河口湖コンベンションセンターホテルの駐車場。オレンジ色の長髪をした少女が、目の前にそびえる高層建造物を、いささか気圧された風に見上げていた。
「私たちが泊まるのって、こんなに立派なトコだったんですか……?」
眼鏡を掛けた緑髪の少女も、首を傾けて最上階の方向に視線を投げている。こちらは声も出ない様子。
後輩たちの呆けたような反応を確認したミレイは、してやったりという顔でクラリスと微笑み合った。
今回の旅行を計画するにあたって、シャーリーとニーナには、宿泊先についての相談にほとんど参加させなかった。というよりも、はじめはきちんと四人で話し合っていたのだが、どうせなら派手な思い出になるように、とミレイが高ランクのホテルを探し出したあたりで、庶民の二人はパンフレットを見るのを恐れ始め、どんどんと釣り上がっていく宿泊料金に「そんなところムリです、行けません!」とキレ気味にシャーリーが言い放ったところで、相談が打ち切られた。「じゃあ私とクラリスで決めとくわね。お金は責任持って私たちで用意するから任せて」とミレイが強引に押し切って、そのまま現在に至る。
そして到着してみればこの光景である。驚くのも無理はない。
周囲のほとんど三百六十度がキラキラと太陽光を反射する湖面。吹きぬける風が租界とは違うさわやかな自然の香りを運んでくる。
このホテルは湖の中に建っているのであった。埋め立てによって作られた小さな島の上に建設されているのだ。周りに何の建造物も無いため、余計に高さが際立って見える。
「喜んでもらえて嬉しいわー。頑張って選んだ甲斐があったわね」
「っていうか会長……」
おそるおそるといった具合に口に出されたシャーリーのセリフを、ニーナが引き取った。
「……ここって、今ちょうどサクラダイト生産国会議が開かれている所じゃ?」
「そのとおり。皆勉強してるのね、エライエライ」
「いや、わかりますってそれくらい」
サクラダイトとは、主に高温超電導体の製造に使用される地下資源である。軽量高出力のモーターや発電機を生産する際に、高温超電導体が部品として欠かせないのは言うまでもなく、ナイトメアフレームの動力機構すらこれを抜きには成立しない。戦略物資としても最も重要な位置にあるとされている鉱物だ。
エリア11におけるサクラダイトの採掘量は世界最大であり、市場への供給量は全体の約七割を占める。そのため、毎年このエリア11の河口湖コンベンションセンターホテルで、国際分配レートを決定する会議が開催されるのだ。
つまりは、世界のVIPが滞在するほどの格を持ったホテル。それが、アッシュフォード学園生徒会の面々が宿泊しようとしている場所なのであった。
「うっわぁー、すっごいですよ会長! ほら、ニーナとクラリスも!」
窓――というより全面ガラス張りの壁――に貼り付いて、シャーリーが歓声を上げた。
時刻は夕方。山の端に隠れつつある太陽が黄金の光を放ち、周囲を橙に染めている。既に夜の帳も下りはじめ、空は紫から赤を経て黄色へと至る、鮮やかなグラデーションに彩られていた。湖に映りこんだそれらの色彩が、美しい眺めをさらに一段幻想的なものに押し上げている。
ホテル内を数時間かけて見てまわった後、部屋に戻ってみれば、すっかり夕暮れ時になっていた。
せっかく超高級な宿泊施設に泊まるのだから、今日はホテルを堪能する日。本格的な観光は明日から。ということで、四人でわいわいと遊んできたのだ。
一行には一応、クラリスから「メンバー全員護るように」との指令を受けた護衛が何人か同行している。しかし、そこまでの危険は無いだろうとの彼女自身の判断から、四六時中そばに付いて回るような警護のされ方はしていなかった。世界各国の要人が会議に参加している今、ホテル内には何もせずとも厳重な警備体制がしかれているのだ。
その分不自由な思いをさせられた部分はあったものの、租界の外への恐怖心をぬぐいきれずにいたニーナの気がそれでだいぶ楽になったようで、慣れた後は心の底から楽しく見物することができた。トータルではプラスとしていいだろう。
