ある日の放課後、枢木スザクは一人で街を歩いていた。授業が終わり、勤務場所へと向かおうというのである。
最近では、クロヴィス皇子殺害の容疑は名実共に晴れていた。
一時期はサングラスで変装せねば出歩けない状態だったが、この頃は特にそんなこともない。たまに敵意の篭った視線を感じることはあるものの、それはたぶん名誉ブリタニア人制度自体に批判的な人間の目だ。要するに、シンジュク事変が起きる前から浴びせられていた類のものである。
ゆえに、ブリタニア人の中に混じって街路を歩くスザクの顔は明るい。――のだが、不意に首の裏にピリリと感じるものがあって、立ち止まった。
無意識による気配の察知なのか、第六感による予知なのか、自分でも上手く説明できないその曖昧な感覚を、スザクは非常に信頼していた。戦場においてこれに命を救われたことは一度や二度ではない。
ゆっくりと歩行を再開しながら、今度は意識して気配を探る。肌と耳で空気の流れを読み、素早く走らせた視線で異常を探す。
(――見つけた)
少し先の路地に入り込んだ白いコートの少年。何気ない素振りでありながら、発見される直前までスザクを注視していた。
少年が消えた先は、正確には路地と言うより単なるビルとビルの隙間といった感じのひどく細い道で、ここからでは日の光もあまり差さないように見える。
誘いだろうか。おそらくはそうだろう。
直感で理解しつつも、スザクは正面からそれに乗ることにした。
自惚れではなく事実として、おのれの体術なら銃を持った相手にでも遅れは取らないと自負していたし、罠だったとしても、ルルーシュのように頭を使えるタイプの人間ではない自分には、予めの対策を立てることなど出来はしない。体一つで挑むしかないのだ。
普段どおりの歩調で進み、件の角を曲がる。
高い建物に挟まれた通りは狭く、やはり暗い。
無人の道を警戒しつつ進んでいく。すると、奥にさらにあった建物の隙間から、先ほどのコートの少年が現れた。髪は白く、よく見れば顔立ちは東洋人のもの、それもエリア11ではあまり見かけない中華系だ。
「よく来たねェ、枢木スザク」
「やっぱり僕に用があったのか。何者だい?」
「ボクのことはいいよ。単なる善良な一市民――軍への情報提供を義務づけられているブリタニアの民だと思ってくれればさ」
「ブリタニアの民……名誉か? でもエリア11には――」
「気持ちの話さ。出身は中華連邦だから」
一瞬浮かんだ違和感を打ち消すように、少年は出自を口にした。腰に手をあて、首を傾けてスザクを見る。
「ボクの素性はどうだっていいだろう。別に犯罪を犯して手配されているわけでもない。要は目的が伝わればいいんだ」
「……つまりきみは、何か軍に伝えたい情報を持っているということか」
「そうそう、そういうことだよ」
数度頷き、口元に薄く笑みを浮かべる。
「キミの友達に、クラリスってコ、居るよねェ」
「クラリス……?」
スザクは告げられた名前をおうむ返しに呟いた。あまりに意外な切り出し方だったからだ。
クラリス・アーベントロート。
学校のクラスメイトで、生徒会の仲間で、たぶんルルーシュの恋人。
アッシュフォード学園生徒会のメンバーは、スザクにとって学生の自分を規定してくれる一番わかりやすい象徴のようなものだ。
軍人の視点に立っているときに聞かされて少々戸惑わされた。もちろん態度に出したりはしない。そのくらいには訓練されている。
「彼女、ホテルジャックのときにゼロと接触してるんだ。直接言葉も交わしてる」
「あぁ、それは聞いた。助けに来てくれ――」
「今も接触してるよ」
セリフに被せて出された発言に、スザクの口は止まる。
「もう一度言おうか。クラリスは今もゼロと接触している。テロリストだ」
「何をバカな」
言葉の意味を理解した瞬間、否定がこぼれていた。
ちょっと意地の悪いところはあるものの、クラリスは基本的には穏やかな気性をしているし、家だって資産家の貴族で、ブリタニアに敵意を抱く理由があるとは思えない。
エリア11で最も有名なテロリストとなど、結び付けられるはずがなかった。
「わかってるよ、ボクに信用が無いのは。でもこれは事実なんだ。嘘だと思うなら調べてみればいい。彼女の家には決定的な証拠が眠ってる」
「馬鹿馬鹿しい。何者なんだきみは。どうして自分を選んでこんな下らないことを話す?」
「キミもわからない人だねェ。ボクのことはどうでもいいって言っただろ? でも、キミに話した理由は簡単さ。彼女は有力貴族の子女だ。信憑性の薄いタレコミで動いてくれる人なんていない。『間違ってました』で済む相手じゃないからね」
白髪の少年はポケットに手を入れ、ゆっくりと辺りを歩く。
「だけど、キミなら違う。友達という免罪符がある。だろう?」
スザクに向けられた顔にあるのは、小さく口角の上げられた唇。
何を意図してのものなのかは不明ながら、好きになれそうにない笑みだった。
「話にならない。言うことがそれだけなら自分はもう行く」
厳しく言って踵を返す。一歩を踏んだスザクの耳に、背後からの声が届いた。
「それならそれで別にいいけどさァ、でももうキミ、ちょっと疑っちゃってるよねェ」
「そんなことは――」
