豪奢なベッドに腰掛け、ルルーシュは項垂れていた。アリエスの離宮を出て以来馴染みのなくなった天蓋が、うつむきがちの顔に陰鬱な影を落としていた。
絨毯の敷かれた広い部屋は、アーベントロート邸の客室である。頭上に設置された豪勢な照明器具の明かりはひどく細い。客人の心情を表すかのように、室内は寒々しい静寂に支配されていた。
「クラリス、俺は――」
薄闇の中、ルルーシュがポツリと呟く。弱弱しい声だった。
言うことが終わったのか、あるいは元から中身のある話などするつもりが無かったのか、黒髪の少年はそれ以上口を開こうとしない。
C.C.は壁に寄りかかりながら、その様を眺めていた。
監禁場所から脱出した後、ルルーシュとナナリーはC.C.と共にクラリスの家に招かれた。あそこで別れて各々の家に戻るのは好ましくないだろうとの彼女の判断があったのだ。色々な――本当に色々な――ことが起きたのだから、と。
誘拐の被害にあったナナリーは、口では気丈に「平気です」と言っていたものの、本心は不安がっているに違いあるまいし、兄のルルーシュは目に見えてわかるほど憔悴していた。さして動揺の無いC.C.は元から気の利いた慰めなど口にできるキャラではないから、この三人を一まとめに放置するのはクラリスからしてみれば不安だっただろう。
そしてその提案をした当のクラリスにしても、C.C.の目からはどこかがおかしいように映っていた。
具体的にどこがと指摘できるほどではない。ただ、たしかに何らかの違和感があった。口調や表情、声の調子などの表面的なところではなく、纏う空気と言うのか、そういった漠然とした何か――名状しがたい感覚的な部分に変化が生じているように感じられたのだ。
とは言え、そういった深い話をナナリーの前ですることは出来ず、疑問を覚えつつもC.C.はおとなしくクラリスの邸宅に入った。
そこから大体一時間ほどが過ぎている。
ルルーシュは、ナナリーをクラリスに預けて独りでバスルームを借り、その後誘われた夕食は断って――妹と同席できるケースとしては非常に珍しいことだ――、宛がわれたこの部屋にふらふらとやってきた。
契約者の異常をいち早く察知していたC.C.は先に室内で待っていたのだが、ルルーシュはそれにも気づかない様子でベッドにへたり込み、以来ずっとこの調子である。
(――これは相当に参っているな。シャーリーの父親のとき以上か?)
無限の時を生きる魔女にとって、一二時間待つ程度のことにはさほどの苦は無い。ただ、消沈して物言わぬ相手を眺めるだけという行為はあまり愉快とは言えなかった。それがおのれの運命を預けるべき人間の姿だとするならなおのこと。
「ルルーシュ、何があった?」
おもてを伏せた少年の頭頂部を見つめながら、C.C.は訊いた。
「話してみろ。今回の件はマオに止めをさせなかった私にも原因がある」
返答はすぐにはやってこなかった。しかし『黙れ』とも『出て行け』とも言わないところをみると、本心では吐き出したいと思っているのだろう。
プライドが高すぎるのも面倒なものだな、と益体もないことを考えたとき、弱りきった声が耳に届いた。
「――クラリスに、ギアスを掛けた」
「……なるほど」
C.C.はルルーシュが親しい人間にギアスを使うのを極端に厭っていることを知っている。ならばこれは当然か、と納得しそうになって、思いとどまった。
違う。
それだけではない。
ルルーシュの精神は決して脆弱ではない。一時的に躓くことはあってもそこから立ち上がり前へと進める人間だ。世の中が思い通りにならないとき、世のあり方を嘆くのではなく、自分の無力を責め、悔い、やがて自己に打ち勝って世界を変革しようと考えるのがこの少年である。
現実に打ちのめされたとき、ルルーシュは自分の中でおのれの弱さへの苛立ち、怒り――そういった激情を燃やす。その熱で折れそうになる心を磨き上げるのだ。
安易に他人に頼らないからこその孤高なる強靭さ。ギアスに打ち勝つ王たるものの資質である。
だというのに、今のルルーシュには内にくすぶるものが見えない。熱がない。
この感触をC.C.はよく知っている。
自分の一番身近にあるもの。あるいはクラリスが頑なに抱えているもの。そしてルルーシュからは最も縁遠かったはずのもの。
死の香りである。
根の深さを感じ取ってC.C.はわずかに眼差しを鋭くした。
「クラリスにギアスを掛けたと言ったな。何を命じた?」
「……『生きろ』と。そう命じた」
思わず絶句する。
それはクラリスの意思を尊重したいのであれば最も掛けてはならないギアスだ。あの屈折した少女は常におのれを『死んでいる』と認識していたのだから。
生き方が百八十度変わっても不思議は無い。
いや、変わったのだろう。だからこそルルーシュはここまで悄然としているのだ。犯した禁忌の代価があまりに大きかったからこそ。
言葉を返せずにいるC.C.の方を見ないまま、顔を俯かせたルルーシュはぽつぽつと話した。
「ナナリーの命を交換条件に、マオがクラリスに自殺を迫ってな。それで、あいつが死のうとして――」
「……そうか」
「知っていたのか? あいつが自分を死人と考えていたことを」
「ああ」
C.C.は短く返した。いまさら誤魔化しても意味などない。
愛する妹に関する隠し事である。激高するかもしれないとC.C.は少々気構えをする。しかしその肩をすかすように、ルルーシュは淡々と言った。
「……俺は知らなかったよ。だが、そんなのが言い訳にならないってことぐらいわかってる」
少年の手のひらが拳の形を作る。
「そう、わかっていた。わかっていたんだ、これがやばい力だってことは。わかった上で、俺はお前と契約した」
握り締めた手にぎしりと力が入った。
そこに込められているのは後悔の情か、それとも憤怒の念か。以前のルルーシュならば確実に怒りが勝っていたはずだ。
それが察せていたからこそ、C.C.はこれまで打ちひしがれる少年に対して嘲るような態度が取れてきたのだ。それが奮起を促す材料になると確信できていたから。
(だが、今のこいつは――)
C.C.の脳裏に、つい先ほどクラリスから死亡を告げられた、かつての契約者の顔がよぎる。振り払うように一度目を伏せ、壁から背を離した。静かに歩みを進め、ベッドに腰掛ける少年の前にそっと立つ。
「……ルルーシュ、慰めて欲しいのか?」
口からこぼれ出たのは、蕩けるようなやさしい口調だった。数多の男を虜にした魔性の少女の甘い声音。
そういえば、マオにもこうやって話し掛けていたものだった――。
無意識の感傷が込み上げ、その段になってC.C.はようやくルルーシュの評価をひどく下げてしまっている自分に気がついた。
もしこの扱いに反発しないようであれば、かなり危うい――いや、王の力に打ち勝つのは完全に不可能だろう。
「ふざけるな……」
C.C.の懸念を跳ね除けるように低い声を出し、ルルーシュはゆっくりと顔を上げた。露わになった目には剣呑な光が揺らめいている。
「人に縋ってどうする。――いや、縋ってどうにかなるなら喜んで縋ってやるさ。恥も外聞もプライドも全部まとめて捨ててやる。だが、そうじゃない。そんなもので解決する問題じゃない」
そこまで言い、ルルーシュは正面に立つ少女から視線を外した。
「……わからない。いくら考えてもわからないんだ。どうしたらいい? どうしたら償える?」
再び深く項垂れる。つややかな黒い前髪に隠されて、俯いた少年の顔は窺えない。しかし血を吐くように搾り出された声が、その心情を何よりも雄弁に語っていた。