「ふふー、ホテル選び私たちに任せて良かったでしょ」
「ほんとに。なんていうか……ご馳走様です」
シャーリーがぺこりとお辞儀をすると、クラリスがくすりと笑む。
「いいのよ気にしなくて。好きで勝手にやったことなんだし。それにほら、お金で買えない価値があるって言うじゃない」
「言うっけ? っていうかその前にこれってお金で買ってない?」
「違うわ。そこじゃなくて。みんなで楽しく過ごす時間。それはお金には換えられないでしょう? お金なんてのはただのトッピングよ。一番価値のあるものに珍しい味付けをするだけなの。きらきらきらーってね」
……さすがはお金持ち。なんてぶっ飛んだ考え方なのかしら。
顔を逸らして小声で言うシャーリーに、ミレイが苦笑した。
「わかってあげなよシャーリー。クラリスって学校通うのウチが初めてなんだから。ここは大富豪のご令嬢にお金では買えないって認定されたのを素直に喜んどくのが正解」
「あぁ、そっか。ごめんね。ありがと、クラリス」
「私も……えっと、ありがとう」
「なんだかそうやって面と向かって感謝されるのも変な気持ちね。別に大したことをしたわけでもないのに」
「まぁまぁいいじゃない。ところで、ディナータイムにはまだ早いけど、みんなどうする?」
お風呂だの、外の風が浴びたいだの、枕投げ大会だのの意見が飛び交う中で、クラリスが申し訳なさそうに言った。
「私は少し、会議のほうを見て来たいんだけれど、他に行きたい人なんていないわよね?」
会議とは無論、サクラダイト生産国会議であろう。会議場に入るのは当然無理だが、ホテルには内部の模様を映し出すモニターがいくつか設置されていた。夢中でホテル見学をしていた際には誰も目を向けなかったものだ。
「あ、クラリスってやっぱりそういうの興味あるんだ?」
「一応ね。これでも投資家の娘だから」
問われたクラリスが頷くと、友人たちは口々に言う。
「行きたいなら行ってきたら? 直接見る機会なんてなかなか無いだろうし」
「うん。私はちょっと、難しいのはアレだから遠慮しとくけど」
「私も経済系は……」
三人ともあまり乗り気でないらしい。
「じゃあ私だけで行ってくるわ。夕食までには終わると思いますが、もし戻らなかったら連絡を入れてください」
ミレイに軽く会釈をして、クラリスは生徒会メンバーの前を後にした。
カードキーを持って扉を開ける。部屋を出て完全に一人になると、すぐに表情から柔らかさが消えた。
「……この機会に何としてでも会っておかないと。偶然のニアミスなんてもうやりたくないもの。寿命が縮むわ」
腰近くまで伸ばされた長い髪をなびかせ、早足で歩く。向かう先は中継モニターの置かれたロビーではない。現場――会議場である。
目的地に着くと、ちょうど審議がひと段落付いた頃らしく、扉の中からぞろぞろと参加者たちが出て来ているところだった。
素早く走らされたアメジストの視線が、一人の人物の上で止まる。
桃色の髪をキャリアウーマン風にきちっと編みこんだ、眼鏡の女性である。いや、よく観察すれば、その顔立ちが女性と言うよりも、少女と呼ぶべきあどけなさを強く残していることに気づけたかもしれない。
クラリスは静かに息を吸い込むと、しっかりと顔を上げ、喉を振るわせた。
「――ユフィ!」
呼びかけられた女性が振り返る。唇に指を当てたクラリスの姿がその目に映った一拍の後、女性の眉が驚いたように跳ね上がった。
腹違いの姉妹が、八年ぶりの再会を果たした瞬間であった。
◆◇◆◇◆
ブリタニア人の父が保有する無駄に広い邸宅を出るなり、カレンはシンジュクゲットーへと足を運んだ。
租界を抜ければ、すぐに荒涼とした風景が目に飛び込んでくる。
荒れ果てた日本人の街。破壊し尽くされたかつての繁華街。
廃墟と化した町並みに立つと、カレンの胸には苛立ちにも似た焦燥が湧いてくる。
ただし、その対象はブリタニアだけではなかった。