「あるよ。そんなことはある。キミはもうクラリスを疑っちゃってるんだ。ほんのちょっとの疑惑だけどねェ。けどその小さなトゲは少しずつ少しずつ、キミたちの関係にヒビを入れていく」
知らないうちに足が止まっていた。
顔だけで振り向いて睨みつけるスザクを、白髪の少年はどこか歪んだ笑顔で見つめていた。
「いいの? 何とかして解消しなくちゃずっとそのままだ。一度調べて潔白を証明した方が、スッキリしていいんじゃない?」
スザクは答えず、前を向き直して路地の出口へと再び足を進める。
去っていく後姿を見つめ、少年は一段笑みを深くした。その笑い方はやはり、スザクが最前好きになれないと感じた、イヤらしいものだった。
◆◇◆◇◆
「クラリス、晩御飯はまだか?」
テーブルについて何やら紙を折っているクラリスを眺めながら、C.C.は無駄としか思えない広さを持つベッドでゴロゴロと転がっていた。
「前から気になってたんだけど、何でほとんど動かないのにそんなに食べたくなるの?」
「コードを持つ者は無飲無食でも体に不調をきたしたりはしない。もちろん食べれば消化器官は働くが、栄養の吸収は無い。だから食べるのは完全な私の趣味だ」
「要するにただの食いしん坊なのね」
自分で食べたいときにピザを取って食べていたルルーシュの家と違って、クラリスの屋敷では食事の時間は大体決められている。
勝手に破ってデリバリーを使っても特に咎められたりはしないだろうが、この家で出されるピザはC.C.にとっては真新しい代物で、しかも美味い。だから素直に待つというわけだ。
「しかし、お前に折り紙の趣味があったとはな」
「意外?」
「外面だけ見ればそれなりに絵にはなっている。ただ、性格的に似合わんだろう」
率直に告げると、クラリスはふふ、と柔らかく微笑んだ。
「これね、ナナリーと約束したのよ。暇なときに折るって。千羽鶴。知ってる?」
「ああ。日本の風習だな」
妹の話をするクラリスの表情はとても優しい。C.C.も釣られて頬を緩めてしまうほどだ。
掴めないところのある少女だが、やはりここはルルーシュと同じなのだな、と思う。
血のつながりの無いC.C.から見ても、ナナリーには守ってやりたくなるようなところがある。経験上、内面まで全て純真で美しい人間などあり得ないとはわかっているものの、それでもそんな印象をまったく外に出すことが無いという時点で、あの少女は奇跡のような存在だ。
C.C.ですらそう感じてしまうのだから、実の姉としては大事にしてやりたくて仕方がないだろう。
「手伝ってやろうか? 折り方なら知っている」
「願掛けなんだから人の手を借りちゃ駄目でしょう」
思いつきの申し出はもっともな言葉で断られる。
手持ち無沙汰を紛らわすように布団に顔をうずめると、慣れない寝具の香りが鼻腔を満たした。
「そんなに暇なんだったらC.C.も自分でやったら? 紙くらいあげるわ」
「千羽も折りたいとは思わん」
「ホントにわがままね」
呆れた声が響いたとき、内線電話が控えめな電子音を立てた。
クラリスは立ち上がって部屋の隅へと向かう。受話器を取って二言三言話すと、通話を終えた。
「夕食か?」
「いえ、来客みたい。スザクだって」
クラリスの口調は落ち着いたものだ。だが目つきが少しばかり真剣さを帯びていた。
「ついていってもいいか?」
「どうぞ。ただ見つからないようにね。シンジュクで見られてるんでしょう?」
「わかっている」
頷いてベッドを降りると、C.C.はクラリスに続いて部屋を出た。
二人で連れ立って歩けるのは玄関ホールの手前までだ。それより先ではスザクに姿を晒すことになってしまう。
広い家といってもその程度ならそんなに時間の掛かる距離ではない。目的地に到着すると、C.C.はホール手前の廊下に控えた。
今までいた部屋は二階にあり、最短で玄関に向かうと、ホールに作られた階段上から階下を臨む形になる。
入り口の扉前に立った茶髪の少年は、学生服姿でありながら、常には無い固い表情をしていた。
対するクラリスは普段通りの態度だ。ゆったりとした動作で階段を下っていく。
「いらっしゃい、スザク。どうしたの? こんな時間に一人で。みんなに言えない内緒の相談の類なら、すごく素敵だと思うけれど」
「クラリス。僕は――自分は、ブリタニア軍准尉枢木スザクとしてここにいます。貴女に、黒の騎士団との内通の容疑が掛けられている」
「何の冗談?」
「本気です。任意になりますが、捜査にご協力いただきたい。今ならまだ、この疑惑は自分一人しか知りません。やましいところが無いのなら、応じるのが貴女のためです」
ホールから漏れてくる会話はなにやら剣呑なものだ。
廊下に隠れて聞いていれば、大体の事情は汲み取れる。C.C.はそっとその場を離れた。
――どうやら安穏としていられる時間は終わったらしい。
来た道を静かに戻り、クラリスから貸し与えられた部屋に入る。窓を開けて近くに巡回の警備がいないことを確認すると、桟に足を掛け即座に跳び降りた。天井の高さが一般住宅よりもかなりあるアーベントロート邸だが、二階程度ならそれほどの高度でもない。芝の生えた地面にふわりと降り立つ。
すらりと膝を伸ばして立ち上がったC.C.は、点々と外灯の立つ庭を音もなく走り出した。
◆◇◆◇◆
「仕事だって言うなら別にいいけど、調べても何も無いわよ?」
