ハーメルン様にも投稿開始しました。内容は同じです。こちらへの投稿をやめるつもりもありません。
というかどちらかというとこっちを先に更新すると思います。
確定ではありませんが、あちらにはイラストを付けるかもしれません。
お好きなほうで読んでください。
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第二次太平洋戦争後、エリア11のトウキョウ租界にはブリタニアの資本投下により様々な施設が建造された。緻密な都市計画の上に成り立った街はもはや旧日本時代の面影をほとんど残していない。
そうして作られたものの一つに、軍の所有するエアポートがある。平時には民間に解放されないその空港に、数人の軍人、役人を従える二人の女性がいた。
皇族専用機のタラップの前に立ってヴァイオレットの長髪を陽光に輝かせているのは、エリア11総督コーネリア・リ・ブリタニアである。
そして彼女の正面にいるのは第四皇女ユーフェミア・リ・ブリタニア。
地方遠征に出立する総督への簡易の見送りの場であった。
「イシカワの動きにはこれまでにはない大胆さがある。バックにいるのは中華連邦だろうな」
「承知しております。鋼髏(ガン・ルゥ)を確認したとの情報もあると」
「ならば話は早い。これは北陸を平定する好機だ。ゆえに今回の遠征は予想以上に長引く可能性がある。副総督としての立場はわかっているな?」
「はい」
ユーフェミアが真剣な顔で頷くと、コーネリアは対照的にフッと表情を緩めた。
「よし。こちらにはダールトンを残しておく。何事もよく諮ってな」
ユーフェミアは再び了承を返す。しかし態度とは裏腹に、その胸には暗澹たる気持ちが渦巻いていた。
コーネリアの言う『よく諮れ』を形式的な言葉としか受け取れないからだ。あってもなくてもさほど変わらないアドバイスなのではないか、と。
事実として、副総督であるユーフェミアの裁定を必要とする案件はこれまであまり無かった。皆無ではないものの、重要案件はほとんどゼロである。そしてこの先もそうだろうとユーフェミアは予想していた。姉である総督自身が妹の力不足をよく理解し、そのように環境を整えているためだ。
ユーフェミアがいなくてもブリタニアのエリア11統治にさしたる影響は無いだろうし――ありえない仮定だが――総督の不在を狙い、副総督の権力を振りかざして独裁に走ろうとしても、そうはできないようになっている。
それが過保護な姉からの一つの愛情の形であるとはわかっている。それでもユーフェミアにとってこの現状が愉快なものでないことは間違いなかった。『お前は無能だ』と遠まわしに言われているような気がして。
無論、ユーフェミアにしても自分に充分な能力が無いことは自覚している。だからこそ余計に感じてしまう。この扱いがひどく理にかなったものであると納得できてしまうからこそ、自らの不甲斐なさを強く認識することになるのだ。
わずかに滲んだ暗い表情をどう受け取ってか、コーネリアは力強い笑みを浮かべた。
「心配するな。中華連邦が絡んでいるといっても、所詮はテロリストの延長だ。じきに平定して戻ってくる」
「もちろん総督の勝利は揺ぎ無いものでしょう。無事の凱旋をお待ちしております」
ユーフェミアは気を取り直し、努めて明るい顔を作る。
そうして挨拶が終わると、コーネリアは専任騎士のギルフォードを引き連れ、タラップを上っていった。
やがて離陸した飛行機を見送り、ユーフェミアは振り返る。すると、見慣れないブリタニア将校の姿が目に映った。二十代半ば程度に見える、なかなかに男ぶりのいい青年だ。
第四皇女の専任騎士候補の一人である。
コーネリアのお墨付きを得ているだけあって家柄もよく、常にはきはきと喋る溌溂とした態度は、否応無しに人柄の良さを感じさせる。文句なしの優良物件だろう。
ただ、ユーフェミアは何日か一緒に過ごしてきたこの彼に対して、『違う』という感触を抱いていた。この青年に命を預けることはできないと思うのだ。今まで見てきた騎士候補たちと同じように。
言うまでもなく、彼の騎士としての力――武力は素晴らしいのだろう。それこそ、ユーフェミアの生命を何者からでも守り抜いてくれるほどに。
でも、それだけでは駄目なのだ。一緒に歩んで行きたいという意識が一時たりとも生まれてこないのだから。
そんな人間を一生そばに置こうなどとはどうしても考えられなかったし、そういった内心を押し殺して騎士にしてしまっては、忠誠をもって仕えてくれる相手にも失礼極まりない。
だからきっと、この人を騎士にすることはないだろう。
そう思いつつも表には出さず、ユーフェミアは代わりに告げた。
「では政庁に行きましょうか。今日も一日、よろしくお願いします」
「イエス、ユアハイネス」
◆◇◆◇◆
ルルーシュはトウキョウ租界にある高級住宅街を歩いていた。
道路には昨夜までの雨の名残があるものの、空には嘘のように快晴が広がっている。気持ちのいい朝だった。
隣には電動車椅子に乗ったナナリーと、彼女を挟んだ向こう側にニーナがいる。アーベントロートの家から学園に帰る途中だ。
「クラリスさんの家、すごかったですよね」
楽しげに話すナナリーに、ルルーシュは小さく苦笑して返す。
「ああ、ほんとに。すごすぎて毎日あそこで過ごすのは少し疲れそうだ」
「お兄様ったら。でもあんまり長居しないこのくらいがちょうどよかったのかもしれませんね。私もいつもの家のほうが落ち着きます」
「似たもの同士だな、俺たちは」
急にやって来たニーナは無論のこと、ルルーシュとナナリーも今日からはクラリスの家を出る予定でいた。単純に、親がいては居心地が悪いからだ。
実の姉妹が隣にいるというのに他人の振りをせねばならず、さらにそのクラリスは他人と親子の関係を装っている状態。『家族』というものに対してねじくれた感情を持っているルルーシュは、アーベントロート夫妻と心穏やかに付き合っていける気がしなかった。たとえ相手に他意がないにしても。
ルルーシュが人の良さそうな子爵の顔を思い出していると、ナナリーが傍らを歩く少女に顔を向けた。
「ニーナさんはどうですか?」
「私もちょっと無理かな。息が詰まっちゃいそう。たまに遊びに行くくらいならいいんだろうけどね」
少女たちはくすくすと笑い合う。
生まれた会話の間を縫って、ルルーシュはニーナに向かって尋ねた。
「そういえば、昨日は何の用だったんだ?」
ルルーシュはニーナに関して、昨夜遅くにアーベントロート邸を訪ねてきたという単純な事実しか知らない。クラリスからはあまり言いふらすようなものじゃないと濁されていた。
それでも、雨の中、夜遅くに貴族の友人の家を、しかも両親がいると承知の上で訪問するというのは、明らかに尋常な事態ではない。何か大きな事情があったのだろうとは推察できる。
聞かないほうがいいのかもしれないが、ニーナが普段よりも元気そうにしていることから、好奇心を優先しても問題にはなるまいと判断した。
「寮の門限も過ぎてただろうし、なにか緊急の問題でもあったんじゃないかと思って」
ニーナは特に気分を害した様子もなく、軽い口調で答える。
「大したことじゃないの」
「そうなのか?」
「うん。すごく重くて大変な悩みがあった――ような気がしてただけで、たぶん、本当はそんなに大きな問題じゃなかったのかな。そんな感じ」
「なんだそれは?」
「なんなんだろうね。自分でも今になったらなんだかよくわからなくて。昨日まではすごくたくさん、嫌なことがあったはずなんだけど、クラリスに、その――色々打ち明けたら、魔法みたいに全部すっきりしちゃって」
ニーナは本当に何かから解放されたのだろう。疑いようもないほどに、彼女の様子は今朝から一変していた。最近は常に何かに思い悩む素振りを見せていたというのに、その気配すら見受けられない。
(――ギアスを使ったのか)
おそらくはそうだろう。
クラリスなら単純な口だけで他人の心を動かすことも不可能ではないはずだ。しかし、その能力はどうやっても人の範疇を出ない。これほどまでに完璧にプラスの方向に持っていくことなどできるものではない。
それを可能にするのがクラリスのギアスだ。
対象の記憶を消すことができるということは、すなわち、対象の行動を実際に確認してから、それをなかったことにできるということである。動作の先を読むことも可能なら、会話を通じて思考を読むことも可能。
思考に加えて会話の流れまでもが読めているのなら、相手の望むタイミングに相手の望む言葉を掛け、そして相手の望む行動を取ることができる。他人の心を救うのにこれほど適したギアスもないだろう。