おのれの暮らす租界の豪邸と、扇たちレジスタンスのメンバーが潜伏するゲットーの廃屋。
ブリタニアの学生としてのカレン・シュタットフェルトと、日本人の抵抗活動家としての紅月カレン。
さらに連鎖的に思い浮かぶのは、サイタマゲットー壊滅作戦の報道を生徒会室で視聴していた、自分の姿。
カレンが学校へきちんと登校するようになったのは、シンジュク事変以降のことである。今年度の出席日数は編入生であるクラリスとほとんど変わらない。
ほとぼりが冷めるまで大人しくしていた方が良いとの扇の判断を受け、ブリタニア人の生の反応を見る目的もあって、学校に行くことにしたのだ。ゼロとの邂逅の後は、追っての指示があるまでは、という彼自身からの命に従い、そのままの生活を続けてきた。
楽しくなかったと言えば嘘になる。生徒会の面々は皆個性的で、日本人のスザクにも気取ったところなく接してくれている。不快なところなど欠片もない。
それがあってこそ、敵であるブリタニア人の真っ只中に通いながらも、平静を保ち続けていられたのだろう。それはおそらく間違いない。
しかしその反面、初めて体験する安穏とした学生の時間は、想像以上に、カレンに大きな影響を与えていた。
先日、生徒会室でサイタマゲットー壊滅作戦のニュースを目にしたとき、カレンは愕然とした。
――自分はいったい、何をしているのだろう。
日本人の血が薄まっているような錯覚に襲われた。紅月カレンとは、こんなにも簡単に、ブリタニア人に傾いてしまうのか、と。
同時に、ゼロを待っているだけの現状に疑問を抱いた。
ただ、それが惰弱な精神力から目を背けるための逃げ道であるとも自覚していた。
枢木スザク救出の奇跡を目撃したあの日、彼を信じて従うとたしかに決めた。ならば与えられた役目を果たしていればそれでいいはずなのだ。ゼロに対する信頼と期待は未だに薄れていないのだから。
にもかかわらず現在の状況に焦りを覚えてしまうのは、弱さの表れに他ならない。
そうと知りつつも、カレンは今日行動することを選んだ。ゼロに今後の計画を問おうというのである。
潜在的には、彼の自信に満ちた声で何か命令を下して欲しい――活動家としての紅月カレンを強く規定してくれる言葉を与えて欲しい、そう願っていたのかもしれない。
ともあれ、カレンはレジスタンスの隠れ家へと赴いた。ゼロへの通信を許可されているのが扇だけだったためだ。
「扇さん――」
「あぁ、カレン。いいところに来た」
用件を話す前に、扇のほうから告げられる。
「さっきゼロから連絡があった。何でも、プレゼントをくれるんだとか」
「プレゼント、ですか?」
「新しいアジトだそうだ。ゼロもそこにいるらしい。これから移動する」
直接ゼロに会えるのなら、願ってもない。
カレンは胸に広がる安堵のようなものを努めて意識しないようにしながら、扇に頷いた。
「わかりました。私も行かせてください」
◆◇◆◇◆
高級ホテルの、しかし特上ではない等級。エリア11の副総督に就任する以前、ユーフェミアが外で泊まるのは、大体がこのランクの客室だった。無名の学生として過剰に目立つことのないよう心がけていたためである。
今回宿泊するのもそのような部屋だ。
ユーフェミアはサクラダイト生産国会議に参加しているものの、エリア11副総督として審議に加わっているわけではない。隅に控えて立ち会っているだけである。どちらかというと、勉強の意味合いが強いのかもしれない。地味に見えるように変装もしているし、出席者リストに名前も載せていないから、参加者たちからすれば、何をしに来たのかよくわからないどこかの小娘だろう。
身分を隠しているからにはロイヤルスイートに宿泊するのも妙な話で、予約させたのは慣れ親しんだ半端に高級な普通のシングルルームである。
学生時代の名残か、ユーフェミアはこの程度の部屋の方が落ち着けて好きだった。
けれど、今は落ち着けない要因が目の前にある。
