「ちょっと見てよ、毒ガステロだって」
「うっそ、マジ!?」
「大丈夫かなぁ。イレブンって何するかわかんないし、学生だから大丈夫ーなんて言ってらんないかも。ウチの学校まで狙われたりして」
「怖いこと言わないでよ」
「だって毒ガスだよ毒ガス。シャレになんないって。シンジュクなんて三十分と離れてないのに」
興味九割、怯え一割。
ノートパソコンに群がって騒ぐ学生たちを横目に教室を出ながら、そんな物だろうとルルーシュ・ランペルージは思う。
事件のあったシンジュクはゲットーであり、ここアッシュフォード学園はトウキョウ租界だ。被占領地の人民が暮らす復興途中の地域と、植民地支配の拠点とするべく今もなお大量の資金が投入されている最先進の街。
それはとりもなおさず、自分たちブリタニア人と『日本人』の名を奪われた被支配人民――イレブンとの間にまたがる深い差を示している。
容易には突き崩せない壁だ。だが――。
これを考えるたびに、ルルーシュの頭には目と足の不自由な最愛の妹の笑顔と、殺された母の面影が浮かぶ。
そしてもう一人、幼い日に引き離された行方知れずの妹の姿。
幸せに暮らしていた一家は、八年前、九歳の時に離散を強いられた。
母マリアンヌは暗殺され、後ろ盾を失った皇子と皇女――ルルーシュとナナリーは外交の道具として、当時はまだ独立国であった日本へと送られた。人質である。
そこでの暮らしはそう悪くはなかったと、今になってみれば思う。生活レベルこそ一般庶民並みかそれ以下に落ちたが、親友と呼べる存在もできたし、何よりも『安全』を盲信することができた。
人質というのは無事であるからこそ人質として機能する。だからこそ、滅多なことでもない限りはそこまでの危険は無いのだろうと無邪気に考えられていた。
預けられた先は日本国首相の家であったのだが、彼の人柄を見るに『滅多なこと』など起こりそうもなかったのだ。
しかしその予想は最悪の形で裏切られることとなった。
人質として子供を預けておきながら、他ならぬ実の父が戦争を仕掛けたのだ。
要は、殺すつもりだったのだろう。普通に判断すればそうだ。
たとえそうでなくとも、父皇帝にとってルルーシュたちの命がさしたる価値を持たないのは間違いない。
ルルーシュとナナリーは何とか生き延びたが、暗殺を回避するため、あるいは政治の道具として本国に送還される未来を避けるために、公的には死亡扱いとならざるを得なかった。現在の姓ランペルージは偽の家名である。本当の素性を知っているのは匿ってくれたアッシュフォード家のみ。
他に漏れればおそらく現在の生活は崩壊する。
もはやルルーシュは明日という日が必ず無事にやってくるなどとは微塵も信じていなかった。
そして双子の妹、クラリス。
彼女に至っては日本に送られて以降一度も会っていない。消息は知らされておらず、名前すらも聞かなくなった。
考えたくはないが、自分たちが殺されかけたのだ。そういう可能性は十分にあるのだろう。
だから、誓ったのだ。
ナナリーが幸せに暮らせる世界を作るために。母と妹の仇を討つために。
――ブリタニアをぶっ壊すと。
そのための力は、既に手にした。
ルルーシュは心の中で不敵に笑う。
これが笑わずにいられようか。少し前までその誓いはただの妄想でしかなかったというのに。
全世界の三分の一を支配するブリタニア帝国という現実は、あまりにも高く、険しい。だというのに、今なら手が届くのだ。
いかなる相手にでも命令を下せる絶対遵守の力――ギアス。
その有用性は証明済みだ。厳重な軍の警備を掻い潜り、なおかつ誰にも悟らせず、エリア11の総督であるクロヴィス皇子を殺害することができたのだから。
自分の知略とこの力があれば、万の策でも練ってみせよう。
与えてくれた緑髪の少女には全身全霊で感謝したいところだが、彼女は目の前で眉間を撃ち抜かれている。生きているはずがない。
契約とやらを果たせず終いになってしまったのは申し訳ないが、せいぜい有効活用して供養にしてやるしかあるまい。
(しかし、シンジュクの事件はテロとだけ報道されていた。俺はたしかにこの手でクロヴィスを殺したのに、その情報が完璧に伏せられている。やつらの意図は何だ。考えられる展開としては、まず――。次に――)
状況整理と計画立案を同時に行いながら、ルルーシュは生徒会室へと急ぐ。
事を起こすにしても、学生の立場を捨てる気はルルーシュには無い。日常が守られてこそ、ナナリーは心安らかに過ごせるのだろうから。