「あるか無いかを判断するのは自分です」
玄関で問答する若い男女の様子を、バーンズは少し離れた位置から観察していた。使用人たちを奥の部屋に下がらせ、脇に控えて一人で事態の推移を見守っている。
実は、枢木スザクが来た際に玄関で応対をしたのは、バーンズである。外門で押されたインターホンに出た使用人に、来客の雰囲気に鬼気迫るものがあると交代を頼まれたのだ。自分では対応しきれないかもしれないと。
だからクラリスがこの場にやってくる前に、軽い事情の説明は受けていた。
とはいえ、やはりまだ動揺を拭い去るには時間が足りていない。胸に曖昧にわだかまるものがあった。それは危機感のようで、焦燥感のようで、安堵感のようでもあり、また喪失感のようでもある。
胃の奥に溜まって、今にも喉元をせり上がってきそうな不快な錯覚をもたらしていた。
バーンズはまだ、クラリスが『何』なのかという件に断定を下していない。ついていく決意も無いし、かといって縁を切る決心もついていない。
付き合い方を決めかねている段階で、この急展開を迎えてしまった。何かひどく、自分が意気地の無い人間に思えていた。
唇を引き結ぶバーンズの視線の先では、クラリスがスザクと連れ立って歩き出そうとしていた。
家の中を案内しようというのだろう。広い家だから、部外者に一人で回らせるのはたしかに効率的でない。
「じゃあクラリス、きみの部屋から見せてもらいたい」
「ええ、構わないわ。ついてきて頂戴」
言ってクラリスが階段に足を掛ける。
瞬間、バーンズの体が何かに突き動かされるように行動した。
当然それはおのれの意思によるものなのだろう。しかし、バーンズがその行為に気付いたのは、完全に動いた後だった。
白い少女の手首を、ゴツゴツとした男の手が掴んでいる。
「――バーンズ?」
振り返ったクラリスの目がわずかに見開かれていた。
この少女はこんな些細な動揺を表に出すことすら滅多にない。きっと本気で驚いたのだろう。
当たり前だ。やった本人すら無自覚だったのだから。
ただ、それでもバーンズは起こしてしまった行動の理由を理解していた。一つ深い呼吸を取り、目を見てはっきりと告げる。
「行ってはいけません、お嬢様」
「何を言うの」
バーンズは応えず、戸惑ったように立ち尽くしているスザクに視線を送った。
「お嬢様が普段使っていらっしゃる部屋は二階の一番奥、右手になります。そこから手前に二部屋、それと正面の部屋もお嬢様のものです。後ほど人を遣りますので、先にお一人で行ってください」
「バーンズさん……?」
「お願いします」
一度は怪訝そうにしたスザクだったが、年長の男性からの真摯な眼差しを受け、表情を改めた。引き締まった軍人の顔で頷く。
「わかりました。ご協力感謝致します」
「待ってスザク!」
クラリスの制止を背中に受けながら、スザクは階段を登っていく。足取りに淀みはない。
きちんと認識を改めたようだ。軍務の一環なのだから、情を持って当たるべきではない。
過去に軍に所属していたバーンズは、こういった場合の情けの不要さを知っていた。
閑散としたホールに乾いた靴音が響く。かつりかつり、かつりかつりと。
やがて少年の後姿が視界から消えた頃、嫌疑を掛けられた少女は低く言った。
「放しなさい、バーンズ」
「その命令には従えません。貴女と枢木は友人同士だ。真に疑いを晴らしたいなら、捜査の邪魔をするべきではない」
「邪魔なんてしないわ。するはずがないでしょう」
鋭い眼光で下から見上げてくる少女の言葉を、バーンズは言下に否定する。
「残念ながら、わたくしはその言葉を信じられません」
「それはどういう意味かしら。私に掛かった濡れ衣を肯定するということ?」
「いえ、ただ単純な事実として、貴女は頭の回転が速い。口も上手い。誰にも気づかれることなく、枢木の捜査の目を逸らしてしまうかもしれない。どうやるのかなど想像も付きませんが、そういう芸当が可能な人間だ。わたくしはそう思っております。行くべきではない」
「それは、私が行けば貴方が私を罪人と断定する――そういうこと?」
「平たく言えば、その通りです」
冷厳に言い放つと、玄関ホールには沈黙が降りた。
クラリスは唇を閉ざし、バーンズも口を開かない。
恐ろしく真剣な顔になった少女の目は、バーンズを視界に捉えながら、どこか違うところで焦点を結んでいる。
長く護衛を務めてきた男は知っていた。それはクラリスが常ならぬ勢いで思考を回転させているときの合図だ。
「脈が――」
「え?」
「脈が、上がっていますね。焦っておいでですか?」
手首を捕らえた指の先。そこに感じるかすかな脈拍が、少女の心理を伝えていた。
クラリスはどうあってもスザクの行う部屋の検分に付き合わねばならないと考えているのだ。
信じたくはないが、おそらくはそういうことなのだろう。当たって欲しい予想ではなくても、事実は事実として受け止めなければならない。
バーンズは胸中で嘆息しながら、鍛えられた手にわずかに力を込めた。心の状態に引きずられて体の制御を失うなど、プロのやることではない。
厳しくおのれを戒めていると、視線の焦点を戻したクラリスがバーンズを見た。
「……教えて。貴方はいつから私を怪しいと思っていたの?」
