父の死に顔は、それは悲惨なものだった。死因は生き埋めになっての窒息だろうと聞いた。
ナリタに置かれた仮設の遺体安置所でシャーリーが目にしたのは、見間違えようもない、父の亡骸だった。認めたくはないけれど、認めるしかなかった。
土砂に飲まれた際に傷ついたのであろう、ぼろぼろになった手。幼い日に優しく頭を撫でてくれたあの温かくて大きな感触を、シャーリーは鮮明に思い出すことができる。
その際に笑いかけてくれた父のいつくしむような眼差しを、忘れることなく覚えている。
でもそれは、もう記憶の中にしか存在しないのだ。
そう思うと、視界が滲んだ。ハンカチを目に押し当てると、涙に濡れて既に湿気を帯びている布地が、さらに湿り気を帯びていった。
どれだけ泣いても涙が止まりそうになかった。
アッシュフォードの寮に入ってからは滅多に会うこともなくなった父。いつも一方的に甘えていたばかりで、あまり孝行をした記憶もない。今更考えてもどうしようもないというのに、そんな後悔が浮かんでは消えていく。
瞳に溜まる雫をぬぐって顔を上げると、外は夜闇に沈んでいた。
ナリタからトウキョウ租界へと戻ってきた駅の構内。夕方までは晴れていた空に分厚い雲が掛かり、大粒の雨を降らせている。降りしきる雨滴が路面に弾け、周囲を白くけぶらせていた。
傘を買おうかと一瞬だけ考え、そのまま外に踏み出した。
風邪を引いて高熱で寝込んでしまえたら幸せなんじゃないかと思った。それに、雨に紛れてしまえば、きっと流れる涙も気にならなくなる。
自然と足が向いた先は、自室のあるアッシュフォード学園の寮ではなかった。とはいっても、他の目的地があったわけではない。ふらふらとさまよい歩いているだけだ。
どちらかといえば真面目で優等生なシャーリーは、一人で夜遊びなどしたことがなかったし、よしんば経験があったとしても、ずぶぬれになった服装で店に入ることはできなかっただろう。
せめて涙が止まるまではと考えたのかもしれない。もしかしたら本当に風邪を引きたいのかもしれない。
どちらなのかも判別できないほど、心がぐちゃぐちゃになっていた。胸の奥が掻き乱されて、思考が意味の無い空回りを繰り返して、自分が何をしているのかもよくわからない。
けれど。
――本当は誰かに縋りたかった。
それだけは間違いなくわかる。そしてその誰かが誰を指しているのかも。
慰めて欲しい。抱きしめて欲しい。全部、忘れさせて欲しい。
でも、してはならないと思った。
斜に構えているようで優しいところもあるルルーシュには、傷ついた友人を放っておくことなどできはしないだろうから。求めればきっと、シャーリーの望むままの行動を取ってくれる。
だからこそ駄目なのだ。そんな卑怯な手段で、脅しみたいな手を使って彼の体だけ手に入れて、それでいったい何になるというのだろう。ルルーシュにはたぶん、他に好きな子がいるというのに。
考えないようにしていただけで、心の底ではわかっていた。
ルルーシュがナナリー以外とあんなに親しくしているのなんて見たことがなかった。誰に対しても例外なく築いているはずの壁が、彼女――クラリスに対してだけは存在していない。
そして、クラリスがルルーシュに想いを寄せていることなど火を見るよりも明らかで。
二人がいずれ恋人になるのは当然の帰結と言えた。もしかしたらもう付き合っているのかもしれない。正直、自分の感情を抜きにすればお似合いだとさえ思える。
そんな中に要らない火種を放り込んでも、かれらとの関係をぎくしゃくさせる結果にしかならない。
幸か不幸か、そう判断できるだけの理性は残っていた。
そんなことを考えていたせいだろうか、あてども無く歩いて辿りついた先は、クラリスの家だった。
ふと思いつく。
彼女に黙ってルルーシュとデートをしたことを詫びたら、少しは気が晴れるだろうか。まったく罪悪感の無い行動だったわけではないのだ。比較で見れば微々たる物ではあるものの、胸の悪さの原因の一端にはなっている。
ルルーシュと同じく優しいクラリスは、父が亡くなったことを同時に報告したら、デートの件など咎めたりはしないだろう。穏やかな声で気にするなと慰めてくれるに違いない。
これも卑怯な手段だとは自覚している。でも、それくらいの救いは望んでもいいはずだと思った。
だってまだ、涙が止まらないのだから。
インターホンを押してみたところ、クラリスは不在とのことだった。中に上がって待つよう勧められたが、断った。クラリスがいないのなら、まだ雨に打たれていたい。
門柱にもたれていくらか経った頃、傘を差したアッシュブロンドの少女の姿が遠くに見えた。目の前までやってきたところで、涙混じりに訴えた。自分は悲しいんだよ、辛いんだよ、と。
ルルーシュとデートをして、それに罪の意識を抱いていることも仄めかした。
やっぱり、ずるいやり方だと感じた。
けれど少し、胸が軽くなった。
クラリスはしばらく硬い表情でシャーリーの方を見つめ、それからふっと微笑んでくれた。
「とりあえず、中に入りましょう。お風呂貸してあげるから。ね? こんなことをしていたら風邪を引いちゃうわ」
シャーリーは促されるままに広い浴場と着替えを借りた。
どちらも慣れない高級なものだった。良い香りのするソープを使い、わざわざおろしてくれたらしい肌触りのいい新品のスリップに袖を通したら、現金なもので、それだけで幾分落ち着きが戻ってきた。
元来明るい性格のシャーリーは、元々それほど暗い思考にとらわれることのできない性分をしている。
雨に打たれ続けるという非日常的な状況から、汚れを落としてさっぱりとしたいつもの自分に戻ったら、一緒に悲しさも流れ落ちていた。少なくとも涙が止まる程度には。もちろん全てを水に流せるはずなどない。
着替えを済ませると、シャーリーは使用人の女性に先導されてクラリスの部屋へと連れて行かれた。コンコンとノックの音が廊下に響く。
「お嬢様、ご友人様をお連れしました」
「ありがとう。入れてあげて」
扉越しの返答を受けて使用人がドアノブを捻る。
