「初めまして、ルルーシュ・ランペルージ君。クラリス・アーベントロートです。よろしくね」
優しく微笑んで小首を傾げる少女は、間違いなくクラリスだった。
『クラリス・アーベントロート』などではない。幼い日に引き離され、もはや再会を絶望視していたルルーシュの双子の妹――クラリス・ヴィ・ブリタニアだ。
衝撃のあまり、ルルーシュは呼吸すら忘れていた。
「どうしたのですか? お兄様」
「あんまり美人だからびっくりしてるんでしょ。もしかして一目惚れしちゃった?」
周囲の声などもはやルルーシュの耳には入っていない。
ルルーシュの『家族』に対する情念は尋常の域を超えている。それは憎悪であり、殺意であり、また信頼であり、慈愛でもある。
母の暗殺を指示したのが政敵である腹違いの兄弟姉妹たちのいずれかであり、それを見殺しにし、さらには自分たちを政治の道具扱いした挙句に謀殺しようとしたのが父であるという、その認識が大きく影響しているのだろう。
最も身近な大人たちに裏切られた少年時代のルルーシュには、信じられるものはナナリーしか存在しなかった。いや、それは現在でも同じかもしれない。身体的弱者である妹を助けながら、その実、精神的には深く依存しているのだ。
その異常とも言える愛情があってこそ、『ブリタニアをぶっ壊す』という誓いが生まれた。あの言葉の奥には、弱者を虐げて憚らない皇帝の理念を是とする国ではナナリーが幸せに生きられない、との観念がある。
つまりは、妹一人のために世界を作り変えようとまで思えるのがルルーシュという少年だった。
そこに現れた生き別れの妹である。
クラリスを凝視するルルーシュの頭には、カレンから掛けられた疑惑という、目下全力を挙げて処理すべき最大の問題すら既に無い。
(クラリス……!)
よろよろと歩み寄ると、ルルーシュは柔らかな少女の体を力強く抱きしめた。ふわりと立ちのぼる上品な香りが鼻腔をくすぐる。そして、体温。服越しに感じる人のぬくもり。
生存を諦めかけていた妹が、生きて、腕の中にいる――。
表現しがたい、複雑でいてあたたかな感情が、ルルーシュの胸を満たしていた。
――のだが、その感動は周囲の人間には一切伝わっていなかった。
「うわ、大胆。やるときはやるのねー、ルルーシュも」
「いくらなんでも初対面であれはやりすぎでしょう」
「殴られたら面白いと思わない?」
「ちょっとミレイちゃん、楽しみすぎだよ」
副会長の突然の暴挙を目撃した生徒会の面々は、無責任に感想を言い合っていた。
ファンの数は百人を下らないと噂されるにもかかわらず、特定の女性を作らなかったルルーシュである。わかりやすい好意を寄せているシャーリーには悪いが、ネタとしては極上だった。
「何かあったのですか?」
状況を把握できていないナナリーがミレイに尋ねる。
「なんていうか、お兄さんがご乱心しちゃったみたいな? クラリスさんに抱きついちゃって」
「あ、そうなのですね。クラリスさんは素敵な方ですから、お二人が仲良くしてくださると、私もとても嬉しいです」
「うんうん、ナナリーはいい子ねー」
クラリス本人に大して嫌がっている素振りが見えない――というかむしろ満更でもない風な表情をしているために、観客の空気はこの上なく軽い。
しかし、この見世物を容認できない人物が一人だけこの場に存在していた。
こぶしを握り締めてわなわなと震える少女。その名はシャーリー・フェネット。
「ルルの、ルルのぉ……ばかぁぁぁぁぁぁッ!」
ホールに響く魂の叫び。シャンパングラスが力いっぱい床に叩きつけられる。
「……なんなのかしらこの騒ぎは。これだからブリタニア人ってやつは」
ため息混じりに吐き出されたカレンの呟きは、ガラスの割れる甲高い音に紛れて、誰の耳にも届かなかった。
しばらく経って、カレンとクラリスの歓迎パーティーは開始された。『しばらく』のうちの大半の時間がシャーリーをなだめることに充てられていたのは言うまでもない。
水の入ったグラスを口に当てながら、ルルーシュは思案を巡らせる。
既に興奮は去っていた。頭には普段どおりの冷静な思考がある。
先ほどの行動は明らかな失態だった。調べられたくない裏のある自分は目立つ行動を避けねばならないはずだったのに。
