昼休みの教室は騒がしい。
それは多くの学校において当てはまる、ある意味世界の必然とも言える事柄であるのかもしれない。無論その法則はアッシュフォード学園でも例外なく適用される。
シャーリーは喧騒に包まれた教室の中、さらに一段と騒がしい一角の様子を探っていた。顔を向けないようにしながら、耳をそばだてて。
別に堂々と正面から見ても、自分自身が加わってしまっても、特に問題は無いのだろう。友人たちは嫌な顔をせず輪に入れてくれるだろうし、中心にいる人物にしても笑顔を向けてくれるだろう。
わかっているのに、どうしてかそうする気になれない。
自分でもよく掴めないこの複雑な心の動きが『恋』から来るものなのだろうと、シャーリーは深く自覚していた。
「ねぇねぇ、クラリスさんって今まで学校通ってなかったんだよね? 家庭教師ってどんな感じなの?」
「投資の勉強してるって本当?」
「ずっと家にいると初恋の人とかってどうなるの? やっぱり稽古事の先生とかになったり!?」
新しくクラスメイトになった編入生――クラリスに群がった女子生徒たちが、口々に質問をぶつけている。
「あ、ええと、その……」
一遍に話しかけられたクラリスはしどろもどろだ。声の調子から戸惑っている雰囲気がありありと伝わってくる。それなのに迷惑がっている風には聞こえない辺り、育ちと人柄の良さを感じさせる。
そう、別に彼女自身は悪い子ではないのだろう。歓迎会でおしゃべりしたときも嫌な印象は受けなかったし、箱入りという割にはそんなに世間とずれた感性をしているわけでもなく、むしろいいお友達になれそうだとさえ思った。
ただし、それは間に一人の男の子が入らなければの話。
別に入ったからといって友達になりたくなくなったりするわけではないのだけれど、それでも、それを考えるともやもやとした妙な気持ちが胸にたまってくる。
要するに、その『一人の男の子』こそがシャーリーの意中の相手なのだ。
今クラリスの隣の席でヘラヘラ笑っているであろうナンパ男――そんな人間だとは少し前までは全然思っていなかったが――ルルーシュである。
(ルルのやつ、こないだまでカレンとアヤシイカンジになってたってのに、今度はまた別の子? しかも『ルル君』なんて呼ばせて喜んじゃって)
隠そうとしているようだったが、少し前の数日間、カレンとルルーシュはお互いを意識し合っていた。間違いない。他の人の目は誤魔化せてもシャーリーの目は誤魔化せない。
とはいえ、カレンについてはもう、勘違いだったのかと思うほどきれいさっぱり興味を失ってしまったようなので、この際忘れることにして。
問題はクラリスだ。遠くから眺めて満足しているファンクラブの連中なんかとは違って、彼女はあからさまにルルーシュに好意をぶつけている。つまりはライバルである。
質問攻めに遭っている今だって、きっと縋るような目で救いを求めているに違いない。水泳部所属でどちらかといえば肉体派のシャーリーでは似合わないだろうその仕草も、深窓の令嬢である彼女がやれば、たぶん男に対してすばらしい破壊力を持つ攻撃となるのだろう。
「ほら、クラリスが困ってるだろ。仲良くなりたいのはわかるけど、ほどほどにしとけよ」
ルルーシュがいい気になって助けに入ってしまうのも頷ける。ただし納得はしたくないのがシャーリーの乙女心である。
「『クラリス』ぅ!? もう呼び捨て!? ルルーシュ君ってばそんなに手が早かったの!?」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ。前に生徒会で歓迎会をやったんだ。クラリスは編入申し込みのときから生徒会に入りたいって希望してたらしくてさ。メンバーはもう皆呼び捨てだよ。なぁ、シャーリー」
「ふぇっ!? わ、私!? え、うん! そうそう、ルルだけじゃなくって、皆『クラリス』って呼んでるよ」
バっと勢いよく振り返ると、案の定楽しそうにしているルルーシュがいる。その横にはクラリスの整った顔が。
彼女はたしかに可愛い。顔の作りだけで言うと可愛いというよりは綺麗系。綺麗な顔立ちなのに、たまに見せる恋する少女の表情がとても可愛いのだ。
認めよう。クラリス・アーベントロートは同性から見ても魅力的な、麗しい見目をしている。美形のルルーシュとはお似合いだろう。着飾って二人で並んだら皇子様と皇女様だと紹介されても信じてしまうかもしれない。
(でも体なら! 体なら私のほうがっ! 脱いで見せたらきっとルルだって……!)