「材料は以前からありました。ですが、結論を出したのはつい先ほど、貴女の反応を見てからです」
「その、材料というのを教えてもらっても?」
短い間を空け、バーンズは答える。
「わかるはずのない黒の騎士団の行動予測を、貴女は『勘』と言って何度か当てて見せた。一度も外すことなく。それが私にはずっと不思議だった。――そう、わかるはずがないんです、黒の騎士団と繋がっていなければ。それに貴女は、はっきりとした言葉にこそしませんでしたが、ブリタニアの現体制に不満を抱いていたはずだ」
「……それだけ?」
「最近の行動もおかしい。何度か完全に護衛を排除して外出しておいででしたね。いったい何をなさっていたのですか?」
バーンズが訊くと、クラリスは瞑目して大きく息を吐いた。観念したようにも見え、また見方によっては安堵したようにも見えた。
どちらが正解だったのか、バーンズが答えを出す前にクラリスは目を開けた。
どういったことなのか、その瞳には先ほどまで浮かんでいた焦燥が見られない。代わりに確たる理解の色が湛えられていた。
クラリスは口を開く。その声音に揺るぎは無い。
「バーンズ、貴方らしくないわ。随分と雑多なピースを集めてパズルを組み立てたわね。その不恰好な完成図を貴方に教えたのは、白髪の東洋人の少年?」
告げられた言葉に思わず絶句する。
たしかにバーンズは今日街でそういった人物と遭遇し、歳に似合わない奇妙な話術で疑念の存在を認識させられた。
しかし――。
「……なぜ、それを」
「――なるほど。これで話はわかったわ。おかしいと思ったのよ、貴方は私が黒の騎士団と繋がっているなんて馬鹿な妄想を抱いていなかったはずだもの」
桜色の唇がゆるく笑みを形作った。
「貴方は騙されているわ。その少年はこう言って唆したはずよ。『クラリス・アーベントロートとは早く縁を切った方がいい。あの女の正体には薄々感付いてるんだろう』――違う?」
バーンズの心臓が高く鳴る。驚愕というよりも、それは戦慄に近かった。
クラリスの中にどれだけの情報があってその推論が出てきたのかはわからない。
だが、完璧だった。
少年の口にした文句もほとんど正しければ、その内容が示しているところも正しい。
クラリス・ヴィ・ブリタニアという人物の名を、バーンズは知っている。というよりも、最近皇族関係の調べ物をしていて名前を見つけた。
しかし、それを目の前に居る『クラリス』と結びつけるような証拠を探すことはしていない。
遊学中のはずの皇女が名と経歴を作り変えられ、子爵家に閉じ込められている――。もし本当にそうなのだとしたら、そんなものと関わり合いになりたいとは思えなかったからだ。
漂ってくるのは陰惨な政争の匂い、あるいは一般人が知ってはならない秘密の香りだけである。
ただ、避けられるものなら避けたい――その気持ちがあってなお、バーンズはこのクラリス・アーベントロートという聡明な主が好きだった。
ゆえに今日まで見て見ぬ振りをして護衛契約を続けてきたのだ。おのれの取るべき態度を決めかねたまま。
「きっと正解よ、バーンズ。私が思うに貴方の推測は間違っていない。私の部屋にあるのはそっち。だからこの手を放しなさい」
クラリスは静かに言う。
バーンズは動かない。いや、動けなかった。
アメジストの瞳に宿る、常にはない強い光。それを目にした瞬間、否応無しに納得させられてしまっていた。
ああ、この人はそうなのだと。あの力強い皇帝のお子だと。
「――聞こえないの? 私は『放せ』と言ったのよ」
反応できないバーンズに向けて、クラリスはさらに続ける。
「貴方何様? 何の権限があって私を拘束しているの? あぁ、違うのかしら。権限など要らないと、そういうつもり? それだけの覚悟があるのね? それなら止めないわ」
覚悟など無い。だからこそバーンズは揺れてしまったのだ。このままでいいのかと。
その内心を見透かすかのように、少女の声はするりと滑り込んでくる。
「――でも、もしそうでないのなら、やめておきなさい。今なら見なかったことにしてあげる。ただのクラリスでいてあげる」
バーンズの喉がごくりと鳴った。クラリスは噛んで含めるようにはっきりと告げる。
「もう一度言うわ。放しなさい、バーンズ。スザクに見られたら言い逃れのできない品がある」
それから数秒。少女を捕らえた腕は力を失っていた。掴み続けてなどいられるはずがない。
そんな無礼を働いていいお方ではないのだろうし、だいいち、もはやそんな気も無かった。
不遜を承知で言えば、相手は二周り以上も年少の女の子だ。庇護欲を掻き立てられない相手ではないし、それ以上に、彼女自身にとても惹きつけられるものがある。
胸に湧き上がるこの感情は紛れもない本物だ。そう自覚できていた。
するりと手の中から抜け出した白い手首は、そのまま体から離れていく。階段をのぼっていく少女を目だけで追いながら、バーンズはポツリと言った。
「……貴女は、本当に口が上手い。枢木はきっと、何も見つけないまま、満足して帰るのでしょうね」
「それが一番でしょう。私と彼は友達だもの。こんな風に気軽に家に来てもらえる幸福を、手放したくないわ」
二階へと辿りついた少女は、アッシュブロンドを靡かせて最後に一度だけ振り返った。
「――もちろん、私と貴方が今こうやって気安く言葉を交わせている幸福もね」