「俺はクラリスを――今日まで生きていたあいつを、殺してしまったんだぞ……!」
◆◇◆◇◆
政庁の執務室。
コーネリア・リ・ブリタニアは重厚な趣のある大きな机について、パソコン上の画面を眺めていた。机を挟んだ先には、信頼厚い二人の側近の姿がある。
最近特によく開かれるようになった三人きりでの会議の風景である。
「昨日までに捕らえた黒の騎士団の関係者ですが、協力員が大多数、正式な団員でも末端の構成員が限界のようです。上部とは完全に情報が遮断されているようでして、確かなことは掴めませんでした」
手元の資料に目を落としながら、ギルフォードが歯切れよく報告する。喋り口のよさとは裏腹に、あまり芳しい情報ではない。
「結局、何も進んでおらぬということか」
「残念ながら」
自らに仕える騎士の落ち着いた声を聞き、コーネリアは疲れた息を吐いた。
「いかにゼロが有能であろうと、単独でここまでの組織力を作り上げるなどできるものではない。人材の面でも育ってきているのだろうな、黒の騎士団は」
「まだ慌てる時期ではありません。各地には所在の割れているテロ組織が多数あるのですから、まずはそこから潰していけば。いずれは繋がりも見えましょう」
ギルフォードの弁は正論であった。
黒の騎士団は次第に力を増してきており、既にエリア11最大の反ブリタニア勢力となってはいる。とは言っても、現状そこまで恐れるほどではないのだ。活動の中心がカントウブロックなのだから。
エリア11の植民地支配の中枢がトウキョウ租界なのは言うまでもない。黒の騎士団の勢力圏と一致してはいるものの、同時にブリタニア側で最も戦力の整っている地域でもある。攻め落とされることなどまずあり得ないのだ。
憂慮すべきは各地のテロ組織が黒の騎士団と連動していっせいに動くケースであった。そうなれば鎮圧は可能でも被害の拡大は免れない。エリア11の統治に長く尾を引く影響を残すだろう。
「やはり、全国の掃除を早急に済ませねばならぬな」
眼光を強めるコーネリアに、ダールトンがたしなめるように口にした。
「ですが姫様、急いてはなりませぬぞ」
「わかっている。我らは治安を安定させたいのであって、不当にイレブンを弾圧したいわけではないのだからな。何事も締め付けすぎれば噴出する。暴動に発展せぬよう節度は保つさ」
頷いて言ったコーネリアは、それから小さく苦笑した。
「それにしても、難しいものだな、過剰に戦力を残したエリアの統治というのは。早く綺麗にしてユフィに渡してやりたいものだが」
ユーフェミアはまだまだ知識も経験も足りず、決して評価の高い皇女ではないが、それはあくまで現在の話である。成長すれば悪くない統治者になれるとコーネリアは信じていた。姉の贔屓目も自覚はしていたが。
今は戦後の混乱が残っているために強力な指導力が求められているというだけで、本来何でも独りでできる必要などないのだ。不得手な面は得意な者に諮るなり任せるなりすればいいのだし、そういった人材は広いブリタニアを探せば豊富に発見できる。
ユーフェミアに必要なのは、自分に何ができて何ができないのかの把握と、人を見る目だ。
勉強しても訓練しても身につきにくい資質の部分――専横に走らない良識や、意志の強さなどは元から備わっている。特に意志の強さは折り紙つきだ。父皇帝に似たのだろう、こうと決めたら梃子でも動かない。
不測の事態の起こりえない情勢で経験を積むことができれば、必ずや皇族としての義務を果たせるだけの人物に育つだろう。
妹を想ってコーネリアが頬を緩めたとき、コンコンとノックの音が響いた。
「総督、ユーフェミアです」
「入れ」
扉を開いて執務机の前まで歩み出たユーフェミアは、きりっと引き締まった表情をしていた。ホテルジャックのときに何か思うところがあったのだろう、その直後からしばしば見られるようになった顔である。
こういうとき、ユーフェミアは決まって何かをさせてくれと言ってくる。内容は副総督として日常与えられている職務――エリア11ではコーネリアが名実共に強権を有しているから、それほど重要な仕事ではない――の範囲を超えた部分に手を出したいという申し入れであったり、政策に対するちょっとした意見の具申であったりと、日によって様々だ。
コーネリアはそれらを、失敗しても大きな問題にはならない範囲についてなら、ほとんど無条件に受け入れるようにしていた。結果としてはうまく行かないこともあるようだったが、それで構わないと考えている。全てがユーフェミアの糧となって、最終的にはプラスになるのだからと。何事も小さなことから始め、失敗しつつ学んでいくのが常道なのだ。
「今日は何だ? 副総督」
コーネリアが問いかけると、ユーフェミアはまっすぐな目で言った。
「先日、専任騎士のお話を伺いました。私も持つべきだと」
「その話か。この間したな」
コーネリアは首肯する。正式な協議はいずれするということで、雑談の話題に軽く提案だけしてあった。
「広く選んだ候補者のリストをくださるということでしたが、きっと私が見てもよくわからないと思うんです。ですから、いっそのこと総督に十名程度に絞っていただいて、その中から決めるようにさせてもらえないでしょうか」
「それは構わぬが、いいのか? お前の騎士なのだぞ?」
専任騎士は主の生命を一番に近い場所で守る人間である。命を預ける相手の選択にそこまで他人を交えさせていいのかと、コーネリアはかすかに目を見張った。
迷うようならこちらから推薦するつもりではいたとはいえ、当の本人から話があるとは思ってもみない。
「はい。その代わり、ローテーションでも構いませんので、候補者の方と数日間一緒に過ごさせていただけたらと。ギルフォード卿を見ていても感じるのですが、騎士というのは、全幅の信頼とともにそばに置いておける人でなければ駄目だと思うんです」
「ふむ、たしかにその通りだ」
「それで、よく考えてみたんですけど……」
ユーフェミアはそこで一度言葉を切り、凛とした眼差しで姉を見た。
「いくら有能でも――人柄もわからない方々から選ぶことは、私にはできません」
きっぱりとした妹の発言を聞き、コーネリアは納得すると共に心に湧き上がる温かいものを感じていた。
自らの目で信頼できる者を選び、任命する。騎士の選任とは本来そうあるべきなのだ。
選べないようならこちらで見繕おうなどと考えていた自分が馬鹿のようだった。ユーフェミアはこんなにも成長していたというのに。
実際にそういった厳しい意識で選考するとなると眼鏡に適う者はなかなか見つからないものだが、それならそれでいい。多少の時間など一番にふさわしい人間を騎士とできるメリットと比べればどうと言うこともないのだから。その間は仮にダールトンでもつけてやれば事足りる。
「いいだろう、そのように調整しておく。お前の思うようにやるといい」
頷いて後押ししてやると、ユーフェミアは顔を輝かせて頭を下げた。
「ありがとうございます、総督」
その後軽く日程の相談をして、歳若い副総督は部屋から退出して行った。
桃色の髪が消えたドアを見つめながら、ダールトンが目を細める。
「お変わりになられましたな、ユーフェミア様は」
「まだまだ子供だよ。少しは自覚が出てきたようだがな」
素っ気無く返したコーネリアの口元には、隠し切れない微笑が浮かんでいた。
◆◇◆◇◆
マオによる監禁事件があった翌日。
朝食を取った後、C.C.はルルーシュと共にクラリスの部屋を訪れていた。