ミレイ会長も褒めてくれているし、きっと男の子にも通用するに違いない。だからルルーシュと二人っきりになったときに、そっと、こう――。
「――って何考えてるのよ私はぁぁあああッ!」
思わず上がった羞恥の悲鳴。
「な、なに? どしたの? シャーリー」
想像していたことがアレなだけに周りの注視がたまらなく痛い。
真っ赤になって縮こまるシャーリーを救済するかのように、ちょうどそのとき校内放送が入った。
『クラリス・アーベントロートさん。クラリス・アーベントロートさん。理事長室まで来てください。繰り返します。クラリス・アーベントロートさん――』
「あれ? クラリスさん何かあるの?」
「編入手続きの話じゃないかしら。まだ書類がいくつか残っているみたいで。ごめんなさいみんな、抜けるわね。お話はまた後にしましょう」
席を立って教室を出て行くすらりとした立ち姿を見送りながら、シャーリーは「負けない」と決意を新たにするのだった。同時に、結局今までと同じく何かきっかけでもない限りはルルーシュにアタックしたりはできないんだろうな、と情けない自分に嘆息しつつ。
アッシュフォード学園の理事長室に立ち入る人間は、普段はそれほど多くない。皆無ではないが、少なくともノックも事前の連絡もせずに入室するような人間は、部屋の主であるルーベンとその孫のミレイ以外にはいない。
ゆえに、この場所は学園内で最も密談に適した空間であった。
静かに入ってきた人物がドアを閉め終わるのを待って、ミレイは珍しく堅苦しい声を出す。
「お待ちしておりました、殿下。ゆえあって祖父は外しております。時間に限りがございますので、私だけにでも先にお話をお聞かせ願いたいのですが、構わないでしょうか」
「普通のしゃべり方で大丈夫ですよ、ミレイ会長。どこで誰が聞いているかもわかりませんし」
「あれ、そう? じゃあそうさせてもらうわね、ありがと、クラリス」
「……ものすごく軽いですね」
「うん。だってルルーシュで慣れてるから。いまさらね。さ、座って」
応接セットのソファを勧め、自分は向かいに座る。
一度許可が出たら皇族だろうと一切遠慮をしないのがミレイ・アッシュフォードである。それは一見しても二見しても軽さの表れ以外の何物でもないのだが、彼女をただの軽薄なだけの少女と見なしている者は、アッシュフォード学園には一人もいない。
楽しめるときに楽しめるだけ楽しもうというのが誰もが知るミレイの持論であり、それが逆の場合にも当てはまることを皆が理解している。ゆえに学園内での人望は厚い。
軽いように見えても締めるべきところはきっちりと締める。それがミレイという少女だった。
「それで、やっぱり兄妹ってのは伏せておく方向?」
「ええ。どう話を作っても私たちが兄妹というのは不審ですから。怪しい部分は無いに越したことはないでしょう」
「妥当な判断ね。歓迎会のときはびっくりしたわー、ルルーシュの奴いきなり抱きつくんだもん。一気にばれちゃうんじゃないかって内心ヒヤヒヤ。あの短時間でよくうまい言い訳を考えたわね。グッジョブ賞あげちゃいたい」
「なんですかそれ?」
「三つ溜まるとミレイ会長からルルーシュばりの熱ーい抱擁がー」
「辞退させていただきます」
「イケズ」
唇をとがらせるミレイを淡々と無視して、クラリスは冷静に話を進める。
「あのときの件なんですが、本当のことにしてしまおうかと」
「テロの日に会ったってやつ? じゃないわよね。そこはもう覆しようがないし」
「ルルーシュが私に抱きついたのは、前回会ったときからただならぬ想いを抱いていたせいだった、ということにします。私が拒まなかったのも同様の理由。機を見てどちらかが告白をして、あるいはそれに準じた何かが起こって、私たちは恋人同士になります」
話を聞くミレイの顔から次第におどけた色が消えていく。情報を吟味する彼女の目つきはわずかに鋭くなっていた。
「なんとなくわかるけど、狙いを聞かせてもらってもいい?」
「恋人だったら兄妹とは疑われないでしょうし、それ以上に、ルルーシュたちの部屋に堂々と出入りできるようになります。ナナリーとも一緒に、また、家族で過ごせる時間が持てます」
「やっぱそれか。ずっと離れ離れだった家族なんだもんね。そりゃ一緒にいたいわよね」