逆に言えば、マオのギアスのように思考を誘導し、意のままに操ることも可能ということだが、会話すら無しに意思を捻じ曲げる絶対遵守のギアスを持っているルルーシュには、そこに忌むべきものを見出すことはできなかった。むしろ少しの羨望すらある。
一緒に歩くニーナの明るい表情を見れば、なおのことその想いは強まる。クラリスのギアスは、ルルーシュのギアスでは成し得ない奇跡を起こすのだ。
緑髪の少女はいつもの三つ編みをしておらず、ゆるくウェーブの入った髪を背中に流している。セットする時間が無かったのかと思っていたが、きっとそうではないのだろう。
「なるほど、だから髪を下ろしたのか」
「うん?」
「心境の変化で髪形を変えたり、髪型を変えて心機一転をはかったり。よくあることだろ。特に女性はさ」
ルルーシュが言うと、ニーナははにかむように微笑みながら、少し顔を俯かせた。
「……そう、なのかな。別にそういうつもりはなかったんだけど。クラリスが、こっちのほうが良いって、整えてくれたから」
「俺もそう思うよ」
「え?」
驚いたように顔を上げるニーナに視線をやり、ルルーシュは言った。
「似合ってる、その髪型」
「――ありがとう、ルルーシュ」
そう微笑むニーナの表情は、かつて見たことがないほどに穏やかなものだった。
◆◇◆◇◆
過度に豪奢な装飾の施されたアーベントロート邸のリビング。時刻は昼に近く、大きな面積を割かれている窓からは明るい日の光が注いでいる。
バーンズは相変わらず慣れることのできないこの部屋の椅子に座っていた。クラリスに勧められて一緒に紅茶を飲んでいる。もし子爵がいれば『護衛風情が』と良い顔をされなかったかもしれないが、娘のほうはそういったことにはあまり頓着しないたちである。
そのアーベントロート子爵夫妻は、現在エリア11観光に出かけていた。家にいたところでやることもないのだから妥当な選択だろう。
ただ不在中、C.C.という少女を屋敷に置いておくことに関して全く難色を示さない点については、バーンズはいまいち賛同しかねる思いがしている。
アッシュフォード学園は単位制の学校であり、毎日朝から夕方まで全ての授業を受けなければならないわけではない。それでもクラリスは今日も午後から登校しなければならないし、他の日にしても休日でなければ一日中家にいることはできない。
にもかかわらず、娘の友人のC.C.はずっと屋敷に居続けるのだ。使用人以外に人のいない家に。
普通の親なら何か事情を聞くなり咎めるなりするのが当然である。それをしないのがこの家庭のいびつさを端的に現しているとバーンズは思う。
むろん、ユーグ・アーベントロートに貴族特有の平民に対する無関心さがあることは否定しない。庇護が必要なはずの十代の娘だろうと、違う世界の住人などどこで何をしていようが本当に気にならないのだろう。
しかしそれはC.C.に対しての話であって、彼女の滞在する場所に対しての話ではない。
娘の友人とはいえ、事情も聞かずに自宅に素性の知れない人間をとどめておくのは通常の感覚ではありえない。
それが許されるのは、やはり力関係が逆だからに違いあるまい。つまり、クラリスが上で、ユーグが下なのだ。
バーンズは既にそう確信している。
しかもそれは『クラリスが皇女であるから』ではない。昨夜からの親子のやり取りを見ていて、それはありえないと結論した。
ユーグは見た目どおりの平凡な男で、皇族に対して親として振舞うことができるような胆力を備えた人物ではない。十中八九、子爵夫妻はクラリスの正体に気付いていない。
となれば、ユーグは単に、親であるにもかかわらず娘に逆らえないのだ。
いびつである。
ただ、それでもこの家庭は幸せなのだろうと、バーンズはそうも思っていた。
人並み以上に分別のあるクラリスが親に無茶を言うことなど無かったのだろうし、なにより――単純にそう見えていた。
裏のあるクラリスが腹に何を押し隠しているのかなど知るよしもないが、少なくともバーンズの目からは幸せな一家に見えていたし、願望としてもそうあって欲しいと願っている。
(しかし――)
バーンズは対面でティーカップを傾ける少女の顔を見つめる。
冷たい表情だ。
両親と過ごしていたときの温かさは影すらも窺えない。
少し前までは見られなかった鋭い顔つきである。
バーンズのよく知るクラリスは、一人でいるときでも柔らかい雰囲気を崩さない少女だった。
だというのに、それがある日を境に変化した。
ナナリーという少女が誘拐事件にあった夜。事件が収束して帰って来たクラリスは、以前とは別人になっていた。纏う空気が変わった――その程度の差でしかなくとも、四六時中そばについていたバーンズには明確に感じ取れていた。
(何か心境の変化が、おありだったのだろうな)
紅茶を一口飲み、バーンズは広い部屋の中を眺める。
きらびやかな調度品が並ぶ部屋の中に、一つだけ場違いに質素な細工物がある。紙で折られた鳥だ。それが翼を閉じた状態でいくつもいくつも連ねられ、壁に掛けられている。
ふと思い、バーンズは言った。
「オリガミ、でしたか。されなくなりましたね」
以前のクラリスは、登校前などの小さな空き時間――ちょうど今のような――には、折り紙を折るのが半ば習慣のようになっていた。
ナナリーとした約束を律儀に守っていたのだろう。エリア11には鶴を千羽折って願いを込めるというという風習があるらしく、それを二人でやろうと笑い合っていたシーンをバーンズはよく覚えている。
クラリスは一度壁にかけられた鶴に目をやると、懐かしむように少し目を細めた。しかしその優しげな表情はすぐに消える。後に残ったのは冷徹に現実を見つめる冷めた瞳だった。
「あれはもういいのよ」
「まだ千羽に達していないのでは?」
「願掛けって、自分ではどうにもならない事柄に対してするものでしょう? 手を尽くして、これ以上はもうどうしようもないというときに」
「そうでしょうね」
神頼みの類は最後の手段だ。信心深い人間にとっては別なのかもしれないが、現実主義者のバーンズはそう認識している。
「自分では達成できないと思っていたから――いいえ、そうじゃないわね。自分で動く気がなかったから、私は千羽鶴に願いを込めようと思ったの」
「では――」
「ええ。今は違う。私は自分の力でやることにしたから」
――だから、あれはもういいのよ。
壁に掛けられた作り掛けの紙細工を眺め、アッシュブロンドの少女は語った。
バーンズはその願いの内容を知っている。
『優しい世界でありますように』。
クラリスはもう一人の優しい少女とともに、世界のあり方を願ったのだ。
神ならぬ身では傲慢とも思えるその願いの実現を、今、彼女はおのれの力でやり遂げると言った。
(――ということは、やはりご決心をなさったのか)
貴族の子女から皇女へと戻る決心を。
その結果がこれなのだとしたら、世界とはなんと皮肉なものなのだろうか。バーンズはそう感じずにはいられない。
優しい世界を作ると決めたせいで、当人から優しさが失われている。以前のクラリスならたとえ実質的な意味がない行為だったとしても、仲の良い少女との約束を無下にしたりはしなかっただろうに。
もっとも、当然といえば当然かもしれない。今のこの世界の大部分を動かしているのはクラリスの実の父親である。そのシステムを破壊し、新たにその位置に座ろうというのだ。
親族に挑み、一族の作り上げてきたものを破壊する――。
――修羅の道である。
半端な優しさなど持たないほうがいいのだろう。
きっとその生き方は多くの敵を作る。十代の少女が歩むには余りに厳しく、険しい道のりだ。
しかし、なればこそ、バーンズはクラリスに付いて行きたいと思う。
年長者としてそばで見守りたいと思うし、また臣下として、過度に人の道を外れそうなときには諌めねばならないとも思う。
何よりも、自分自身願っていたのだ。優しい世界であって欲しいと。
ならばもはや何を躊躇う必要があるというのか。
バーンズは半ば熱に浮かされたようなおのれの心境を自覚しつつも、意を決し、口を開いた。
おそらくは今が『そのとき』なのだと感じつつ。
「お嬢様――いえ、殿下」
クラリスは驚いたように眉を上げ、それから面白そうに笑んだ。
「バーンズ、その呼び掛けをすることの意味、貴方なら正しく理解しているのでしょうね」
「自分ではそのつもりでおります」
無言で見つめる少女の視線にさらされながら、バーンズは席を立った。クラリスの座る椅子の横まで行き、ひざまずく。
元軍人らしい、美しい跪礼であった。
「わたくしは、貴女にお仕えしたく存じます。ブリタニアという国ではなく、クラリス・ヴィ・ブリタニアという――貴女個人に」