「――まさかクラリスがエリア11にいたなんて。どうしてもっと早くに知らせてくれなかったんですか?」
「無茶言わないでよ。今の私はただの子爵家の娘。ユフィは第四皇女殿下にして副総督閣下。アーベントロート子爵本人ならまだしも、私なんかじゃどうやったって取り次いでもらえないわ」
二人きりの室内。ベッドに腰を下ろしたユーフェミアの正面には、椅子に座った八年ぶりの姉の姿があった。
顔を見ているだけで心が踊る。
母親こそ違うものの、故マリアンヌ皇妃たちヴィ家の住まうアリエスの離宮には、実姉コーネリアとともにしばしば遊びに行かせてもらったものだ。歳が近いおかげもあって、双子の兄妹とは他の兄弟姉妹と比べて格段に仲が良かった。
本当のことを言えば、あの頃にはたしかにあったルルーシュとナナリーの姿が無いのが、寂しく、悲しい――そういった気持ちは深いところに存在している。しかし、もっとつらく感じているであろうクラリスが何も言わないのならその話題には触れまいと、ユーフェミアは上手く感情をコントロールしていた。
そう、せっかく会えたのだから、今はこの幸運をただ喜べばいいのだ。
「お姉様もご一緒できたらよかったのに」
「コーネリア姉様? 居たら怒られるんじゃない? 『会議そっちのけで何を遊んでいる』って」
クラリスが悪戯っぽく目を細める。
サクラダイト生産国会議は、実は現在も続けられている。
ユーフェミアは小休憩で会議場を出た際にクラリスを発見すると、すぐに自室に連れ込み、以来会議には戻っていない。付け人にはいろいろ言われたが、現場にいたところで何をするわけでもないし、あまり問題にはならないだろうと無理やり押し通した。
「大丈夫です。もし怒られても、そのときはクラリスに誑かされたって言いますから。きっと私のことは許してくださいます」
「それでまた私だけが罰を受けるの? ひどいわね、久しぶりに会った姉に全部なすりつけようだなんて」
「違いますよ。クラリスなら何とか言い逃れができると思って。信頼の証です」
幼い日を思い返しながら、顔を見合わせてくすくすと笑う。
今でこそ皇女らしい分別を身に着けた二人も、小さい頃はよくやんちゃをして叱られたものだ。そんなとき、クラリスは何度もユーフェミアを庇ってくれた。
本当は二人で計画した悪戯でも、クラリスが自分から誘ったと言えば、コーネリアは決してユーフェミアをきつく咎めはしなかった。幼稚な嘘など容易く見抜かれていたはずなのに。
今にして思えば、たぶんあれはユーフェミアに対する偏愛だけがそうさせたのではなかったのだろう。一つしか歳の違わない異母妹を守ろうとする、幼いクラリスの健気な矜持を立ててやっていたのだ。
「やっぱり変わっていないの? 姉様は。今でもあんな感じ?」
「ええ、あんな感じです。周りに厳しくて、自分にはもっと厳しくて、でも私には優しくて。ちょっと過保護かなって思うところもありますけど」
「そう、懐かしいわね」
「政庁に戻ったら、面会できるように私が話を通しておきます。お姉様も会いたいでしょうから、きっとすぐに会えますよ。今度一緒に食事でも取りましょう」
弾んだ声を出すユーフェミアとは対照的に、クラリスは落ち着いた調子で返した。
「それは楽しそうね。でも、実際に会うのは控えたほうがいいわ」
「どうして、ですか?」
「さっきも言ったでしょう。ユフィは副総督閣下で、私はただのクラリス・アーベントロート。姉様についても同じこと。皇女殿下が成金みたいな子爵家の娘と仲良くしていたら、いい顔をしない人がたくさんいるんじゃない?」
「何とかします!」
「何とかって、だいたいまだ皇帝陛下のお赦しが出たわけでもないのよ? きっと姉様も反対されるわ」
クラリスがブリタニア皇宮から追放されたのは、皇帝に面と向かって簒奪をほのめかすような発言をしたことへの責を問われての沙汰――皇位継承権が剥奪されていないことを考えれば、謹慎処分のようなものだ。絶大な権力でブリタニアを統べるシャルルはわざわざ本心を他人に語ったりはしないが、事実から判断してほとんどの人間がそう理解している。穿った見方をする者は、利用価値が見つかるまで何処かの檻で飼い殺しにするつもりなのだ、と言う。