通された部屋の中では、料理の乗ったテーブルに着いたクラリスがニュース番組を見ながら待っていた。画面に映っていたのは復興途中のナリタからの中継のようだったが、詳しく確認する前にスイッチが切られた。
「ご飯まだだったでしょう? 食欲無いかもしれないけど、一緒に食べてくれない? ひとりで食べるよりシャーリーと一緒の方が私も楽しいから」
「あぁ、私の分まで用意してくれたんだ。じゃあ、うん、ありがと。ごちそうになります」
並べられた料理は一般庶民が自宅で食べるものとは明らかに違っていた。どこの高級レストランだと突っ込みたくなるような華やかさである。
とは言え、クラリスは普段からこういう食事を取っているのだろうから、遠慮するのもおかしな話だ。シャーリーは大人しく席に着いた。
「お酒もあるから、もし良かったら飲んで。ワインくらいだけど」
白ワインのボトルを手にとって、クラリスが悪戯っぽく笑う。
「よく飲むの?」
「いいえ、たまに。考えたくないことがあるときだけ。私は酔うとふわふわしてきてそのまま寝ちゃうのよ。――ああ、今日はもちろん寝ない程度にしか飲まないわよ」
そう言って胸の前で軽く手を振る。
「いくらつらくても、一晩寝て朝が来れば、だいたいは何とかなるものだから」
そういうものだろうか。
――そんなものなのかもしれない。
父を喪った喪失感には耐え難いものがあるけれど、だからといって後追い自殺を考えるほどかと言われれば、決してそれはない。
命を絶つ意思が無い以上、シャーリーの毎日はこの先も続いていくのだろうし、新しい朝を迎えるたびに、少しずつ、癒されていくのだろう。
たぶん、みんなそうやって生きているのだ。
だとしたら、一番つらい夜をアルコールで誤魔化すのは、たしかに賢いやり方なのかもしれなかった。
自分と同い年の女の子にしては、お酒との付き合い方がだいぶ大人びている。
こんな風に、たまにすごく年上のお姉さんと話しているような錯覚を味わわせてくれるのがクラリスだ。何を言っても笑って受け止めてくれそうな安心感がある。
今思えば、そういった印象がどこかにあったからこそ、ここに足が向いてしまったのかもしれない。
もし酔っ払って愚痴っぽくなっても、クラリスなら嫌な顔など見せずに付き合ってくれるのだろう。
「じゃあ、いただこうかな。飲みなれてないから、変になっちゃったら止めてね」
「どうしようかしら。変になったシャーリーを見ているのもちょっと楽しそうだわ」
「もう、そういうのはやめてよ」
ミレイやリヴァルがお酒を持ち出したら止める側に回ることの多いシャーリーだが、今回は厚意に甘えることにした。
テーブルに置かれたグラスに、クラリスがワインを注いでいく。気を利かせてくれたのか、使用人には部屋に近づかないように言い置いてくれていたようだった。案内をしてくれた女性も既に退出している。
自分も酌をした方がいいのだろうかと思い付いたときには、もうクラリスは二人分のグラスを満たしてしまっていた。
「それじゃあ、いただきましょうか」
そうして、二人きりの晩餐は始まった。
どれくらい経ったのだろうか。時間の感覚が曖昧だ。時計を見ると、深夜十二時近い。そういえば、クラリスの家に来たのは何時頃だったのだろうか。
早く帰らなきゃ、と思って、直後泊まって行く約束をしたのを思い出した。というか、そもそも泊まるのでなければこんな時間まで友人宅に居座っていていいはずがない。
「――そしたらね、お父さんったら『シャーリーにももっと好きな人ができるんだ』って言うのよ。私はこんなにお父さんが好きなのに!」
頭では時間のことを考えていたのに、口では変わらない調子で喋っている。その慣れない感覚が少し面白かった。
「ねえ、聞いてる?」
「ええ、聞いているわ。シャーリーはお父さんが大好きなのよね」
「うん、大好き。面と向かっては言えなかったけど、やっぱり、好きだったな」
本音を口にしたら、何度目かわからない涙が目に浮かんだ。けれど、いつからかその意味合いは変わってきていた。今はもう、雨の中を歩いていた頃とは明確に違うと自分でも感じられる。
どうしようもなく、ただ悲しくて泣いているのではなくて、父が死んだという事実を受け止めた上で、気持ちの整理をつけるための涙。泣いて泣いて、涙が枯れてしまったら、そこで一つの区切りが付けられるのだろう。
「……むあああああ! 黒の騎士団許すまじ! お父さん何にも悪いことなんてしてなかったっていうのに!」
「酷いわよね。でも、恨むなとは言わないけど、変に頑なにならないでね。黒の騎士団もシャーリーのお父さんを狙って攻撃したわけじゃないんだし。原因はブリタニアの側にも平等に存在しているわ」
「うん、わかってる。でも今日だけは言わせて。言わなきゃやってらんないの」
そう、本当はわかっているのだ。父は巻き込まれただけなのだから、復讐を考えたりとか、仇を討とうと画策したりするのは、少し筋が違う。もちろん黒の騎士団の心証は最悪になったが、それだけのことだ。
妙な妄念にとらわれたりせずに、父の死を受け入れて日々を平穏に過ごしていくのが、一番の餞になるのだろう。
何杯目かも覚えていない、半分ほどワインの入ったグラスを乱暴に唇に運ぶ。もはや味もよくわからない。甘味と酸味が絶妙に混ざり合っていたはずのそれは、今となってはただ思考を鈍化させるだけの液体だ。
「それ飲んだらもう終わりにしなさい。お水持ってきてあげるから」
「えー、やだぁ。もっと飲むー」
「明日はお母様のところに行くんでしょう」
「行きたくない」
唇を尖らせると、クラリスは大げさに息を吐いて見せた。
「朝起きても行きたくないんだったらウチで休んでていいから。今日はもう寝た方がいいわ。これ以上飲んだら体壊しちゃう」
クラリスの言には一理も二理もある。どう考えてもそれが正しい。そうと理解できても、素直に従うのはなんだか癪だった。クラリスの目が妄想で思い描いたことのある理想の姉みたいな優しい色をしていたから、甘えてみたくなったのかもしれない。