できれば昨夜のうちに話をしたかったのだが、ナナリーとふたりで寝たいから、という犯罪被害にあった少女の姉としてのまっとうな理由を突きつけられて断念させられていた。もっとも、ルルーシュはギアスを掛けてしまった妹と顔を合わせるのを先送りにしたいようだったが。
ちなみに学校については欠席する旨をミレイに伝えてある。ルルーシュたちの素性を知っている彼女なら、三人同時の休みとなれば深い事情を語らずとも勝手に邪推をしてくれるため話が早い。言い訳などしなくてもそれらしい欠席事由を向こうででっち上げてくれるのだ。
ナナリーはその際に呼んでもらった咲世子に付き添われ、別室のベッドで休んでいる。
この時間、クラリスの部屋には格子窓からすがすがしい日差しが注ぐ。元から広い室内は、自然の明るさにライトアップされてより広々として見えた。
部屋の主が二人の男女を自室に招き入れ、テーブルセットの椅子を勧める。
「どうぞ」
「いや、俺はいい」
妹の誘いを固い声で辞し、ルルーシュは入り口近くの壁に背を預けた。もう一方のC.C.は返答すらせずにベッドに直行する。
協調性のない客人を順に眺め、クラリスは肩を竦めてひとりテーブルに着いた。置かれていたティーセットで一人分の紅茶を用意すると、不満げに小さく口を尖らせる。
「せっかくウチのお茶を淹れてあげようと思ったのに」
「お誘いはありがたいが、今日はティーパーティーをしに来たのではない。それならそれで後日また呼んでくれ」
つれない少女の反応に「残念ね」と呟き、クラリスはそちらに目を向けた。
「なら用件をどうぞ」
寝台に乗ったC.C.は置かれていた大きなクッションを胸に抱いた。なめらかなシルク地のクッションだ。
「まずは教えてほしい。今のお前はどういう状態なのだ?」
「ルルーシュに掛けられたギアスのこと?」
クラリスは何気ない調子で確認の質問を返す。その発言に顔を上げたのはルルーシュだった。
「待ってくれ。クラリスはギアスについて知っているのか?」
マオからもたらされた情報についての記憶を失っている彼は、魔女と妹の関係についても忘れてしまっている。自分の筆跡による見覚えのないメモ書きから漠然とした推測はしていたものの、敢えて確信を得ることはしていない。
事情を察したクラリスが「そこから話したほうがいいのね」と兄に向き直った。
「答えはイエスよ。私もC.C.と契約したの。隠していたことは謝るわ。でもそれはお互い様でしょう? 貴方だって私にギアスのことを教えてくれなかった」
妹からの説明を聞くと、ルルーシュは睨むようにC.C.を見た。
「お前が口止めしたのか」
「まさか。私はお前たちとは違う。面倒な策謀を巡らせたりなどしない。言うなと頼んできたのはクラリスだ」
「なぜそんなことを。もしそうなら、俺たちは協力し合えたんじゃないのか?」
ルルーシュの声音は疑問とも悔悟ともつかない微妙な色合いを帯びていた。少なくともあまり楽しげでないことだけは間違いない。
問われたクラリスの顔には、対照的に悪戯っぽい微笑が浮かんでいる。
「なら訊くわ。貴方はどうして私にギアスのことを隠していたの?」
「それは、お前を巻き込みたくなかったからで――」
そこまで答え、ルルーシュはハッとしたように言葉を止めた。
事実だけを見ればお互いやっていたことは同じなのだ。
「そういうことよ。ルルーシュが私に手伝ってくれと言ってきていたら――いえ、計画の一端でも話してくれていたら、私はきっと貴方と手を取って戦う道を選んでいたでしょう。少し別の理由もあったけれどね」
クラリスは椅子の背もたれに身を預け、悠然と話す。
「でも、そんなのは今となってはどうでもいいことだわ。現在の私は情報を共有すべきだと考えているし、実際にこうして話す場を設けている。それで十分じゃない? 私はもう昨日までの私じゃないんだから」
くすりと笑って見せる少女の様子を眺め、C.C.は悪趣味な奴め、と内心で嘆息した。
何を考えているのか、クラリスはわざとルルーシュの罪悪感を刺激するように言葉を選んでいる。彼女の能力なら逆にそこを避けて話を進めることも可能だろうから、意図的なものに違いない。
渋面になって押し黙るルルーシュを視界の端に捉えながら、C.C.はそちらは放置することにした。今はあいつのケアをしている場合ではないのだから、と。
「そろそろ話を戻してもいいか? 昨日までとは違うと言うからには自覚できているのだろう。どういう状態になっている?」
クラリスは一度ティーカップを口に運ぶと、そうね、と言葉を探すように呟いた。
「頭の中を弄られるのってどんなに不快なのかと思ってたのだけれど、案外なんともないみたい。ギアスに掛かっている自覚があるのに、それを不快に感じる思考もギアスで封じられている――そういう感じかしら」
ルルーシュの顔がさらに歪んだ。
おのれの犯した罪の結果がつまびらかにされていくのである。しかもクラリスは怒りも恨み言もなく事実を述べる。それは単純に罵声を浴びせられるのよりも深く心をえぐる光景に違いなかった。意志を踏みにじられて憤らない人間など本来居るはずがないのだから。
「完璧なマインドコントロールね。操られているのがわかっていてなお、作られた感覚に従うのが自然としか思えないんだもの」
「そこはもういい。わかった」
完全に黙り込んでしまったルルーシュを横目で一瞥し、C.C.は続きを促す。
「具体的にギアスはどう作用しているんだ? 今のお前は『生きている』のだろう? 何を目指している?」
超常の力により『死んでいる』ことを禁じられたクラリス。彼女の思考はどこに向いているのか。
前向きに生きてみようなどといった漠然とした意思に留まるような人間ではない。
ギアスに支配された少女は不敵に口角を上げた。
「私はブリタニア皇帝になるつもりよ。この世界を何とかしたいならそれが一番確実でしょう。ルルーシュと違ってまだ皇位継承権を持っているんだから。必ずナナリーも幸せに過ごせる世の中にしてみせるわ」
登場した最愛の妹の名前にもルルーシュは反応しない。胸中では様々な想いが渦巻いているのだろうが、表面上は微動だにせず話に耳を傾けている。
「しかしお前はシャルルに追放されたのだろう? まだ赦しも出ていない」
「陛下にとって、皇位継承権がある人間は全員同一線上よ。私はただ少し後退させられたってだけ。レースから下ろされたわけじゃない。継承権が剥奪されなかったのは、その気があるなら挑んで来いというメッセージでしょう。たぶんね」
クラリス・ヴィ・ブリタニアが宮廷から姿を消す要因となった八年前の謁見。そのとき既にクラリスの『詰まない』生き方は始まっていたのだろうとC.C.は想像する。
苛烈な発言でシャルルを挑発したのは、ルルーシュと同じ扱いをされぬようにするためだったに違いない。その方策が八年を経た今役に立とうとしている。本人の意向に沿った形なのかどうかはもはや不明だが。
「無視できない力をつけて戻れば赦しなんてそれだけで出るわ。ブリタニアは実力のある人間を遊ばせておく国じゃないもの」
おそらくこの見立ては正しいのだろう。そしてそれを見越してクラリスはアーベントロート子爵家を立て直したのだ。詰まないために。
つまり、クラリスには今回の事態にならずとも自らブリタニア宮に返り咲こうと動く可能性があり、かつそれを考慮に入れていたことになる。
ならばやはり――。
(クラリス、お前は本質的には死人などではなかったよ。私とは違っていた)
