軍隊は、大質量の水のようなものだった。 勢いが止まってしまった軍隊は、他の勢いにただ呑み込まれるしかない。 それでも、完全に崩れきらないのは、俺たちのいる本営が剥き出しになっているからだろう。ここで華琳が討たれてしまえば、曹操軍はここで終わる。非常のときにこそ、底力がわかる。素人同然の新兵が、逃げ出したい恐怖のなかで、弓をつがい、戟を構えている。 津波のように押し寄せる盗賊たちの中で、ただ一騎馬に乗って駆けてくる男がいた。凶悪そうな面構えで、戦利品であろう宝石をあしらった鎧をつけている。身なりからして、この男が指揮官というか、盗賊の首領だろう。「はっ、喜べ。敵の大将はよほどの馬鹿のようだ。それに、あの将軍を見ろ。この間の武道大会で、素人に負けた女だ。敵は雑魚ばかりだぞっ!!」「なるほど。勉強になる」 馬と馬がすれ違いざまで、夏侯惇の黒刀が閃いた。 斜線が光となって男の身体を貫通した。 俺が、瞬きひとつしている間に決着はついてしまった。盗賊の首領は、赤い血を吹き出しながら、胴体ごと両断されて、自らの作った血だまりに身を沈めた。遅れて、盗賊の乗っていた馬の首が刎ねられているのに気づく。太い首が、まるで輪切りのようになっていた。あとに残るのは、噴水のように血を吹き出す泥肉だけだ。「──が、この大剣、『七星餓狼』と我が愛馬、飛焔(ひえん)がある限り、貴様程度に遅れはとるものか」 俺は、背筋に冷たいものがはいあがってくるのを感じていた。 完全な状態の夏侯惇将軍とやっていたら、俺と絶影もああなっていたわけか。 春蘭は、肉と骨を砕いたばかりの黒刀を再び構えなおした。 そして、蒼天に誓うように黒刀を掲げる。「踏みとどまれっ!! 貴様らの背後に、守るべき主がいることを忘れるなっ!! 牙旗を立て直せっ!! 友を見捨てるなっ!! 我々の領土を土足で踏み荒らす不届き者どもに、戟と剣をもって天誅を下すっ!! 曹操軍ここに有り、 愚かな盗賊どもに、死をもって思い知らせてやれっっっ!!」 春蘭の怒声と共に、曹操軍が反撃を開始する。千人以上の人間が同時に大地を踏み荒らす振動が、馬に乗っていてなお、腹に伝わってくる。「おかしいな」 俺の横で、秋蘭が呟いた。 兵士達の張り上げる声に掻き消されそうだった。「えっと、いったいなにが?」「敵の首領が死んだというのに、ほとんど動揺が見られない」「むしろ、動揺している敵と、していない敵の差が開いている、というべきかしら」 桂花が戦場を眺めていった。 絶望したような表情もあれば、むしろ自業自得だという表情もあった。最初から興味がない、といった顔も多かった。人望がない、というわけでもないだろう。情報だと盗賊団は100人ほどだったのに、実際は、500人を優に越えていた。華琳が善政を敷いているため、そうネズミやイナゴのように、盗賊が増えるはずもない。 ──つまり。「ほかの地域の盗賊と、共に宴会でもやっていた、というわけか」 そういうことだろう。 悪く考えれば、最悪の時期にきた。良く考えれば、他の県にはびこる盗賊どもを一網打尽にできる。「頭を潰しても勢いが止まらなそうね。戦意を完全に潰しきるしかないようだわ」 「まあ、他の首領が何人いるかは知らないけど、春蘭の強さを見た後だと、まず先頭にはでてこないだろうからなぁ」 俺は言い切った。 戦場で、春蘭は敵から見れば、悪夢と思うほどの虐殺を行っている。 刃の届く距離に入ったものは、ただひとりの例外もなく首を刎ねられ、馬から叩き落とされ、腕を切り落とされ、全身から血を吹き出して死んでいく。あの黒刀は、触れただけで骨ぐらいはもっていく。 それは、死の虞風のようだった。「あ、あああああああっっ!!」 恐怖に突き動かされ、失禁しながら、春蘭に戟を突き出す少年兵の顔面に、彼女はそっと優しく思えるほどの動作で、その黒刀の先端を突き入れた。 ずぶり──という音がした気がした。潰れた顔から、粘膜と片目とどす黒い血を吹き出しながら、おそらく少年は自分が死んだことすら気づかぬまま、大地に還った。 横から、盗賊のひとりが戟を刺しこもうとした。それより早く、春蘭の右腕が動いた。黒刀が貫通し、男は地面に縫い止められるようにして痙攣していた。身体に開けられた大穴から、自分の身体を構成する赤いものをこぼしながら、そのままの体勢で、二度と動かなかった。 黒刀が振るわれるたびに、五つ、六つの命が散っていく。 ──驚くほどに、簡単に命が消える。 覚悟したはずだ。 こういうことは。覚悟は将軍になったときにすませた。俺は人を殺す。力を持たなければなにもできない世界で、華琳のための戦をする。躊躇すれば、こちらが殺される。 それがいいのか、悪いのか。 考えるのは、自分が死ぬときか、俺が華琳の元を去るときだろう。 そこに慈悲はない。 正義もない。道徳もない。 それでも── 俺は、華琳の共犯者だ。 彼女の重荷の半分を背負わないといけない。「一刀。大丈夫? 顔色悪いけど」 華琳の顔が、息のかかる距離にあった。俺の懐に覆い被さるようにして、華琳は絶影の鞍の上で、そのまま後ろ(俺)に全体重を預けて、ひっくりかえってくる。「ああ、ちょっと戦場に酔っただけだ」「うん。それはそれとしてね。