クラリスが編入手続きに際して自身のことをどう説明していたにせよ、ミレイはさっきの一幕で彼女の正体を見抜いただろう。アッシュフォード家はルルーシュとナナリーの素性を承知しているのだから。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが人目も憚らず抱擁してしまう『クラリス』といったら、それはもう確定だ。
ミレイの瞳がどうするのかと訊いている。
(生き別れの妹に似ていたとだけ説明すれば――この場の面子なら問題ない、か? ――いや、駄目だ。カレンがいる。あいつは俺を疑っている。不審な点があれば確実に探ってくるだろう)
どう言い繕うにも、やはりカレンがネックになる。
この期に及んでは前もって用意していた策もうまく作用するか危うくなってきていた。
疑わしい部分は一つだけなら気のせいで済ませられるが、二つ三つと重なっていけばやがて確信へと至るのだ。見張られるようにでもなったら、何の身動きも取れなくなってしまう。
「それにしてもびっくりしたよ。ルルーシュのやついきなり抱きついちゃうんだもん。クラリスさん大丈夫だった? こいついつもはあんなじゃないんだけど」
リヴァルの質問は無難にして当然のものだ。ルルーシュも逆の立場だったら似たようなことを言っていただろう。
しかし正直その話題はやめて欲しい。クラリスが機転を利かせてくれればいいのだが――。
「ええ、平気ですよ。初対面じゃありませんから」
耳に飛び込んできた言葉に、ルルーシュは水を噴き出しそうになった。
「待てクラリス! ――いや、クラリス、さん」
「別に恥ずかしがることはないでしょう。隠したいの?」
まさか、言うつもりなのだろうか。生き別れの兄妹だと。それはルルーシュの考える中で最悪の手だった。
止めるのは簡単だが、それでは後ろめたい何かを持っているとの疑惑を与えてしまう。そうなっては同じこと。
状況を変える手段を探してすばやく周囲に視線を送るものの、発見されたのは良くない情報だけだった。
カレンの双眸がわずかに細められている。あれは間違いなく怪しんでいる目だ。
「クラリスさんは、ルルーシュ君と前にどこかで会っているの?」
「ええ、この間テロがあったでしょう? あの日に街で会って。私エリア11って初めてだから、少し案内をしてもらったのよ」
(何を、言っている……?)
記憶を辿るまでもなく、そんな事実は有り得ない。八年ぶりの再会だったからこそ、ルルーシュはあそこまで情熱的な行動を取ってしまったのだ。テロの日に会っているのならそのときに抱擁は済ませている。
(――待て。『テロの日』だと?)
あの日自分は何をしていた。
そう、レジスタンスの指揮を執っていたのだ。
これはもしや、最善手ではないのか。
高速で回転したルルーシュの頭脳はそう結論を下した。
エリア11のただの平民学生とEU育ちの子爵令嬢が旧知であるなどとは普通は思わない。
それゆえにルルーシュはカレンからの疑いを深めてしまったのだが、逆に言えば、過去に会っているはずがないとの先入観があるのなら、最近の出会いが否定されることは絶対にないのだ。
すなわち。
――ここでクラリスに乗って話をうまく作ってやることで、テロ時のアリバイが確保される。指揮を執っていたのが自分ではないと証明できる。
そこさえクリアしてしまえば、後はいくらでも言い逃れのできる自信がルルーシュにはあった。過去の失言などいくらでも取り返せる。
ならば。
「言わないでよ、クラリスさん。クラスメイトになる人と、そうとは知らずに街をぶらついていたなんて恥ずかしいんだよ」
苦笑を作ってクラリスに顔を向けると、妹は申し訳なさそうな顔をしながら、襟を直す仕草を見せた。
(あれは、サインか――『口裏あわせは後で』。なるほど。変わっていないな、クラリス)
たわいの無い悪戯をして教育係から叱られそうになったときなど、適当に都合よくストーリーを作り上げて逃れようとしたものだった。
子供の時分のそれは主にルルーシュのせいで失敗に終わることが多かったが、今は違う。自分はもう何年も何年も日常的に嘘をつきながら生きているのだから。
