「神聖ブリタニア帝国第十七皇位継承者ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア様、御入来」
両開きの巨大な扉が開かれ、広大な空間に光が差す。堂々とした足取りで赤絨毯を踏んだのは、まだ年端も行かぬ少年であった。
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。
数多く存在する皇帝の子らの中で、現在最も注目されている人物であろう。
ただしそれはあくまでも『現在』に限っての話である。向けられる好奇の眼差しは持ってあと数日。数ヶ月後には噂にも上らなくなっているはず。この場に居合わせたほとんどの人間がそう予測していた。
――マリアンヌ皇妃はブリタニア宮で殺められたと聞いたが。
――テロリストが簡単に入れるところではありませんな。
――では、真の犯人は……?
――怖い怖い、そのような話、探ることすら恐ろしい。
密やかに交わされる囁きの中、少年は毅然と顔を上げて歩む。澄んだ紫の瞳は正面に座する帝王の姿をまっすぐに見据えていた。実の父であるブリタニア皇帝シャルル・ジ・ブリタニアを。
――しかし、母親が殺されたというのに、しっかりしておられる。
――だが、もうルルーシュ様の目はない。後ろ盾のアッシュフォード家も終わったな。
――妹姫様は?
――ナナリー様は足を撃たれたと。目も不自由になられたとか。
無責任に垂れ流されている静かなざわめきは、少年が玉座の前にひざまずくと同時に止まる。幼いながらも凛とした皇子が何を話すのか、そして皇帝が何と返すのか、人々の興味はそこに尽きていた。
「皇帝陛下、母が身罷りました」
会話の出発点としては無難であろう。肝心なのはここからどう展開するかである。
「だから、どうした?」
「『だから』!?」
眉一つ動かさぬ父の返答に、少年は強くこぶしを握る。
「そんなことを言うためにお前はブリタニア皇帝に謁見を求めたのか。子供をあやしている暇はない。次の者」
徹底的に冷然とした反応であった。
集まった面々は、やはり、と心中で漏らす。
ルルーシュ皇子の母君、マリアンヌ皇妃は皇帝に切り捨てられたに違いあるまい。たとえ直接手を下したのではないにしても、皇族の住まう宮である。通常の警備体制が敷かれていさえすれば、そうそう侵入できようはずがない。
皇子も一瞬で理解したのであろう。あるいは元から予想済みの答えであったか。掴みかかるかのような勢いで立ち上がり、皇帝を鋭く睨んだ。
「父上! なぜ母さんを守らなかったんですか!? 皇帝ですよね? この国で一番偉いんですよね? だったら守れたはずです! ナナリーのところにも顔を出すくらいは!」
「弱者に用はない」
「弱者?」
「それが、皇族というものだ」
厳烈に言う皇帝の前で少年は唇を噛む。きつく、きつく。憤怒に満ちた表情は、告げられた父皇帝の理念を受け入れてなるものかと雄弁に語っていた。胸中に去来するのは妹姫の境遇であろうか。
銃弾に撃ち抜かれて両足が不随になったナナリー皇女は、母親を目の前で殺されたトラウマから盲目となったと言われている彼女は、間違いなく――弱者だ。
それを承知でありながら、皇帝は弱き者は必要ないと断言する。
「なら僕は、皇位継承権なんて要りません! 貴方の跡を継ぐのも、争いに巻き込まれるのも、もうたくさんです!」
固唾を飲んで見守る人々の間にどよめきが起こる。激情に駆られる息子を皇帝は冷めた目で見つめた。
「――死んでおる」
「え?」
「お前は、生まれたときから死んでおるのだ。身にまとったその服は誰が与えた? 家も食事も、命すらも、全てわしが与えたもの」
世界の三分の一を支配する帝王の瞳に苛烈な眼光が宿る。
「つまり! お前は生きたことは一度もないのだ! 然るに! 何たる愚かしさ!」
立ち上がる。たったそれだけの動作。だというのに溢れ出る威圧はまさに津波のごとく。
強者の理を是とするブリタニア皇帝の覇気である。並みの胆力で耐え切れるものではあるまい。いかに優秀な皇子であろうと、幼い少年にそれを求めるのは酷であった。
気圧されて尻餅をついた息子に皇帝は冷厳に告げた。
「ルルーシュ。死んでおるお前に権利などない。ナナリーと共に日本へ渡れ。皇子と皇女ならば、良い取引材料だ」
ルルーシュ皇子が退出させられて後、謁見の間にはわずかな喧騒が戻っていた。
次に拝謁が許された人物もまた、先の皇子に負けず劣らず人々の関心を集める存在であったのだ。
長くひかれた赤い絨毯の道をしずしずと歩くのは、少女であった。歳の頃はルルーシュ皇子とさして変わるまい。あどけなさの残る顔に表情はない。しかし内に秘める感情の程を示すかのように、瞳だけが爛々と輝いている。
――兄君さまの直後は酷ではないのか。
――しかし、先ほど陛下はルルーシュ皇子とナナリー皇女についてのみ、処遇を申された。
――同じことよ。傑物と目されようと、マリアンヌ様が暗殺されたのだ。もはや目は無い。
やがて歩みを止めた少女は皇帝の眼前に膝をつく。ざわめきが引くと、皇女はゆっくりとおもてを上げた。
「父上、わたくしは以前、貴方のなさった演説に感銘を受けました。感動といってもよいでしょう。貴方の声に、口ぶりに、そして言葉に、心が震えました。先ほどもです」
いったい何を言わんとしているのか。兄を打ちのめした言葉に感銘などと。
この時点で奏上の終着点を予想できた者は誰一人として居なかった。いや、皇帝本人は例外であったかもしれない。己が娘の決然とした眼差しを受け止める皇帝ならば。
「弱肉強食。世界というものは、その理で動いている。つまりは、一片の偽りすら混じる余地のない、紛う方なき絶対の力がありさえすれば、世の中の全ての嘘を暴き、踏みにじり、駆逐できる。そういうことだと、わたくしは理解しております」
まさか――。
いや、あるまい――。
数人の脳裏に一つの想像がよぎり、同時に皆が否定する。
皇女の暴く『嘘』というのは、もしや。しかし、それを皇帝の前で口にするなど。
「だとして、お前はどうする」
皇帝は厳かに訊いた。少女は静かに答える。
「兄上への先ほどのお言葉はまさしく道理。わたくしも同様に死んでいるのでしょう。父上からいただいたものを抜きに生きられないわたくしは、母を守れなかったわたくしは――力無きわたくしは、たしかに死んでおります」
好奇。憐憫。期待。そして戦慄。
聴衆の眼差しを一身に浴びながら、彼女ははっきりと宣言した。
「――なればこそ、いつか必ず、生きて、貴方のおられるその椅子に座ってみせましょう。本日はそれを申し上げに参りました」
玉座の皇帝をアメジストの瞳で挑戦的に見上げる皇女。
クラリス・ヴィ・ブリタニア。
帝王に向かって宣戦布告の誓いを打ち立てた彼女は、この数日後、兄ルルーシュ、妹ナナリーと同じく、神聖ブリタニア帝国から姿を消すこととなる。
人々の記憶から忘れ去られたかれら兄妹が歴史の表舞台に帰ってくるには、まだ長い時を必要とした。