そう残して消えていったクラリスの口元には、作り物とは思えない、穏やかな微笑が浮かんでいた。
そうしてホールは無人になった。
ひとり佇み、バーンズは高い天井を見上げる。
誤魔化されたのか、逃げられたのか、あるいは救われたのか。どれが正しいのかはよくわからない。気持ちの整理もまだ完全には付いていない。
ただ、今の関係をこの先も続けていけたらいいと思った。いずれ崩壊は訪れるのだろうが、少なくともそれまでは。
かりそめであれなんであれ、彼女がバーンズと過ごせる今を幸福だと言ったのだから、それでいいのだろう。
「……光栄です、殿下」
広い空間に小さく、男の声が響いた。
◆◇◆◇◆
星の輝く空の下。
だだ広い屋上に立った東洋人の少年が、腹立たしげに喚いていた。
「あのクソオヤジ! 何であんなに簡単に丸め込まれるんだ! ギアスも無しで言いくるめられちゃうって何なんだよ!? 今のあいつはホントにゼロだってのに! ちょっと調べれば証拠は出て来るんだ!」
周囲の全てを遮断しているかのように、少年は視線も動かさずに不満を吐く。周りを警戒する必要などあまり無いと考えているのだろう。もしくは興奮しすぎて注意力が散漫になっているのか。
いずれにせよ、彼は背後から近づいている人影に気付いていなかった。
暗い夜の屋上を歩く黒い影は静かに進み、少年の後方数メートルの位置で停止した。
「生きている人間にはな、マオ、思考だけじゃ把握しきれない、想いの力というものがあるんだよ。だからお前は読みきれないんだ」
人影――C.C.は寂しげに言う。
「私が……教えてやれなかったせいだな」
呟いた言葉は夜の闇に吸い込まれて消えていく。
「……C.C.?」
マオはびくりと肩を震わせ、おそるおそるといった風にゆっくりと振り返った。暴走したギアスの宿る両目に、ライトグリーンの長髪をした少女が映る。
「C.C.! 本物のC.C.だ! 何でここに!? ボクに会いにきてくれたの!?」
「残念ながら、ノーだ」
返答と共に銃声が鳴った。駆け寄ろうとしていた少年はバランスを崩し、コンクリートの地面に倒れこむ。
ズボンに広がる赤黒い染み。大腿部に弾痕が刻まれていた。
C.C.は片手で拳銃を構えたまま、もう一方の手で携帯電話を耳に当てる。
「ルルーシュ、ビンゴだ。お前の読み通りの場所にいた。脚を撃った。もうマオは逃げられない」
『さっさと殺してしまえ。そいつはどうやったって敵にしかならない』
「わかっている。すぐに済ませる」
電話はしばらく前から繋がっていた。クラリスの屋敷を出たあと即座に掛けたのである。
枢木スザクがアーベントロート邸にやって来て、クラリスへの疑惑を口にした瞬間。それが作戦行動開始の時だった。
絶対遵守のギアスには特殊な使い方がある。何らかの合図、あるいはキーワードを設定し、それを条件として特定の反応を促すというものだ。
ルルーシュは今回これを応用した。
『C.C.から連絡が入るまではマオの対処法についての一切を頭から消せ』というギアスをおのれに掛けたのである。無論、思考を読むマオのギアスへの対策である。
その代わり、ギアスの効かないC.C.の頭には作戦内容が入っている。そういう寸法だ。
この場所に来るまでの会話で情報の逆流は済ませ、ルルーシュの脳内には今、現在の状況と共に、彼の立てた策の全てが収まっていた。
「C.C.、ルルーシュと話してるの? ……そうだ! C.C.、どうしてこの場所が!?」
マオは地面に倒れながらも、懸命に這って来ようとしている。
その様子を熱の無い目で見つめながら、C.C.は携帯電話に話し掛けた。
「教えてやったらどうだ? どうせもう逃げ場は無いんだ。それくらいいいだろう?」
『俺は殺せと言ったはずだが。――C.C.、お前まさか心の準備ができてないなんて言うんじゃないだろうな?』
「大丈夫だ。殺せる」
C.C.の手にある拳銃は、マオの頭部にぴたりとレーザーポインタを当てている。引き金を引けばすぐにでも射殺できる状態だ。射手がコードを持つ魔女である以上、ギアスでタイミングを読むことは不可能。脚を撃たれたマオでは回避は難しい。
『……まぁいい。話してやるか』
ハンズフリー設定に切り替わった携帯から、ルルーシュの声が溢れる。
『マオ、お前の思考はシンプルすぎる。他人の考えは読めても、そこから予測を立てるための分析力が追いついていない。それがお前の限界であり、敗因だ』
スピーカー越しでも朗々と響く張りのある男声。
憎むべき敵の存在をたしかに認識し、マオは血走った目でコンクリートを殴った。
「ルルーシュ……! やっぱりオマエが……ッ! どこだ! どこにいる!? ボクの中に入って来い、オマエを覗き見てやるッ!」
『何でわざわざそんな誘いに乗ってやらなきゃならないんだ? 行かなくても始末はそこの女がやってくれる。俺はC.C.がお前と対峙できる舞台を整えるだけで良かった』
それが一番確実なやり方だった。
ルルーシュ自身がマオと直接対決するのでは仕留めきれない可能性が高い。
五百メートルの索敵能力を持つ相手に物量作戦がどこまで通じるのかは未知数。あまりに動員数を増やせばブリタニアに気取られる。
その点ギアスの通じない魔女であれば、マオにこれといった優位は存在しない。先手を取られさえしなければこちらの勝ちだ。