そろそろ私の逆転の秘策が発動する感じだと思うのよ」「……一応、聞くだけ聞いてみようか」 ひっくり返ったままで、華琳が言っていた。 どうしようもなかったら、口を塞ごう。「一発逆転には、これしかないわ。十面埋伏の計を行うわ」「華琳、それ、将軍が十人いないとできないぞ」「ええっ、ほんとにっ!!」 ああもう、いろいろとつっこみたい。 ちなみに、十面埋伏とは、死神軍師と呼ばれた郭嘉が世に出した陣形だった。ものすごく分かりやすく言うと、多段時間差ジェットストリームアタックというところか。やられる相手からすれば、悪夢のような計だが、そんなものがこの混戦で使えるはずもない。「秋蘭、桂花、そろそろ黒騎兵を突っ込ませるぞ。敵は春蘭に中央突破されて、ふたつに割れている。兵力の少なそうな、左を叩く。右は弓兵が牽制して、近づけないように」「基本方針はそれでいいか。 ──だが、必要ない。もう決着はつく。 北郷。よく見ておけ、これが、私がこの身のすべてを捧げた、曹孟徳の戦だ」「え?」 秋蘭が弓に鷲の矢羽根のついた矢をつがえた。 餓狼爪、と呼ばれる、百歩先の的を射抜くとされる、繊細な細工の施された剛弓である。まるで、それが夏侯淵将軍の身体の一部のように馴染んでいる。 馬上から、彼女はその餓狼爪本体を、横に寝かせるようにして、弓弦を引いた。満月のような形に引き延ばされた剛弓から、ヒュ、と矢が放たれた。 ──ビイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッッ!!! 鏑矢が、意志を発するように、大気を引っ掻くような音を立てた。矢に穴を開けて、笛のような音を発する仕組みになっているのだろう。放たれた矢は、レーザービームのような速度と軌跡を描き、最後列にいたはずの男の額を砕いた。 敵に、動揺が広がった。 二射。 三射。 四射。 五射。 耳に反響する笛のような鋭い音と一緒に、音より速く飛来する兇器が、最後列にいた男達の額を砕いていく。 的を射っているのではない。 秋蘭は、隊というひとつの固まりを打ち砕いている。春蘭の突撃でも壊乱しなかった盗賊達が、完全に統制を失っていた。 矢がひとつ撃ちこまれるたびに、ひとつの固まりが完全瓦解する。それは、軍という固まりの急所であって、その急所とは、各々の盗賊団の首領を務めている男達だった。 どんな神業か。 秋蘭は、さっきからタカのような目で、戦場のすべてをつぶさに観察し、弱点を探り当てていた。彼女に、見えないものはなにもない。いまや、この戦場のすべてが秋蘭の掌の上に落ちている。 ──すべてが、凍り付いていた。 時間も、敵の動きと味方の動きも、なべてすべて凍てつかせるように、秋蘭は声を上げた。視線だけで、射殺すような、冷徹な目には、なんの感情も浮かんでいない。「──曹操軍、第二の将、夏侯淵が貴様ら賊徒に五つ勧告する。 ひとつ、抵抗したものは殺す。 ひとつ、動いた者は殺す。 ひとつ、声を上げたものは殺す。 ひとつ、音を立てたものは殺す。 ひとつ、武器を捨てぬものは殺す。 この五つを守れる者だけを助ける。 ──以上だ」 それほど大きな声とも思えなかったのに、夏侯淵の声は冬の冷気のように身体の隅々までを凍えさせた。味方すら、だれひとり動けない。ただ、時が止まったように凍り付いて、動くものは、風に煽られる草木と、まったく空気を読まない華琳だけだった。「は、ははははははは。なにいってやがる。てめえら、あいつらを逆にふんじばって──」 ──ぱんっ!! 男の命運は、そこで尽きた。 レーザーのような軌跡で飛来した秋蘭の矢が、男の額を砕いた。 「ひいいいいいいいっ!!」「い、いやだああああっ!!」 ──ぱんっ。 ──ぱんっ。 パニックに陥って逃げだそうとする盗賊を、秋蘭は後ろから撃った。まるで幼子がアリをひとつひとつ潰していくように、それからの秋蘭の行動は、執拗かつ丁寧だった。 ──ぱんっぱんっぱんっぱんっぱんっぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんぱんっっ!! 二十人ほどを三十秒ほどで鏖殺しつくした後には、平原が赤く染まっていた。流れ出す血が、地面に池を作っている。そしてそこには、呪縛が解けてへたりこむ盗賊達と、投げ捨てられた武器のみが残っている。 秋蘭の、氷の戦だった。 ひとつの集団という、形の見えないものの中心を貫き、果てにすべての敵の、心を砕く。 その論理の究極を、俺は美しいとさえ感じた。即興で考えられた芸術だ。戦の恐怖などどこかに吹き飛んで、緻密に構成され、上演された舞台芸術に、俺は心を捕まれていた。 ──これが、 これが── カリスマ、と呼ばれるものか。「なあ、秋蘭。これが──」「そうだ。これが本来の、華琳さまの戦だ。私は、前に見たそれを再現したにすぎない」 姓は曹、名は操、字は猛徳。 中国史上、もっとも煌めくように輝いた、『悪』──か。 俺は、震えを隠すように、華琳を抱きしめた。 避けては通れない。 華琳が、 華琳である限り、 どんな形であれ、華琳のために、 ──俺は、曹操の影と、闘わなければならない。 次回→『季衣加入イベント(タイトル未定)』