「ごめんなさい、言わない方が良かった?」
「いや、別にいいさ。言わなきゃ言わないで話がおかしくなっていただろうしね」
親しげに話し始めたふたりを見て、シャーリーが可愛らしく眉を寄せた。
「怪しい。さっきは『初めまして』って言ってたのに」
「冗談のつもりだったのよ。まさかあんなリアクションをされるとは思わないじゃない」
「あー、やっぱりクラリスさんもそう思うよね。そうだよそう。なんでルルったらあんな、急に抱きしめたりするの。街でちょっと会ったくらいの関係なのに」
小さく膨れたシャーリーの頬がルルーシュに成功を確信させた。
彼女はもうルルーシュとクラリスの出会いがテロの日であったと信じている。
今のふたりは平民と貴族の令嬢。エリア11で会う以外に面識など持ち得るはずがない。その固定観念が真実を捻じ曲げる。嘘を本当に塗り替えていく。
「心配してたんだよ、彼女のこと。テロに巻き込まれたんじゃないかって思ってたからさ。ほら、電話しただろ、シャーリー」
「あ、あのときのシンジュクがどうこうって?」
「そうそう、テロの騒ぎではぐれちゃってさ。探したんだけど全然見つからなくて。ずっと気に掛かってたんだ」
「だからって抱きしめるほど心配するー? まさか本当に一目惚れとか?」
ミレイが茶々を入れてくる。彼女も『切り抜けた』と判断したのだろう。
「会長にも同じことが起きればわかりますよ。まぁ、抱きしめたのは俺もやりすぎだったと思います。でも直前まで仲良く話していた女性がテロに巻き込まれたかもって考えたら、それくらい不安になりますよ。少なくとも俺はそうでした」
偽りの説明を作り終えると、ルルーシュは病弱な振りをする実行犯のテロリストを窺った。
(どうだ? テロの前に女性を引っ掛け、それを放置してテロを指揮、さらにはテロの被害に遭ったのではと抱きしめるほど心配する――そんな矛盾だらけの行動を取る奴はいないだろう? カレン・シュタットフェルト)
「カレンさんもそう思わない?」
「え、私……ですか? そう、ですね。きっと心配すると思います、そう、すごく」
うつむきがちに話を聞いていたカレンは、顔を上げると、キャラ設定の通りに弱々しく微笑んで言う。瞳の奥にわずかな罪の意識を潜ませて。
微妙な声の震えから彼女の心境を感じ取り、ルルーシュは心の中で勝利の笑みを浮かべた。
「そうだよね。カレンさん、優しそうだから」
◆◇◆◇◆
ルルーシュ・ランペルージとナナリー・ランペルージは家を持たない。それは両親と親類縁者を亡くしているためだ。そういうことになっている。
ではどこで暮らしているのかというと、生徒会のクラブハウスの一角を間借りしている。
アッシュフォード学園には付属の学生寮があるが、目と足の不自由なナナリーを慮った理事長が、より快適に生活できるようにと提供してくれたのだ。
学生たちが帰宅し、ナナリーのお世話係であるメイドの咲世子も辞した後。夜のそこは、いつもなら完全に二人きりの世界だった。
ルルーシュが心からの安らぎを得ることのできる、唯一の空間。
今日はそこに紛れ込んでいる別の人間がいる。
しかし彼女は異物とはなり得なかった。ルルーシュにとっても、ナナリーにとっても。
「もしもし、私です、クラリス。歓迎会が長引いてしまって。ええ、そう。まだまだ掛かるわ。遅くなるから心配はしないで」
ガチャリと受話器を置く音が響き、ルルーシュは電話の方向を振り返る。
「もういいのか?」
「ええ。これでゆっくりしても大丈夫。ナナリーが寝るくらいまで居ようかしら」
足音と共にクラリスがリビングに戻ってくると、ナナリーの顔がふわりと綻んだ。
「お姉様、そんなことを言われたら私眠れなくなってしまいます」
「大丈夫だよナナリー。クラリスはアッシュフォード学園の生徒になるんだ。これからはいつでも会えるさ」
八年ぶりの家族の再会である。事情を理解しているミレイと理事長のルーベンは、水入らずの団欒を妨げようとはしなかった。
立ち入るにしても三人で話し合う場を設けた後にすべきとの判断が働いたのかもしれない。アッシュフォードが名実共に後ろ盾となっているルルーシュとナナリーはともかくとして、クラリスは現状では表向き繋がりのない皇族なのだから。