いずれにせよ、皇帝に黙って表に顔を出していい身分ではない。
「でも……せっかく近くにいるのに」
目を伏せるユーフェミアに、クラリスは続けて言った。
「それに――ゼロという男もいる。彼はクロヴィス兄様を殺したと宣言した以外には、何の声明も出していない。もしかしたら、枢木スザク強奪というのは、大々的に犯行宣言をするのに都合の良い舞台だった、というだけなのかもしれない」
「それが、どういう?」
クラリスはルルーシュともども昔から頭が良かった。ゲームでも勉強でも、ユーフェミアは勝てたためしがない。
それはいいとしても、たまにこう意図のわからないセリフが出てくるのは勘弁して欲しかった。双子の間では通じていたようだから、ちょっとだけ除け者になったような気がして悲しかったのを覚えている。
「結論を言ってしまうと、ゼロはブリタニア皇族に恨みを抱いている人物の可能性がある。根拠なんてすごく薄いんだけどね。一応可能性としてはあり得る」
ここまで説明されれば、ユーフェミアにも姉が何を言わんとしているのか察しがついた。
「――だから、あまり目立つことはしないほうがいい、と?」
「ええ。総督だったクロヴィス兄様を暗殺できるような人が相手になるんだとしたら、ウチの護衛では少々荷が重いでしょうね。目を付けられないのが一番安全よ。貴女たちの影に隠れるみたいで、少し申し訳なくはあるけれど」
「いえ、そんなことは」
ユーフェミアはとんでもないと首を振る。
相手がゼロであろうが、他のテロリストであろうが、あるいは政敵の兄弟姉妹であろうが、無防備な皇族など格好の的でしかない。隠れようとするのは当然であり、また匿うのも当然だ。
そう。
今のクラリスには、クラリス・ヴィ・ブリタニアであればすべからく達成されているべき水準の、そのはるか下の警護しか望めないのだ。
それで今まで無事に生活して来られたのは、彼女がクラリス・アーベントロートたろうと細心の注意を払っていたからなのだろう。狙われる理由の無い、一子爵令嬢であろうと。
――籠の鳥。
ふとそんな言葉が思い浮かんだ。
不自由と引き換えに手に入れた身の安全。
自分などよりもずっと聡明なクラリスがそんな窮屈な立場に甘んじているという現状に、ユーフェミアは言いようのないもどかしさを覚えた。
「何とか、できたらいいんですけど。申し訳ありません」
「何でユフィが謝るのよ。私のは自業自得だし、むしろこっちが皇女殿下にお礼を申し上げたいくらいだわ。囮になってくれてありがとうございますって」
クラリスは笑みを孕んだ口調でからかう様に言う。
「もう、クラリスったら」
つられてユーフェミアの頬も緩んだ。
そのときだった。
窓の外から響いてくる突然の轟音。
同時に大きな振動が高層階にあるユーフェミアの部屋を襲った。
「何!? 地震でしょうか!?」
「いえ、なにか爆発音が聞こえたわ。確認した方が良さそう」
既に揺れは収まっていた。
クラリスに手を取られ、ユーフェミアはよろけながら室外へと出る。廊下では皇女の護衛と子爵令嬢の護衛が、各々の無線で同僚と連絡を取り合っていた。
「バーンズ、状況は?」
「先ほどの爆破で橋が落とされたようです。おそらくはテロかと。グラスゴーに似た機体を押し立てたイレブンどもが、地階から強襲してきたとのこと」
「ナイトメアが……!?」
一瞬にして重苦しい沈黙が一同を包む。
警備用のナイトメアが配置されているのは湖の外周だ。万一事が起こった際、建造物および内部の人間に被害を与えないためである。
その態勢が仇となった。橋が落とされたとなれば、満足な応戦は不可能と見て間違いないだろう。
だが、短絡的に警備責任者を責めることはできない。機体数に限りのあるナイトメアを運用するにあたって、こんな事態は想定しないのが当たり前なのだ。