「じゃあさ、一緒に寝て。あのおっきなベッドで。ならやめたげる」
やたらと広い室内に置かれている、天蓋突きの豪勢な寝台を指差す。小さく見積もってもセミダブルはありそうだった。
「本気?」
「独りになったら、変なこと考えちゃうかもしれないから」
これは本心からの言葉だった。
もしも今日クラリスのところに来ずに独りでいたら、もしくは別の人と過ごしていたら、こんなに明るい――と言ってしまうと語弊があるが――気分にはなれていなかっただろう。数時間前の自分と照らし合わせると、魔法でも使われたんじゃないかと疑いたくなってしまうくらいの変化だ。
「どうせなら最後まで面倒見て。今日だけでいいから。感謝してるよ、ほんとに」
アルコールでふやけた脳に鞭打ってはっきりと告げる。クラリスは予想通り、柔らかく微笑んで言ってくれた。
「仕方ないわね、今夜だけよ。私は安くないんだから」
それからしばらくして、クラリスとシャーリーは同じベッドに入った。
酔っていたのに加えて疲れもあったのだろう。横になるとシャーリーはすぐに寝息を立て始めた。家族を失くした当日にしては、寝顔は殊のほか安らかだった。
こうして何事も無く寝付いたかのように見えるシャーリーだが。
実はこの晩、クラリスがギアスを使用した回数は十度以上に上る。ネガティブな方向に落ちて行きそうになるたびに、会話をやり直して思考を誘導していたのである。
むろんその事実は、クラリス本人以外に知られることは無かった。
◆◇◆◇◆
「彼は、敬虔なる神の信徒であり、我らの良き友人であり、また、妻にとっては良き夫であり、子にとっては良き父でありました」
トウキョウ租界のとある霊園に、十数人の人間が集まっていた。シャーリーとその母、エリア11に在住しているフェネット家の親類、故人の友人知人、神父他、葬儀を執り行う業者の人間。それに、アッシュフォード学園生徒会の面々である。
居合わせた人々の心境を映し出すかのように、空は鈍く曇っていた。
「――それでは、彼の眠りの安らかならんことを」
最後の挨拶が済み、墓穴に収められた棺に土がかぶせられる。粛々と進められていく作業に耐え切れなくなったのか、故人の妻が「もう埋めないであげて」と泣きながら地面に膝をついた。シャーリーがなだめるようにその肩を抱く。
ルルーシュは表情を殺して、その様子を眺めていた。
胸の悪くなる光景だった。
疑いようもない。誤魔化しなど利かない。
この惨状を作り上げたのは、他ならぬルルーシュだ。
それをどう受け止めていいのか、心の整理が付いていなかった。
覚悟していたはずだった。理解していたはずだった。
これまでも手にした銃で実の兄を殺し、ナイトメアの武装で敵兵を葬り、そしてギアスの力で幾人もの命を絶ってきた。
人の死に心を痛める段階などとうに過ぎたと思っていた。
だが、そうではなかったらしい。
親しい友人の父を死に追いやり、それに嘆く人々の姿を見て、そしてようやく、ルルーシュは『人を殺す』ということの意味を正しく知った。
人を殺すという行為とその結果。それは、これほどまでに重いものなのだ。
だからといって今更やめられるかと言えば、やめられるわけがない。
ブリタニアをぶっ壊すと強く宣言したあの日の決意はそんな脆弱なものではない。なんとしてでも妹たちが幸せに過ごせる世界を作り上げねばならないのだ。
それは絶対の誓いだった。
だからこその苦しみである。
やめられないと確定しているのに、その行動がおのれの胸を刺すのである。
きつく奥歯を噛み締めているうちに、埋葬が終わったらしい。喪服姿のシャーリーが生徒会の面々の前にやってきた。
その顔は意外に晴れ晴れとしていた。一仕事終えたというか、故人への別れが済んで、一つの区切りが付いたのかもしれなかった。
どちらかといえば、他のメンバーたちの方が深刻な面持ちをしている。ミレイとクラリスはそうでもないようだったが。
「……あの、シャーリー」
こらえきれないように、カレンが小さく呼びかけた。
シャーリーの父を葬った土砂災害の直接の引き金を引いたのは、紅蓮を操っていたカレンである。おそらくルルーシュと似た心境に陥っているのだろう。
「なに? カレン」
首を傾げるシャーリーを見つめながら、カレンは拳を握り締めた。そして迷うように一度まぶたを閉じる。
わずかに流れた沈黙の後、カレンはしっかりと目を開けた。
「いいえ、なんでもないの。この度は、ご愁傷様でした」
――強い。
ルルーシュは素直にそう感じた。
安易な謝罪に走らず、それでいてシャーリーと――おのれの罪と真っ向から向き合って見せた。他の者にはわからずとも、ルルーシュの目からは罪を受け入れた上で前に進もうとする強い意志が感じ取れた。
カレンには自らの行動を正しいとするたしかな信念が、そのために犠牲を伴う覚悟があるのだろう。
対してルルーシュは一言も発せない。ただ事態が推移するのを無言で眺めているだけである。
するとリヴァルが横から一歩出た。
「あの、なんか、ゴメン。俺、ホテルジャックのとき、テレビとか見てて、黒の騎士団ってちょっとカッコイイかも、とか思ってて。掲示板でも、スッゲーとか、適当なこと書いちゃったりして」
「いいよそんなの。全然関係ないって。私だってホテルのときはすごいなって思ったりもしてたから。助けてもらったしね」
「あ、うん、そっか」
シャーリーの返答はこれ以上はないほどに前向きだった。肩透かしを食らったかようにリヴァルの口が止まる。
自然と生まれた会話の隙間に、ミレイがぱんぱんと手を叩いた。
「ほーら、みんなそんなに辛気臭くなんないの。本人がいいって言ってるんだから、その話はもうこれでおしまい! シャーリーもその方がいいよね?」
「はい。もう、いっぱい泣きましたから。いつまでもうじうじしてたって、お父さんもきっと喜ばないでしょうし」
ミレイはこういったときの空気を読む能力に長けている。彼女が問題ないと判断したのなら、シャーリーは本当に大丈夫なのだろう。