「でも、こういう時間はあまり持てませんよね? お姉様がここに遅くまで居るのっておかしいでしょうし。実家通いなのでしょう?」
「まぁ、それはそうだけど……」
ルルーシュの表情がわずかに曇る。
ナナリーの未来予想はおそらく現実のものになるだろう。
今日についてはミレイがカレンの二次会をするという名目で皆を寮の方に引っ張っていってくれたから何とかなったものの、そんな手が何度も使えるはずがない。
生まれた短い沈黙を破って、クラリスが口を開いた。
「いっそのこと、本当に恋人同士になっちゃおうか」
「おい! 俺とお前は兄妹なんだぞ! ――いや、待て」
思案顔になるルルーシュにクラリスは言う。
「ルルーシュ君の熱烈なハグは初対面のときから惚れてたせいだったってことにしたほうが、信憑性増すんじゃないかしら」
「……そうか。案外、アリかもな」
「気付いた?」
「ああ、俺の今の反応こそが全てだ。『兄妹が恋人なんて有り得ない』。なら、それを逆手に取ればいい。そういうことだろ?」
恋人同士が実は兄妹とは誰も想像すまい。
どうせ見る者が見たら素性など一瞬でバレてしまうのだ。ルルーシュがクラリスを決して見間違えないのと同じように。
顔を知られていない連中に怪しまれなくなればそれで十分。その観点で行くと、これは決して悪手ではないように思える。
「幸い今は戸籍も別じゃない。なんならいずれ結婚しちゃってもいいかもしれないわね」
「おい、さすがにそれは――!」
やりすぎだ、と続けようとしたルルーシュの目に、感激したように手を合わせる妹の姿が映った。
「お兄様がお姉様と結婚したら、お姉様が本当にお姉様になるのですね! また家族に、いっしょに――!」
(ナナリー……!)
か弱い妹を溺愛するルルーシュである。ナナリーが喜ぶのならそれだけで方針は決定してしまえる。
問題となるのはあと一人の妹の方だが、発案者なだけあってクラリスも乗り気のようだった。
「決まりね。じゃあ今度デートでもして仲良くなりましょう」
「本気か?」
「結婚は保留にするとしても、選択肢として取って置けるように愛を育んでおくくらいはしたほうがいいでしょう。ここにも来やすくなるし。そういうわけだから――」
クラリスは芝居がかった笑顔を見せて言った。
「あらためてよろしく、ルルーシュ君。今度ウチにも遊びにきてね。もちろんナナリーちゃんも一緒に」
「仕方がないなお前は。そうさせてもらうよ、クラリスさん」
「はい、ぜひ。私も伺わせてください」
一瞬の空白の後、くすくすと笑い声が弾ける。
楽しげに笑い合う三人の様子は、明るい未来を予感させるものだった。
時刻は深夜に近い。
体調を崩すと悪いと説得してナナリーを寝かしつけた後、ルルーシュはクラリスと二人の時間を作っていた。
ルルーシュが話すのは、クラリスと別れてから今日までの、自分とナナリーの境遇についてだ。
人質として送られた枢木の家のこと。そこでできた親友のこと。ブリタニアの日本侵攻のこと。ナナリーを背負って逃げた日々こと。アッシュフォードに助けられてから今日までのこと。
全てを話し終えると、ルルーシュはクラリスに訊いた。
「――それで、お前のほうはどうしていたんだ?」
リビングのテーブルを挟んで向き合った二人。間には紅茶のカップが二つ。
クラリスはどう話したものかと少し悩む素振りを見せてから、切り出した。
「私は、アーベントロートという家に入れられたわ。知ってるわよね?」
「ああ」
「でもその情報は伏せられていた。どこに行ったか正確に把握しているのは、皇帝陛下のほかは、たぶんシュナイゼル兄様くらいじゃないかしら。ひょっとしたらコーネリア姉様も知っているかもしれないけれど、せいぜいその程度。自由になるお金ができてから調べてみたら、どこかで勉学に励んでいることになっていたわ」
「なるほどな」
一般庶民の伝手で辿ればお忍びで学業中との結果に行き当たり、皇族関係者は処遇を決めた張本人が皇帝だと知っているから迂闊に手を出したりはしない。
クラリスはそういう状況で世間から抹消されていたらしい。