目的地に着いて扉を開けると、金髪の少女が仁王立ちで待ち構えていた。アッシュフォード学園理事長の孫、生徒会長のミレイ・アッシュフォードだ。
「おっそーい! 遅刻よ副会長! 罰としてキミには予算案一人作成の刑だ!」
丸めた紙束がビシリと突きつけられる。
「終わりませんよ、それじゃあ。そんな妙な刑罰を言い渡してる暇があったら会長も作業した方がいいんじゃないですか?」
「なーにを他人事のように。ルルーシュが居ないと終わるものも終わらないって言ってるの。反省しなさい」
「わかってますよ。反省はしてます。それより資料を雑に扱うのはやめてください」
太い棒状にされた紙束を受け取れば、案の定予算関係の書類だ。満足げにうなずくミレイに苦笑を漏らし、ルルーシュはテーブルに着いた。
「と、いうことでー。さぁ諸君、有能なる我らが副会長どのも参ったことだし、馬車馬のようにこき使って何としてでも今日中に終わらせるのだ! ガーッツ!」
窓の外には夕焼けに染まる空。あまり熱心でない部活の生徒ならそろそろ帰り始める時間帯だ。
生徒会室の中ではミレイが椅子から立ち上がり、大きく伸びをしていた。
「ふー、暗くなる前に終わって良かったわねー」
「ガッツの魔法の効果でしょうか」
「たまにはいいこと言うじゃないリヴァル。ガッツの魔法に掛かれば何だって出来ちゃうんだから」
青髪の少年に笑いかけ、伸びを終了。ミレイはテーブルに両手をつくと、生徒会メンバーの顔を順に見回した。
「さて皆、頑張ったキミたちにはご褒美があります」
「ご褒美?」
「そ。面倒なお仕事も終わったし、パーッと楽しいトークのテーマでも提供しようかと思ってねー。今度本国から編入生が来るんだけど、その情報の横流し」
「そりゃご褒美じゃなくて自分が話したいだけでしょう」
「何か言ったかなーリヴァル君。情報秘匿しちゃうわよ」
作成した書類の最終確認をしていたルルーシュは、耳に飛び込んできた意外な単語に顔を上げた。
「本国からですか? この時期に?」
学期途中なのもそうだが、それ以前に治安の問題がある。徐々に摘発されてきているとはいえ、イレブンのテロリストはいまだ活発に活動しているのだ。細かいところまでは無理としても、占領地の大まかな状況くらい本国の臣民にも伝わっているだろうに。
「正確にはEUの方で生活してたらしいんだけどね。そっちは別邸っていうか、実家は本国みたい。ちなみにウチへは寮じゃなくて自宅から通学の予定」
「EUに別邸を持っていてエリア11にも家ですか? お金持ちですね」
「そうよー、子爵令嬢だもん。正真正銘のお嬢様。そしてルルーシュたちのクラスに編入予定。どう、気になる? シャーリー」
「ど、どうしてそこで私に……?」
話を振られた少女はほのかに頬を染め、ちらりとルルーシュを盗み見る。反応を確認したミレイはニヤニヤと続けた。
「やっぱり気になるよねー。写真見たわよ、超美人」
「ど、どれくらいですか?」
「ルルーシュくらい」
「えーっ!?」
大声を上げてシャーリーが立ち上がる。オレンジ色の長髪がばさりと舞った。しかし彼女の唐突なオーバーアクションはいつものこと。誰も突っ込まない。
「何でそこで俺を引き合いに出すんですか。女子生徒でしょう」
「そりゃあルル君が大量の女性ファンを抱える学園一の美人さんだからでしょう。ねぇ?」
「うぅぅぅ」
意味ありげなミレイの視線を受けながら、シャーリーはよろよろと椅子に座った。
「それで、どこの家なんですか? 俺たちも知ってるようなところ?」
「なぁにー? リヴァルも気になるの? それがねぇ、聞いて驚きなさい、なんとアーベントロート」
「えぇ!? アーベントロートって、あのアーベントロート?」
「そう。そのアーベントロート」
「有名なの? ミレイちゃん」
パソコンデスクについていた少女が控えめな声を出した。テーブルから少々離れたその場所は彼女の定位置である。生徒会室唯一のデスクトップパソコンはもはやほとんど占有物だ。彼女はいつもそこでマイナーな科学の研究をしている。
「ニーナは知らない? 第二次太平洋戦争で一攫千金を成し遂げたってので一躍名前が知られるようになったんだけど。まぁ一般常識かって聞かれるとそこまでではないわね」
「初めて聞いたよ。一攫千金って、どうやって?」
「株よ株。今軍で正式採用されてるナイトメアの開発に関係してる会社に、ありったけの資金を投下したの」
「そっか、ナイトメア法の成立って第二次太平洋戦争の後だから……」