クラリスは立ち上がり、バーンズに向き直る。そして厳かに告げた。
「ジェイラス・バーンズ。貴方の決意、しかと受け取りました。これからも頼りにしているわ。ともにこの世界を変えましょう」
バーンズの胸に熱く込み上げるものがあった。おのれの選択に間違いはなかったのだと、根拠のない確信が脳髄を満たす。
万感を込め、バーンズは返した。
「――イエス、ユアハイネス」
◆◇◆◇◆
ルルーシュは久しぶりに帰って来たクラブハウスの自宅エリアで、IH調理器を操作していた。
ヤカンに水をいれ、湯を沸かす。沸いた湯をポットに移し、コーヒーを淹れる――。
何気ない行為が日常を感じさせてくれる。何もせずとも至れり尽くせりなクラリスの家での待遇も悪くはなかったものの、やはり自宅でこうしているほうが落ち着くのは間違いない。
(いつの間にかすっかり庶民感覚になってるな)
苦笑しつつ二つのコーヒーカップをダイニングテーブルに置くと、カップを手に取ったナナリーが言った。
「咲世子さん、今日はいらっしゃらないんですか?」
普段ランペルージ兄妹の世話係をしているメイドの咲世子は、現在は不在だった。C.C.の存在を隠さねばならないことから最近は来てもらう頻度を減らしてもらっていたが――これには頻繁に訪れてくれるクラリスの存在が大きく寄与した――それでもナナリーが学園外に出る際には付き添ってもらうのが常だ。アーベントロート邸からの帰路でそばにいなかったのがナナリーには少し不思議だったのかもしれない。
「少し休暇を取って貰ったんだ。子爵が来なければもう少しクラリスのところに厄介になる予定だったからね、こんな機会でもなければまとまった休みはあげられないし、ちょうどいいかと思って」
「そうだったのですね。でしたらゆっくりお休みしてもらってください。私は一人でも大丈夫ですから」
「こちらから休んでいいと言ったのに途中で戻ってきてもらうのも悪いしな。そうさせてもらえると助かる」
マオによる誘拐事件からいくらか経ち、ナナリーの様子は以前と変わらないほどになっている。ルルーシュの目から見ても、数日程度なら咲世子抜きでも大した問題は起こるまいと思えた。
もっとも、聡い妹は姉の様子が以前と微妙に異なっていることにうすうす感づいているらしく、そのせいで若干不安に駆られることはあるようだ。とはいえ、そこはもう慣れてもらう以外には対処のしようがない。事実、クラリスは変わってしまったのだから。
「それにしても、お姉様、ご両親の方が来られて楽しそうでしたね」
そうだったのだろうか。
ルルーシュにはよくわからない。
どんな様子だったか記憶を手繰ろうとして、両親と接するクラリスの態度にあまり注意を払っていなかったことに思い至った。
「……そうだったか?」
「お兄様は気付きませんでした?」
「ちょっと、いろいろ考え事があったから。そこまでちゃんと見てなくて」
アーベントロート子爵夫妻とともに過ごす間、ルルーシュの思考の大部分は、かれらにクラリスが皇女であるという認識があるのかどうか――ひいては自分とナナリーの素性に思い至る可能性があるかどうか――その一点を見極めるために動いていた。だから当然のように全神経のほとんどが夫妻の一挙一動に向けられており、相対するクラリスがどんな風だったかまでは把握しきれていない。
「声の調子が私たちとお話するときとあまり変わらないんです。とってもくつろいでいたみたい」
「それくらいは不思議じゃないだろ。あいつだって俺たちと同じように日常的に嘘をついているんだ。取り繕えないはずがない」
「そうでしょうか。生徒会の皆さんとお話しするときでも少し硬いことがあるのに」
「……え?」
ナナリーの言葉にルルーシュの思考が一瞬止まる。完全に予想外のセリフだった。
ルルーシュの知る限り、クラリスに生徒会メンバーを遠ざけている印象はない。非常に近い距離感で付き合っているように見えていた。
「そう――なのか?」
「本当ですよ。いつもというわけではありませんが、生徒会の皆さんとお話するときはたまに声の調子が変わります。ほんの少しだけですけど」
ナナリーは特に自信がある風でもなく、単に当たり前のことを述べているだけといった様子で淡々と言う。どうやら盲目の妹はルルーシュには知覚できない些細な違いをはっきりと認識しているらしい。
目が見えない分、耳から入ってくる情報には敏感なのだろう。ナナリーは顔色を窺うこともなく、ただ声の調子だけで相手の機嫌や感情を読み取らなければならないのだ。その発言には充分な信頼性があった。
「ご両親とのお話ではそういう感じは受けませんでした。不満を口にされたときもごく自然な口調で。だからきっと仲がよろしいんだと」
「気付かなかったよ。それであんなに不安がってたのか」
「ええ……なんだかお姉様が、取られてしまいそうで」
「大丈夫だ。そこは心配しなくていい」
いざとなればルルーシュのギアスでどうとでもなるのだ。根拠を正直に明かすことはできないが、心配がないのはたしかなことである。
とはいえ。
(ナナリーの言ってることはおそらく真実だ。ということは――クラリスは両親を疎んじてはいないのか?)
ルルーシュにしてみれば、生徒会メンバーに対してすら何の隔意も感じ取れなかったのだ。むしろ非常に仲が良いと思っていた。当のメンバーたちもそうだろう。
そのミレイたちよりも、仮の両親のほうがさらに親密であるという。
クラリスと別れてから再会するまでの八年間、彼女にどんなことがあったのか、ルルーシュはほとんど知らない。たしかに以前、本人から子爵はろくでもない人間だと聞かされていたし、侮辱的な扱い――実子としての扱いをされたとも聞いていた。それを快く思っていなかったともクラリスは漏らしたはずだ。
しかし、口ではなんとでも言えるのである。日常的に嘘をついているルルーシュは、他に判断材料がある場合、証言というモノをあまり重視しない。
自分がクラリスに騙されていたとしても、気にすることは無いと思っている。他人のためにつく優しい嘘だって存在すると知っているから。
(仮にクラリスの家族仲が悪くないとするなら、ギアスは本当の最後の手段としたほうがいいだろうな。これ以上あいつを苦しめることは、俺にはできない)
仲のいい身内をギアスに掛けられて喜べる人間などいるはずがないのだから。
ルルーシュの中では当然の判断だった。
◆◇◆◇◆
辺りには夜の帳が下りていた。月の輝く美しい夜である。
トウキョウ租界の外れにある霊園。そこは旧日本時代の名残を示す数少ないスポットの一つだ。戦禍によって破壊されたものは仕方がなくとも、さすがに死者の眠りを積極的に妨げるのは憚られたのか、再開発の際にも当面は維持しておくべきと判断されたようである。
ブリタニアの土地となり、今では訪れる者のほとんどいないその場所に、四人の人間がいた。老年の男と中年の男、そして若い男と女。いずれも東洋風の顔立ちをしている。
名はそれぞれ、老年の男が仙波、中年の男が卜部、若い男が朝比奈、若い女が千葉といった。藤堂鏡士郎に心酔する旧日本の戦士たち、四聖剣の面々である。
「皆無事だったようだな」
「うむ、あとは藤堂中佐を待つのみか」
再会を一通り喜び合った彼らがしばらくその場に待機していると、暗い霊園の奥からコートに身を包んだ長身の男がやってくる。
「藤堂さん!」
いち早く気付いた朝比奈が声を上げた。続いて残る三人もそちらに顔を向ける。
「良くぞご無事で」
「遅くなってすまない。皆も変わりないようで安心した」
歩み寄ってきた仲間たちに応えると、藤堂は厳しい顔で言った。
「各々話もあるだろうが、長居はしないほうが良い。首相にご挨拶をしてまずは場所を移そう」
藤堂は近くにあった立派な墓石に体を向ける。故枢木ゲンブ首相の墓である。リーダーに倣い、残る四人も同様にして墓石に向き直った。
「さすがに線香は上げられませぬか」
表情を曇らせる仙波に、藤堂も苦々しい口調で返した。
「火はまずいな。だが状況が状況だ、首相もお許しくださるだろう」
五人とも追われる身であることは自覚している。本来ならこのように見晴らしのいい場所で墓参りなどするべきではないのだ。それでも、敗戦時からともに戦ってきた日本解放戦線が潰え、拠りどころを失った今、その事実を伝えて決意を新たにすることは、彼らにとって必要な儀式であった。
「線香一つ上げぬ非礼をどうかお許しください。日本を取り戻した暁には、あらためて皆で参ります」