「いったいいくら積まれたのか知らないけど、今の父と母は誰にどう尋ねられようと『クラリスは間違いなく私たちの娘だ』って大真面目に言い張るから、たぶんこっちの線を怪しむ人もいなかったと思う。本当、役者にでもなればいいのにってくらいの徹底振りよ。本物の愛情っぽく見えるのに実は嘘だってわかってるから、余計に腹立たしいのよね」
「そんなになのか?」
「ええ。せめて養子に向ける愛なら受け入れられたかも知れないのに、『お前はお母さんが腹を痛めて産んだんだ』、よ? 馬鹿にしているでしょう」
言葉だけの情報ではあったが、ルルーシュにも共感できた。
自分たちの母は輝かしい実績をもって皇室入りした『閃光のマリアンヌ』以外にはあり得ない。既にこの世にいないからこそ、過去の栄光は薄れることなく、また彼女に注いで貰った愛情の記憶も穢れはしない。
マリアンヌの子に生まれたことはある種の誇りですらある。それを土足で踏みにじられているのだ。しかもその扱いを命じたのはおそらく仇である実の父のはず。
精神的にかなりきついものがあるだろう。
「それはともかく、今でこそ割と資産もできたけれど、当時はそうでもなくて。当主がまたロクでもない奴でね。凋落の過程で知己が離れていって、侮られるくらいなら顔を合わせない方がいいってEUに引っ込んじゃうような男よ。皇帝陛下にあんな啖呵切っちゃったせいかしら、ほとんど完璧に封殺されたわ」
「だがお前は、その中でも財を成した。そこからでも這い上がってきた。落ち目だったアーベントロートを立て直したのは、お前だろう、クラリス。違うか?」
「否定はしないわ」
さらりと言ってのけた妹の瞳に、ルルーシュはしっかりと目を合わせた。
「まだ――諦めていないんだな?」
あの誓いを。
確信の響きを持って紡がれた言葉。しかし、返答はすぐには返ってこなかった。
ルルーシュの見つめる先、妹の視線はかすかに揺らぎ、やがて外された。
「……今は、考えていないわ」
「まさか、諦めたのか?」
クラリスは答えない。その沈黙こそが答えだった。
「どうして。シャルルが、皇帝が憎くないのか。お前はあの日、奴の罪を暴き立てると誓ったはずだ。あのときのお前はどこへ行った?」
責める口調ではない。純粋に疑問だったのだ。
兄妹の運命を分けたあの謁見の日、自分にとっては強大だった皇帝と堂々と対峙してみせたクラリス。その姿はいまだルルーシュの心に印象強く残っている。
幼いがゆえの分を弁えぬ発言であったとしても、そこには必ずやり遂げるという不退転の意志が宿っていた。少なくとも、あの場に居た者たちは皆それを感じ取ったはずだ。
たとえ後日笑い種になるような幼稚な決意であったとしても、それはあの日、あの場所においては、間違いなく真実だったのだ。
「……いろいろ、あったのよ」
「いろいろって――」
「……ねぇルルーシュ。私ね、ずっと独りだったの。貴方たちと別れてから」
クラリスは両手で包むようにしたティーカップに目を落としながら、ぽつぽつと話す。
「学校にも行っていないし、友達もいない。なかなか外に出られない家に、猫かわいがりする両親がいて。でもそれは赤の他人で、偽者で」
うつむき加減のクラリスの表情は、ルルーシュからは窺えない。それでも、力無いその声から心情を推し量ることはできる。
「せっかく、ルルーシュとナナリーと会えたんだから、もうこれでいいかなって、思うのよ。頑張ったご褒美、あるじゃないって。さっきなんて、ナナリーが嬉しそうにしているのを見たらね、私それだけでもう、泣いちゃいそうになって……」
――八年。
八年だ。兄弟姉妹に囲まれて無邪気に笑っていられたあの頃の自分たちは、もはや過去なのだ。
純粋だった心が歪に捻じ曲がってしまったのを、ルルーシュは自覚している。
程度の違いこそあれど、クラリスにしてもそれは同じなのだろう。
その成長、あるいは変化を、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、ルルーシュには判断が付けられなかった。
ただ、そんなことは一切関係なしに、受け入れてやりたいと思う。
「……そうか。俺もお前に会えて、嬉しかったよ」
