華琳の治める兗州は、決して一枚岩ではない。 兗州の領郡は8つあり、東郡、陳留郡、済陰郡、済北国、東平国、任城国、山陽群、泰山郡となって、陳留以外の群には、それぞれ太守や国相がいる。華琳は州牧として、陳留を治めたうえで、それぞれの軍権を総括する権利を有しているが、それぞれの群の太守たちは、決して、華琳の部下ではないのだった。 軍を出すよう、要請することはできても、出撃を強制することはできない。済北国相の鮑信、山陽郡太守の袁遺、東郡太守の橋瑁あたりは華琳との親しく、いざというときの協力をとりつけることはできるだろうが、誰がいつ不穏な動きをするのかわからない状況である。 自分の州への抑えをおくために、夏侯惇と夏侯淵、それに荀彧の留守番は決定されたことだった。特にまあ夏侯惇(春蘭)は、黄巾党退治の時に、袁術の客将だった孫策に借りをつくったこともあり、奴がきているだろうからと、最後まで洛陽に行くことを望んでいたが、その願いも、最後には却下された。 というわけで── 大将軍(軍事の最高責任者)である何進に召し出されて、華琳が洛陽へと行くことになった。霊帝が崩御し(死んで)、十常侍に対抗するために、自らの手勢を集めて権力を盤石にしようという、そんな意向らしい。 もとより、日和見はできない。 外戚(皇太后の親戚)と、宦官の対立構図によって、この漢王朝はここまで腐敗した。何進につくということは、外戚に肩入れすることになる。どちらが正義とか悪とかではない。 これから行われるのは、完全なる外戚の権力と宦官の権力との潰し合いであり、漢王朝で繰り広げられる、おそらくは最大にして、最低の権力闘争である。 そこに、すでに理想の入り込む余地はない。 毒をもって、悪を制す。 皇帝を抱き、大義名分で対立軸を塗りつぶす。大陸の歴史上、幾多にも繰り返されてきた権力闘争の一コマだった。 そういうことで、あまりおおっぴらに軍は動かせない。 連れ従うのは、黒騎兵から選抜された四人と、俺(相談役)と、季衣(許緒の真名)と、流琉(典韋の真名)だけだった。最小限の人数といえる。あまり、武芸に秀でたものを連れて行っても、意味はない。 洛陽の、天子の住まう宮廷に、俺たち程度のレベルの身分で入れるはずもない。中まで進めるのは、典軍校尉である華琳だけだった。あとは、華琳の西園八校尉の力でなんとかするしかない。 が──、華琳の身を守るだけなら、これで十分すぎるほどである。 香嵐(こうらん) 夏月(かげつ) 李華(りか) 水(すい) この四人は、黒騎兵の中でも、武力のみなら最強の四人であり、四人一組のコンビネーションアタックは、春蘭すら圧倒するほどだった。「でもさー、ねー、しょーぐん。季衣ちゃんと流琉ちゃんをさー。なんで自分の隊に入れちゃったのよー。このふたりなら、黒騎兵のなかでも、すぐに頭角を表せたはずよー」 間延びした声を上げているのは、李華だった。 黒騎兵の中でも古参であり、とにかくうるさい。 間延びした口調とは裏腹に、この娘が口を閉じている方が珍しいほどだった。賑やかしというか、ムードメイカーみたいな感じなんだろうか。「なに言ってるんだ。みすみす、季衣と流琉を、爛れたレズ集団の餌食にしてたまるか」「ほえ?」「はうっ」 俺は季衣と流琉を引き寄せた。 季衣と流琉は、本日付けで俺の軍に、将校として組み込まれている。華琳としては黒騎兵に入れるつもりだったようだが、良く考えれば、この無垢な宝石ふたつを、わざわざ穢されていくのを我慢できるはずもない。「なによそれー。私面倒見いいから、かわいがりまくりよ。具体的に言うとお尻の穴の一筋まで舐め尽くしてあげるんだからね」「だから、それをやめろっていうのに」 黒騎兵とは、隊員の九割が同性愛者であり、まあ、そういうところだった。互いを真名で呼び合うことが隊の規約であって、ひとつの独特な固まりとして、華琳の剣としての役割を担っている。 今のようになる前の、主君(曹操)の趣味がより反映されているということだろう。「そんな、しょーぐんに、誰かがなにかを吹き込んだのね。きっと、この中に裏切り者がいるわー」「はい。私が反対しましたから」 夏月が、ツンとした態度で応じた。 李華とは逆に、爛れた軍規の引き締めるほうの役割だった。ひとたび戦場に立つと、鬼気迫るようになっている。黒騎兵のなかで、まともなのはこの娘だけだった。もう少し経験を積めば、流琉と共に、秋蘭の後釜として十分通用するはずである。あと、歳に似合わず、やや説教臭いところはあるが。 「ちょっと夏月。それどういうことー」「お姉様は不潔すぎます。それに節操がなさすぎです。我々は華琳さまの剣であり、なればそこに私情など挟むべきではありません」「むきー、相変わらず、貞操観念の固まりみたいな女ねぇあんた」「節操をもってくださいと言っているだけです。