それがこういう展開になってしまったのはあまり愉快ではない。もっと別の道もあったはずなのだ。クラリスは決して死に切ってはいなかったのだから。
とは言え、感傷を抜きにしてみれば、今のクラリスには間違いなく生気と野心があふれていた。それこそ昨日までのルルーシュのように。
それ自体はC.C.にとっては喜ぶべきことである。挑む目標があるのならギアスを使う機会は必然的に増えるのだろうから。
「――ただ、宮廷に戻るにしても戻り方ってあると思うのよ。お母様の派閥に居た貴族を引き付けられるだけの存在感を示さなきゃいけない。アーベントロートのお金だけじゃ高が知れているし。一番効率よく帰れるように下準備をしないとね。手伝ってくれる、ルルーシュ?」
クラリスは壁際に力なく立っている兄に声を掛けた。口調こそ穏やかでかわいらしいものの、やっていることはえげつない。
断れるはずがないのだ。ルルーシュは元から妹に甘かったし、そこに加えて本人から罪悪感を抉られた直後なのだから。
C.C.はクラリスがこういったやり口を取る人間だと初対面のときから理解していたが、裏の顔を知らぬ少年はこれもギアスによる変化と捉えているかもしれない。だとしたらまたそこで罪の意識を深くするのだろう。
全くいやらしい交渉術である。
「ああ、もちろん。俺にできることがあったら何にでも使ってくれ」
C.C.の予想にたがわず、ルルーシュは何の反発も無く了承した。彼には彼の構想があっただろうに。
「なら、当面は今までどおりゼロをやっていて頂戴。ルルーシュにはこうならなければ進めていたであろう計画があるでしょう? それをそのまま続けて欲しいのよ。舵取りが必要になったら指示は出すから」
「わかった」
明快な答えを返したルルーシュ。しかし表情に生気は薄い。
人前に出ればそれなりに取り繕いはするのだろうが、何らかのきっかけが無い限り、この表情が根底に残り続けるのだろう。
C.C.にそう思わせるまでに、ルルーシュの傷心は深刻だった。
◆◇◆◇◆
(――クラリス・ヴィ・ブリタニア)
いったいどのような人物なのだろうか。
テーブルを挟んで座る精悍な男の顔を見ながら、ヴィレッタはそう考えずにはいられなかった。
謹慎が解かれたことで今後の方針について話さねばならぬ、との理由からジェレミアの私宅に招かれ、朝食を振舞われている。
眼前に広がるのは騎士侯の俸給ではなかなか手の届かない、本物の上流階級のための料理の数々だ。ジェレミアは優秀な軍人だから、任務のためなら質素な食事でも大人しく受け入れる。反面、辺境伯の格に恥じぬよう、使うべきところには惜しまず金をつぎ込むのもまたこの男だった。
幼い日には想像すらできなかった、豪勢でいて瀟洒な食卓が目の前にある。だというのに、目指したはずの貴族の味も今はあまりよくわからない。
「どうした? 食わんのか?」
「いえ、もちろん頂きます」
促されてナイフとフォークを動かすも、ヴィレッタの意識の大半は料理の感想よりも今後の展開予想に回されていた。
ジェレミアが作り上げ、自分がその片腕として確固たる地位を築いていた純血派は、早晩完全に潰えると見て間違いない。現状で既に組織は瓦解しており、立て直せる可能性を持つジェレミアも特に未練を感じていないように見える。
そこはいい。むしろベストだ。枢木スザク強奪事件での失態があまりに大きいジェレミアでは、普通にのし上がるには限界がある。いまさら派閥の復権を計ったところで先は見えているのだ。
重要なのはここから先である。
ヴィレッタは、元は件の失態のマイナスをゼロの捕縛という功績で帳消しにし、あわよくばプラスにしようと考えていた。
そこに降って湧いたのが、亡きマリアンヌ皇妃の息女――クラリス・ヴィ・ブリタニアの消息情報である。
閃光のマリアンヌの人気、騎士としての実力はヴィレッタもよく知るところである。平民から皇帝に見初められたという身の上のため、一部の皇族貴族から疎んじられる傾向にあったにもかかわらず、軍属を中心に圧倒的な存在感を放っていたのか彼女だ。
クラリスはそのマリアンヌの遺児の最後の生き残り、しかも十七歳という。ならば、『次期皇帝に』という話を持ち出す人間が現れてしかるべきと思われる。しかしそんな気配はどこを探しても欠片もない。
クラリス・ヴィ・ブリタニアは皇帝より追放処分を受けており、宮廷では話題に上らせる者すら皆無に近いのだ。
ここが大きな問題になる。
ジェレミアはクラリスの立場など関係無しに、敬愛するヴィ家の人間に仕えられればそれだけで無上のの幸せと考えているようだが、ヴィレッタは違う。
調査を依頼したディートハルトの情報によると、クラリス・ヴィ・ブリタニアは――あのテレビ屋は彼女が皇女であると気付いていないようだったが――クラリス・アーベントロートという名で生活しているらしい。ヴィレッタも知る貴族の家の娘として。
護衛は居るには居るが、所詮は雇われであり、強い結びつきのある関係ではない。軍から派遣されている人間は存在しないようで、完全に一子爵令嬢として振舞っている。
であればおそらく、ジェレミアが接近して深い間柄――それこそ専任騎士のような立場になることは可能ではあるのだろう。そしてヴィレッタがそれに次ぐ椅子に就くことも。しかし皇族の第一の騎士と言えば聞こえは良いが、現実のクラリス・ヴィ・ブリタニアは皇族として扱われていない。
それでは意味が無いどころか、ヴィレッタにとってはマイナスである。将来が完全に閉ざされてしまうのだから。もっとも、そのような事態になるようなら、ジェレミアはついて来なくてもいいと別の道を提示してくれるだろうが。
ただ一方、クラリス・ヴィ・ブリタニアに皇族に復帰する可能性があるのなら、これは人生でも最大クラスのチャンスと言えた。
皇族の側近としての地位が与えられるだけでなく、マリアンヌの唯一の息女である彼女には、能力によっては次期皇帝の目もあり得る。ここまで来るのはもはや夢物語の類と自覚してはいたが、それでも若干の興奮は抑えられなかった。
(……やはり、見極めが肝要か――)
ヴィレッタは意識を落ち着かせ、対面のジェレミアを見る。
もう食事は終わってしまったようで、軽くワイングラスを傾けている。気付いてみれば自分の皿も空になっていた。手には水の入ったグラスがある。何か二言三言雑談を交わした記憶はあるが、大した内容ではなかったはずだ。
「ジェレミア卿」
グラスをテーブルに置き、ヴィレッタは話し掛けた。
「クラリス殿下のもとへは、いつ?」
「さして急ぐ必要もあるまい。殿下の安全はある程度証明されたのだしな」
ジェレミアの謹慎期間中にクラリスに対するアプローチが無かったことで、計らずも、彼女の正体に感づいた人間のいる可能性が極めて低いという予想が成り立っていた。
ならば下手に近づけば逆に身の危険を与えかねない事態にもなり得る。というのがジェレミアの見立てようだった。謹慎が解除されたとはいえ、それと同時に全ての監視が解かれたと確信できるほどブリタニア軍は甘い組織ではない、と。
「ですが――」
「いや、正しくは急げなくなったのだ。コーネリア様からこんな物を頂いてしまってな」
ジェレミアはテーブル脇のバッグから書類を取り出すと、「見てみろ」と差し出した。ヴィレッタは少々怪訝な顔をしながら手に取り、言われるままに書面に目を通す。
「これは……っ!」
「ユーフェミア様の騎士に、だそうだ」
簡単にまとめれば、ユーフェミアが騎士候補と何日か過ごしたいと言っているから、できるだけ日程を空けておけという通達である。