『クラリスのところへC.C.をやれば、お前はそこからその女を出す工作をせざるを得なくなる。あの警備へ押し入って力ずくで奪い取るのはどう考えたって難しい。搦め手に出るのは読めていた。騒ぎを起こした後、内部の様子をお前がギアスで窺うことも』
先日ルルーシュにC.C.との離間の計を仕掛けてきたことから、マオがギアスを利用して人を動かす策に手慣れているのはわかっていた。
自分で出向くことのない作戦を使うからには、経過の確認は必然的に現場から離れた位置でのことになる。ギアスで状況把握のできるマオである。監視機器などに頼る可能性は限りなくゼロに近い。
『であれば、そのときお前がクラリスの家から半径五百メートル以内にいることは確実。アーベントロート邸の敷地面積を考えれば、範囲はさらに大幅に絞り込める。その中で東洋人が長時間留まっていても不審に思われない場所。加えて、できればひと気の少ない方がいい――これだけの条件が揃ってるんだ。お前を見つけることは容易い』
実を言えばこの場所以外にも何箇所か候補はあったのだが、教えてやる義理は無かった。そのうちのどこにいたとしても、回るのにそう時間は掛からない。結果は同じだっただろう。
「じゃあオマエは、今日の出来事を全部読んでたってのか!? ボクの立てた作戦を! ふざけんなよこのガキッ!」
『まさか。そこまで自惚れちゃいない。俺に読めていたのは、お前が間接的な手段でC.C.の奪還を図るだろうというところまでだ。だが、それで十分だった。お前の下らない工作については何の心配も要らなかったからな』
「どういうことだよ! 何の手も打ってなかったってのか!?」
『俺はクラリスを知っている。あいつの力を誰よりも信頼している。お前が何を仕掛けようが、クラリスが出し抜かれることは万に一つもない。たとえお前が常人にない力を持っていようと――あいつが同じギアスの力を持っている以上は』
そう。
ゆえにこそルルーシュはまず最初にC.C.に確認したのだ。
――お前はクラリスと契約したのか、と。
状況を正しく認識するために。
妹を戦力として数えていいのか――クラリスに戦う意志と力があるのかを確かめるために。
『お前の思考を混乱させる目的でC.C.に『撃たれた』と言わせたが、それだけであいつは俺の意図を悟ったんだろうな。お前に特定されない程度、つまりは可能性の一つとして、だろうが。そう判断するだろうことも俺にはわかっていた。そうなればあいつが俺の邪魔をしないように行動を控えるだろうってことも』
「そんな、バカな!? 言ってやっただろうッ!? クラリスにバレれば記憶を消されるって! 共闘なんて正気の沙汰じゃない! ――いや、そうだ。何でクラリスのところへC.C.を行かせたりなんてできたんだ! その時点でオマエに教えてやった情報はあいつに流れちゃったんだぞ!?」
声を荒げるマオの目は零れ落ちんばかりに見開かれている。
きっとまったく理解できない、想像すらできないのだろう。
C.C.にはその理由がよくわかる。なぜなら、その答えを出すことができないようにマオを育ててしまったのは、他ならぬ自身なのだから。
『マオ、お前は一歩目を間違えた。俺に情報を与えることで、お前は自分にチェックを掛けてしまったんだよ』
「何だよそれ!? ワケのわからないことを言うんじゃない! お前はあれでC.C.を見限るはずだった! そうだろう!? 妹を巻き込んでるんだぞ!?」
『ああ、その通りだ。C.C.が俺に黙ってクラリスを巻き込んでいるのだとしたら、たしかにもう野放しにしておくことなどできない。ナナリーのことがあるからな。だが同時に、クラリスが既に巻き込まれているのだとしたら、俺はC.C.をお前に預けたりなどしない。アーベントロートの力での封殺を考える』
「どうして!? 言っただろう、それは不可能だ! アーベントロートなんて使えない! クラリスはオマエの記憶を消す! あいつはそういう女だ! 現にボクが死んだらオマエの記憶を消そうって今も考えてる!」
『お前馬鹿か? 本当のことを言えば何でも信じてもらえるとでも思っているのか? 俺には心の声なんて聞こえないんだよ。クラリスの真意なんてわかるはずがない。だったらあとは俺自身の感情として、クラリスとお前、どちらが信用に足りるか。それだけだ』
マオの問題は、本質的なところで人の感情を理解していないところにある。行動に直結する思考が読めてしまうがゆえに、それを生み出す原因となる想いというものを実感として知ることができない。
だからうまく考慮に入れることができないのだ。
ルルーシュが妹たちに向けている、無条件の愛という要素を。
『わかるか? マオ、お前は初手から詰んでいたんだよ』
嘲るように投げられた一言。
マオは歯軋りをしながらコンクリートに指を立てる。指先の皮が破れて血が滲んだ。痛みのためにかさらに表情が歪んでいく。
『終わりだ、C.C.。これ以上の引き延ばしはできない。やれるな?』
「ああ、大丈夫だ。マオは私が仕留める」
C.C.は短く返しながら、這いつくばる白髪の少年を冷めた瞳で見つめていた。
ここに起きている事態の責任を誰かに問えるとしたら、その対象は全て自分だ。