「そうそう。当時は民間でも開発に参加できたのよねー。そんでもってアーベントロートは取得した株をナイトメア法案が提出される前に売っ払う。あんまり的確だったから一時はインサイダーの疑いも持たれたみたいだけど、結果はシロ。まぁそれまでは落ち目だったから、イチかバチかの大博打って感じだったんでしょうね」
そこまで話すとミレイは渋い顔になった。
「あーん、私もやろうかしら。このままじゃ政略結婚まっしぐらよ」
どうやら家の事情に思い当たったらしい。
アッシュフォード家はアーベントロートと対照的に、ブリタニアの日本侵攻の頃から凋落を迎えて始めている。開発を主導していたナイトメアフレームが採用されず、加えてパーティー好きな当主の浪費癖がたたったのだとミレイは過去に話していた。
「あーーーっと、そういや博打って言えばさ、ルルーシュはやんないの、株? お前なら絶対成功すると思うんだけど」
リヴァルが強引に話の舵を切る。
彼のミレイへの好意はルルーシュの目から見るとかなりあからさまだった。見合いや結婚の話題が出るたびに動揺するのだ。
「別に俺はお金が欲しくて賭けチェスをやってたわけじゃないんだよ」
「うわ、成功できるのは否定しないのか。すごいご自信で」
「お前が言い出したんだろ、リヴァル」
「スリルが欲しいとか言うの? いい加減やめなよルル。痛い目にあってからじゃ遅いんだから」
あまり褒められた趣味でないのはルルーシュも自覚している。少なくともシャーリーが咎めるのも無理は無いと思えるほどには。
それでも、他にやりようがなかったのだ。
自分たち家族を破滅に追い込んだブリタニアへの憤り。胸の奥で常にくすぶり続けている感情をうまく発散する方法が見つからなかった。
巨大な帝国に喧嘩を売れるだけの力を持っていなかったから、貴族階級の馬鹿どもをやり込めて誤魔化すしかなかったのだ。
だがしかし。
「やめたよ、もう」
「あれ? そうなの?」
「ああ。もっと歯ごたえのあるものが見つかったからね」
そう、今のルルーシュの手にはブリタニアを打倒するための手段――ギアスがある。
カジノに行くこともチェスの代打ちを引き受けることも無くなるのだろう。真に戦うべき相手と向き合えるようになったのだから。
◆◇◆◇◆
空港に着陸した自家用機から一人の少女が降りてくる。
白いワンピースのドレスに同色のつば広帽子。サングラスに隠されて双眸は窺えないが、露わになっている部分だけでも造作の美しさは疑いようがない。年の頃はおそらく十七、八であろう。ウェーブの掛かったアッシュブロンドが風に煽られてきらきらと陽光を反射していた。
「ここが――日本」
感慨深げに呟き、少女は黒いガラス越しに周囲の風景を見渡す。
トウキョウ租界に建設された民間のエアポート。周りには政庁を始めとする巨大なビル郡が立ち並び、その先には青く広がる空がある。
「そう……。これが東京――日本なのね」
出迎えに来ていた数人の中から一人が歩み出る。がっしりとした体に黒いスーツを着こんだ壮年の男だ。
「『エリア11』へようこそ、お嬢様。あまり迂闊なことを仰らないでください。主義者だと思われますよ」
「あぁ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの」
「承知いたしております。わたくしはエリア11でのお嬢様の警護を担当いたします、ジェイラス・バーンズと申します」
男は片胸に手を当て、軽く頭を下げる。
「ありがとう。よろしく頼むわ」
「それでは早速エリア11の別邸をご確認なさいますか? お荷物は別に届けさせますので、何かご予定があればそちらでも構いませんが」
少女は答えず、黙ってサングラスを取る。長いまつげに縁取られたアメジストの瞳が眩しそうに細められた。
「空の色っていうのは、変わらないわね」
「ええ、エリア11は環境にも十分に気を配っておりまして、空気の質は本国とも変わりません」
「そんなことを言っているんじゃないの。そういう視点も悪くないとは思うけれど。それはともかく、次の予定の話だったわね」
「はい。観光でしたら詳しい者もおります。なんなりとお申し付けください」
少女は少し迷う素振りを見せてから、バーンズを振り返った。
「なら、できればゲットーのほうを視察したいのだけれど、案内をお願いしてもいいかしら」
軽やかに告げられた言葉に、バーンズは眉をひそめる。
「ゲットー、ですか? お嬢様、汚らしいイレブンの居住区などわざわざご覧にならずとも。我らブリタニア人の暮らす租界こそが経済の中心です」
「本気で言っているの?」
