‥何で)
『悠二は、ヘカテーちゃんを探しに行きました』
そう告げた時、どこか満足そうに見えたのだろう。
何が彼女に喜びをもたらしたのだろう。
(何で‥‥)
自分はこんなに‥‥苦しいのだろう。
「ぃよし! 行くか!」
「気負いすぎだよ、佐藤君。深呼吸して」
外界宿(アウトロー)第八支部。
元々は、紅世において悠二達の力になろうとした平井ゆかりが勤めていた場所であり、佐藤が平井の推薦で以前から働こうとしていたフレイムヘイズの『情報交換支援施設』である。
そして今、マージョリーやヴィルヘルミナの推薦の下、その構成員に直接審査してもらう機会を得た。
佐藤啓作と"吉田一美"である。
「‥‥吉田さん。落ち着いてるなあ」
「まあ、良い外面作るのは得意だから」
外面って自分で言ってたら世話はない。
佐藤は元々、『マージョリーの力になりたい』という願望から、外界宿に興味を持ち、今ここにいるのも必然だが、吉田は違う。
坂井悠二と平井ゆかりの失踪のすぐ後に、『自分も外界宿で働く』と言い出したのだ。
「‥‥‥‥‥‥」
佐藤も、悠二達が消えた事に寂寥を感じはした。
だが、それ以上に"悠二が行動を起こした事"に感銘を受けたのだ。
だから、思い切ってついに足を踏み出した。
マージョリーの力になるため、そして‥‥悠二達の事を少しでも知るため。
(‥‥吉田さんも、そうなんだろうな)
突然消えた親友と想い人。
悠二達を探す動機なら、間違いなく吉田の方が自分より大きいだろう。
今までは言いださなかった外界宿の事にいきなり踏み込むのも頷ける。
‥‥自分は今まで苦労してたわけだから、飛び入りの吉田は落とされるとも思えるが。
「どうぞ」
場所は『御崎グランドホテル』の一室。
ここから第八支部に案内するという"事になっている"が、おそらく、今この時にも審査は始まっていると見ていい。
「「失礼します」」
ドアを開け、中に入る。
そこには、ホテルのソファーにきちんと腰掛けた、まだ若い女性が一人。
「関東外界宿第八支部所属、近衛史菜です。お掛け下さい」
「‥‥‥‥‥‥‥」
シャナを学校に送り出した後、ヴィルヘルミナは今は自分も住まう虹野邸へと歩く。
(‥‥甘かった)
"頂の座"が去り、平井ゆかりはともかく、坂井悠二は完全に脱け殻のようになったのだと思っていた。
そしていつか、心に負った傷に耐え、また進みだす日も来るのだろうと、思っていた。
‥‥かつての自分のように。
だが結果、あの二人は"頂の座"を追って、この街から去った。
彼らの覚悟を、甘くみていた。
「‥‥‥‥‥‥‥」
あれから、彼らは見つける事など不可能な『星黎殿』を探し歩いているのだろうか。
だが‥‥
『俺の"天道宮"とやつらの"星黎殿"は、迂濶に近付けちゃならねえ』
‥‥例え、彼らの覚悟を知っていたとしても、自分は返せる応えは持たなかった。
フレイムヘイズであるがゆえに。
「‥‥今ごろ、どうしているのでありましょうな」
「息災祈願」
ぼんやりと見つめるのは、平井のアパートの合鍵。
もし、彼女が帰ってくるなら、それまでは自分があの部屋を預かる。
「‥‥‥‥‥‥」
悠二達と一番付き合いの長いフレイムヘイズでは、寂しさからくる溜め息を、かろうじて飲み込んだ。
「で? つまりはあのチビジャリが不憫だって言いたいわけ?」
「不憫? 違うな。あのガキの身勝手な行動がシャナに悪影響を及ぼしている事が我慢ならんだけだ」
「物は言い様ってやつだなあ。"虹の翼"よお」
佐藤家室内バーにて、この部屋限定の主、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーとその契約者、"蹂躙の爪牙"マルコシアス。
そして客人は珍しい事に"虹の翼"メリヒム。
ヘカテーが消え、そして悠二と平井が消えてから、メリヒムはストレスが溜まる一方である。
今回はそのとばっちりがマージョリーにきているわけだ。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ウイスキーを煽り、まだ何やらぶつぶつ言っているメリヒムを見やる。
実を言うと、マージョリーに関しては悠二達の失踪を単に残念がってるわけではない。
むしろ、前から口出しこそしなかったが、悠二がヘカテーを追い掛ける事をこそ筋だとさえ考えていた。
元々悠二にこだわっていた理由たる"銀"の事も、最早過ぎた事。
『"銀"はこの手で討滅したのだから』。
だが、まあ、この長髪の男(見るからに鬱陶しそうだ)の言いたい事はわかる。
どうやら、あの『炎髪灼眼』と坂井悠二に関して、思う所があるらしい。
今まであの少女とはほとんど接点が無かったから気づかなかったが、要領を得ない(敢えて微妙な言い回しをしていると思われる)メリヒムの言葉からして、"そういう事"らしい。
育ての親として、複雑な思いがあるのだろう。
『あなたも、私が守ります』
『八つ当たりでも構わない。全部受けとめてやる』
「‥‥‥‥‥‥」
あの少年が、何の考えも無しに無謀な探索に出たとは思えない。
だから‥‥
(ユージ、ちゃんと‥‥捕まえときなさいよ)
「お二人の話は伺いました。では、これから第八支部に向かいますから、付いてきて下さい」
吉田と佐藤、ひとまずの面接(?)も終わり、これからまたいよいよ働く先に向かう事となる。
『近衛史菜』という名前に驚きはしたが、どうやらヘカテーの方が名前を借りていたらしい。
が、今はそんな事にかまけているわけにはいかない。
おそらく、今からの行動全てが構成員としての審査対象なのだろうから。
先んじて部屋を出ようとする近衛史菜に続こうとして、
ガッ
と、何やら引っ掛かる音がして、
ドタンッ!
盛大にコケた。
近衛史菜が。
「「「‥‥‥‥‥‥‥」」」」
三者それぞれの沈黙。
何かの罠かと勘ぐるが、
キッ!
コケた当人の近衛史菜。振り返って凄い目で睨んでくる。
「忘れろ」という事だろうか。少し涙眼になっている。
もしかして、緊張しているのだろうか?
「あの‥‥‥‥」
「いまから! 第八支部に向かいますから!」
明らかに照れ隠しの原理で怒鳴る。
どうやら、少しドジな手合いらしい。
‥‥‥この審査、受かる気がしてきた。
結果として、佐藤の予想は当たった。
この三日後、佐藤啓作と吉田一美は、外界宿第八支部での出入りの許可を得る。