「良い泣き方したのねー。シャーリーなら立ち直れると思ってたけど、こんなに早く吹っ切れるとは思わなかったわ」
「自分でもちょっと驚いてます」
「なんかヒミツでもあるの?」
ミレイが好奇心たっぷりに訊く。シャーリーははにかむように少しおもてを俯かせた。
「一番酷かったときに、クラリスが一晩付き合ってくれたんです。たぶん、それのおかげ。あんまり大きい声じゃ言えませんけど、お酒を飲ませてくれて。添い寝までしてくれて」
そう言い終えるか終えないかというとき、ルルーシュのそばから「え?」と小さな声が上がった。
隣にいるのはニーナである。視線を移すと、なぜか驚いたような顔をしていた。
「……どうした?」
「う、ううん。なんでもない」
尋ねてみると、ニーナは慌てて首を振る。
「そうか」
追求すれば別の返答が出てきそうな態度だったが、ルルーシュには人の内面をほじくり返して喜ぶ趣味はなかったし、心境的にも他人に関わっていられるような状態ではなかった。
「……ルルーシュは」
会話を終わらせたつもりだったところに、ニーナの方から声が掛かる。
「ルルーシュは、クラリスがシャーリーと一晩過ごしたって聞いて、何にも思わないの?」
「ん? 女同士だろ。何を邪推したらいいんだ?」
「そう……だよね。ごめん、変なこと聞いた」
「いや、気にしないでいいよ。ちょっと恥ずかしいけどね。それだけ俺がクラリスと仲良いように見えてるってことだろ?」
「……うん。そうかも」
ニーナは呟くように答え、それきり口を開かなかった。
結局ルルーシュはシャーリーとろくに話をしないまま、アッシュフォード学園へと帰ることになる。
◆◇◆◇◆
ディートハルトはHi-TVトウキョウ支局の資料室で一枚の写真を眺めていた。ジェレミアより身元確認を依頼された例の少女が写っているものである。
クラリス・アーベントロート。
その名前はすぐに判明した。
ホテルジャック事件の現場となったコンベンションセンターホテルには宿泊客の名簿が無事に残っていた。有力テレビ局のプロデューサーとして世の中の表も裏も見てきたディートハルトにしてみれば、存在している個人情報を吐き出させることなどさしたる難事ではない。
ただ、そこからが問題だった。
クラリス・アーベントロートはどの線を辿って洗ってみても、ただの『クラリス・アーベントロート』でしかなかった。
無論、大勢の護衛がついている子爵家の令嬢を確証も無い段階で直接見張ることなどできるはずがない。下手を打てば身の破滅である。
書類上からと間接的な聞き込みからの情報で得た結論は、件の少女はやはりただのクラリス・アーベントロートだということであった。
つまりは、近年頭角を現し、経済界に一躍名を馳せたアーベントロート子爵――その一人娘であると。
ジェレミアとの接点などどこにも見あたらない。
普通に考えれば、書類などには載らない、本当にプライベートな知人なのだとするのが自然ではあるが――。
(しかし、何かがおかしい)
長年情報というものと密接に関わりあってきたディートハルトは、そこに何らかの違和感を覚えていた。
どこが、とは断定できない。人に説明しろと言われても難しい。ただ何か、心に引っかかるものがあった。
ディートハルトはおのれのそういった感覚を信じることにしている。今回も例外ではなかった。
ジェレミアには既に調査結果を伝えてある。ナリタの失態で謹慎中と聞くから今すぐの行動は叶わないだろうが、いずれ処分が解ければ動くだろう。
そのタイミングが勝負だと考えている。
黒の騎士団に有用な情報は一つでも多く欲しいのだ。結果が空振りなら空振りでもいい。疑わしい部分には目を光らせておくべきである。
それがディートハルトの方針だった。
写真をしまい別の資料に目を通していると、部屋の外からバタバタと慌しい音が聞こえてきた。
椅子から立ち上がり、扉を開ける。廊下に出ると、丁度資料室を通り過ぎようとしているかつての部下の姿があった。
「おい、何があった?」
「あぁ、ディートハルトさん。政庁から連絡が入ったんですよ。日本解放戦線の片瀬の足取りが掴めたって。これから特番の準備です。――あぁ、すみません、ディートハルトさんはもう関われないっていうのに」
「いや、構わんさ。頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
昔の仲間は会釈をして走り去っていった。その背を見送り、ディートハルトはニヤリと笑む。
ナリタの件に続き、ふたつめの大きな情報。これで黒の騎士団の信用も幾らか得られるだろうと。
結果から言えば、かつての部下が漏らした情報は、ディートハルトに予想以上の成果をもたらした。
アジトの一つに招かれ、直接トップと対面する機会を与えられたのである。
夢にまで見た仮面の男。その姿が眼前にある。画面越しではなく、カメラ越しではなく、手の届く距離に厳然と。
避けようも無く湧き上がる興奮を理性で宥めつつ、ディートハルトはゼロの前に立っていた。
「情報提供者――ディートハルトと言ったな」
「はい。お目にかかれて光栄です、ゼロ」
「コーネリアが海兵騎士団を投入し、解放戦線の片瀬少将の捕獲を目論んでいる。本当なんだな?」
「はい、局では報道特番の準備に入っています」
見つかった片瀬は現在タンカーでの国外脱出を図っているらしい。ナイトメアの積載はなく、積荷の大部分は流体サクラダイト。
どの国に行っても貴重な資源として扱われるかの物質は、どんな貨幣よりも資金としての価値は高い。それを元手に他国からの保護を受けようというのだろう。もしくはどこかに潜伏しようというのか。
「……片瀬は結局藤堂と合流できず終い。つまり今の解放戦線に確たる武力は無い。逃走資金代わりの流体サクラダイトのみが頼り――」
考え込むように言葉を切ったゼロに、扇が尋ねる。
「どうする? ゼロ」
「我々は黒の騎士団。ならば答えは一つ。片瀬少将を救出した上で、コーネリアの部隊を叩く!」
自信に満ちたゼロの回答を聞き、ディートハルトは自分の持つゼロへの認識がとりあえずは間違っていなかったと安堵する。