ミレイは納得したように言ってから、重苦しい息を吐いた。
クラリスたちヴィ家の事情をミレイはよく知っている。だからこの策がかれらにとって最善なのであろうことも重々理解できていた。
だが、筋道だった理屈だけでは簡単に説き伏せられない感情というものも存在する。
それゆえに、ミレイは問い掛けずにはいられなかった。
「あのさ、無理を承知でお願いなんだけど、ちょっと、考え直してみる気は無い?」
「理由を聞いても?」
「シャーリー、かわいそうで。わかるでしょ? ルルーシュに惚れてる生徒会の子。そんな出来レースの相手に負けちゃうなんて。あの子、あれですっごく真剣だから」
言い終わると、理事長室には沈黙が下りた。
即座にも答えの返ってこないこの微妙な間は、ミレイに対面の少女の心境を想像させる。
きっと同じなのだろう。でなければ悩む必要などないのだから。
ややあってクラリスから出てきたのは、やはり重い口調だった。
「……私は、好きにならないほうがいい相手って、いると思うんです」
「追われてる皇子様だから?」
「全部わかっていて恋をするならともかく、わかったときには手遅れの状況だったなんて、悲劇以外の何物でもないでしょう?」
「ルルーシュに明かせとも言えないし……か」
ミレイはソファから立ち上がり、窓辺へと向かう。
大して意識した行動ではなかった。強いて理由を挙げるならば、クラリスが硬い表情をしていたから、だろうか。
向き合っているとなんだか鏡を見ているようで、それがまた面白くない感情を映し出すものだから、内と外から迫ってくるものに潰される前に逃げたくなった。
たぶんそうなのだろうとミレイは分析する。だから、窓の外の青空を見ていると、少しだけ胸が軽くなったような気がしてくるのだ。
「まーねぇ、私もそういうのあるんじゃないかとは思うんだけどさ。応援してあげたいじゃない。女の子の可愛い恋。同じ女の子として」
「それには同意しますけど……。私も応援したいですよ、本音を言えば」
「でもやっぱり、ルルーシュたちの安全には代えられない――か」
「それと、彼女自身の命にも、です」
「……そう、なのよね。考えないようにしてたけど、万一のことが起こったら、そういう可能性も出てきちゃうのよね」
窓の桟に手をつき、ミレイは今日一番の盛大な溜息を吐く。
「『好きにならないほうがいい相手』、か。ままならないわね」
「……そういうものですよ、世界って」
達観したセリフでありながら、どこか認めたがっていない響きが混じっている。
意外なところにルルーシュとの相似点を見出して、やはり兄妹なんだな、とミレイの頬には我知らず皮肉めいた笑みが刻まれていた。
そんな悲壮な価値観が似てしまうなんて、笑い事で済ませていい部分ではないのだろうけれど。
「しょうがないか。知らないまま命賭けの恋愛になってるなんて、そんなのは映画の中だけにしたいもんね」
ミレイは努めて明るく言い、クラリスを振り返った。
「うん、わかった。私も協力するわ。まぁ余計な手出しはしないって程度にだけど。ナナリーバカのルルーシュがどう思ってるかはともかく、クラリスがちゃんと考えて決めたんだろうってのは伝わったから。――ただし」
ピっと一本指を立てる。
「真面目にやんなさいよ。シャーリーを悲しませないように。せめて普通の失恋って感じさせてあげられるように。中途半端にはしないで、嘘はつき通しなさい」
「そこは大丈夫です。私たちはもうずっと前から嘘まみれなんですから。そうと決めたらつき通す覚悟はあります。ルルーシュにもあるはずです」
「じゃあキスくらいは当然平気よね? 最低でもそれくらいはすること。シャーリーのために。本気で」
「それは……ルルーシュが変に恥ずかしがらなければ」
「もしそんなだったらあんたが強引に奪っちゃいなさい。もちろんディープなやつね。ぶちゅーって。そのときは私も見せてもらうから、よろしく」
小首を傾げて微笑みかける仕草が時として下手な念押しよりも効果的であると、ミレイは経験的に知っていた。
シャーリーの問題に心から苦慮してくれているのなら、きっとこれくらいで十分のはず。
「……善処します」