「は?」
「違うわよね? まさか人口の大半を占めるナンバーズを抜きに植民地の経済を語れると本気で思っているの?」
「それは……」
わずかに狼狽を滲ませる年長の男を、少女は冷ややかに見つめた。
「聞いていないかしら。私は嘘が嫌いなの。警護する自信が無いのなら正直にそう言いなさい。今すぐ解雇してあげるから。自信があるのなら私をゲットーに連れて行きなさい。二択よ」
バーンズの喉がごくりと鳴った。清楚な令嬢然とした出で立ちでありながら、鋭い眼差しはこの少女の内面が決して見た目どおりでないことを否応無しに知らしめる。
「もう一度聞くわ。できればゲットーのほうを視察したいのだけれど、案内をお願いしてもいいかしら」
バーンズはプロである。回答は一つ以外にあり得なかった。
「お任せください――クラリスお嬢様」
租界の外縁へと向かう車中で、バーンズは隣に座る少女の様子を盗み見た。
備え付けられたテレビは報道番組を垂れ流していたが、視聴している素振りはない。窓の外には初めて降り立ったエリアの見慣れぬ風景が広がっているのだから、そちらに注意が向くのは当然といえば当然か。
ハイスクールに通う年齢であることもあってさすがに無邪気とまでは表現しがたいものの、綿密な都市計画の上に開発された近代的な街並みを眺める表情には、歳相応の豊かな感受性が覗いている。よこしまな感情など無しに、純粋に、綺麗で可愛らしい娘だと思う。
だがその本質がいかなる形をしているのか、バーンズは掴みかねていた。
アーベントロート家と契約して一人娘の警護を頼まれた際、依頼人からの資料のほかに、個人的にも可能な限りの情報を収集した。
クラリス・アーベントロート。十七歳。
エリア11に来る以前はEUにて生活。アッシュフォード学園に編入予定。学力はきわめて高いが、過去、教育機関には一切通っていない。学問、技芸は全て両親と家庭教師からの教授によるもの。
絵に描いたような箱入りぶりである。
ほとんど家から出たこともないような貴族の令嬢であるはずなのに、先ほど一瞬見せた眼力は明らかにその経歴を裏切っていた。
おそらく勘違いではないのだろうとバーンズは睨む。
アーベントロートは少し前までは明らかに没落の一途を辿っている家だった。それを立て直したのが投資家として名を馳せる現当主、つまりは護衛対象の父親だ。世間的にはそう言われている。
しかし、昔から彼を知る人間は――生活の拠点がEUに移っていたためそれほど人数は確保できなかったが――口を揃えて『あの男にそんな能力はない』と断言する。その評価と現在の隆盛振りとの落差を埋める存在こそがクラリス・アーベントロートなのだと、ごく一部では噂されていた。
偉大な投資家である父から手ほどきを受けているというのが表向きの情報だったが、逆だったとしても何ら不思議はない。
会ってまだ半日と経っていないこの少女には、そう感じさせる何かがたしかにあった。
「バーンズ、貴方はこれ、どう思う?」
いつの間にかクラリスの視線は車内に移動していた。その先にはテレビの画面がある。バーンズは促されるまま液晶のディスプレイを確認した。
「……テロですか」
シンジュクゲットーで毒ガステロがあったのだという。鎮圧作戦はナイトメアを大量投入せねばならぬほどの規模となり、死者数は稀に見る数に上ったとのことだった。
「痛ましい事件ですね」
「あぁ、そうなるわよね。私でも貴方の立場ならきっとそう答えるわ。ごめんなさい、聞き方を間違えたみたい」
クラリスはさして申し訳なさそうもなく淡々と言う。目は相変わらず画面の中のニューススタジオに向けられていた。
「エリア11が領土に組み入れられてから七年。なんで毒ガスなんて強力な武器が今になって出てくるんだと思う?」
報道では毒ガスの出所は明らかにされていなかった。
しかし単なるテロリストにそんなものを開発する力は無いだろうというのがバーンズの認識だ。
「終戦時から隠し持っていたのでは? おいそれと使えるものでもありませんし」
「だとして――いえ、だからこそ、かしら――そんな切り札を何の声明も無しに持ち出すもの?」
「言われてみれば、たしかに不自然ではありますね。ですが、あり得ないというほどでもないと思います」
「そうね。でも実際に起こった出来事というのは、突き詰めれば不自然ではなくなるはずなのよ。原因の存在しない事象なんてあり得ないんだから。もし不自然と感じるのだとしたら、観測者の視点がずれているか、情報が足りていないかのどちらかだわ」