ゼロが予想通りの人物であれば、ここでの返答はそれ以外になってはならないのである。
正義の味方を自称する以上片瀬を救出しないという選択肢は存在せず、また奇跡を見せ続ける男としてはコーネリア軍に打撃を与えないという結果では今ひとつ弱い。
問題は、それをどこまで本気で考えているかである。あるいはどうやって実現するか。
少なくとも、ディートハルトの頭脳では正攻法でその両方を成立させる手段などどうやっても思いつけない。
「作戦行動の詳細は追って出す。扇は出撃の準備を進めてくれ」
「わかった」
頷きを返す幹部の男を見ながら、ディートハルトは鋭く目を光らせた。
(ゼロ、ここで貴方の真価がわかる。私としてはただの理想論者でないことを願うばかりだが――)
◆◇◆◇◆
ナナリーとの夕食を終えて部屋に戻るなり、ルルーシュはソファに座り込んで一切身じろぎをしなくなった。考え事をしているにしては目の色が淀んでいる。食事の最中には笑顔を取り繕っていたものの、ナナリーも何か感付いているようだった。
(クラリスから聞いてはいたが、ここまで腑抜けるとはな)
C.C.は契約者の少年から視線を外し、呆れたように嘆息する。
これで潰れてしまうようならとんだ見込み違いだが、もう一人の契約者はおそらくそうはならないと言っていた。
クラリスの予想はあくまでも予想である。彼女本人の口から聞いたことこそないものの、C.C.の見立てではそろそろ例の『未来知識』からも乖離し始めている。
だが、それでもクラリスの知識は強い。なぜなら人の本質というものを予め知らせてくれるからだ。
スザクが信用できないと初対面――いや、対面せずとも断じられたのと同じ。
クラリスが立ち直れると判断したのだから、ルルーシュは立ち直れるだけの資質を秘めているのだ。
とは言え、このまま放置しておくわけにも行かない。部屋の雰囲気がじめじめとしてたまらなかった。
ベッドの上でクッションを抱え、C.C.は訊く。
「――悔いているのか? 友人の父親を巻き込んだことを」
「……黙れ」
「やめたくなったか? あれだけの人間を巻き込んでおいて。殺しておいて」
「……黙れと言っている」
ルルーシュの口から漏れるのは搾り出すような声である。相当参っているようだ。
しかしC.C.には慰撫してやる気など一切無かった。クラリスからも発破を掛けるよう頼まれているし、それが無くとも、覇気を失ったままのルルーシュではC.C.の願いに届かない。他人に縋るのではなく、自力で殻を破ってもらわねばならないのだ。
ゆえにC.C.は殊更に冷たく言う。
「ゲームのつもりででもいたか? お前はこれまでも多くの人間の命を絶ってきた。その手で。あるいはその言葉で。そいつらにも家族はいた。恋人も友人も。まさか、理解していなかったとでも言うつもりか?」
嘲るような口調。ルルーシュはソファを軋ませて荒々しく立ち上がった。
「黙れ! わかってる! 全部わかっているさ! 今まで俺がしてきたことも、その意味も! 今更やめられるわけがないってことも! だから俺は……ッ!」
「その罪を忘れないように、心に刻みつけよう――か? 経験から言うがな、そんな行為に意味は無い。お前が自分を責めても死んだ人間は生き返らんし、お前の認識がどうであれ、お前の罪が消えることはない」
激昂するルルーシュとは対照的に、C.C.はどこまでも冷淡だった。
「いくら悔いても得られるのはお前の心の安息だけだ。大量虐殺をしてもまだ自分は人間らしい感情を持っている、罪の意識に苛まれる良心を持っている――そうやって自分を悲劇の主人公にして慰める。そんなものは私に言わせればただのオナニーだ」
鼻先で笑い、口の端を釣り上げる。
「ああ、口先だけの頭でっかちな童貞坊やにはそれがお似合いか?」
ルルーシュの体が弾かれたように動いた。C.C.の肩を掴み、そのままベッドに押し倒す。ふわりと舞ってシーツに落ちるライトグリーンの長髪。白い手に掴まれていたクッションがばさりと床に転がった。
「――私を犯すか? また一つ意味の無い罪を自分に刻むのか? そしてあとで謝罪して救われた気分になるのか?」
C.C.はただ言葉を紡ぐ。怒りに満ちたような、今にも泣き出しそうな、それでいて奥に燻る炎を宿した少年の瞳をまっすぐに見据え、ただ淡々と。
「世界を変えたいのだろう? なら動けルルーシュ。歩みを止めるな。志を持ち続けろ。それがお前が殺してきた人々への、唯一の餞だ」
交わり続ける視線と視線。
ルルーシュの歯はきつく食い締められている。憤怒の形相のようでもあり、圧し掛かる責め苦を撥ね退けようと力む地獄の囚人のようでもあった。それはまさしく少年の葛藤を表していたのだろう。
ルルーシュは良くも悪くも頭の良い人間だ。理性的で、打算的で、『結果は何よりも優先する』などと本気で口にできる。だからこそ、自分を責めるという行為に何ら建設的価値が無いということを嫌でも理解してしまう。
それが幸せか不幸せかは置くとして、この少年がルルーシュという少年である以上、結論は始めから決まっていた。
やがてルルーシュはC.C.から視線を外し、ベッドを降りた。ソファに座りなおした彼の顔つきは、先ほどまでとは明らかに違う。まだまだ頼りなくはあるものの、ルルーシュ本来のふてぶてしさがたしかに戻ってきていた。
「……報告を寄越せ。キョウトの動きはどうなっている。まだ何の音沙汰もないのか」
何事も無かったかのように要求する姿に、C.C.は小さく笑みをこぼす。プライドの高いルルーシュらしい行動だった。
今ばかりは突っ込んでやることもあるまい。
「あぁ、その件だがな、言い忘れていた。既に片がついている」
「何?」
「数日前、ゼロはキョウトの代表と会談し、全面的な支援の約束を取り付けた。ゼロがお前だとはばれていない」
ルルーシュが目を見開く。
「馬鹿な、どうやって……!? いや、その前になぜ事前に相談しなかった!」
「話したら止めただろう?」