予想にたがわず、クラリスは神妙な面持ちで頷いたのだった。
◆◇◆◇◆
ルルーシュは駅構内のベンチに腰掛け、時が来るのを待っていた。
間近に迫った、最初にして最大の決断の時を。
いや、もはや決断は下されている。より正確を期すならば、覚悟が試される時、とでもなろうか。
単純に機会や策についてのみ論じるのであれば、今後今よりも大きな決断を迫られる時はいずれやってくるだろう。
しかしもっと根本的な部分、ルルーシュ自身の意志を問う意味で言えば、やはりこれは最大の分岐点であった。何しろ仮面越しとはいえ、自らをシンジュクテロの指揮官と名乗った上で、おのれの姿を日本の残党の前に晒そうというのだから。
それを終えてしまえば、もはや後戻りは出来なくなる。
(……時刻表では、あと十分か)
時計を確認しながら、ルルーシュはここに至るまでの過程を振り返る。
数日前、シンジュクでのテロ活動の指揮を執った人間として、カレン・シュタットフェルト――紅月カレンの自宅に電話を掛けた。
伝えた内容は、今日を指定して十六時にトウキョウタワーの展望室に行けという指示。
予定通り定刻にトウキョウタワーを訪れたカレンに、サービスカウンターを経由させ、ギアスの力で身元確認を誤魔化して手に入れた携帯電話を渡した。
それを使ってさらに連絡、環状五号線の外回りに乗るよう命じた。たっぷり一時間掛けて路線を一周する間に、カレンと付いてきたレジスタンスのメンバーの乗った電車を割り出した。
そして同じ時間を掛けて、カレンたちは現実というものを強く認識しただろう。
環状線は租界とゲットーの境目を縫うようにして走る路線だ。つまり、電車に乗っている間は常に、右にブリタニアの隆盛ぶり、左にエリア11の荒廃ぶりを見せ付けられることになる。
その差を見つめれば、レジスタンスの面々は嫌でも自分たちの抵抗が無駄であると悟らざるを得まい。たとえアジトへ戻れば数日のうちに消えてしまう感想であったとしても、今現在それが実感として存在しているのであればそれでいい。
何か心境の変化を促そうというのではなく、『無駄』だと感じさせること自体が重要なのだから。
この場合の無駄とは、すなわち『無理』であり、『不可能』でもある。
ルルーシュはその認識を利用するつもりだった。
ギアスというトリックを用いて不可能を可能にする奇跡を演じることで、素顔の晒せない怪しさを有耶無耶にする。正体不明だろうが何だろうが、こいつについて行けば何とかなるかもしれない、こいつについて行かねばならない――そう思わせるのだ。
それによりルルーシュは素性を隠したまま抵抗活動の指揮を執り続けることが可能になる。
実際に起こす『奇跡』については何パターンか計画が用意してあったが、クロヴィス殺害の容疑者に仕立て上げられた人物の移送予定が先ほど発表されたため――死んだものと思っていた幼い日の親友スザクが生きて偽の犯人に選ばれていたと知ったときは驚きだったが――それを利用することにした。
ここまでの条件は全てクリア。
あと必要なのはキングの駒を動かす覚悟――おのれ自身がこの身をもって渦中に飛び込む覚悟。それのみ。
しかし、とルルーシュは強く拳を握る。
それは既にあるのだ。敗戦国の大地の上で『ブリタニアをぶっ壊す』と誓ったあの日から。
(――クラリス、お前はわかっていない。相手は皇帝だぞ。母さんを見殺しにしておきながら眉一つ動かさず、さらには俺とナナリーのいる場所へ兵を送り込むような人間だ。俺は戦争で地獄と化した日本の有様を、虐殺された人々の姿を、この目で見てきた。警備を強化すれば安全? あの外道にそんな常識が通用するはずがないだろうが)
今更の話になってしまうが、ルルーシュにはクラリスが今なお皇帝の打倒を目指しているのであれば、自分の計画を曲げる意思があった。
平民の学生が後ろ盾もなく立ち上がるより、一子爵家に押し込められているとはいえ、帝国貴族として財産を築いている妹の力を使ったほうがやりやすいに決まっている。
だが、クラリスの牙は折れてしまっていた。もはや妹はナナリーと同じく守るべき存在なのだ。
ならば、取るべき道は一つしかない。
(ああ、やってやる。俺がやってやるさ。お前たちが幸せに暮らせる世界を、俺が――!)