なぜなら、テロリストの取ったこの行動には、先がないからだ。
おそらく敵はサクラダイト生産国会議の参加者たちを人質に、何らかの交渉を行うつもりなのだろう。
しかし、どこの国の要人を盾に取る計画であったとしても、エリア11を統べるのは苛烈さで鳴らす武断の皇女コーネリアである。テロリストの要求など呑むわけがない。
それは誰の目から見ても明らかだ。無論各地に潜伏する反ブリタニア勢力も承知しているはず。
そして立てこもった場所は逃げ場の無い小島である。いわば、物資補給も援軍も望めない篭城戦。ナイトメアのエナジーが続くうちは地形の恩恵で優位に戦えるだろうが、そんなものは長くは続かない。となれば、包囲殲滅の未来は必定。
普通の人間ならそんな破滅的な作戦を選んだりはしない。
そう、普通の人間ならば。
『地上十五階まで制圧されました! 物量差から見て、抵抗はいたずらに被害を増やすのみと考えます! 敵があれでは戦術も意味を成しません!』
無線機のスピーカーが上擦った男の声を垂れ流す。
『奴らは――狂人です! まったく死を恐れていません!』
わずかに流れる無言の時。
「……投降させなさい」
血を吐くようなクラリスの声音が、居合わせた面々の心情を代弁していた。
数十分後、ホテルの宿泊客たちは薄暗い食糧貯蔵庫に押し込められた。
沈鬱な面持ちをした人質たちを取り囲むように、短機関銃を構えた軍服姿の東洋人が十数人で見張りに立っている。監視こそしているものの拘束を施していないのは、抵抗するすべが無いと高をくくっているためだろう。
すべての人間が厳重に武装解除されたのだから、きっとその認識は正しい。小声でなら多少の会話すら許されるという好待遇も、同じ理由によるものに違いあるまい。
監視者のうちの一人が引き金を引くだけで、ここに居る全員が命を絶たれてしまうのだ。
震える吐息を漏らし続けるニーナの肩を抱きながら、ミレイは自分の意外なほどの冷静さに少々の驚きを覚えていた。
だからといって事態が好転するわけでもないのだが、年下の友人を元気付けることと、状況を確認することくらいならできる。
テロリストは同じ客室にいた者たちをわざわざ引き離したりはせず、特に座る場所を指定することもなく、このだだ広い部屋にまとめて放り込んだ。
だから、ミレイの横にはニーナのほかに俯いたシャーリーがおり、クラリスはいない。彼女は少し離れた位置で、桃色の髪をした眼鏡の女性と隣り合って腰を下ろしていた。
さすがはブリタニアの皇女と言うべきか、この状況にあってなお瞳は輝きを失わず、むしろいつもより鋭利に光っているようですらある。
その脇には護衛隊長だと紹介された壮年男性の姿があった。
そこまで確かめて、ミレイは自分のそばに居る三十前くらいの男に顔を向けた。
護衛隊の一人だと、こちらもまたクラリスに紹介された人物だ。少し話したくらいでしかないが、割と気の利く人間という印象を受けていた。
「……これって、何とかならないんでしょうか?」
男はミレイからの不意の問いかけに少し眉を上げてから、しっかりとした口調で答えた。
「たとえここを逃げられたとしても、退路が確保できていなければ意味がありません。ですが、どうにもならないということは無いはずです。彼らも自殺志願者ではないでしょうから、何らかの脱出手段を用意しているに違いありません。そこを見極められれば、道は開けます」
返ってきたのはミレイの望む回答だった。
気休めでも何でもいいのだ。明るい情報で少しでもニーナとシャーリーに希望を見せてあげられれば、それで。
ミレイの意図はきっちりと伝わっていたのだろう。感謝の意を込めて微笑んでみせると、男は力強く頷き返してくれた。
その顔の向こうに、ふと開く扉が見えた。左胸に派手な階級章を付けた恰幅の良い男が、堂々とした足取りで倉庫に入ってくる。
男は鞘に入った日本刀で軽く床を叩き、人質たちに注意を促した。