「当たり前だ、他人の立てた不確定な策になど乗れるか!」
「だからだ。お前を信用させる手段が無かった。だが私には確実に成功させられる確信があった」
これについては、ルルーシュに強く咎められることは無いだろうというのがクラリスの予想だった。怒りはするだろうが今までの関係に支障をきたすほどではないと。
なぜなら、ルルーシュ本人が出て行けない――つまり、ゼロの正体を明かせない、ギアスを使えない、この条件下で今回以上の結果を望むことが不可能だからだ。クラリスはそう語った。
結果を重視するルルーシュだからこそ、この奇跡のような成果を無視することはできないと。
「……どうやった?」
「協力者を使った。悪いが詳細は明かせない。個人的な伝手だ。安心しろ、そこから情報が漏れることは絶対に無い」
返答を聞くとルルーシュは舌打ちする。事後報告というものは彼の管理外の出来事だ。どうやっても取り返しがつかないとわかるからこそ苛立つのだろう。
「――ギアス関係者か?」
「それについては黙秘させてもらう」
「関係者だな。その反応でバレバレだぞ。そもそもギアスでもなければゼロの正体を明かさずにキョウトからの全面協力など取り付けられるわけがない。腹立たしいがたしかにその結果はこれ以上は無い最善のものだ」
ルルーシュは面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。
「つまり、俺のほかにもお前と契約したやつがいるってことだ」
紫水晶の瞳が鋭さを帯びる。
「何人だ? 契約の内容は? 俺と同じなのか?」
射抜くような視線がC.C.を刺した。
C.C.は答えない。
「答えろC.C.!」
わずかに流れる沈黙。
C.C.は億劫そうに口を開いた。
「私に当たるな。腹が立つのは察するが、もっと冷静になれ」
「お前が熱くさせてるんだろうが!」
「どうだか。シャーリーの父親を殺したこともまだ整理しきれていないんだろう?」
向けられる怒気を受け流し、C.C.は不敵に笑う。
指摘が図星を突いていたのか、ルルーシュは低く唸って言葉を止めた。
「とにかく、この件に関しては何を言われようがお前に話すつもりは無い」
C.C.がこれで終わりとばかりに淡々と言うと、ルルーシュはそれ以上を求めずに引き下がった。いや、引き下がらざるを得なかったのである。
現時点に限って言えば、立場が上なのは確実にC.C.の方である。ゼロの代役という替えの利かない役目を務めている――とルルーシュが信じている――彼女には、それを辞めるというカードを切ることができる。そうなってしまえばルルーシュはお終いだ。
C.C.に降板の意思は無いが――元々やっていないのだから降りるも何も無い――ルルーシュはおそらく、勝手気ままな魔女に対してそういうことをあっさりと言いかねない人間だという認識を持っているだろう。
「……我侭な女め。キョウトの件はあとで詳細を提出させろ。今はそれで勘弁してやる。それから、今後は絶対に勝手なことをするな。一度俺に判断を仰げ」
「ああ、そうしよう。これをどうするかはお前が決めろ。――最新情報だ」
C.C.は袖口からディスクを取り出し、ルルーシュに放り投げた。
「日本解放戦線の片瀬が流体サクラダイトを積んだタンカーで国外逃亡を図っている。コーネリアは海兵騎士団を使っての捕獲を目論んでいるらしい」
『お前が決めろ』と最前口にしたC.C.だったが、この件については実は片瀬を爆殺する方向に誘導するようクラリスから要請されていた。違う展開になるとディートハルトの忠誠心に悪影響が出るかもしれないからと。
どうやらその男は非常に有能らしく、ゆえに行動が読めないと逆に厄介になる可能性が高いとのことだった。
「私としては自決に見せかけての爆殺を進言する。下手に落ち延びさせて勝手な行動を取られても面倒だろう。やつが生きていては藤堂を引き込むこともできない。生きたトラップとして使うのが、一番効率の良いやり方じゃないのか」
C.C.はもうしばらく前から、未来がクラリスの知る道を辿る可能性は限りなく低いと見ている。しかし、だからといって積極的に脱線させてやろうというつもりも無かった。
「どうする? これ以上罪の意識に苛まれたくないのなら、逃亡の手助けをしてやるのもいいとは思うが」
「もうそれは言うな。お前の言うとおりだ。たしかに悔いても意味は無い。そんなもので世界は変えられない。――俺は決めたさ、人の死にいちいち足を取られたりなどしない、修羅になってみせると」
毅然として答えたルルーシュの瞳には、確たる意志の光が覗いていた。
◆◇◆◇◆
トウキョウ租界近郊の夜の港。
幾らか経って、ルルーシュはサザーランドのコクピットの中にいた。作戦区域近辺の哨戒に当たっていたブリタニア軍の兵士からギアスで奪い取ったものである。
不測の事態が起こった際にはここからゼロの機体に指示を送る手筈になっている。奇襲を仕掛ける側の黒の騎士団にECMを使用する予定がないのだから、普通に考えれば通信手段は確保できる。
今回の作戦は戦闘行為である。可能なら直接指揮を取りたかったが、それには多大なリスクを伴う。それゆえの苦肉の策であった。
片手による操縦ではナイトメアを満足に操ることなどできぬし、となれば敵に不覚を取る危険性が格段に高くなる。そうでなくとも腕を庇う動きからカレンにゼロイコールルルーシュと疑われないとも限らない。万一正体を見破られてしまえば全てが終わりだ。妹にまで類が及んでしまう。
妹たちを危険に晒す事態と黒の騎士団が戦闘で大負けする事態、どちらがマシかと聞かれたら、考えるまでもなく後者だった。
もっとも、ルルーシュは今作戦で敗北を喫するとは考えていない。
(この機体に登録されていた機体情報と位置情報。これによりブリタニア軍の行動予測は絞り込める)
海兵部隊によるタンカーへの強襲で片瀬を確保。その後、陸戦部隊で残存兵力を叩こうというのであろう。