ホームに入ってきた先頭車両を挑むように睨みながら、再度心に誓う。
目の前に開いた扉にルルーシュが乗り込んだ瞬間、あったかもしれない別の未来の可能性の一つは、潰えた。
静かに揺れる電車の中で、カレンは爆発しそうになる想いを抱えていた。
既に一時間ほども同じ風景を見せられ続けている。流れる景色は違っても、意味するものは変わらない。
侵略者に吸い上げられる祖国日本と、その略取によって繁栄を極めるブリタニア帝国。
「彼はいったい何をさせたいんだ。もう一周だぞ。次の連絡はまだなのか」
扇のささくれ立った声が聞こえる。他のメンバーにしても気持ちは似たようなものだろう。
ブリタニアへの憤りと、それを昇華させたところでどうにもならないという無力感。怒りが募るほどに絶望感が押し寄せる。わかっていても認めたくないから苛立ちという形にして逃げる。
そろそろ誰かが下車の提案をしそうだとカレンが考え始めた頃、トウキョウタワーで受け取った携帯がバイブレーションで着信を知らせた。
「もしもし」
『私だ。先頭車両まで来い。そこで待っている』
用件だけを一方的に伝え、通話は切られた。
「扇さん、彼が先頭車両までって」
「わかった。行こう」
メンバーと共に指定の車両に向かうカレンの胸中は、ある意味恋にも似た感情に占められていた。
シンジュクでの活動の日から今日まで、焦がれ続けた相手に会えるのだ。
どんな男なのだろう。何を話すのだろう。何をさせたいのだろう。そして、何を為すのだろう。
様々に渦巻く想いを胸に、踏み入れた先頭車両。
そこに待っていた光景は、理解を超えていた。
他に乗客の居ない車内に、一人佇む黒いマントの後姿。その頭部にはフルフェイスヘルメットのような黒い仮面が乗っていた。
異様なシチュエーションに異様な人物。それだけでカレンの頭は軽い混乱に陥れられていた。それは他のメンバーたちも同じ。
戸惑うレジスタンスを他所に、仮面の怪人はゆっくりと振り返り、言った。
「よく来た。私の名は――ゼロだ!」
力強い宣言にうまく反応できた者はいない。
「ゼロ……」
「ゼロだと……」
皆が告げられた名を呟くように復唱している。
いや、カレンだけは違っていた。
実際に会う機会があったらそれがどんな人物であろうと訊かねばならないことがあると、前々から心構えをしていたのだ。ゆえに衝撃からの立ち直りは早い。
「ゼロ、と言ったわね。確認させて頂戴。シンジュクで私たちの指揮を執っていたのは、貴方?」
「そうだ」
「クロヴィスに停戦命令を出させたのも?」
ゼロはすぐには答えない。その間にカレンは思い出す。
あのときの状況は明らかに異常だった。シンジュクゲットーを根こそぎ破壊しつくすような勢いで攻撃が加えられていたというのに、唐突に戦闘を止めるよう作戦区域全体に放送が入ったのだから。
あれがもし何者かに脅されての行動だったとしたら――。
「クロヴィスを殺したのは?」
「おい、カレン。クロヴィスを殺ったのは枢木スザクだって発表が――」
「黙って。ねぇ、クロヴィスを殺したのは貴方なの? ゼロ」
外部の犯行など不可能。さらに、生粋のブリタニア人は皇族に逆らったりはしない。
その刷り込みがあるから、誰もが無条件に名誉ブリタニア人の内部犯――枢木スザクを疑わない。
しかし、その『不可能』の常識を過去に覆してしまった人物が眼前に立っている。
だとすれば、もしかしたら、銃の携行も許されない名誉ブリタニア人などよりも、底知れない可能性を秘めたこの男の方が、あり得るのではないか。
「そうだと言ったら?」
「もう一つ訊かせてもらうわ」
「何だ」
カレンは睨みつけるかのような視線で仮面を見据えた。
「――貴方は、私たちを勝たせてくれるの?」
これこそが最大の問題。もしこの男が本当に不可能を可能にするのだとしたら、全ての不可能が取り払われたその先には何があるのか。
ゼロはいったい、何を、どこを見ているのか。
「勝つ? 勝つって、お前」
扇たちには見えていないのだろう。
当然だ。この一時間で自分たちの活動が無為であると痛いほど思い知らされたのだから。未来など想像できるはずがない。
ならば、ゼロはどうなのか。わざわざレジスタンスを打ちのめすようなルートでカレンたちを引き回したこの男は。