「うん……。それでね、さっきの話なんだけど、嘘の家でも、それでもウチは一応、資産家なの。個人で使えるお金もたくさんある。だから、貴方がアーベントロートに入ってくれたら、暗殺に怯えないで済むくらいの警備を、ごく自然に使えるの。もちろんナナリーにも。だから、もう――」
「わかったよ。言うな。俺たちにもいろいろあった。クラリスにもあったんだろ」
ルルーシュは席を立ち、妹の隣に座りなおすと、華奢な肩にそっと手を置いた。
「そうだな。憎しみなんて忘れて、いつか、ナナリーと三人で、一緒に暮らそう。結婚でも何でもしてやるさ。その頃には、世界はきっと、もっとマシになってる。お前には皇帝なんて似合わないよ」
「うん……ごめんね」
「気にするな。お前は俺の妹なんだから」
歳相応の少女に育ったクラリスの体を、今度は意識して抱きしめる。
「――ありがとう、ルルーシュ」
肩に乗った妹の顔がどんなものだったのか、ルルーシュには知るすべはなかった。
◆◇◆◇◆
教室には静かな熱気がくすぶっていた。主に男子生徒の付近から立ち昇っているものである。
教壇に立つ担任教師の横に、ウェーブの掛かったアッシュブロンドを背中まで伸ばした美貌の女子生徒がいる。
あの容姿と素性はウケて当然だろうな、とカレンは冷めた目で壇上を眺めていた。
「今日からウチのクラスで一緒に勉強することになった、クラリス・アーベントロートさんだ」
教師に手で示されて、少女は一歩前に出る。
「クラリス・アーベントロートです。学校に通うのはこれが始めてで、右も左もわかりません。ご迷惑をお掛けするとは思いますが、仲良くしていただけると嬉しいです。よろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀を一つ。同時にどこからか歓声が湧いた。もはや我慢ならん、といった雰囲気である。
「席はルルーシュ・ランペルージの隣。わかるか? あそこだ」
教師が指し示した先を確認すると、編入生はパッと笑顔を咲かせる。
「あ、ルル君、隣なんだ」
「ルル君!?」
大勢の生徒が一斉に叫ぶ。驚愕に満ちた女子の声と、敵意がむき出しで込められた男子の声。その中に明らかに異質なものが混じっていた。
もはやあれは殺意に近い。いや、本物の命のやり取りを経験しているカレンからすれば大変可愛らしいものではあるのだが。
とはいえプルプルと拳を震わせているシャーリーは視覚的にだいぶ怖いので視界から外してしまうことにする。
「おいお前ら。騒ぐのは休み時間にしろ。クラリスは席に着きなさい」
「はい」
編入生はなんとも嬉しそうに着席する。よろしくね、とはにかんだ様子で横の男の子に笑い掛ける仕草には、隠し切れない好意が滲んでいた。
箱入りの貴族令嬢が外で出会った少年に恋をする。何か事件が起きて引き離された二人。もう会えないと思っていた相手の子に偶然再会、想いは一気に加速する――。
なんともベタなストーリー。でも、だからこそ、そういうこともあるんだろうなと思っている自分がいる。
それはひょっとしたら、ちょっとした憧れなのかもしれない。
絶対にあり得ない、あったとしたら自分が許せない、そういったことなのだけれど、忌むべきブリタニア貴族の身分をカレンはたしかに持っている。しかも体が弱くて病室にこもりがちなんて、箱入りも同然の設定まである。
そのせいなのだろう。
だから、あったかもしれない唾棄すべき自らの姿を重ねて、応援してやろうとカレンは思うのだ。殺しかけてしまった謝罪も込めて。
とはいっても、まぁシャーリーが怒らない程度にだ。つまりは態度には出さない程度。
言ってしまえば、『関わるまい』ということだった。
自分は決してカレン・シュタットフェルトなどという学生ではなく、紅月カレンという日本人の抵抗活動家なのだから。
そんな雑事にかかずらっている余裕など無いのだ。
授業が終わり自宅へと向かうカレンの眉間には、小さくしわが寄っていた。
考えるのはブリタニアに対する抵抗活動のこと。
規模が小さすぎる。大した成果が上がらない。
カレンが毎日平穏に学校に通っているということは、すなわちブリタニアの支配が磐石であるということと同義である。だから学校に行く途中、家に帰る途中、嫌でも頭に浮かんでくる。