無論片瀬に気取られぬようにという配慮もあるのだろうが、ブリタニア軍の布陣は無数に立ち並ぶ倉庫群を遮蔽物にしての広く浅いものだ。中心位置となる片瀬のタンカーへは無類の威力を発揮するだろうが、側面からの備えは決して上等とは言えない。
(戦闘というよりは殲滅。コーネリアめ、黒の騎士団の介入は想定していないと見える。ナリタのときもそうだったが、あのディートハルトという男――使えるな。取り立ててやるべきか)
それも今回が罠でなかったと結果が出てからである。まずは今夜を乗り切ることだ。
状況確認を終えると、ルルーシュは通信のスイッチを入れた。機体に備え付けのものではなく、自前で用意したものだ。
「C.C.、本当にナイトメアの訓練はしていたんだな?」
「何度も言わせるな。直接戦闘にならなければ問題はない」
返ってくるのは不遜な魔女の声ではない。仮面越しの怪しい男の声だ。
「……ぐっ」
「どうした?」
「……自分の声と会話するというのは、想像以上に気持ちが悪いな」
「そんなことを言いに連絡を寄越したのか?」
「いや、最終確認だ。手順は頭に入っているな? 聞きたいことがあれば今聞いておけ」
「完璧だ。大人しくそこで見ていろ」
タンカーの船底に仕掛けた爆弾を遠隔操作で爆破させ、積荷の流体サクラダイトに引火させる。その爆発でタンカーを攻撃していた海中戦力を無力化し、生まれるであろう混乱に乗じてコーネリアを叩く。
それが今回ルルーシュが立てた真の作戦だった。『真の』というのは、黒の騎士団には『片瀬を救出してコーネリアを討つ』という正攻法しか伝えていないからだ。
「何度も言うが――」
「前線には出るな、だろう? 自分の実力くらいわかっている。深追いもさせない。適当な戦果を上げたところで引き上げさせる」
本心を言えば、今夜コーネリアを生け捕りにしたい。それが最善ではある。とは言え、こちらが万全の状態でない状況であえて難度の高い目標を設定することもない。無論団員たちには最上を目指すよう命令させたが、それは建前である。
そこまで話したところで、サザーランドに通信が入った。これより作戦に移るとのことである。
「よし、作戦開始だ。頼んだぞ、『ゼロ』」
「任せろ」
紅月カレンは紅蓮の操縦桿をきつく握り締めた。
戦闘行為は既に開始されている。いや、あれは戦闘ではない。一方的な蹂躙だ。ナイトメアと従来兵器との戦いとは、十中八九がそういう展開になるものだ。
ブリタニア軍の水中用ナイトメア、ポートマンが片瀬のタンカーに取り付き、船の推進力を奪っている。陸上からの射撃が甲板で応戦する旧日本軍の兵士を殺戮していく。ミサイルランチャーを抱えた男が血しぶきを上げて海に転落していくのが見えた。
助けに入りたくないと言えば嘘になる。叶うものなら今すぐにでもコーネリアの所に打って出て状況を変えてやりたい。
だが、カレンは既に決めていた。ゼロの手足になろうと。
命令が降りてない以上、いくら動きたくても行動してはならない。
シンジュク事変で夢を見せてくれた謎の男は、その後も次々に奇跡とも思える偉業を達成し、いまだその歩みを止めていない。その先にはきっと日本の未来があるのだ。
そう信じ、ゼロに賭けようと決心したからには、その道程を妨げてはならない。その命令に疑問を持ってはならない。
加えて紅蓮弐式という最新兵器を託された自分は、戦術上非常に重要な位置を占める。だからこそ、その行動に一瞬の躊躇いも覚えてはならないのだ。
――ゼロの命に無条件で従う。その過程で生まれる犠牲を厭わない。
紅月カレンという少女が胸に固く抱いた、信念とも呼べるものだった。
しかし、その想いが強固であるからこそ、彼女は気付かない。それが思考を他人に丸投げにする、一種の逃避であるということに。
ブリタニア軍のポートマンが次々とタンカーに取り付き、直接の侵攻を開始する。
状況の変化を待つカレンに、ついに指示が入った。
「出撃!」
ゼロの合図と共に、黒の騎士団のナイトメア部隊を乗せた輸送用のボートが、コーネリアの本陣へと向けて発進する。
次の瞬間、カレンの体に鈍い振動が伝わってきた。波のうねりによるものではない。それとは別、空気の震えだ。舟の外では激しい風が吹き荒れている。
片瀬の乗ったタンカーが爆発炎上していた。ピンク色の炎色反応を見るにおそらくはサクラダイト。
「片瀬少将、さすがだな。ブリタニア軍を巻き込んで自決とは。――日本解放戦線の血に報いたくば、かれらの遺したこの機を逃すな! 敵戦力が態勢を整える前に、ナイトメアを海に叩き落せ!」
ゼロの声に後押しされながら、カレンはファクトスフィアの捉える敵陣を鋭く見据えた。
◆◇◆◇◆
――時は過ぎ。
ひと気のない倉庫裏にサザーランドを運び、周囲を確認する。どうやら巡回のナイトメアはここまでは来ないようだった。ならば問題はない。生身の人間が相手なら片腕だろうがギアスでどうとでもなる。
ルルーシュはコクピットを降り、先ほどまでを振り返った。
作戦は概ね想定の範囲内で展開し、そのまま終了した。黒の騎士団側の被害はきわめて軽微、対してブリタニア軍に与えた損害は甚大である。やはり流体サクラダイトの威力は凄まじく、作戦に参加した海兵部隊は壊滅状態と言ってもいい。
コーネリアを捕らえることは叶わなかったが、それも予想の範疇。白兜の戦闘データを取ることもできた。次に戦うときにこちらのカードが揃っていれば、もはや奴に勝ち目はない。
(それにしても――)
ルルーシュの思索はさらに時間を遡る。
考えるのはC.C.のことである。
自室で腐っていたルルーシュを小馬鹿にしてくれた。そのおかげで目が覚めたというか、奮起する気力が湧いてきたのだから、それ自体には感謝はしている。面と向かって言ってやる気などないが。
問題はそのあとだ。
――キョウトとの交渉。
協力者を使って最上の返答を引き出したと言っていた。
その結果はたしかに評価に値する。直接の対面ができない状態のルルーシュでは絶対に不可能なことをやってくれた。
だがしかし。
(あいつは俺のために自分からそんな積極的な行動を取る女だったか?)