「愚問だな。決まっているだろう。私についてくれば、お前たちは勝つ。勝たせてやる。私は、ブリタニアを倒す男だからな」
「お前、ブリタニアを倒すって、簡単に言いやがって! そんなことがホイホイできるなら誰も苦しんじゃいねぇんだよ!」
玉城は理解していない。
誰にもできないはずのことをできると事も無げに断言してのけるからこそ、この男には価値があるのだ。
カレンの胸には静かな高揚が湧き上がりつつあった。
相手は世界の三分の一を支配する超大国である。『ブリタニアを倒す』など、侍の血も、日本解放戦線も、どこのレジスタンスグループも言いはしない。言ったとしてもそれは建前だけだろう。
つまりは、抵抗抵抗と声を上げながら、誰も前が見えていないのだ。皆が在りし日の日本の幻影に縋って誇りを保とうとしている中で、もしくは蜃気楼のように霞む淡い将来の断片をおぼつかない足取りで追っている中で、ゼロだけがはっきりとした勝利の展望を脳裏に描いている。
たとえその構想が机上の空論にすぎずとも、その言葉が妄言として終わってしまうとしても、それだけでこの男には他にはない価値があるのだ。
少なくとも、日本が占領されて以来一度も見ることのなかった『希望』のひとかけらを、シンジュクでカレンに見せてくれた。それは事実である。
あとはその全貌を明らかにする能力があるのか無いのか。そこを見極めるのみ。
「わかったわ、ゼロ、私は貴方を信じる。仮面を被るのはそうしなければならない理由があるからでしょう。それも無理には訊かない。貴方を信じて、貴方に命を預けたいと思う。ただし、一つ条件がある」
カレンはゼロを視界の中心に据えながら、鋭く言った。
「もう一度、力を見せて。不可能を可能にする、貴方の力を。手伝えることがあれば、手伝うわ」
◆◇◆◇◆
クロヴィス第三皇子殺害の容疑者、枢木スザクが軍事法廷へと移送される日。
その護送の模様を伝える報道特番が始まろうとしている頃、アッシュフォード学園の生徒会室には、六人の人間がいた。
生徒会の面々――ミレイ、リヴァル、シャーリー、ニーナと、最近新しく加わったクラリス。ルルーシュとカレンの姿は無い。
居るべき二人の生徒がいない代わりに、生徒会役員ではない中等部生、ナナリーがいた。
彼女は部外者ではあるが、普段から生徒会のメンバーたちに可愛がられる存在で、会室に招かれることはしばしばある。
今日はルルーシュが遅くなるということで、皆で特番をオカズにだらだらとゆっくり遊ぶ予定だから、良かったら来ないかと誘われたのだ。
「しっかしさー、ルルーシュのやつ、何やってんだろうな」
「リヴァルもルルのこと知らないの?」
「知らないよ。別に俺はギャンブルの仲介もしてないしさ。ナナリーちゃんほったらかしてどこほっつき歩いてんだか」
「私は別に構いませんよ。皆さんが良くして下さいますし、遅いといっても私が寝る前には帰ると仰ってましたもの」
「ナナリーちゃんは本当に良い子ね。ルル君が羨ましいわ」
クラリスが横に座って手を握ると、ナナリーは恥ずかしそうに笑む。
「そうやってるとさ、クラリスとナナリーちゃんってなんだか姉妹みたいだよな。髪の感じとかも似てるし、二人とも美人だし」
「やだ、からかわないで頂戴、リヴァル」
「あ、良いわね。ちょっとナナリー『お姉様』って呼んでみて」
「ダメ! ダメなんだからね。私だってまだ呼んでもらったこと無いんだから。会長ヘンなこと言わないで下さい」
即座に制止したシャーリーが立ち上がってミレイに怒った素振りを見せる。しかし見えていないナナリーには関係がなかった。
「お姉様」
「あああああ、言っちゃったああああ」
「じゃあシャーリーさんにも。お姉様」
「わああああナナちゃん愛してるよー」
一転してナナリーに抱きつくシャーリー。
そんな具合に和気藹々とした時間が過ぎていき。
「あ、そろそろ始まるみたい」
ちらちらとテレビを確認していたニーナが言った。
画面には護送車の通過が予定してされている道路の様子が映し出されている。沿道を埋め尽くした人々の多さを証拠の一つに挙げ、いかにクロヴィス皇子が愛されていたかをリポーターが語っていた。
熱っぽい報道に耳を傾けるナナリーの体は自然と強張る。
この場に集まったほとんどの人間には知る由も無いが、殺されたのはナナリーの腹違いの兄で、犯人とされている移送予定の人物は実兄の親友である。