手を合わせ、しばし黙祷する。祈りを捧げ終えると、藤堂は背後に並ぶ部下たちを振り返った。四人とも既に祈りを終え、隊長の顔を見つめている。何らかの符丁を示すように一つ頷く藤堂に、承知したとばかりに部下たちも頷き返す。そうしてかれらは藤堂を先頭に枢木ゲンブの墓前を後にした。
鋭い目つきで周囲を警戒する藤堂たちが霊園の出口までやってきたとき、事態は動いた。前方から駆け足でやってくる集団の影がある。視認できる距離になってみると、ブリタニアの軍服を着た一団であった。
現れたブリタニアの軍人たちは無言で藤堂たちの前方に展開する。退路を探して後ろを向けば、そちらからも足音を立てて駆けて来る集団の姿。
「これは――」
「情報が漏れていたのか、いったいどこから」
周囲を見回し、船場と卜部がうめくように漏らす。
「そんなことを言っている場合か! まずいぞ、囲まれた!」
千葉の言葉通り、新たにやって来た軍人たちも素早く展開し、藤堂たちは完全に包囲状態となる。
「藤堂さん、どうしますか?」
朝比奈の問いかけに、藤堂は眉を寄せた。
多少の敵なら突破できる自信のある彼らではあったが、周りを取り囲む敵の数は許容量を明らかに超えている。
頭領の藤堂が囮となって部下を逃がすのが唯一の道だろうが、果たしてその機が見出せるかどうか――。
行動できずにいる藤堂の前に、敵の隊長らしき男が歩み出る。
「藤堂鏡士郎だな?」
「……そうだ」
「貴様には第一級反逆罪の容疑が掛かけられている。おとなしく縛に付け。さもなくば――」
隊長が見せ付けるようにホルスターから拳銃を抜いた瞬間。
暗闇に銃火が走り、銃声が辺りに響いた。あまりにも激しいそれはナイトメア用の銃火器によるものである。
銃撃音に気付いたときには、包囲網の一部を形成していた軍人たちが血しぶきを上げて吹き飛んでいた。
「アサルトライフル! ナイトメアだと!?」
叫んだ卜部が暗闇を睨む。
仙波が唸るように言った。
「新手か? しかしなぜブリタニア軍を……」
「いや違う、あれは無頼だ!」
千葉の声に応えるように暴力的な駆動音を鳴らしながら現れたのは、藤堂たちの見慣れた機体。日本製の黒い戦闘装甲騎、無頼である。日本解放戦線の無き今、関東ブロックでその武装を所有している勢力はただ一つ。
「――黒の騎士団か!」
複数の人間が同時に正解にたどり着き、誰とも無い声が上がる。
生身でナイトメアに対抗するにはミサイルランチャーでも用意しなければ不可能。それをよく知る軍人たちは下手に応戦せず、立ち並ぶ墓石に素早く身を隠した。
同じく周囲の障害物の陰に飛び込んだ藤堂たちの耳に、敵隊長の怒声が届く。
「なぜこのような場所に黒の騎士団が現れる! 警戒に当たっていた部隊は何をしていた!?」
「トレーラーです! 強引に検問を突破してきた車両からあの機体が!」
無線機越しに返ってくるのは上ずった声である。そうしている間にも無頼のアサルトライフルは墓石を破砕し、生身の軍人に無慈悲な銃弾を浴びせている。
「応援は出せんのか!? このままでは全滅する!」
「無理です! 警戒を厳しくすれば藤堂たちに気取られるとのことで、近辺にナイトメアは配備しておらず――!」
回答を聞いた隊長は憤怒の形相で歯噛みし、次いで叫んだ。
「藤堂たちを捕らえよ! 敵の狙いは奴らだ! 奴らの身柄を盾にして時間を稼げば増援が来る!」
指示に応え、ブリタニアの軍人たちが墓石に潜む藤堂たちに殺到する。障害物から出た者は容赦なく撃ち殺されていくが、全滅には程遠い。加えて黒の騎士団はたしかに藤堂の身柄を欲しているらしく、彼に近づいた軍人には銃火は向けられない。結果として藤堂と四聖剣の周りは瞬く間に乱戦模様となった。
向かってくる敵に銃弾を撃ち込みながら、藤堂は形勢の不利を悟る。こちらが相手を殺して構わないのに対して、盾として使うつもりでいる敵はこちらを殺すことができない。そのアドバンテージは絶大なものだが、数が違いすぎた。ブリタニア軍は藤堂たちをどれほど評価していたのか、五人に差し向けるには明らかに過剰すぎる人員が投入されている。
切歯する藤堂の視界に、地面に押し倒され、取り押さえられる千葉の姿が映った。もはやこれまでかと覚悟を決めようとしたとき、その心境をあざ笑うかのように、千葉の上に乗ったブリタニア軍人が崩れ落ちた。仰向けに倒れた男の胸には見慣れぬ武器――クナイが突き刺さっている。
「何者だ!?」
どこからか誰何の声が上がったのと同時に、ブリタニア軍人がもう一人倒れる。そうして夜の闇からにじみ出るように現れたのは、黒い装束を纏った人影であった。
新たに登場した人物は圧倒的な体術でブリタニアの軍人たちを次々に沈めていく。さらに遅れてやって来た黒服の一団が状況を決定付けた。藤堂たちにも見覚えのあるその服装は、かれらが黒の騎士団の所属であることを示すものである。
戦いの趨勢が決した頃、最初に飛び込んで来た黒装束が藤堂たちの前にやって来た。恐るべき武力を見せ付けたその人物は、近くで見てれば若い女性である。藤堂は内心で驚きつつも、表面上は平静を保った。
「黒の騎士団の篠崎咲世子と申します」
黒装束の女の口調は、戦闘の高揚も疲れも感じさせない、淡々としたものだった。
「貴方がたをアジトまでお連れするよう仰せつかっております。無論、客人として。付いて来てくださいますね?」
「危ないところを助けていただき、感謝する。厚意に甘えるとしよう」
時間が経てばブリタニアのナイトメア部隊が動く。警戒網も強化されているに違いない。藤堂たちには是非の無い選択であった。
◆◇◆◇◆
「――それでは、アッシュフォード学園生徒会長のわたくしミレイ・アッシュフォードが、スポーツと芸術の祭典、名づけて復活祭の開催を、ここに宣言いたしまーす!」
晴れやかな空にはつらつとした少女の声が広がっていく。続いてボンボンボン、と花火の音が響いた。
その様子を放送室で確認していたルルーシュが、やや呆れ顔でミレイに言う。
「ここまでやらなくてもよかったんじゃないですか? 昼ですし、やっぱりあんまり見えてませんよ」
「何言ってんの。こういうのは最初が肝心なんだから。あんたもOKしてたじゃない」
「ナナリーにネコの鳴き真似をさせるのとどっちがいいかって聞かれたら、それは花火のほうがいいって言いますよ。真面目にやるって話はどこに行ったんですか」
「まぁまぁ、これくらいはいいじゃない。あんまり実情と違いすぎてもぼろが出ちゃうかもしれないし」
言い合う二人の様子を、ニーナは少し離れた場所から眺めていた。隣にはクラリスの姿がある。
今日は数日前から軌道修正して急ピッチで計画を進めてきたイベントの当日だ。
ミレイの命名した『復活祭』は、もともとがルルーシュの回復記念だったから、というとてつもなく適当な理由で付けられたもので、名前から期待されるような大仰なものは全く存在しない。始めから企画されていたスポーツ――これは事前に組み分けされた複数のチームで様々な競技を行い、合計点数を競うというもの――に、急遽『芸術』を付け加えただけのイベントである。
この芸術にしても、突然に決まったものだから大したことはできない。ちょうどクロヴィス殿下の定めた芸術週間が近く、学園では通常の授業を潰して芸術作品の制作をすることになっていたから、それを少し前倒しにして、出来上がった作品を校内に展示した――それだけだったりする。
しかし、これが重要なのだ。
放送機器から離れたミレイがクラリスを振り返る。
「ご両親にはちゃんと声掛けてきた?」
「もちろんです。私も生徒会の役員だって伝えたらずんぶんと楽しみにしてくれたみたいですから、きっと来てくれると思います」
つまり、展示物を見てもらうという名目で、学園を外部に開放したのである。
もちろん、貴族であるクラリスの両親が学園を見たいと言えば、通常の授業風景も見られるように便宜が計られただろうが、そんなものを見せても仕方がない。今回のように楽しく健全に過ごす学生たちを通して、そのように過ごすことのできるイベントを運営しているクラリスを見せたいのだ。そうすることによって、アーベントロート子爵夫妻の翻意を期待したい――。そういった思惑である。
とてもミレイらしい考えだとニーナは思う。人間の善性に頼る――日の当たる明るい道を歩み続け、なおかつ手ひどく裏切られたことの無い人間にしかできない発想で、それはいつでも楽しそうに笑う金髪の幼馴染にはとても似合っている。
ニーナにとって、そういう風に物事を考えられるミレイはうらやましく、同時に疎ましくもある存在だった。
誰に対しても快活に接するミレイを見るたび、ニーナは彼女のように生きられない自分にコンプレックスを感じていたし、何かとニーナを気にかけて遊びに連れ出そうとする姿には、哀れみと同情の念を勝手に幻視していた。