「おめでとうございますと、言うべきなのでしょうか」
「光栄ではあるな」
「お受けに?」
「辞退はできんだろう。コーネリア様がじきじきに百人超から十人以下にまで絞った候補者のリストだ。その中に私を入れて下さったのだぞ。ここで断れば殿下の顔に泥を塗ることになる」
ジェレミアがこの人事をあまり歓迎していないことは発言からも察せる。この男にとって専任騎士の椅子など、ヴィ家への忠義の前ではなんら心を動かす要因にはならないのだろう。
ただ、ヴィレッタはここにも鋭く出世の道を見出していた。
正直に言って第四皇女殿下はあまり出来がよろしくなく、遠くから見ている限り人間的にも好きになれそうなタイプではない。それでも間違いなく皇女という身分は持っているのだ。平定が済めばコーネリアの後任として総督になるという噂もある。
おそらく皇族としては最低ランクに近い評価だろうが、だとしても親衛隊長の側近となれるなら十分な地位が約束されるに違いない。少なくとも現状ただの騎士侯でしかない自分にとっては。
「どうなさるおつもりです?」
「任務として形式的にこなすだけだ。他の候補者はユーフェミア様の騎士ならば誉れと考えるだろうからな、熱心にアピールするだろう。私が選ばれることなどあるまいよ」
ヴィレッタの心を知ってか知らずか、ジェレミアは淡々とそう話した。
◆◇◆◇◆
ルルーシュを先に帰した広い室内で、C.C.はクラリスと向き合っていた。
テーブルについた彼女の腕には、ベッドから持ってきたクッションがある。クラブハウスの部屋でいつも抱いているチーズ君の感触が忘れられないのだ。デリバリーピザのポイント景品であるあのぬいぐるみは、残念ながらクラリスの家には存在しない。
「あまり良い抱き心地ではないな」
「だったら返してきて頂戴。椅子には椅子のクッションが置いてあるでしょう」
「尻に敷くものと腕に抱くものは違う」
「そうかもしれないけど、でも貴女が今持ってるそれも抱くものじゃないと思うわよ?」
「納得だ。だからいまひとつなのだな」
C.C.は席を立ってベッドに行く。クッションをマットレスの上に置いたところで、再び口を開いた。
「私だけ残したのはどうしてだ?」
「確認しておきたいことがあって。今までとは状況が違うから」
受身であったこれまでと積極的に動くこれからでは、必要な情報量が違うということなのだろう。詰まない生き方ではない、勝つための生き方には不可欠な武器だ。ルルーシュもできる限りの情報を集めようとしていた。
「何だ?」
C.C.は椅子に座りながら訊く。席に着いたことで茶は断られないと判断したのか、クラリスがティーポットに湯を入れた。
「まずはお母様のことね。あの人は私のことを知っている?」
死んだとされているクラリスの母――マリアンヌは、実はテレパシーのようなものでたまにC.C.に話しかけてくる。『知識』を持つクラリスは母の生存とその能力を把握していたのだろう。
「どうだろうな。あいつがどこからどうやって物事を知覚しているのか、私にはわからないんだよ」
「質問を変えるわ。私のことを話した?」
「『どう育てたらあんな娘になる?』とは訊いた。安心しろ、『知識』の話はしていない。あいつには思うところが無いわけではないからな。全部の情報を渡してやるほどの義理は感じていない」
「なら、とりあえずそこは大丈夫と見ても良さそうね」
クラリスは一つ頷き、ティーカップに紅茶を注いだ。ソーサーに乗ったカップからは落ち着いた花の香りが漂ってくる。
「茶請けは無いのか?」
「知らなかった? 私ってコードが無いから食べた分だけ太っちゃうのよ」
悪びれず言う様子に、C.C.は苦笑を漏らす。
「わかったよ。付き合ってやる」
こういうところは変わっていないようだ。
というよりも、目的地を見据えるようになった以外はほとんど元の思考パターンのままに見える。クラリスはおのれを偽るのが得意だから、本人が表に出そうとしない限り、日常会話レベルのやり取りで変化を見つけるのは至難の業だろう。
「そういえば、ここの親はどうしているんだ? アーベントロートの親は」
カップを口に運ぶクラリスに訊くと、彼女は「あぁ」と小さく言った。
「あの人たちはブリタニア本国で引きこもってるわ。資産運用の一部は任せてあるから、やる気があるなら暇は潰せるでしょう」
「冷たい娘だな」
「適度な距離よ。私はちゃんと娘をやっていたの。なのにエリア11に行きたいって言ったときにあっちが放り出したんだもの」
「そう仕向けたのだろう?」
「人聞きの悪い言い方をしないで。軽く危険性をほのめかしただけよ。軽くね」
そう言ってクラリスはずるそうに微笑む。
「まぁ感謝はしているわ。あの人たちが臆病なおかげで自由を満喫できているんだから」
「『悪巧みの邪魔をされていない』の間違いだろうに」
「そうかもね」
短く返し、クラリスは少し真面目な顔になった。C.C.が紅茶を一口飲む間待ってから、会話を再開する。
「話を戻しましょう。二つ目の質問。暴走したギアスを抑えるコンタクトレンズ、作れる?」
ギアスは使い続けるうちに力を増して行き、やがては発動と停止の制御もできなくなる。
クラリスの場合はおそらく、時に関する単語を口にしたら、視線の交わる位置でそれを耳にした人間の記憶が、その分だけ見境無く消えてしまうことになるのだろう。ルルーシュのギアスと同じく、日常生活に支障をきたすことは間違いない。
「レシピは頭に入っている。容易く作れるものでもないが、お前の財力ならまったく問題はないだろうな」
ギアスの暴走対策は、嚮団でも優先的に研究が進められていた分野だ。目を見て掛けるタイプのギアスについては一定の成果を上げることに成功していた。その結晶がこの特別製のコンタクトレンズである。
「だが安心はするな。効果が永遠に続くものではない。ギアスの力が強まっていけばいずれ抑えきれなくなる」
「大丈夫よ、その前に全部終わらせるわ。あとで紙に書き出して頂戴」
「了解した」
「ありがとう、私からの用はそれで全部」
話を終えたクラリスはティーカップを口元に運ぶ。C.C.は背もたれに背中を預け、優雅に紅茶を楽しむアッシュブロンドの少女を眺めた。
こうしていると、外面からは以前と変わったようには思われない。しかしその内側は確実に変わっているのだ。
「これで知識から完全に外れたな」
「そうね」
「何か感じるものは無いのか? 悔しさだとか悲しさだとか。あるいは他の――」
「どうなのかしら。ただ、嫌ではないわね」
判然としない物言いだが、そういうものなのだろう。ギアスに強制されて行われた意思決定の結果というのは。
納得しつつも、C.C.は胸に去来する一抹の感慨を認めていた。
「今更だが、もしかしたら私は、死人だ死人だと言っているお前が好きだったのかもしれないよ」
「何よそれ。本当に今更じゃない」
そう笑ったクラリスの顔は、C.C.の目からはどこか寂しげに見えていた。
◆◇◆◇◆
天蓋に切り取られた狭い天井に、見慣れない壁紙が貼ってある。住み慣れたアッシュフォード学園のクラブハウスでも、遠い日に別れを告げたアリエスの離宮でもない。
クラリスに貸し与えられた客室のベッドに仰向けに寝そべりながら、ルルーシュは『自分の居場所はどこなのか』と益体もない自問をしていた。
ここはアーベントロート邸だ。妹の暮らしている家である。
その明白な事実が不意に揺らぐのである。
奇妙な感覚だった。