「自分は、日本解放戦線の草壁である。我々は日本の独立解放のために立ち上がった。諸君は軍属ではないが、ブリタニア人だ。我々を支配するものだ。大人しくしているならば良し。さもなくば!」
皆までは言わず、威圧するように視線を巡らせる。
そこで、ゴゥンと、下のほうから地響きのようなものが伝わってきた。すぐに草壁の無線機に通信が入る。
『――ライフライン、および物資搬入路の地下トンネルを爆破崩落させました』
「何ですって!?」
女性の鋭い声が上がる。見ればそれはクラリスだった。瞠目して草壁を凝視する彼女を無視して、無線機は淡々と報告を続ける。
『これにより、地下部分は完全に浸水。水道と電気系統に致命的な損傷が発生すると見られますが、予備の物で十分に維持が可能。自在戦闘装甲騎の動力源も、予定通り二十四時間分は確保できております』
「ふむ、これで背水の陣の完成か」
草壁は重々しく頷いた。
「馬鹿な!」
「なんてことを……!」
事の重大さを理解したらしい数人が、信じられぬ、といった顔をする。いや、この期に及んでまだ諦めていなかったうちの数名が、としたほうが正確か。
人々のざわめきを吹き散らすかのように、草壁は大音声で宣言する。
「もとより玉砕覚悟! 我々に退路など必要ない!」
イレブンの軍人たちが追従して雄たけびを上げた。吹き荒れる野蛮な熱気に悲鳴を漏らしかけるニーナを、ミレイは強く抱きしめる。
「狂ってる……!」
誰かが呆然と呟いた。
「貴様! 狂っているとはなんだ!? 草壁中佐を狂人扱いするか! 武士道の精神を解さぬブリタニアの豚がッ! 来いッ、貴様が最初だ!」
イレブンの兵士が中年男性の胸倉を掴む。乱暴に引き起こされてうめく男性に眉をひそめるミレイは、自分でも気づかないうちに疑問を口にしていた。
「最初って……?」
「我々の要求に対してブリタニアから何らかの返答が得られない限り、諸君には三十分おきに一人づつ屋上から飛んでもらう。最終期限は二十四時間後である。それまでに要求が受け入れられない場合、非常に不本意ではあるが、全員に死んでもらうことになる」
余りの通告だった。
衝撃が大きすぎたのか、逆に誰もがさしたる反応を見せなかった。ニーナですらだ。
一人が騒げば連鎖的にパニックに陥ると本能的に皆が悟っていたのかもしれない。その末路は考えるまでも無く、向けられた銃口が示している。
目を瞑って縮こまるニーナを、ミレイは胸に掻き抱く。視線の先では、唇を引き結んだクラリスが考え込むように宙の一点を見つめていた。
「ルル……!」
祈るようなシャーリーの声が、いやによく耳に響いた。
◆◇◆◇◆
カレンたちレジスタンスのメンバーがやってきた場所は、とある貸し倉庫だった。
弱々しい照明のみを光源とした空間。薄闇の中に巨大なシルエットが浮かび上がる。よく見てみれば、それは自走式のキャンピングカーであった。
どうやらこれが新しいアジトとなるようだ。
ゼロに招かれて車内に足を踏み入れると、車の中とは思えぬほどの豪勢な内装が一同の目を奪う。
二階建ての広々とした車中には、少数の構成員から成る組織とはいえ、扇グループのメンバー全員が生活できそうな、充実した設備が揃っていた。寝室やトイレ、キッチンは言うに及ばず、居間のような空間にはテレビまで備え付けられている。
他の仲間たちが新アジトの検分に気を取られている中、カレンは悠然とソファに座るゼロに一人歩み寄った。
「どうした、カレン?」
「ゼロ、あの……」
あれほど会って意を確かめねば、と思ってたのに、いざ面と向かうと言葉が出てこない。
もしかするとゼロの被る黒い仮面がそうさせたのかもしれなかった。光を弾く黒ガラスは中の人物の表情を窺わせず、代わりに奇妙に屈折したカレンの顔を映し出している。
自分の心と向き合っている――。ふとそんな妄想に捕らわれた。
だが、紅月カレンの精神はその思考に溺れる愚を許さない。頭に浮かんだ脆弱な幻想をすぐに振り払い、意識して背筋を伸ばす。
「ゼロ。私たちは、このままで良いのでしょうか」