その心中はいかばかりか。正確に推し量るには複雑すぎる事情ではあるものの、穏やかでいられないのは誰にでも推測できよう。
一端を把握しているミレイはそちらに目をやって、クラリスの繊手を握る年下の友人の白い手を見つけた。
同時に、なぜナナリーがこの場にいるのか、その理由を察してしまう。
本来、目の見えない彼女が報道を気にしているのなら、ラジオを聞くべきなのだ。実際、興味のあるニュースがあるときはいつもそうしているとルルーシュは話していた。
殺された兄に関係する報道なのだから関心が低いはずがない。にもかかわらず、ラジオではなくテレビで護送の様子を覗っているのは、ここに実姉がいるからなのだろう。
それがわかってしまえば、彼女の本心を透かし見ることは容易い。
ミレイは他に気取られないように軽い足取りでクラリスに近づくと、小さく囁いた。
「ね、ナナリー部屋に連れて行ってあげてくれない?」
「いいんですか?」
「あんたもホントは二人っきりのほうがいいんでしょ。事件が事件なんだから。あいつらには私がなんとかうまく言っとくから、抜けちゃえ」
「……すみません、お言葉に甘えます」
皆がテレビに注視している隙を見計らって退出するクラリスたちを見届け、ミレイは言い訳を考えて頭を悩ませた。
部屋に着くなり、ナナリーはクラリスの袖を縋るように掴んだ。
「お姉様、スザクさんって、お兄様の親友なんです。私たちが預けられた家の人で、私にも優しくしてくださって。こんな、クロヴィス兄様を殺したりなんて、そんな酷いことする人じゃないんです……」
ミレイの想像は一部当たっており、一部外れていた。ナナリーはたしかにクラリスと二人になりたがっていたが、それは主にスザクを心配していたためだった。
クロヴィス皇子殺害の容疑者とされている枢木スザクは、日本国最後の首相の息子である。つまり、ナナリーとルルーシュが人質として送られた家の子供であった。
幼少期を共に過ごしたスザクは、ナナリーにとっては殺された異母兄よりも兄らしい存在であり、ルルーシュにとってはただ一人の親友とも呼ぶべき親密な間柄だった。
しかし、ブリタニア人のイレブンへの偏見は根強く、中でもニーナが彼らに抱く恐怖は病的ともいえる。それを知るナナリーにはあの場でスザクを気遣う言葉を口にすることはできなかったのだ。
「こんなの、嘘ですよね? スザクさんじゃないですよね? スザクさん、助かりますよね?」
「ええ。こんなのは嘘よ。嘘以外の何物でもない。スザク君はきっと助かる」
クラリスは妹を安心付けるかのように力強く答え、ラジオのスイッチを入れる。
『さぁ、いよいよ護送車が見えてまいりました。物々しい警備態勢です。先導には第五世代ナイトメアフレーム、サザーランドの一団。代理執政官ジェレミア卿が直々に指揮を取る、軍の精鋭たちが先導に当たっております――』
どうやら、スザクの乗せられた護送車をナイトメアで囲むような陣形を組んでいるらしい。機体の数は少なくなく、示威だけに留まらず、容疑者の救出を狙うテロリストが出て来ようものなら叩き潰してしまおうとの意図が明白に見えていた。
むしろスザクを表に出すことで反乱分子を誘っているのだろう。この機会に叩くことができれば、現在エリア11の実権を握っている代理執政官ジェレミアの属する軍内派閥、純血派の力を伸ばすことにつながる。
何も起きなかったとしても、容疑者のスザクはイレブン上がりの二等市民――名誉ブリタニア人である。軍部からの名誉ブリタニア人排斥を唱える純血派にとっては、裁判に持ち込んで有罪を確定させるだけでも利益を望める素材であった。
どう転んでも純血派優位に推移する状況である。
唯一例外があるとすれば、枢木スザクが奪われてしまった場合であろうが、それゆえに、そんなことは不可能である。
そうされないために、ジェレミアはこれだけの戦力を揃えたのだから。
多くの人間がこのまま何事も無く護送は終わるのだろうと予想していたその中で、事件は起きた。
『何かのトラブルでしょうか、護送車が停車いたしました。沿道から疑問の声が上がっております。わたくしにも状況が掴めておりません。――と、今、前方から車両が見えてまいりました。あれは……御料車です! クロヴィス殿下専用の御料車が前方よりやってまいります!』