ルルーシュはクラリスを殺してしまったと認識している。単に『殺した』と言葉にすると少し違和感があるが、本人の中からは絶対に出てくるはずの無い意思を植えつけてしまったという点で、元の人格を決定的に破壊してしまったことは間違いない。その観点からすると、『殺した』という表現はそれほど的外れではないように思える。
その自分が当のクラリスに歓迎されて一室を提供されているという現状が、どうにもおかしく感じられてならない。許されていいはずのない人間がこうしてのうのうとしていることに、無視できないねじれを感じるのだ。
だからルルーシュの中の弱い部分が『ここはお前の居ていい場所ではない』と囁やいて認識を歪め、切り離せない冷徹な部分が『現実を直視しろ』と訴えて逃避しそうになる思考を呼び戻す。
そしてその無意識の攻防を眺め、おのれがいかに弱っているのかを冷静に分析している自分が居る。
そのうちのどれが強いということもないから、最終的には『自分の居場所はどこなのか』などという下らない思考に脳内を支配されて動けなくなっている。
そこまで理解してなお、ルルーシュは無為に天井を見つめるだけの行為をやめられなかった。
「――まだ呆けているのか」
扉の開閉音の後、聞きなれた少女の声が耳に届いた。
「C.C.か」
「動かなくていいのか? クラリスから頼まれたのだろう? 今までどおりの活動をしろと」
それはわかっている。動かねばならないのだろう。クラリスに従い彼女の手足となって行動するのが唯一の贖罪となるのだろうから。自分は彼女の人格を殺してしまったのだから、こちらも自らを殺して贖うほかないのだ。
そう結論を出したのに動けない。体が鉛のように重かった。
ただ、この状態が長続きするものでないことはわかっている。ギアスを得る前の自分は精神的にはずっと死んでいたのだから。その頃に戻るだけの話だ。一晩も経てばまた学校に行けるくらいには回復するはずだ。いや、しなければならない。
黙ったままでいると、静かな足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。そしてベッドの端に重みが加わった。C.C.が腰を下ろしたのだろう。
「……俺は――間違ってたんだろうか。クラリスに協力を仰いでいればよかったのか」
天井を見たまま呟く。質問というよりは独り言のようなものだったが、返事はやってきた。
「物事に正解も不正解もない。お前も知っているだろう。正しいか正しくないかを決めるのは人間の主観だ。お前が間違ったと思ったのなら、間違っているのだろうさ」
「厳しいな」
「そうとも、私は魔女だからな。厳しいついでに言ってやる。その議論に何の意味がある。正しかろうが間違っていようが過去は変えられない。さっさと完結させて次に繋がる思考をしたらどうだ? お前はブリタニアを倒して妹が幸せに暮らせる世界を作るのだろう?」
厳しいと口では言いつつ、C.C.の口調は普段にはない柔和さを持っていた。
「それはもう、俺のやることじゃない」
「お前の思っている世界は待っているだけで変わってくれるほど脆弱なのか?」
「クラリスは優秀だよ、俺なんかより」
子供のようだと自覚しながら、ルルーシュは投げやりに答えた。こんなに弱りきった姿を見せられるくらいこの女のことを信頼していたのかと、頭の別の部分が考えていた。
C.C.は何も話さない。ルルーシュからも特に言うべきことはなかった。
二人で口を閉ざしたまま、流れていく幾ばくかの静寂。。
ふと衣擦れの音がしたかと思うと、仰臥したルルーシュの視界にライトグリーンの色彩が映り込んだ。続いて琥珀色をした神秘的な瞳が見える。見慣れた少女の美貌だ。
いつの間にか、四つん這いになったC.C.が上に乗っていた。
「何をしてる」
嬉しさも不快さもなかった。跳ね除ける気も起こらないし、逃げる気にもならない。ルルーシュの中に渦巻いているのは虚無的な感覚のみである。
下を向いた少女の肩から薄緑の髪が流れ、少年の胸元に落ちた。
「ルルーシュ――忘れていいと言われたら、どうする?」
「どういう意味だ」
意図の汲み取れない質問だった。呟くように問えば、C.C.は感情の読み取れない、透明なまなざしを向けてくる。
「クラリスのギアスは記憶を消す。お前は自らに刻まれた過ちを無かったことにできる」
ルルーシュの内に一瞬怒りが生まれた。どこまで惨めになれと言うのかと。しかしそれはすぐに消え落ちる。つまり、そんな馬鹿げた提案を持ちかけたくなるほど自分が覇気を失っているということなのだ。
「あり得ない。そこまで落ちぶれたくはない」
「……そうか」
応えたC.C.の声はどこか沈んでいた。
「なぁ、それは、俺が行動しないとお前との契約を果たせないからなのか? だから――」
「ルルーシュ」
遮るように言い、C.C.はそのまま顔を近づけてくる。接触する前に少し逸らし、ルルーシュの頭の横にその端正なかんばせを埋めた。服越しでも感じられる柔らかな少女の肢体が、体の前面に密着する。
「何を――」
「このまま聞け」
耳障りのいい声が耳朶のそばで鋭く囁いた。
「――この部屋は盗聴されている可能性がある。明日の放課後、シンジュクゲットーの毒ガステロ慰霊碑まで来い。そこで話がある」
ルルーシュは表向き無反応のまま、脳内ですばやく思考を回していた。
盗聴している人間。これはクラリス以外にはあり得ない。ここは彼女の私宅なのだから。
ではなぜなのか。これもわかる。必要だからだ。情報とは武器である。分析の時間を十分に取れるなら、集めて損をすることはまず無い。だがそうとわかっていても、ルルーシュでは家族に盗聴器を仕掛けることはできないだろう。
そこをやってしまえる――いや、ルルーシュに見えないところでやりかねないと思わせる態度をC.C.に取ってきたのがクラリスなのだろう。
思わず笑ってしまいそうになる。
本当に優秀だ。この冷徹さは自分には持ち得ない。クラリスの向けてくる笑顔は本心からのものだと明らかにわかるのに。それでいてやるべきことをやれるのが彼女なのだ。
わずかに瞑目し、目を開ける頃には、C.C.は体から離れていた。
「柄にもないことをしてしまった。後はひとりでなんとかしろ」
普段どおりの調子で言い、ベッドを降りる。ルルーシュが横目に視線を送ると、一方的に用件だけを告げた少女は、既に寝台から離れようとしていた。
「相変わらず理解しがたい女だ」
「それはお前に経験が足りていないだけさ」
C.C.は一度振り向いてそう残し、部屋から立ち去って行った。
◆◇◆◇◆
アッシュフォード学園高等部の校舎に終業の鐘が鳴り響く。勉強道具一式をかばんに詰め込んだシャーリーは、立ち上がって黒髪のクラスメイトに歩み寄った。
「ルル、今日生徒会でイベントの話しようと思うんだけど、副会長回復記念――だっけ? 復調? とにかくそれの。昨日ルルが居なかったときにちょっと相談してね――」
「悪い、今日は少し用があって」
かばんにノートパソコンをしまいながら、ルルーシュは淡白に告げる。
「そんなこと言ってると会長が勝手にいろいろ決めちゃうよ」
「しょうがないだろ、外せない用事なんだ」
「まぁ、それはそうなんだろうけど……」
シャーリーは尻すぼみに言って隣に席に顔を向けた。意味ありげな視線を受けたクラリスは、小さく左右に手を振る。
「違うわよ。私も何も聞いてないもの」
「何でそんなに隠し事ばっかりなのルルは。そんなんじゃクラリスだって――」
「埋め合わせはするから。それじゃ。また明日な」