そういった小さな不満を少しずつ少しずつ溜め込んで生きてきたのが少し前までの自分だったのだと、ニーナは妙に晴れやかな気分でミレイを眺めている。
まるで悪い呪いから解放されたかのようだ。
認めて欲しい人に認めて貰えた。ただそれだけのことで、自分がいかに馬鹿げた妄想に囚われていたのかがわかった。
自分が思うほど自分は周囲より劣ってなどいないし、劣っていないのだから見下されてもいない。
クラリスが整えてくれた髪形で学校に顔を出した日、ニーナはクラスメイトから『似合っている』や『かわいい』といった言葉を掛けられた。きっとそれまでのニーナだったらその賛辞を素直に受け取れず、皮肉を言っているに違いないと独りで暗い想念を肥大させていただろう。
でもそうじゃないと今なら自信が持てる。
――クラリスが、かわいいと認めてくれたから。
ニーナが隣に目を向けると、アッシュブロンドをした美しい人は優しく微笑み返してくれる。
とても幸せだった。この笑顔を素直に受け入れられることが。
それだけで充分。
ニーナはクラリスからルルーシュを引き剥がしてその座に収まりたいなどとは全く思っていない。自分が底辺の人間から一般の人間に格上げされたとしても、やっぱりクラリスは女神様で、恋人になるとかそういうことは、なんだか違うという感じがするのだ。
「うまく行くと思う?」
ニーナが尋ねると、クラリスはふざけ合っているルルーシュとミレイを見つめながら口を開いた。
「うまく行かせましょう。みんな頑張ってるんだから大丈夫」
「親のことも?」
「そっちはどうかわからないけど、駄目でも私がちゃんと説得するから。今はイベントに集中しましょう」
「そうだね、わかった」
返事をするのと同時に、ミレイとルルーシュの話も終わったらしい。副会長を連れた会長がニーナたちのほうにやってきた。
「さぁてー、開会宣言も終わったし、今日一日、頑張って盛り上げましょう!」
ミレイは見せ付けるように胸の前で力強く拳を握って見せる。すると横にいたルルーシュが呆れたような声を出した。
「いや、盛り上げるのは要りませんよ。会長がそれをやるとまた変な方向に行くでしょう」
「えー、なんでよー」
締まらない二人のやり取りを眺めながら、ニーナは自然と小さく笑い声を上げている自分を見つけていた。
◆◇◆◇◆
ユーフェミア・リ・ブリタニアはリムジンの後部座席に座りながら、窓の外を流れていくトウキョウ租界の風景を眺めていた。気持ちよく晴れた青空の下、遠く立ち並ぶビル群がゆっくりと流れていく。
格式ばった公務の際は皇族専用車両を利用することが推奨されるが、今日はそういった用件ではない。では何の用で外出しているのかと言えば、自分でもよくわかってはいなかった。表向きは、近日中にあるクロヴィス記念美術館の落成式の前に、彼の墓前に竣工の報告に行くということになっているものの、どこかから要請された行事ではない。ほとんどプライベートなものだ。
今のユーフェミアの仕事は、とにかく騎士候補と共にすごし、彼らの中から騎士となる人間を選ぶことが最重要視されている。それ以外のことは要求されていない。何か仕事が無いかと聞けば回っては来るのだろうが、実務上意味の無い今回の行動が許されている点を見れば、特に必要とされていないことは嫌でも実感できる。
だからこそ早く騎士を選ばねばならない。そう考えながら、その思いのみが空回りしているのが今のユーフェミアだった。自分でも自覚していたため、優しかった異母兄の前で心中を打ち明け、少しでも心を落ち着けようと思ったのだ。
車内に視線を移すと、備え付けられたモニターが昼のニュースを流していた。内容は朝の時点で確認したものばかりで、あまり興味のある番組ではない。
さらに目だけで横を見ると、そこには精悍な顔つきをしたブリタニア人の男性がいる。今日の朝から一緒に過ごしている専任騎士候補だ。名前はジェレミア・ゴットバルト。
彼のことは、正直よくわからない。
ジェレミアという騎士は良くも悪くもあまりユーフェミアに干渉してこない男だった。他の騎士候補は――さりげなくではあるものの――隙があれば自分を売り込もうとしていたものだが、ジェレミアにはそういったそぶりが全く無いのだ。そういった接し方では人柄が掴めない。
それでも、優秀な自己を見せ付けてこない姿勢は、自分に自信の持てないユーフェミアにはとても落ち着けるものだった。
窓の外には相変わらず快晴が広がっている。澄み渡る空を見ると、なんとなく溜め息が出た。
「――私では、殿下の騎士には相応しくありませんね」
不意に隣から声が掛かる。珍しく話しかけて来た男の顔には、何の感情も浮かんではいなかった。ただ思ったことを口にしただけ、といった風だ。
「ユーフェミア様はいつも浮かない表情をしていらっしゃる」
「……申し訳ありません。ジェレミア卿に不満があるというわけではなくて――」
何を言うべきか、ユーフェミアは逡巡した。
自分の気分が上向きにならない理由はよくわかっている。ただ、それを騎士候補の人間に明かすべきなのかどうか、そこの判断が付かない。
迷った末、あくまで自然体を貫くこの騎士になら、話してもいいのではないかと結論した。このジェレミアなら意思にそぐわない追従をすることは無いだろうから。
きっと自分の中だけで抱えていても前に進めない問題なのだ。
意を決し、ユーフェミアは口を開く。
「私は、騎士となる方を自分で選びたいと総督に申し上げました。人から押し付けられた選択をするのではなく、自分の目で確かめて、しっかりと自分の意思で選びたいと」
ジェレミアは少し驚いた顔をした。今回の計らいがユーフェミアからの提言でなされたと知らなかったのかもしれない。
「ただ……よくわからないのです」
「わからない、とは?」
「総督が推薦してくださった方は、皆さんすばらしい方だとは思うのですが、その、騎士というものは、それだけで選んでしまって良いものなのでしょうか?」
「――と、おっしゃいますと?」
「騎士とするということは、その方に生涯仕えていただくということです。わたくしはその方に命を預け、その方の人生の大部分を頂くのです。ですから、真にわたくしのことを理解して、わたくしの考えに賛同してくださる方にこそ、騎士になっていただきたいと思っています」
ユーフェミアが自分なりの見解を述べると、ジェレミアは少し考えるように間を空けてから言った。
「……誠に無礼ながら、ユーフェミア様がそこまで深いお考えをお持ちとは存じ上げませんでした」
本当に無礼な話である。しかしながら、無理に持ち上げることなくここまで率直な口を利いてくれる男に、ユーフェミアは好感を抱いた。外から見た自分はきっとその程度の評価なのだろうと自覚していたからだ。そこをおだて上げて来る人間には白々しさを感じていたものである。
「つまり、殿下は騎士としたい方が見つからないとおっしゃりたいのですね?」
「貴方の前で言うのは失礼に当たるのかもしれませんが……その通りです」
口に出して誰かに話したことは無いが、ユーフェミアはナンバーズとも手を取り合える社会が作りたいと思っている。副総督就任前にスザクとシンジュクゲットーに行った際、強く感じたことだ。
人が人を虐げるのはとても悲しい。どんな人間でも幸せに過ごせる世の中が作りたい。
今はまだ力の無いユーフェミアが、いつの日にか実現したいと願う夢だ。
しかしこれはブリタニア人とナンバーズを区別するというブリタニアの国是と真っ向から対立するものであり、なかなか受け入れられる思想ではない。
正直な話、今までの騎士候補の男たちからは、イレブンに対する明確な蔑視が窺えた。
そういった人間を命を預ける相手にしようとはどうしても考えられない。
「早く決めねばならないとは思うのですが……」
重い口調で俯くユーフェミアに、ジェレミアは拍子抜けするほど軽く言った。
「別によいのではないでしょうか」
「え?」
「急いでお決めになる必要は無いでしょう」
「そう――なのでしょうか?」
「ユーフェミア様の認識は正しくございます。何をも置いて主のために生きられる人間でないのなら、騎士になどなるべきではない。殿下も、そういった相手でなければ騎士としないほうがよろしいでしょう。お互いのためになりません。考えの合わぬ人間など論外です」
「ですが、総督からは騎士を持てと」
「そのほうがいいというだけでしょう。殿下ご自身が騎士を持たぬことに不安を感じないのであれば、コーネリア様にお伝えするだけで済む話です。合う人間が居なかったと」
「……そうなのかもしれませんが、それでは――」