マオが負けたのは正常な愛を注げなかったC.C.が原因だし、ルルーシュがマオに狙われたのはC.C.が彼を選んだせいだ。マオがいびつ極まる育ち方をしたのは、最低限の教育すらせずにC.C.が放り出したためだし、C.C.が偏執的に求められる理由もそこに端を発している。
ルルーシュがこの役をC.C.に言い渡したとき、彼は非情に告げた。
『お前が捨てるときに始末しなかったからこうなった』と。
正しい。どんな否定も思いつかない。
いつかのあの日、C.C.は無邪気に纏わり付いてくる少年を殺すことができなかった。
形だけの愛情しか持ち合わせていなかったC.C.なのに、マオはそれが本当だと信じきっていた。ニコニコと笑いながら嬉しそうに名を呼んだ。馬鹿な子供だった。
でもたぶん、そんなところが好きだった。
幼いマオが向けてくる感情は混じり気の無い純粋な好意だったのだと思う。長らくそんなものと接していなかった自分にとって、無下に拒絶してしまうには、それは少々眩しすぎた。その温かさは凍った魔女の心に染み込んで、少し融かしてしまったのだろう。
それが――間違いの始まりだった。
以前のC.C.なら見込みがないとわかった時点で確実に息の根を止めていたはずなのに、できなくなってしまっていた。
その過ちの結果が、今目の前にある。
C.C.は銃を構え、片足でなんとか立ち上がろうとしている少年を見据えた。マオは顔を上げて見返してくる。
「C.C.、ボクを殺すの?」
「ああ」
「嘘だよね? 言ってくれたじゃないか。そばにいるって」
「すまない」
何に対しての謝罪なのかは判然としなかった。過去のセリフが偽りになってしまったことか、それとも今手に掛けるようとしていることか。
おそらくは両方なのだろうが、それだけに重みに欠ける。
そんな不誠実な言葉で送るのは非礼に過ぎる。
自分の中にもしこりが残るだろう。たとえ時と共に消え去ることがわかっているものだとしても、それはたしかに、自らが犯した罪の名残なのだ。
だからC.C.は、最後に言った。
「マオ、たぶん私は、お前が好きだった」
引き金を引く。
響く発射音。
マオの体は弾かれたように跳んだ。――横に。
視認不能な速度で宙を走った弾丸は、コートを掠めて虚空へと消える。
琥珀の瞳が動いた先で、片足の脚力で跳躍した少年は屋上の柵に激突した。地面と平行に伸びる金属のポールに上体を預け、そのまま向こう側へと落ちる。
あとは一メートルほど足場があるだけ、その先は夜の奈落だ。
「マオ、まさかお前――馬鹿な真似はやめろ!」
叫んで銃口を向ける。揺れるレーザーポインタの光を胸に受け、マオはフッと笑った。
「何言ってるの? 殺そうとしてるのにさ。やっぱりC.C.は、ボクが好きなんだ――」
場違いに嬉しそうな声が耳に届いたとき、マオの体が視界から消えた。
「マオ――!」
C.C.は柵へと駆け寄り、ポールに手を掛けて跳び越える。
下を覗けば、少年の体ははるか下の歩道にあった。
ピクリとも動かない。内臓を痛めたのか、口から溢れた血が地面に広がっていった。まばらに通っていた通行人の一人が隣に歩み寄る。
そこまでを見届け、C.C.は空を見上げた。
「マオ、また私は……!」
拳を握ってそのまま一呼吸。
C.C.は踵を返して建物内へと走った。
マオの足には銃創がある。誰が見ても自殺とは判断すまい。急いで現場を離れなくては捜査の手が回ってしまう。
『C.C.、どうなった? マオは?』
「屋上から飛んだ。悪いがとどめは刺せなかった」
階段を駆け下りつつ報告する。
「だがこのビルの高さはお前も知っているだろう。少なくとも私はあれで生き延びるような人間を過去に見たことが無い」
『わかった。まぁ問題は無いだろう。脱出が難しくなるようなら詳しい状況を説明しろ。ルートを提示する』
予定が狂ってしまった。冷静にならねば離脱に失敗する。
これしきのことで自分を見失ってはならない。
(そんな弱さがあるから、私は――)
胸中で苦々しく呟き、C.C.は奥歯を噛んだ。
◆◇◆◇◆
租界に作られたその公園は、時間のせいかひどく閑散としていた。
月の光が淡く木々を照らし、洒落た外灯の明かりが敷き詰められたタイルの形をくっきりと浮きあがらせている。
ルルーシュは噴水の縁に座り、考え込むように茫とした視線で宙を眺めていた。
かすかに水のにおいがする。しぶきに冷却された空気が思考を落ち着かせてくれるような気がしていた。
「ルルーシュ」
掛けられた声に、横を向く。私服姿のクラリスが歩いてくるところだった。
C.C.から事情は聞いている。悠々と出てこられたところを見ると、スザクからの疑いは晴れたのだろう。
「お疲れ様。面倒を掛けたな」
「お互いにね。マオという人は?」
「もう終わった。問題ない」
「そう」
クラリスはすぐそばまで来て立ち止まった。ルルーシュは自分の隣を軽く叩いて示す。
「座るか?」
「ううん、歩きたいかな。駄目?」
「いや。どっちかって言ったら俺もそういう気分だ」
腰を上げ、立ち上がる。顔を見合わせ、どちらからともなく並んで歩き出した。
夜の風は水場から離れても涼やかに肌を撫で、心地良い刺激を与えてくれる。穏やかな気持ちだった。