「そう――なるのでしょうね」
少し考えて、バーンズは頷く。
「観測者の視点が正しく、情報も十分に揃っている状況。それでもなお不自然なのだとしたら、それは『嘘』よ。視点が正しいと思い込まされている。情報が十分だと思い込まされている。そういうこと」
クラリスは無表情にテレビに目を落としている。画面には凶悪な兵器を持ち出したイレブンどもを野蛮人だと評するコメンテーターが映し出されていた。
「報道というのは視点を限定できるし、公開する情報も選択できる。嘘だと思われたくないのなら、できる限り公明正大に行うべきだわ」
「この報道は、そうではないと?」
「どうかしら。ただ、私の感覚だと、毒ガステロの件は嘘が含まれていると考えた方が、不自然が少ないのよね」
「お嬢様は、これが誘導だと仰るのですか?」
「国家批判をするつもりは無いわ。もしそうだったとしても終戦からまだ七年しか経っていない占領地のことだもの、当然の判断でしょう。もっと単純な話よ」
「と、仰いますと?」
クラリスはくすりとかすかに口の端を上げる。
「堂々とした嘘ってあんまり気付かれないものねってこと」
結論を述べられたが、バーンズには今ひとつ理解できなかった。言葉の意味自体はわかるのだが、それが何を意図して出されたものなのかがよくわからない。
結果として、バーンズは返事をできずに黙り込むことになる。
「ゲットー行きはまた今度にしましょう。毒ガスなんて出されたら守られようも無いわ」
「では、家のほうに?」
「そうね。明日は学校にお呼ばれしているし、今日は大人しく休むことにするわ」
「かしこまりました」
わけのわからない沈黙から逃れられて、バーンズはひそかに安堵していた。
◆◇◆◇◆
カーン、カーン――。
終業のベルが鳴り響き、学生たちは帰り支度を始める。
自宅や寮に帰る。部活に向かう。街へ繰り出す。放課を迎えた学生の権利として用意された様々な選択肢の中で、この日のルルーシュが選んだ行動はかなりの注目を浴びるものだった。
「カレンさん。ちょっと付き合ってくれないかな」
まだ人が残っている教室で女子生徒に誘いを掛ける。
しかもその相手が、容姿端麗、成績優秀、病弱であることを除けばおよそ欠点の見当たらないパーフェクトな貴族令嬢、カレン・シュタットフェルトとなれば、注視を受けるのは自明のこと。
「うん。誘ってくれると思ってた」
などという思わせぶりな答えが返ってきたものだから、周囲のテンションは最高潮だ。キャーキャーと黄色い声を浴びながらカレンは席から立ち上がる。
「じゃ、行こうか」
外野のざわめきを無視して、ルルーシュはカレンの手を引いた。
連れてきた先は生徒会専用のクラブハウス、そのホールだった。舞踏会などもできるようにと広く作られた空間に、たったの二人である。寒々しい空気がルルーシュとカレンを包んでいた。
病弱ということで学期が始まって以来最近まで一度も学校に来ていなかったこのカレンというクラスメイトを、ルルーシュはひどく警戒していた。
ギアスの特性を理解していなかったためにミスを犯し、自分の立場を危うくしかねない失言をしてしまったのだ。今はまだ疑念の域に留まっているだろうが、知られてはまずい情報を一部匂わせてしまったのである。
それは、カレンがレジスタンスとしてシンジュクのテロに参加していた事実をルルーシュが把握しているということ。
カレンは決して体の弱いお嬢様などではない。ブリタニア軍から奪取したナイトメアフレームを巧みに操り、目覚ましい戦果を上げていた。
――素性を隠して通信で指示を与えていた、他ならぬルルーシュの指揮によって。
あのときの謎の指揮官をカレンは探しているだろう。もし自分だと露見すれば、ルルーシュの日常は崩壊する。
たとえそれがばれなかったとしても、テロリストであるカレンの正体を知っていると確信されてしまえば、口封じに消されると見て間違いあるまい。
ゆえに、これを正しくない情報だと思い込ませなければならない。真実を嘘にしなければならない。
自分は彼女をただのクラスメイトとしか認識していない。そう思わせるのだ。
ギアスは同じ相手に二度は掛けられないらしく、一度使ってしまったカレンを相手に超常の力に頼るのはもはや不可能。
だが、策は練ってある。仕込みも済んだ。だからこそのこのシチュエーション。二人きりの状況が作り出せたのなら後は合図を送るだけ。
それでギアスを仕掛けたメイド――咲世子が動き、自分への疑惑は晴れる。
(チェックだ。カレン・シュタットフェルト!)