言いよどむユーフェミアに、ジェレミアがわずかに眉を寄せる。
「何か問題がおありなのですか?」
「ええと……」
ユーフェミアは話すべきか迷い、結局打ち明けることにした。話せない理由など特にないと気付いたのだ。ただ単に自分が少し恥ずかしいというだけで。
「こんなことを言うと子どもだと笑われそうですが――早く一人前になりたいんです」
ジェレミアは理解できなかったのか、いっそう深く眉根を寄せた。
ユーフェミアは苦笑しながら続ける。
「わかりませんか? 仮にも副総督なのに、こんな風に好き勝手に出歩いていても何にもお咎め無しで、普通に国が回るんですよ。まるで、何もするなって言われてるみたいに……」
「そうではないでしょう」
「え?」
悩み続けてきた問題にあっさりと否定を返され、ユーフェミアは相手の顔を改めて見た。ジェレミアの引き締まった表情にはわずかに柔らかい色がにじんでいた。
「たしかに、今はユーフェミア様のお力がなくとも統治が成り立つのかもしれません。であれば、殿下はその幸運を喜びこそすれ、嘆くべきではございません」
「喜ぶ――とは?」
「割り振られた役目に重みがない――それは裏を返せば、ユーフェミア様は過剰に政務に縛られることなく、如何様にもお好きに学べるということではございませんか。そうして充分な力をお持ちになれば、周りの評価など嫌でも付いて参ります」
諭すように優しく掛けられたその言葉に、ユーフェミアはハッとした。
言われてみればその通りだ。
これまでユーフェミアは地位にふさわしい仕事をしなければならない、人に認められなければならないとばかり考えていた。しかし、そうではないのだ。
何よりもまず、地位にふさわしい人間になる。そこを目指すべきだったのだ。
「皇女殿下のお心を推し量るなど不遜の極みではございますが、姉君はユーフェミア様にそれを期待しておられるのだと思いますよ。いずれこのエリアを名実ともに統治することになられる貴女様に」
政務に臨む姿勢に関しては厳しいコーネリアも、プライベートの時間には以前と変わらずユーフェミアを甘やかしてくれる。ジェレミアの弁はたしかに正しいのかもしれない。本当は間違っているのだとしても、そのように考えれば胸は軽くなった。
ジェレミアに対する感謝の念が広がる。ユーフェミアは冗談めかして言った。
「ジェレミア卿は、わたくしの騎士にはなりたくありませんか?」
問われた男は表情を固くし、ユーフェミアに訊き返した。
「なぜ、そのようなことを?」
半分以上冗談のつもりだったが、ユーフェミアはこの男なら自分の騎士としてもいいのではないかと少し思い始めていた。皇女であるからというだけで追従してくるわけでもなく、いろいろと忌憚の無い意見も言ってくれるジェレミアは、正直これまでの候補の中では群を抜いて好もしい。
ただ、その独特の態度がユーフェミアに対する熱意の無さから来ているものなのだろうと察してもいた。
「なんとなくです。なんとなく、貴方は私の騎士になりたいと思ってはいないのだろうと感じたから」
「そう……ですね」
ジェレミアは固い表情で黙り込み、やがて言った。
「どのようにお誘いいただいたとしても、ユーフェミア様の騎士になることはできません。私には、既に主と定めたお方がおりますので」
「どなたかお聞きしても?」
ジェレミアは再び黙り込む。
口にするのが憚られるような相手なのだろうか。
無理に話す必要はないと伝えるべきかどうかユーフェミアが考え始めた頃、ジェレミアは厳かに言った。
「――クラリス・ヴィ・ブリタニア殿下です」
目を見開く。
その名はユーフェミアにとっても非常に重いものだ。幼い頃によく遊び、八年も行方知れずとなって、そして最近になってようやく再会できた、異母姉の名前。
ユーフェミアはクラリスを非常に優秀な姉として尊敬し、また慕いながら、常に負い目を感じてもいる。非凡な才覚を持つ皇女であるはずの彼女が子爵家の一令嬢として窮屈な立場に身を置いているのに、何もできない自分が副総督という地位についてその座を腐らせていること。ユーフェミア自身には何の責任も無いのかもしれない。それでもその事実は彼女の心を確実に圧迫していた。
「クラリスのことを、知っているのですか?」
「直接お話したことはございませんが、マリアンヌ様が暗殺されたあの日、私はアリエスの離宮の警備をしておりましたから」
「では……それからずっと?」
「はい」
ジェレミアの口調は固い。
その心境を察するのは、ユーフェミアには容易かった。
間違いなく、ジェレミアも負い目を感じている。ユーフェミアのそれなど比べ物にならないほどに。
マリアンヌの暗殺を阻止できていれば、一家は離散を強いられることもなく、クラリスは皇女のままの身分でいられ、ルルーシュとナナリーが死ぬこともなかったのだ。
言わば、ヴィ家――ひいては唯一の生き残りであるクラリスの全ての受難は、マリアンヌが暗殺されたことに起因する。
その事件の発生を許してしまったのが当時の警備隊員――ジェレミアなのだ。
「――クラリスに会いたいと、思いますか?」
自然と口をついて出ていた。
今度はジェレミアが瞠目した。
ユーフェミアはクラリスが名前を変えてエリア11で生活していることを知っている。何の後ろ盾も無く、援助もできない状態で下手に存在を明かせば危険だと思っていたから誰にも話せなかったが、この男になら話してもいいのではないかと思えた。
曲がりなりにも皇女であるユーフェミアの専任騎士の座を蹴ってでもクラリスに仕えたいと言った人間だ。確実に信用できる。姉の力になってくれるだろう。
「無論、叶うのならば今すぐにでもお会いしたく思っております」
力強い返答を聞いて、ユーフェミアは会わせるべきと判断した。
こういったときの行動力には常人離れしたところのある彼女は、すぐにどうやって対面の場を設けたものかと考え始め、ふと車内にあったモニターに目を留めた。
全国ニュースから地方ニュースへと内容の切り替わった番組の中では、どこかの体育館かホールらしき場所からレポーターが中継をしている。
『こちらの作品をご覧下さい。ここアッシュフォード学園では、クロヴィス殿下の芸術週間に合わせ、作品展示を一般に公開しているんです――』
タイミングよくもたらされたその情報を、ユーフェミアは天啓のように受け取った。
◆◇◆◇◆
アッシュフォード学園の校門に、まばらに人が吸い込まれていく。
暦の上では休日の今日、やってくる人間は多くも少なくもないといったところだ。数で言えば決して多くはないだろうが、付近の住民や生徒の父兄辺りしか興味を持たないであろうイベントにやってくる人間として考えると、少ないとも言えない。
昼の報道番組で取り上げられたからだろうか。
校門脇に駐車されたHi-TVの中継車に寄りかかりながら、ディートハルトは小さく嘆息した。
(本当にくだらん仕事だ)
少し前までテレビ局の資料室に追いやられていた彼は、最近になってようやく外回りの仕事に出てこられるようになった。と言っても今回のような毒にも薬にもならない小さな地方ニュースの取材への帯同ばかり。報道の最前線でプロデューサーを務めていた人間に屈辱を味わわせ、辞職に追い込もうという意図が明らかに透けていた。
だとしても、ディートハルトにはテレビ局を辞める意思は全く無い。職場には未だに彼を慕うかつての部下たちが何人もおり、そこから重要な情報を得ることができるからだ。
Hi-TVは黒の騎士団の活動に欠かせない情報源なのである。
それを思えば何の面白みもない仕事にも多少のやりがいは生まれる。クルーの撤収はまだかと学園の敷地内に視線を移すと、遠くのグラウンドでサッカーをしている学生たちの姿が目に入った。
やたらとへばっている様子の黒髪の少年が悪い方向に目立っている。学校行事だからと慣れないスポーツに駆り出されたのだろう。
(気楽なものだな、学生というのは。しかしこんな平和な連中の中にゼロがいるというのは、どうにも――)
違和感の拭えない話である。
仮面の指導者の正体がアッシュフォード学園の生徒なのではないかと疑っているディートハルトだが、人を人とも思わぬ苛烈なあの男が学生に混じって生活していると考えると、どうしてもおかしく感じてしまう。
(だからこそ、うまいカムフラージュになっているのかもしれんが)
興味を失って校門前の道路へと顔を戻すと、遠くのほうから歩いてくる集団が視界に入った。
ディートハルトは表情を引き締め、中継車の陰に身を隠すように移動する。集団の中に見知った人物の顔があるように見受けられたからだ。
目を凝らし、確信する。
(あれは――ジェレミア?)