C.C.は過去何度かルルーシュの窮地を救うために自発的に動いたことがある。
サイタマでコーネリアに捕まりかけたときに逃亡の手助けをした。ナリタの件でもジェレミアから逃れるのに手を貸した。限界まで遡れば、シンジュクでギアスを渡したあと、身を呈して銃弾に撃たれたのもそうだったのかもしれない。
しかし、それらはルルーシュの身の安全に危機が迫ったからこその救援だったのではないだろうか。ルルーシュはそう判断していた。あの魔女はことあるごとに『お前に死んでもらっては困る』と口にしている。
(それに、『協力者』と言うのも怪しい)
ギアス関係についてはこれまでも必要以上は一切口にしなかったC.C.だから、詳細を明かせないという言葉が出て来るのはわかる。
隠し事は多いがその分嘘は吐かないのがあの魔女である。情報の漏れる心配がないというのなら、本当にそうなのだろう。
だからといって疑わしい印象を持つなというのは無理がある。
そしてもう一つ。
今夜のブリタニア軍の動きについての情報を渡してきたとき。
(あのとき、C.C.は『自決に見せかけての爆殺を進言する』と言った。その策は正しい。理に適っている。俺もそう考え、そうするよう指示を出した。だが――)
C.C.が今まで、作戦行動に関して問われる前に自分の意見を出してきたことがあっただろうか。
(俺の考えすぎかもしれないが、最近のあいつは何かおかしい――)
「――おい、止まれ! そこの少年!」
考え事をしながら歩いていると、前方から停止を呼びかけられた。銃を構えた軍人らしき男である。
「どうやってこのエリアに入った! ここはブリタニア軍の作戦区域だぞ!」
「どうやって? 簡単なことさ。お願いしただけだよ、『通せ』とね」
ギアスを乗せて言葉を投げる。男は銃を降ろして脇に退いた。
「……わかった。通れ」
するとコンテナの陰になっていた暗がりから声が掛かる。
「おい、何を言っている!?」
(もう一人いたのか! 面倒な!)
新たに現れた男に視線を合わそうと、ルルーシュは薄闇に目を凝らす。
その瞬間、銃声が耳に届いた。サプレッサーを通した小さな音である。
ギアスを掛けようとしていた男が側頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちる。次いで再度銃声が鳴り、ギアスに縛られたままの男が正気に戻る前に絶命する。
事態を把握したルルーシュは身を翻してコンテナの陰に滑り込んだ。
襲撃者の正体は不明ながら、警告も無しに発砲するところから判断するに軍人ではない。厄介な相手だが、勝機は十分にある。目を見さえすれば勝ちなのだから。
こちらから話しかけて反応を窺うべきか、だとすればその際の第一声は――。
わずかな時間で練り上げた策。それが実行に移されることはなかった。その前に相手が行動を起こしたのである。
「――駄目だねェ、ルルーシュ。全部ギアスで片をつけようとするから」
『ルルーシュ』。『ギアス』。聞き捨てならない二つの単語を口にしながら、そいつは姿を現した。
「一思いに撃っちゃった方がいいときだってあるんだよ? それともまだ、人を殺すのに躊躇いを持ってるのかなァ?」
足元まで伸びる白いコートに、首の裏で一括りにした白い髪。
そしてその顔を見たとき、ルルーシュは自分の活路が急激に狭まったのを感じた。
きわめて透過率の低い濃紫のサングラスをつけている。あれではギアスは掛けられない。
ルルーシュの焦燥を他所に、現れた少年は悠然と言った。
「はじめまして、ルルーシュ・ランペルージ君。いや、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア殿下とお呼びするべきかな?」
(何だこいつは……!? どこまで知っている!?)
内心の衝撃を押し殺し、ルルーシュは怪訝な顔を作る。
「ヴィ・ブリタニア? 誰か別の人と間違えているんじゃないですか? 僕はただの学生で、ここに来たのもただ迷い込んだだけで……。そんな高貴な名前なんて――」
「C.C.は怪しいよねェ。キミに黙って勝手なことをした。もしかしたら今もしているかもしれない」
「なっ、貴様なぜC.C.のことを――!?」
思わず飛び出る本音。だが取り繕う気はなかった。この得体の知れない男を相手に今更言い逃れができるとは思わない。全て知られていると考えて掛かったほうがいい。
それよりもC.C.の名が出てきたことが重要である。これはキーになる。
不老不死の魔女について知っている存在は非常に限定されている。
旧クロヴィス政権下で秘密裏にC.C.の研究をしていた部署の人間か、それ以前にC.C.と接触を持っていた者。
これまでの会話からの情報も加味して、一番可能性が高い解答は――。
(まさか、ギアス関係者か!)
「気付いたァ? さすが、頭の回転が速いねェ。でも今はボクのことはいいんだ。それよりもC.C.だよ。彼女、あやしいだろう? キミに隠れてひとりでこそこそ動いてるし、契約の内容も話さない」
白髪の少年はにやりと口角を上げて見せる。ひどくいやらしい印象のある笑みだった。
「そろそろ切捨て時なんじゃない? 監禁場所に困るようなら、ボクが責任を持って管理してあげるよ」
ルルーシュからは窺えないサングラスの下で、ギアスを宿した瞳が鈍く輝いていた。