少し前まではそんなことは特に問題にしていなかった。というよりも、問題になり得るという認識すら無かった。
なぜなら、それは当然のことだったのだ。
超大国ブリタニアの圧政に抵抗するレジスタンス。そう言えば聞こえはいいが、実情は単なるテロリストである。
暴力に対して暴力で対抗するには、それに匹敵する暴力が必要となる。
テロリストが振るうものは暴力であり、鎮圧に出てくる軍が振るうものもまた暴力である。
二つの間に存在する力関係は、傍目から見ても、そしてカレンたち当事者から見ても、決して覆し得ぬものだった。
要は、抵抗しているという事実そのものが欲しかったのだ。
日本の灯火は消えてはいないと。自分たちの誇りはそれで保たれるのだと。
――しかし。
カレンは出会ってしまった。絶対と思われていたその力の差を覆せる存在に。
先日のシンジュクでの活動の際、どこからかナイトメアを調達し、卓越した指揮能力でブリタニア軍に大きな打撃を与えた謎の男。
彼の協力があれば、彼が見つかれば、自分たちはもっと大きなことができるのではないかと、カレンは――いや、カレンのみならずおそらくレジスタンスのメンバー全員が大なり小なり期待を抱いている。
中途半端に希望を持ってしまったがゆえに、現状に焦燥を覚えるようになってしまっていたのだ。
(焦っても仕方ないってのは、わかってるんだけど……)
溜息を吐きながら家に入ると、玄関ホールでメイドに呼び止められた。ちょうど電話が来ているのだという。
受話器を受け取って耳にあてた次の瞬間、カレンの瞳が大きく開かれた。
『無事だったようだな、Q-1』
「……その声はっ!」
捜し求めていた謎の指揮官からの通信であった。
「扇さん、あのときの人から連絡がっ!」
レジスタンスのアジトに駆け込んだカレンは、リーダーの姿を発見してすぐさま報告した。
「何だって!?」
「いや、待て、こっちが先だ! 見ろ!」
振り返る扇をメンバーの一人が呼び止める。指し示した先にはテレビのモニターがあった。
近づいて見てみれば、どうやらブリタニア軍の関係者が会見を行っているようだ。
『クロヴィス殿下は薨御された。イレブンとの戦いの中で、平和と正義のために、殉死されたのだ! 我々は殿下の遺志を継ぎ――』
「クロヴィスが、殺された……?」
日本の――エリア11の総督である。やすやすと殺害できるものではない。内部の犯行でないとしたら、間違いなく最も殺しにくい相手であったはずだ。
不可能。
脳裏に浮かんだ単語を、カレンは無意識に否定する。
――否、できる。
不可能だと思われていたことを可能にした男が、たしかに存在していたのだから。自分の追い求めていた男が。
「まさか、あいつが……?」
カレンが漏らすと同時に、画面が会見会場からニューススタジオへと切り替わった。クロヴィス殺害事件について何か展開があったらしい。
『たった今、新しい情報が入りました。実行犯と見られる男が拘束されました。発表によりますと、逮捕されたのは、名誉ブリタニア人です。枢木スザク一等兵。容疑者は元イレブン――』
◆◇◆◇◆
『――名誉ブリタニア人の枢木スザクです』
照明の消えた室内。
スクリーンから溢れる光が、品の良い調度類を不規則にライトアップしていた。
落ち着いた図柄の壁紙を照らし、毛足の長い絨毯を照らし、そしてベッドに腰掛けた少女の裸足のつま先を照らす。
暗い空間に浮かび上がる肌は、闇の中ゆえにかひどく白く映えていた。
「さてルルーシュ、貴方はいったいこれからどう行動するのかしら。三人で暮らそうと言った貴方の言葉は本当? それとも嘘? もし嘘をつくのなら、つかれる覚悟も持った方がいいと思うのよ、私は」
誰に言うともなく呟くと、少女はテレビのリモコンを操作した。機械越しの音声が途絶え、部屋には静寂が満ちる。
唯一響くのは、透明で、無感情な、少女の声。
「貴方が嘘をつかないんだったら、私の嘘を本当にしてあげる。でもきっと、貴方は私とナナリーに黙って、ブリタニアに喧嘩を売ってしまうんでしょうね。――だって、『反逆のルルーシュ』なんだから」
とさりと軽い音を立て、少女は仰向けに倒れこむ。
「……嫌な世界」
白いシーツに、艶やかなアッシュブロンドが広がった。