「このまま――とは?」
「先日、サイタマゲットー包囲作戦のニュースを見ました。言うまでもありませんが、成功に終わったと。コーネリアは現在も各地に飛んで抵抗勢力を潰しに掛かっています。他の日本の人たちが懸命に戦っているというのに、私たちは、待機したままです。これで、本当に良いのでしょうか」
「ふむ」
ゼロは返答に少しの間を持たせた。
「ではカレン、逆に訊こう。きみの意見はどうだ。どうすれば良いと思っている?」
「それは……」
口ごもる。
答えは出ない。それは当然のこと。自分たちの才覚では無為に命を散らすほか無いと強く実感したからこそ、カレンたちレジスタンスはゼロに運命を託そうと決めたのだから。
「何もできないとわかっていても、『何かをしなければ』と感じずにはいられない。きみに限らず、扇たちも同じなのだろう。その愛国心を、私は得がたい物だと思う。無論きみたち自身もだ。だからこそ、軽々しい行動で命を危険に晒して欲しくはない。だが――。カレン、きみの質問に答えよう。このままでは、良くない」
「なら――」
カレンの瞳が期待に輝く。
「そうだ。私たちは動かねばならない。雌伏の時は終わった。私たちは、私たちの目指すところを示すために、これから立ち上がる。付いてきてくれるか、カレン」
「はい! ゼロ」
仮面の男の言葉は、怪しい風体をものともせず、カレンの胸に浸透してくる。
この人に従えば未来は開けるのだと。自分はブリタニアの打倒を約束したゼロの配下、紅月カレンなのだと。
「それで、その目標というのは――」
問いかけようとしたとき、誰かがテレビの電源を入れた。スピーカーから流れるリポーターの声が耳を打ち、カレンの口は止まる。
『河口湖のコンベンションセンターホテル前です。ホテルジャック犯は――』
河口湖。ホテル。ジャック。
断片的な単語がパズルのように組み立てられ、脳裏に生徒会メンバーの面影が浮き上がる。カレンは思わず画面を振り返っていた。
たとえ自分が日本人の活動家であったとしても、やはり彼女たちは友人だった。その認識は消せるものではない。
シャーリー、ミレイ、ニーナ、クラリス。
顔を強張らせるカレンのそばで、ゼロが勢いよく立ち上がる。
「……何だこれはッ!?」
強く拳が握られ、黒手袋がぎしりと革の音を立てた。
「『何だ』って、日本解放戦線の草壁中佐が、人質を取ってホテルに立てこもったらしい」
「そんなことはわかっている! なぜこんなことをする奴らがいる!」
初めて見るゼロの剣幕にうろたえた様子で、しかしはっきりと扇が答える。
「たぶん、独断専行じゃないのか。日本解放戦線は最大の反ブリタニア勢力だ。さすがに、こんな馬鹿な作戦を指示する組織じゃない」
ゼロは低く唸る。仮面の奥の面持ちは見通せない。それでも明らかに見て取れるほどの激しい怒気が溢れ出ていた。
「……許してはおけん。こいつらを許すわけには行かない。絶対にだ」
「いや、ゼロ、気持ちはわかるが、仮にも彼らは日本の同志だ。許せないって言ったって――」
「『同志』? 違うな。間違っているぞ扇。奴らは同志などではない」
ゼロは握り締めていた拳を解き、一同を見渡した。
「いい機会だ。今ここで私たちの目指すものを教えておこう。私たちが戦うべき相手は、ブリタニアであり、ブリタニアの理念だ。たとえブリタニアの代わりに新しい国が建ったとしても、同じ論理で動くのであれば何も変わらない。――ならば!」
ゼロの怒りは噴き出すようなものから静かに燃えるようなものへと変化している。しかしその激情はたしかにそこに存在し、仮面の男の弁舌に力を与えていた。
黙して聞き入るレジスタンスの表情が引き締まる。
「私たちが打倒すべきは、ブリタニア的主義、すなわち、強者の思想そのもの! 弱者を虐げてはばからない奴らは、一人たりとも許すわけには行かん!」
上向きにされた手のひらが、力強く何かを掴むような仕草を見せる。
「私たちの目指すところ、それは――正義の味方だ!」