「クロヴィス兄様の? どういうことなのでしょう?」
「さぁ、テロリストが何かを仕掛けてきたのかもしれないわね」
「スザクさん……大丈夫でしょうか」
不安がるナナリーの頭を、クラリスがそっと撫でる。
「ええ、大丈夫よ。きっと大丈夫」
『――御料車の上に仮面の男が現れました! いえ、性別はわかりませんが、とにかく仮面の人物です! ゼロと名乗りました! 御料車の上に立ったゼロと名乗る謎の人物が、ジェレミア代理執政官と何か言葉を交わしているようです! この位置からは――』
アナウンサーの声に被さって『近づけ』だの『マイク寄せろ』だのと聞こえてくる。放送事故である。
雑音が消えたときには、今までとは違う人間の声がスピーカーから流れていた。
『違うな。間違っているぞジェレミア。クロヴィスを殺したのは――この私だ!』
「……これって、真犯人、なのでしょうか? だったら、スザクさん、助かりますか?」
「ここを切り抜ければ、最低でも一方的に裁かれるということは無くなるんじゃないかしら」
「そう、なのですね……スザクさん……」
震える吐息を漏らすナナリーの指が、祈るように組み合わされる。
しかしラジオの音声はノイズが混じって断片的にしか入らない。電波状況の問題ではなく、現場で何かアクシデントが起きているようだ。
途切れ途切れの実況を総合すると、何か煙幕のようなものが使われたらしい。その混乱に乗じてゼロが枢木スザクを強奪したとの事。護衛のナイトメア部隊が何をしていたかというと、ジェレミアがテロリストに加勢して逃亡を幇助、部隊員にも見逃すよう命令を出したようだった。
不明な点は多々あるものの、とりあえず、スザクもゼロも捕まらずにどこかへ消えてしまった、それは間違いないようである。
「ゼロという男も、わざわざ出てきてスザク君を連れて行ったんだから、殺そうという意思は無いんでしょう。良かったわね、ナナリー。スザク君、助かりそう」
姉から補足を聞いて事態の推移を理解し終えると、ナナリーは大きく息を吐いた。
「よかった……スザクさん」
妹の安らいだ表情を確認して、クラリスもまた柔らかく頬を緩めるのだった。
◆◇◆◇◆
「――で、我らがお嬢様はまだ帰らないんですかね、隊長」
ラジオの中継が終わると同時に、隊員の一人がだらけた声を出した。
バーンズはアッシュフォード学園の校門脇の塀に寄りかかり、若い部下に横目で視線を送る。
「好きな男の子ができたと仰っていた。幸せ者だな、その少年は」
年頃の少女にしては喜びも密やかに報告してきた護衛対象の姿を思い出すと、バーンズはあの言葉は嘘だったのではないかと未だに疑わしい気持ちを覚えるのだが、部下たちはそんな事実を知らない。
「逆玉ですか? いいですねー、羨ましい」
「つーかその前に、学校に通うようになった途端にオトコですか? とんだお嬢様もいたもんですね。こないだもゲットーに行きたいとかやっぱりやめたとか、ワガママに付き合わされるこっちの身にもなってみろってんですよ」
隊員の愚痴を聞きながら、起きた出来事だけを客観的に見ればそういう評価になるのかと、バーンズは脳内のクラリス資料に新しい情報を書き加える。
「ところで、俺らってなんでこんなことしてんですか。みたいな気分になりません? 俺ちょっとなってきてるんですけど。どっちかって言うと不審者ですよね」
「仕方がないだろう。お嬢様のお帰りがいつになるのかわからんのだから。敷地内に入る許可は得ておらんし、出来る限り近くで待っているようにとのお達しだ」
見上げた空は既に暗くなっている。しかもだいぶ前から。学園から出て行く生徒もまばらになってきていた。
「ま、そのうち連絡を寄越すだろう。今のうちに交代で飯でも食っとくといい」
校門に視線を移すと、拘束服を思わせる奇抜なファッションをした緑髪の少女が学園内に入っていくところだった。
不審といえば不審な印象を受けはしたが、それは微々たるもの。行動までを含めたら確実に自分たちのほうが怪しいであろうし、あの少女が護衛対象に危害を加えるものとも思われない。
すぐに意識から締め出したバーンズだったが、もし一つの情報を与えられていたら、彼は決して彼女を黙って通しはしなかっただろう。
すなわち。
――あの少女は、一度銃弾で額を打ち抜かれているのだ、と。