席を立ったルルーシュは軽く手を上げて挨拶すると、足早に教室から出て行った。後ろ姿を眺めていたシャーリーの表情がわずかに曇る。
今日のルルーシュはどこか元気がなかったように思える。友人に聞いても『いっつもあんな感じでしょ?』と返す子がほとんどで、自分でも確信はない。クラリスも放り出していったあの馬鹿は、普段から斜に構えていてクールだという評判を得ているから、たしかにそんなものだといえばそんなものなのかもしれない。
でも、やはりシャーリーにはどことなく不安定そうに見えたのである。皆の言うところのクールな振る舞いは、内心を覆い隠すための仮面のように感じられて。
だから生徒会で騒げばちょっとでも元気が出るかと思ったのに。
「――なんか、今日のルルってちょっと変じゃなかった?」
ゆっくりと帰り支度をしているクラリスに訊くと、彼女は驚いたように少し眉を上げた。
「びっくりしたわ。気付くものなのね」
「あ、やっぱりそうなんだ? 何かあったの? 知ってる?」
「一応はね。でも私から話すことじゃないと思うから」
そういう類の問題は誰にでもある。特定の相手にしか明かせないというのなら仕方がない。
好きな――ひょっとしたらそろそろ『好きだった』にする努力をするべきなのかもしれない――男の子の異常を察せたことが誇らしく、同時に『特定の相手』に入れなかった自分に恨めしい気持ちになる。
生まれた微妙な感情を生来の明るさですぐに振り払い、シャーリーはクラリスに尋ねた。
「立ち直るの時間掛かりそう?」
「ある程度は長引くんじゃないかしら。その後どうなるかは――彼次第ね」
「もしかして、割と深刻っぽかったりする?」
「気にしないでいいわよ。私たちはいつもどおり接していれば。人に話さないっていうのは、自分で解決するって意思表示と同じだもの。余計なことをしたらおせっかいになるでしょう」
「そっか」
冷めた意見のような気もしたけれど、大人な物の見方のような気もする。
結局シャーリーは歳に似合わぬ落ち着きを持った友人の言葉に従うことに決めた。
「まぁしょうがないよね。じゃあ私たちだけで行こっか、生徒会」
教室を見回しても他の生徒会メンバーの姿はもう無い。
「ごめんなさい。実は私も駄目なのよ」
ゆったりと返したクラリスは、小首を傾げてやわらかく微笑んだ。
「今日は家に届け物があるかもしれなくて。私じゃないと受け取れない物だから」
◆◇◆◇◆
C.C.は大きな大理石の碑に寄りかかり、夕焼けに染まる空を眺めていた。
いまだに復興の始まらないシンジュクゲットーの眺めは悲惨そのものだ。
アスファルトが砕かれてむき出しになった地面。窓ガラスの割れたビル。折れた鉄骨を晒す破壊された建物跡。いびつな形をした様々な影が、沈みかけた太陽に照らされて長く伸びていた。
荒れ果てた廃墟の一角に、場違いに綺麗に整地された区画がある。
クロヴィス皇子薨御の折、彼の没した地ということで、シンジュクゲットーにはその功績を称え、死を悼む碑が建てられた。そのとき大勢の死者を出したイレブン側の住民感情を考慮し、形だけとはいえ大きく離れた地点にテロ被害者の慰霊碑も同時に作られたのである。
C.C.の居るこの場所がそうだ。
ただ、あくまでついでの工事の域は出ず、規模は非常に小さい。ブリタニアの見え透いた厚意をありがたがるイレブンはほとんどおらず、そもそもシンジュクゲットーが人の住める環境でなくなっていることもあり、訪れる者はほとんどゼロに近い状態だ。
それは今日も例外ではない。
見渡す限り無人の死に絶えた街。砂埃でけぶる景色の奥に、やがて黒い人影が現れた。
C.C.のよく知る契約者の少年――ルルーシュである。
「待たせたみたいだな」
「構わんさ、時間までは指定していない」
C.C.は石碑から背を離し、歩み寄ってきた少年と数メートルほど離れて対峙した。
足を止めたルルーシュの顔には、別段何の表情も浮かんではいない。
「何の用だったんだ? クラリスに聞かれるとまずい話ってことはわかるが」
「ルルーシュ。お前には期待していた。だからこそ訊きたい」
「何だ?」
C.C.は一度息を吸って間を持たせた。
これから掛ける問いの意味は非常に重いのだと――その事実を自らに刻み込むように。相手に伝えるように。
「――お前は自分の手で世界を変えるんじゃなかったのか?」
固い空気を感じ取ったのか、ルルーシュはあごを引き、契約者の少女を鋭く見た。
「昨日も聞いたな、それは」
「ああ、だからもう一度聞かせてくれ」
「話したとおりだ。世界を変えるのは俺の役目じゃない。俺にできるのはせいぜいがサポート。メインはクラリスだ」
「本気なんだな?」
問われた少年は少しの間沈黙を保つと、C.C.から目を外し、地面に視線を落とした。
「……他にどんなやり方がある。それだけのことをした――あいつを殺してしまったんだぞ。その俺が一人のうのうと生きて世界を変える? 何の冗談だそれは。あり得ない。俺にはもう、自分を殺してあいつを後押ししてやるしか道はない」
「どうだろうな。少なくとも、クラリスはお前のギアスを咎めはしない」
「それはあいつがギアスに掛かっているからだろうが……!」
ルルーシュはこぶしを握り、顔を上げた。眉根を寄せた渋面にはおのれに対する憤りと後悔の念が滲んでいる。
「なぜ言い切れる? お前はクラリスに同じことをされたとしてあいつを咎めるのか?」
「それとこれとは――」
「同じだ」
C.C.はルルーシュの否定の弁を遮り、畳み掛けて言った。
「同じことだよルルーシュ。お前は妹になら何をされても構わないと思っている。それだけあいつらを大きな存在と認識している。たった三人の兄妹なのだろう? どうして逆もそうだと信じられない」
「そうじゃない。そういうことじゃないんだC.C.。あいつが俺を責めるかどうかじゃない。俺自身が自分を許せないんだ」
「本音が出たな。お前のそれは結局はただの独り善がりだ。誰にも問われていない罪の罰を受けることに何の意味がある。『クラリスを後押ししてやるしかない』? お前がそれで救われたいと思っているだけだろうが」
C.C.は表情を引き締め、それでいて内心では祈るような気持ちで契約者の少年を見つめていた。
反駁して欲しいのだ。激昂して欲しいのだ。揺れ動く激しい情念こそが、人が生きている最たる証なのだから。
しかし、叩き付けた言葉に返答は無い。
しばしの無言の時。ふたりの間を乾いた風が吹き抜ける。
やがてルルーシュは重そうに息を吸い、吐くと同時に肩の力を抜いた。
「……あぁ、そうなんだろう」
出てきたのはそんな返事だった。
「そうなんだ。俺はクラリスの事情なんか関係無しに、自分のために、自分を罰しようとしている。あいつに従うのはタイミングよくそれらしい道が提示されたからってだけだ。これで償えるかもしれないって、飛びついただけなんだ。――そう、意味なんかない。わかってる。わかっていて、抜けられないんだ」
ルルーシュは力なく項垂れる。
C.C.の口から大きく嘆息が漏れた。
これはもう、終わったと見るべきなのだろう。覇気にあふれていたはずの少年の目には、いまや闘志の欠片も無い。
「……残念だよ、ルルーシュ」
呟くように口にし、C.C.は足下を踏みしめた。
「私は始めに言ったな。ギアスは王の力だと。望んで人の下に付く者を王とは呼ばない。自らを統べる能力すらない者に王たる資格など無い」
厳しく言い切り、懐に手をやる。取り出されたのは無骨な鉄の凶器。
拳銃である。
「俺に死なれると困るんじゃなかったのか?」