恋人同士になるという話だったのに、思い返してみれば外でのデートらしいことなどした記憶がない。
兄妹としての言葉を交わさざるを得ない今が一番それらしいとは、現実とは皮肉なものだ。
これから話す事柄は決して楽しい部類の話題ではないだろう。クラリスも承知のはずだ。
なのに、妹と二人で歩くという状況だけで心が安らぐのだから、自分はもう本格的にひとりでは生きて行けないと思う。
クラリスに歩調をあわせてゆっくりと足を進めながら、ルルーシュは切り出した。
「――記憶、消すのか?」
マオには妹を信頼していると言ったルルーシュだが、それはあくまであの少年との比較の話に過ぎない。本気でマオの発言が出任せだと信じられるほど、盲目的ではなかった。
「そのつもり。――止める? ルルーシュがギアスを使えば、それだけで防げるけど」
「そういうお前は何で問答無用でギアスを使わないんだ?」
「……なんでかしらね」
苦笑しながら、ぽつりと言う。
韜晦しているのだろうか。それとも本当にわかっていないのだろうか。
いずれにせよ、事実としてクラリスは一方的に自分を押し付けることを選ばなかった。こうして話す場を設けてくれた。
ルルーシュはそれを彼女の気遣いと受け取っている。
「……俺はお前に、ギアスを掛けないよ」
「そっか」
「知ってたか?」
「そうだろうとは思ってたわ」
クラリスは小さく口元を緩めた。自然な微笑を浮かべた横顔はとても優しく見える。
「お前が何を考えてるのか、俺にはわからない。けど、俺とナナリーに向けてる笑顔が嘘だとは思えないし、ナナリーを一番に愛してるのだって、見てたらわかる。――だから、いいよ」
ルルーシュがブリタニアを打倒しようと誓った最大の理由はナナリーの存在だ。ナナリーが幸せに過ごせる世界を作りたいと願ったがゆえに、黒の騎士団を結成し、ゼロをやっている。
死亡を覚悟していたクラリスがエリア11に現れて、そこに理由がもう一つ重なった。
あの日、八年ぶりに妹の姿を見たルルーシュは、全てを受け入れて愛してやりたいと思った。あれからしばらく経った今、その想いは褪せるどころか、実感として深く心に根差すようになっている。
C.C.との契約の件をクラリスが黙っていたことは、見方によっては騙されていたと取れないこともない。それを知ってなお、ルルーシュの心は在り方を変えなかった。
もちろん驚きはしたし、疑問を感じもした。けれど、それだけだ。
「これはお前にとって必要なことなんだろ? お前がナナリーを害さないことだってわかってる。お前がC.C.と関わってる事実は消しようがないし、もしあいつがナナリーに何かしようとするなら、その歯止めはお前がやってくれる。だろ?」
「もちろん。そんなことは絶対にさせないわ」
クラリスは力強く頷いた。
「だったらもう、俺には拒む理由なんて無い」
ここでルルーシュが記憶を失えば、クラリスはゼロの代役を続けることになるのだろう。
止めたくないと言えば嘘になる。
しかし、クラリスの才覚を信頼もしていた。危険ではあるが、ギアスまで付いているのならそこまで案ずることもない。この先永久にというならともかく、骨折が治るまでのせいぜい数週間だ。
クラリスという不確定要素を抱え込むことで、ゼロの計画にいくらか支障の出る可能性はあるが、この活動自体がそもそも妹たちのことを想ったがゆえのものである。その手段のために目的そのものをないがしろにするなどありえない。
ギアスを使えばナナリーのトラウマを取り除き、彼女の目を開いてやることができるとわかっているにもかかわらず、ルルーシュにはその方法を実行に移す決心がつけられないのだ。人の心を操るギアスというのは、それほどまでに忌むべき力なのである。
妹が何を目標としているのだとしても、そんなものを使って無理やり意思を捻じ曲げてまで、クラリスを止めたいとは思えなかった。
「――だから、いいよ。消してくれ」
ルルーシュは言って立ち止まった。クラリスは数歩先まで進み、振り返る。
「理由は訊かないの?」
「聞いても忘れるだろ」
「そうね」
クラリスは少し寂しげに笑った。
「そんな顔するな。たまには頼っていいんだ。たった三人の、兄妹なんだから」
ナナリーにするように微笑みかけ、懐から手帳とペンを取り出す。
「自分に手紙を書いとくよ。俺のギアスで記憶を消したことにしておく。お前にも何か考えはあるんだろうが、こっちの方が面倒が無いだろ」
さらさらと、ペンを走らせる音だけが響いた。書くことを書き終えると、ルルーシュは顔を上げる。
「まだ何か、言うことはあるか?」
「ううん、何にも。ありがとう、本当に」
礼を言うクラリスの顔がなんだか儚げに見えた。
それはもしかしたら相手ではなく、自分が消えてしまうからなのかもしれない。
正確なところはわからなかったが、ルルーシュは妹を元気付けるよう、笑顔を作った。
「今日、短かったけどさ、楽しかったよ、お前と歩けて。だから今度また、誘ってくれ。俺は忘れてるだろうから、お前のほうから」
「――ええ、必ず」
クラリスはしかと首を縦に振る。
この晩ここで起きたことは、兄の記憶には残らない。ギアス――王の力は、同じ王たる資質を秘めた相手でも、例外なくその効果を発揮する。
しかし――だからこそ、今日の日を決して忘れまいと、少女は心に誓った。