見慣れた軍服姿ではなく黒いスーツに身を包んでいるが、直接の対面もあるディートハルトには見間違えようがない。かつて純血派の領袖として一大勢力を築き上げていた男である。
隣にはクリーム色のスーツを着た若い女。大きなサングラスを掛けているため細かな顔立ちまではよくわからない。桃色の髪をアップにしている。
その後ろにもスーツを着た男女が一人ずつ続いていた。
(こんなところにいったい何の用が……?)
ゆっくりと近づいてくる一団を眺めていたディートハルトは、彼らが校門まであと数メートルといった位置になって、気が付いた。
ユーフェミアである。桃色の髪をした女は第四皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアだ。となれば、ジェレミアは近々専任騎士を選ぶという話になっていた彼女をエスコートしているのだろう。騎士候補として。
奴もくだらん仕事している――そう思えたのは一瞬だった。
ユーフェミア一行が校門へと足を進めたからだ。
ディートハルトはただ単に彼らがどこかへ移動する途中であるとしか認識しておらず、大して面白くもないイベントを行っている学校へ向かうとはほとんど予想していなかった。
ゆえにひどく驚き――同時に何かあると直感した。
多くの場合、慮外の事態が起こるのには慮外の事情が存在する。目的地がアッシュフォード学園であると判明してもなお、ディートハルトにはユーフェミアがそこへ行こうとしている理由について大して思い当たるものが無いのだ。
(これは――ちょうど良い仕事ができたな)
ディートハルトは意味の無い待機をやめ、校門へと消えていくユーフェミアたちの後を追った。
遠くでサッカーの試合終了を告げるホイッスルが鳴っていた。
◆◇◆◇◆
枢木スザクは作品の展示がされている体育館の入り口で、一般客の案内を行っていた。
主に展示と関係の無い校舎のほうへ行かないように注意を促す役と、万一揉め事が起こった際の仲裁役ということになっている。
これまでは何も問題が起こらず順調に進んでいた。
ふと入り口にやって来た人物の気配を感じ、スザクはそちらを振り返る。するとそこには見覚えのある男の姿があった。
「ジェレミア卿!?」
「久しぶりだな、枢木よ」
以前クロヴィス殿下殺害の容疑者としてスザクを逮捕したジェレミア辺境伯である。思わぬ人物の登場に思考が止まる。
名を呼んだきり硬直したスザクに、ジェレミアは小さく笑った。
「安心しろ、私はもう貴様を捕らえたいなどとは思っておらん。今日は別の用事だ」
ジェレミアが言うと、彼の陰から一人の人物が姿を現す。
桃色の髪をしたスーツ姿の女性だ。サングラスで顔を隠した彼女の正体に、スザクは一瞬で気が付いた。
「ユーフェ――」
「ユフィです。そう呼んでください。いつかのように」
思わず声を上げそうになったスザクに、ユーフェミアは被せるように言った。
スザクもすぐに理解する。
こんなところで不用意に皇女様の名前を出したらどうなるか。ユーフェミアも視察を続けられなくなるし、イベントも大混乱するし、全く良いことがない。
皇女としての扱いはしないほうがいいのだろう。
「久しぶりだね。どうしたの? こんな所に」
「ちょっと会いたい人が居て。クラリス・アーベントロートって知ってます?」
「クラリス? 生徒会でいつも一緒だからよく知ってるよ」
「ちょうどいいわ。案内してもらっていいかしら。ホテルジャックのときに仲良くなったんですけど、こんな機会でもないと会えなくて」
直接の会話はナリタ連山での作戦終了時以来だったが、変に硬くならずに話ができた。
スザクにとってユーフェミアは皇女であると知る前に仲良くなった相手で、彼女のことは敬わなければならないとわかっていても、叶うならあまり格式ばった付き合い方はしたくない――もちろん友達として接したいという意味で――という意識がある。
こういったプライベートな場面で会えたことは純粋に嬉しかった。
「わかった。でも少し待って。場所をセッティングするから」
会釈程度に礼をし、スザクは一度その場を去る。
ユフィの願いをかなえるのにやぶさかではないが、その前にやっておくべきことがあった。
体育館からひと気の無い用具室へと入り、携帯電話を取り出す。すぐに繋がった相手に、スザクは端的に告げた。
「ルルーシュ、ユフィ――ユーフェミア様が来てる」
「なんだと? いったいどうして」
「クラリスに会いたいらしい。ホテルジャックのときに知り合ったみたいだ。体育館から生徒会室に連れてくから、鉢合わせしないように。会うのはまずいんでしょ?」
「ああ、今顔を合わせるのは避けたい。教えてくれて助かった。俺はナナリーと隠れてる。帰ったらまた伝えてくれ。頼んだぞ」
「わかった」
電話を切ると、クラリスにも連絡を入れる。生徒会室にユーフェミアを連れて行くから人払いをして待っていてくれるよう頼むと、彼女は驚いた様子で、しかし快く了承してくれた。もっとも、皇女様に指名されて断れる人間は同じ皇族でもなければまず存在しないだろうが。
事前準備を全て終え、スザクはユーフェミアを伴って外へ出る。
彼女に従ってやって来たジェレミアと他二人の人間は、当然といえば当然だが、主人の行動には何の口出しもする気がないようで、黙って後を付いてきた。
皇女殿下はゆっくりと歩きながら、サングラス越しの視線で興味深げに学園内を見渡している。バスケットコートやテニスコートで試合をする学生たちや、緑あふれる校舎の風景などを、とても眩しそうに。
「スザク、学校は楽しいですか?」
突然、ユーフェミアがそんなことを訊いた。
「もちろんだよ。毎日が充実してる。僕にこんな幸せが味わえるなんて思ってもみなかった」
全部きみのおかげだ。そう言外に伝える。
ユフィの口添えで入学できた学園だから、たとえどんなひどい扱いを受けたとしても、学校を辞めなければならなかった彼女の分まで楽しまねばならない。スザクは始め、そういった悲壮な決意をしていた。けれど、ルルーシュやクラリス、生徒会の仲間たちに受け入れられて、いつの間にかほとんど誰からも蔑視を受けなくなっていた。
今では本当に、心からいい学校だと思っている。
「みんな、僕が名誉だなんてこと何にも気にしてないみたいに、良くしてくれるんだ」
「やっぱり、日本人とブリタニア人でも仲良くできるんですね」
「できるさ。同じ人間なんだ。お互いに歩み寄る心があればできないことなんてない」
「そう――そうですよね」
ユーフェミアは嬉しそうに微笑んだ。
「前から聞きたかったんですけど、スザクはどうして、日本人なのにブリタニアの軍に入ったんですか?」
スザクは少し言いよどむ。
その問いはスザクの根幹に関わるものだ。しかしそれを信念と呼んでいいのか、人に話すべきものなのかどうかは、常におのれに問い掛け続けている。いや、問い掛け続けなければ維持できなくなりそうだとうすうす感づいている時点で、それは信念とは呼べないのかもしれない。
それでも、やはりスザクに言えることはただ一つだった。
「力で無理やり奪い取ったものになんて、何の意味もない。僕はずっとそう考えてきた。テロなんて無意味な行為だよ。それで得られるのは行き場のない悲しみと、どうしようもない空しさだけだ」
「だから――ブリタニア軍に入った?」
「そう。この手で同胞の命を断つことになるかもしれない。それは覚悟してた。それでも、ルールを破るよりはマシだと思ったんだ」
「ではスザクは、日本の方々が全員降伏しておとなしくブリタニアに投降すれば、全ては円く収まると? ルールを守るというのはそういうことですよね」
「少なくとも、余計な血の流れることはなくなる。その先はわからない」