「以前はたしかにそうだった。今は事情が違う。お前は死に、代わりにクラリスが死人をやめた。ギアスの効果だろうがなんだろうが、これは事実だ。私の願いはあいつに叶えてもらう」
あの少女はルルーシュをも上回る徹底的なリアリストだ。兄を殺したC.C.は許されないかもしれないが、そこで足を止めたりはしない。ギアスを使い続け、いずれは遥かな高みに到達するだろう。
魔女たるC.C.にとって重要なのはその一点のみで、対象に道半ばで果てる心配が無いのなら、そばで見守る必要も無いのだ。であれば、あとはどうとでもなる。
「酷い女だ。用済みになったら消すのか」
「元からそういう関係だと思っていたが?」
「少しは丸くなったように見えたんだがな。マオを生かしておいて失敗したのがそんなに堪えたか」
見透かすような言葉にC.C.は小さく唇を噛む。
告げられた指摘はきっと正しい。マオの再襲来が無ければ、ここまで早い段階でルルーシュを殺さねばならないとは考えていなかっただろう。見限る際に命を絶たなかった不始末の結果を見せ付けられた直後であるがゆえに、同じ轍を踏んではならないと強く思うのだ。
「まぁいい。撃つなら撃て。覚悟は出来てる。俺がしたいのは自己救済に過ぎないと暴かれてしまったしな」
「……黒の騎士団はどうする」
「ゼロの代役でキョウトの代表と面会したのはクラリスだろう。それはもうわかってる。あいつの考えている策も大筋でなら予想は付く。俺が居なくても、あいつが代わりにゼロをやれば成立するはずだ」
「ナナリーは」
「クラリスがいる。あいつにならナナリーを任せられる。たとえ俺がいなくなったとしても、俺のやりたかったことを代わりにやり遂げてくれるはずだ」
「……お前は大馬鹿だよ」
この少年はあのか弱い盲目の少女から向けられている想いを本当に理解していないのだろうか。ルルーシュはルルーシュという一個の人格だ。能力が同等だとしてもクラリスでは代わりにはならないというのに。
「どうした? 撃たないのか?」
「本当に……それでいいのか」
いらえは無い。代わりにすべてを打ち捨ててしまったかのような静謐な眼差しが返ってくる。それが全てを語っていた。
C.C.は銃を手にした片腕を持ち上げる。鋼鉄の銃身が朱の光を浴びてぎらりときらめいた。
「ルルーシュ……お前となら――」
言い掛け、小さく首を振る。
「いや、死に逝く者への感傷など必要ないな。私はC.C.なのだから」
そんな当たり前の感情など遠い昔に名前と共に捨て去ったのだ。
「さよならだ、ルルーシュ――」
白い指先が引き鉄に掛かる。
バァンと。
夕日の色に染まる廃墟に、銃声が響き渡った。
◆◇◆◇◆
瞬間、C.C.が腕を押さえてしゃがみこむ。その直前、弾かれたように手から放り出される拳銃をルルーシュの目は捉えていた。
「狙撃!?」
思わず声を上げる。あまりの唐突な展開にルルーシュは自然と狙撃手を探してしまっていた。ギアスを掛けねばと無意識で考えつつ。次いでライフルを相手にそんな思考をしている自分を自覚し、身を翻して遮蔽物となる瓦礫に体を滑り込ませた。
その段になってようやく気付く。
(なんだ――俺は死にたくないのか)
さっきまでは本気でC.C.に殺されてもいいと納得していたはずなのに。
浮かんだ益体も無い考えは即座に振り払う。ならば生き延びるための思考をせねばならない。こんなところでわけのわからないまま殺されるのは自分の死に方ではないと本能が拒否しているのだから。
(敵は何者だ? ブリタニア軍? それとも皇室? 人数は? 名乗り出れば助かるのか――?)
刹那の内に知るべき情報をリストアップし、高性能の頭脳が本格的を回転し始めようとしたとき、紫水晶の瞳が異常を見つけた。
(C.C.が撃たれていない? 敵じゃない――のか?)
銃声は最初の一発だけで、サプレッサーを使った銃弾が撃ち込まれている様子も無い。さらに状況把握を進めようとしたところで、「ランペルージ様!」と遠くから声が届いた。
ルルーシュは溜めていた息を大きく吐く。それだけで大体の事情は把握できた。自分のことをそう呼ぶのはクラリスの家に仕えている人間だけなのだから。
瓦礫の陰から体を出すと、走ってくる壮年の男の姿が見えた。バーンズといったか、専属のボディーガードのような存在だとクラリスから紹介を受けた人物だ。
息も切らさずルルーシュの前までやって来ると、男は気遣わしげな声を出した。
「ご無事でしたか、ランペルージ様。もう大丈夫です。まだ一人が狙撃位置に待機していますから」
「バーンズさん……でしたよね? いったいこれは――?」
「あの少女――C.C.と言いましたか――彼女が貴方の殺害を目論んでいる危険性があるとお嬢様が仰いまして。失礼ですが監視するようにと。貴方ではなく、彼女の方をですが」
あちらも友人だと聞いていたんですがね、とルルーシュの横を通り過ぎ、うずくまる少女の片腕をひねり上げる。
射手の腕が良いのが使った銃の特性なのか、どこからも出血はしていないようだった。
苦しげに息をつきながら、C.C.はルルーシュを見上げた。
「……クラリスにしてやられたな。どうやら、お前を殺すことは叶わなかったようだ」
空いた手も取り上げられ、後ろ手に拘束されながら、それでも魔女は薄く笑う。
「ならば生きてみろ。お前はまだ真の意味では死んでいない。再びお前自身の生きる目的を手にできる可能性を秘めているのだから」
ルルーシュは契約者の少女を横目で見下ろし、同じく薄い笑みを返した。
「当たり前だ。どこかの女が殺したいと言い出さない限りは、自分から命を絶とうとは思わないさ」
◆◇◆◇◆
『――はい、お嬢様の懸念していた通りでした。対象は問題なく確保。今から帰還します』
「ありがとう。最高の働きよ」
アーベントロート邸の令嬢の私室。
アッシュブロンドの少女がベッドに腰掛け、携帯電話を耳に当てていた。
『しかし、本当によろしいのですか? 警察に行かずとも』
「いいのよ、その子は友達だから。それに軍や皇室に見つかると面倒な身の上でね、あんまりそっちには見せたくなくて。その代わり、ちょっとウチで窮屈な思いをしてもらうことになるかもしれないけれど」
『わかりました。では後ほどそちらでまた』
電話を切り、後ろ向きに倒れこむ。シーツの上に広がる長い髪。その中心で少女ー―クラリスは満足げな微笑を浮かべた。
「これで黒の騎士団とゼロは私の手の内。少し危うかったC.C.については拘束しても怪しまれない口実を手に入れた――」
ふふっと軽やかに笑い声を立てる。
「ルルーシュなら『条件はクリア』って言うのかしらね」
呟いて笑みを収め、クラリスは上体を起こした。乱れた髪を軽く手櫛で整え、机に向かう。
置かれたパソコンには既に電源が入れられていた。モニターに表示された資料に目を落とそうとしたところで、部屋の外から騒がしい音が響いてくる。
よく聞いてみれば、それは音というよりは声のようだった。数人の男女が言い争っているような喧騒だ。それがだんだんと近づいてくる。
「なにごと?」
クラリスはわずかに眉をひそめ、入り口の方へと歩いていった。扉を開けた瞬間、防音壁を失った声はうるさいほどに流れ込んでくる。
「お待ちください!」
「お止まりください! お嬢様は今!」
軽く首を傾げて廊下へと出る。そして騒ぎの中心に目をやったとき、クラリスの表情が固まった。
見開かれたアメジストの瞳に映っているのは、五十過ぎほどに見えるブリタニア系の男性である。
桜色の唇が小さくわなないた。
「――お義父様……っ!?」