欲望に従うままでは、獣以下です」「ええ、えーと、ふたりとも、ほら、みんな仲良く、ね?」 割り込むように、香嵐(こうらん)が言う。 黒騎兵の総隊長であり、まとめ役、なのだが、なぜかこの娘が介入して話がまとまったためしがない。というか、そこらにいるような普通の村娘にしか見えないのが不思議なところだった。上に立つものが、備えてしかるべき威厳みたいなものが、逆さにしてもひとかけらたりともない。 剣技は曹操軍の中でも比べるものがいないレベルなのだが、武人特有の、そういうニオイが一切ない。 ある一定以上の使い手は、どんなに隠そうとしても佇まいや目の光りに、隠しきれない癖や動きが染みつくものだが、香嵐には、そういう趣(おもむき)が一切無いのだ。 よって、彼女の基本方針は不意打ちである。 剣の持ち方からなにから、すべて素人のそれであるのに、結果的にすさまじく強い。歴戦の黒騎兵の総隊長として、要求されるのは、すべてを屈服させる強さのみ。彼女はその資格のすべてを備えている。 ただし── 威厳はまったくないため、部下の争いを涙目で見ているしかない。「はぁんっ。李華ちゃんも、夏月ちゃんも、私の話ちゃんと聞いてよぉー」「そうです。香嵐お姉様のいうことを、聞かないとダメです」 口を挟んだのは、一番歳の若い、水(すい)だった。諭すような口調に、それを聞いて、爆発寸前だった李華と夏月が顔を見合わせた。「ふん、今回だけは、水に免じて許してあげるわよ」「む、水が言うなら、仕方ないですね。今回の説教はここまでです」 毒気を抜かれたように、ふたりが、矛先を収める。「ねぇ、水のいうことは聞くのに、なんで私の言うことみんな聞かないのかな。人徳とか? もしかして、私一人がまだ隊長だって思ってるだけで、みんなはもう私のこととっくに見限ってたりしない? 私、がんばってるつもりなのに、なのにっ!!」「そんなことないです。私たち、隊長のこと大好きですよ」「ああっ、水ちゃんは私の女神さまだよぉー」 香嵐が水をぎゅっぅぅぅぅぅぅぅっ、と抱きしめていた。 俺は、部屋の一角で繰り広げられている百合空間から目を切ると、とりあえずなにやら考え事をしている主君に目を転じた。ここは、大将軍である何進の私邸だった。広く、召使いも十人や二十人できかない。現太后に立てられた妹を有し、自らもこの洛陽にあって、一、二を争うほどの武力を有している。 洛陽には、十常侍と何進の軍隊のほかに、有力な勢力はない。 ほとんどが金で官位を買った無能どもであり、何進がここに集めようとしているのは、諸国のなかで、じっくりと牙を研いでいるものたちだった。「つまりは、四人ね。私と、姉様と、妹と、董卓ちゃん」 ええと、華琳(曹操)と、袁紹と、袁術と、董卓か。 むしろ、董卓ちゃんって、呼び方がすでにすごいな。史実だとこいつら結局、全員殺し合うんだよな。というか、この四人が仲良くするって、どんな三國志だ。「その董卓ってのは?」「何進おばさんの子飼いの勢力よ。董卓ちゃんは争いが嫌いで、黄巾党の討伐の時に、なんの活躍もできなかったの。そこで、董卓ちゃんは罰せられるはずだったんだけど、何進おばさんが庇ったのよ。彼女の旗下である華雄将軍と、呂布将軍は、妾の下で武勇を振るって、黄巾党退治に、ものすごく貢献したって」 その大将軍の何進って、元は肉屋なんだったか。たしかに、そんなだと子飼いの勢力なんて作りにくいだろうな。 そこまで話したところで、この屋敷についている召使いたちの動きが慌ただしくなった。誰か、来客があったらしい。 そろっと、俺と華琳と季衣は、入り口を覗いてみた。 人影は四つ。 どれも、見慣れない、が、ひとりを除いて、全員が恐ろしいまでの遣い手だった。「季衣、勝てるか?」「兄ちゃん、無理だよぉっ。特に、あの髪の毛が跳ねてる女の人、多分、ものすごいよ」「だよなぁ」 最初に、圧倒的に目を惹くのが、方天画戟、と呼ばれる武器を後ろに担いだ少女だった。視線はむしろ閉じかけていて、なんの感情も読み取れないが、佇まいそのものに、鋼が入っているような感じだった。 そして、猫を思わせるようなくりくりとした目を横に動かしているお姉さん。はみ出るような胸に、さらしを巻いてそこに陣羽織を羽織っただけの恰好だった。不思議と、いやらしさがないのは、不思議だった。陣羽織と袴、そして履いている下駄。煌めくような将としての格が見えた。懐に抱いているのは、青龍偃月刀──か? あとは、彼女たちに庇われるように、後ろに控える、可憐なガラス細工を思わせるような、雪華のお姫様ひとりと、意志の光で人さえ殺せそうな、眼鏡をかけた少女。「と、とうたくちゃーんっ!!」「そ、曹操さんっ」 ロケットのような推進力をもって、華琳は着ているものから髪やら肌の色まで、白い雪化粧のようにまとめられた雪華の姫に突っ込むと、そのまま抱き込んでごろごろと三回半ほど転がっていった。