勝利を確信したルルーシュが一手を指そうとしたそのとき、バタンと音を立ててキッチンへと続く扉が開かれた。
「よーし、食べ物できたから、そろそろ始めよっか」
現れたのは様々な料理の載ったワゴンを押したミレイである。その後ろからは生徒会のメンバーたちが続いてホールに入ってくる。シャーリー、リヴァル、ニーナ。
緊迫した空気を吹き散らされて固まってしまったルルーシュとカレンの前に、次々と皿が並べられていく。
「な、何ですか、これ?」
「あれ? 知ってて連れてきてくれたんじゃなかったの? カレンさんの歓迎パーティー。お爺様から頼まれちゃってねー。カレンさん体弱くて部活できないだろうから、生徒会に入れてあげてって」
全く知らなかった。知らなかったのだが、それを正直に話してしまっては、ではなぜカレンをここに連れ込んだのかという話になってしまう。
「あ、いえ、こんなに気合を入れてやるだなんて思ってなくて。あんまり豪勢な料理が出てきたものですから」
「シャンパンもあるのよー。後でみんなでやりましょ」
「生徒会自らそれはまずいんじゃ……?」
「固いこと言いっこなし。ニーナが嫌って言うなら一人で控えてなさい。私たちは飲んじゃうから」
にわかに活気付きはじめたホールで、カレンは流されるように初顔合わせになるメンバーと挨拶を交わし始めていた。ここからさらに連れ出そうとするのはあまりにも不審だ。
(仕方がない。チャンスを窺うか。どうせ人のいる前ではあっちも行動を起こせないんだ。何も急ぐ必要はない)
ルルーシュは動揺を宥めて準備に加わる。
料理の大皿がテーブルに乗り終わると、次いで取り皿のタワーが置かれた。さらにシャンパングラスが運ばれてクリスタルの輝きを添える。
言ったときは口から出任せだったが、出来上がってみれば予想以上に豪勢なパーティー会場が完成していた。
「すみません皆さん、お手伝いできなくって」
全ての用意が整った頃、電動車椅子の静かな駆動音が響いた。最愛の妹の来場を知ると、ルルーシュの頬には自然と笑みが浮かぶ。
「気にすることないよ、ナナリー。俺だって同じさ」
「同じじゃないわよ。ナナリーはゲストの持て成しをしてたんだから。ルルーシュと違って一番の大任を果たしたのよん」
「ゲスト? カレンさんの他にも誰かいるんですか?」
「あ、そっちは知らなかった? こないだ話した編入生。生徒会に入りたいってのは前から聞いてて。授業を受けに来るのはまだ先なんだけど、カレンさんの歓迎会を計画しちゃってたから、じゃあ一緒にやっちゃえーってね。人数多い方が楽しいでしょ? なんなら二回やってもいいんだし」
「そんなにやってたら家の傾きがまた――」
軽口を叩こうとしていたルルーシュの唇が唐突に止まる。妹の後方に目をやった途端、口が動かなくなったのだ。
――まさか。なぜ。いや、その前に、本当に?
自問の必要など無い。わかっている。それでもルルーシュはこれが現実なのかと自らに問いかけずにはいられなかった。
八年だ。無論相応に成長して外見は変わっている。だとしても、自分が彼女を見間違えるはずが無い。
「初めまして、ルルーシュ・ランペルージ君。クラリス・アーベントロートです。よろしくね」
大きく開かれたルルーシュの瞳には、ナナリーとよく似たアッシュブロンドの少女が写りこんでいた。