「わからない?」
「正直、ブリタニアのイレブンに対する弾圧には目を背けたくなるものがある。そこをどうやって改善していくのか、どこまで改善できるのか。より良い生活を勝ち取るための先の見えない戦いが、また始まるんだと思う。でもそうやってルールに従って手に入れた権利は、誰にも否定できない。ならイレブンの人たちはそれを目指すべきだ」
スザクが言い終えると、ユーフェミアは話の内容を吟味しているのか、短い時間唇を閉ざした。
しばらくして口を開く頃には、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ありがとうスザク。わたし、日本の方のために何をしたらいいのか、なんとなくわかった気がします。まだ政策に反映する力はありませんけど、いつか必ず、貴方たちの願いを形にして見せます」
「こちらこそありがとう、期待してるよ。でもそれはもうただのユフィのセリフじゃないね」
スザクが茶化すと、ユーフェミアは「あ」と口を押さえ、くすくすと肩を揺すった。
もうすぐクラブハウスに着く。難しい話はそろそろ終わりにするべきだろう。
隣を歩く少女に笑い掛けながら、スザクは努めて明るい声を出した。
◆◇◆◇◆
ジェレミアは胸に湧き上がる高揚を抑えきれずにいた。
アッシュフォード学園のクラブハウスの廊下を歩きながら、まるで初恋の相手に告白をしに行く初心な少年のようだとさえ感じていた。
口の中が乾く。どんな顔をしていいのかわからない。
そのような状態だったために、名誉ブリタニア人の枢木スザクが皇女殿下と親しげに話していようが、その内容がどんなものであろうが、さしたる気にはならなかった。自分のことで精一杯だったのである。
やがて生徒会室の前に辿り着く。そこには黒いスーツを着た体格のいい壮年の男が立っていた。子爵令嬢として生活しているクラリス殿下の護衛隊長であるらしい。
ここまで来れば案内はもう必要ないとまずスザクが帰された。さらにクラリスとの会話は余人に聞かせてよいものにはならないと予想されるため、室内に入る人間をユーフェミアとジェレミアの二人に絞る。残りの人員は部屋から少し離れた地点で待機することとなった。
一歩踏み出し、軽くドアをノックする。
扉越しのくぐもった声で「どうぞ」と小さく返ってきたとき、ジェレミアは自分の体がびくりと震えるのを感じた。
隣に立つユーフェミアが頷く。
ノブに手を掛け、ジェレミアは扉を開いた。
晴れた屋外から日の光が降り注ぐ部屋。
そこにあったのは、間違えようのない、夢にまで見た少女の姿だった。
アッシュブロンドをした彼女は、しかし部屋に入ったジェレミアを目にして、ひどくうろたえた様子を見せた。アメジスト色の瞳を大きく見開き、何かを言おうとするかのように口を開いて、結局何も言わずに唇を閉じる。
そうして数秒ほど無言の時間が過ぎると、少女は一つ息を吐き、ユーフェミアに視線を移した。
「……お久しぶりです、ユーフェミア殿下。こちらのお方は?」
「久しぶりです、クラリス。スザクから聞いていませんでした?」
「いえ、全く。おそらく私が一方的に存じ上げているお方だと思いますが、お名前をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
少女が問う。
ユーフェミアに視線で促され、ジェレミアは自ら名乗ることを許されたのだと理解した。
一歩前へ進み、片膝をつく形でひざまずく。
「私はジェレミア・ゴットバルトと申す者。皇帝陛下より辺境伯の地位を賜っております」
おもてを上げ、少女の顔を見る。そこにはもう狼狽の色は浮かんでいない。心中を推し量ることは不可能ながら、表面上は凛とした貴族の表情になっている。
向けられる静謐なまなざしに喜びを覚えながら、ジェレミアは情動に突き動かされるように、想いを言葉に乗せた。
「無礼とは存じますが、私にも、貴女のお名前をお聞かせ願えますか」
◆◇◆◇◆
クラブハウスの一室でジェレミアが膝をつく――。
その様子を、ディートハルトは離れた位置からはっきりと目撃した。
オペラグラスを目から離す。
運動場のほうでイベントをやっている今、クラブハウスの周辺には全く人の気配がない。ゆえにこそディートハルトは近くで聞き耳を立てる作戦を断念したのだが、結果的には正解だった。
人の目が無いと安心したのか、ジェレミアは決定的な行動を取った。
大貴族であるあの男がひざまずいたのである。
それはしばらく前から気に掛けてきたクラリス・アーベントロートという少女の正体に迫るための、あまりにも巨大なヒントだった。
(辺境伯のジェレミアが臣下の礼を取らねばならない相手。そんな人間などごく限られている――!)
会話が聞こえない以上、もう重要な情報は出揃ったとみなして構うまい。
オペラグラスをしまい、ディートハルトは中継車の停めてある校門へと走った。
乱暴にドアを開けて無人の車内に入り、私物のノートパソコンを引っ張り出す。探すのは皇族のデータベースだ。
后だけで三桁に上るブリタニア皇族のデータなど、報道畑のディートハルトといえど全ては把握していない。しかしここにならあるはずだった。
はやる気持ちを抑えつつ調べることしばし、ついにディートハルトの目の前に求めていた情報が現れた。
我知らず口元に笑みが浮かぶ。
(クラリス・ヴィ・ブリタニア、八年前から遊学中とあるが――。なるほど、そうか……! そういうことだったのか!)
親衛隊もなく、軍の庇護もなく、それでいて皇位継承権を所有しているブリタニアの皇女。
これは黒の騎士団にとっての強力な武器となる。
(なんという……なんという逸材だ!)
ディートハルトは抑えきれぬ感情に任せ、哄笑を上げた。
◆◇◆◇◆
「無礼とは存じますが、私にも、貴女のお名前をお聞かせ願えますか」
そう告げたジェレミアは、アッシュブロンドの少女の前で片膝をついたまま、やってくる返答を待った。
無言でこちらを見つめるアメジストの双眸には一種異様な迫力があり、それは何も言わずとも、同じ瞳の色をしたシャルル皇帝の眼力を髣髴とさせる。
言葉でも事前情報でもなく、今のジェレミアは実感として彼女が何たるかを理解していた。
そして少女はおもむろに桜色の唇を開き、ゆっくりとその名を口にした。
「――クラリス・ヴィ・ブリタニア」
瞬間、ジェレミアはかつて味わったことのない至福を全身に感じた。脳天から爪先まで、細胞の全てが喜びに打ち震えている。
「本当に――本当に、生きておられた」
かすれた声がのどから漏れた。
この感動をなんと言ったら良いのだろうか。ジェレミアには到底表現できそうもない圧倒的な歓喜である。
意識しないうちに口から言葉があふれていた。
「クラリス殿下、私を御身のそばに置いてはいただけないでしょうか」
「どういう意味かしら」
クラリスは静かに聞き返す。
突然にこんな願いを口にするのは途轍もない不敬である。困惑させてしまうのも当然だ。
わかっていて、ジェレミアは止められなかった。
八年も想い続けて来た相手なのだ。この機会を逃せばいつになるかもわからない。ことによっては一生届かないかもしれない。
それだけは許せなかった。
もはや手の届かない、マリアンヌ妃の面影が心に残っているからこそ。だからこそ、ジェレミアはこの機を逃してはならぬと強く思う。
「不遜を承知で申し上げます」
気を抜けば溢れそうになる涙を気力で封じ込め、ジェレミアは正面に立つアッシュブロンドの少女を鋭いまなざしで見上げた。
神聖ブリタニア帝国の第三皇女――クラリス・ヴィ・ブリタニアを。
「このジェレミア・ゴットバルトを――貴女の騎士にしていただきたいのです」