捧げた感情は、正しく崇拝だった。 彼女にできないことは、なにもないのだと思わされた。完璧という言葉も、神童という言葉も、天才という言葉も、彼女のために用意された単語だと思った。そう思う自分に、なんの疑いも抱かなかった。極限まで磨き上げた弓の腕もなにもかも、己の血肉の一片まで、華琳さまに覇道を補佐するためにある。 そのために、一生を使っても悔いなどあるはずがない。 後悔はないと、するはずがないと、そう思っていた。 そう、秋蘭は語った。 彼女の言葉は、もう、どこにもいない誰かを語るようだった。自分の思い出だけに残る輝きをかき集めるように、ただ胸に残る温もりを抱きしめるように。 それは、覇王と呼ばれた少女の話だった。 聞けば聞くほどに、今の華琳と重なるところなどひとつもなかった。自分を厳しく律し、民のことを第一に考え、広く天下に覇を唱える少女の物語は、ある日、突然終幕を余儀なくされる。 俺と華琳が出会う、ほんの少し前に、華琳はああいう風になったらしい。原因はわからない。覇気が抜けてしまったように、風船がしぼむように、曹孟徳としての才気のすべてを投げ捨てるように、ある日、突然、華琳は『普通の女の子』になった。 その『普通の女の子』としての華琳しか知らない俺には、秋蘭の言葉に、なんの返答もできなかった。他人には、他人なりの忠義の形がある。俺が華琳に抱いている感情と、秋蘭が華琳に捧げた感情は、まったく違うものなのだろう。「今の、華琳のことが、嫌い、なのか?」 俺は、秋蘭に向き直った。 その言葉で、積み上げたなにかが、崩れてしまいそうな、そんな気がした。「嫌い、か。わからない。そういう問題でもないのかもしれない」「いや、わからないってことはないだろう」「そうだな、では北郷。そなたはどうだ。もし、今の華琳さまが、跡形もなく消えてしまって、まったく似てもにつかない性格をした、華琳さまの姿を模した全くの別人が、今まで華琳さまが居た場所に座っていたら──」 ──おまえならば、どうする? 不意打ちだった。 考えたこともない。 華琳の姿をしただけの人間が。 華琳の声で、知らない言葉を語り、 その昔の華琳が血と汗を振り絞って築き上げてきたものを、当然の権利として自らのものにしている。そして──周囲は、誰もそれを疑問に思わない。 それは、想像するに、おぞましい光景だった。「本来、私のやるべきことは、最初から決まっている。今すぐあの華琳さまと称する、偽物の首を刎ね、自らも自害すればいい」「な────」 秋蘭の言葉が、全身に染み渡る前に、 俺は瞬間、腰に差した脇差しの重さを探っていた。秋蘭が、俺に背中をさらけ出すように、後ろを向いた。無防備な姿だった。あえて、隙を作っているようにさえ見える。「冗談だ」 秋蘭がさらりと言う。 俺は、笑えなかった。 冗談。冗談だって? 曹操軍の腹心中の腹心である夏侯淵将軍が、冗談という体裁をとっていても、主への反逆を口にするということが、どれだけ迂闊なことか、彼女がわからないはずがないだろう。 俺はこの世界の法律はわからないが、罷免されたり、打ち首になって当然なんじゃないのか、今の発言は。「どうした。私は後ろを向いている。刺し殺すならば、今のうちだ。今なら、私を殺させてやろう」「────ッ!!」 完全に、手の内を読まれている。いや、むしろ挑発してこちらのアクションを待っているような口ぶりだった。自らの命をエサにしてでも、なにか探らなければならないことがある、のか?「──秋蘭は、死に場所を探しているのか?」「いや、私は、北郷一刀という男の本質を見たいと思っている。華琳さまが、初めて自分で選んで、自分で連れてきた将だ。私の代わりができるのかどうかぐらいは、見極めなければならないだろう。──しかし、さきほどの殺気は見事だった。一瞬だったが、本気で私を殺そうとしたな。それだけの忠義があれば、華琳さまの手伝いもできるだろう」 秋蘭の言葉は、まるで遺言のようだった。 意志の籠もったそれを、遮ることもできない。 そして再び、秋蘭は語り出した。 生まれたばかりの華琳さまは、自分が自分で在ること、ただそのことが、周りを困らせていることに、ひどく困惑しているようだった。彼女にとっては、自分になんの落ち度もないのに、人に嫌われるようなものだからな。私も、あまりの事の重大さに、気遣いなんて考えもしなかった。 それはそうだ。 今の華琳さまは偽物で、『それ』は、華琳さまの代わりに、そこにいたに過ぎない。 記憶は戻ったか、と、一日に十回は聞かれる。そのたびに、華琳さまは目を伏せて、力なく首を振る。本人にしてみればどこも悪くないのに、国中の名医の前に引き出されて、一日中監視がつけられる。 そういったことのたびに、華琳さまはごめんなさい、ごめんなさいと必死になって謝るんだ。私は、それを見て、同情の念などひとつも沸かなかった。ごめんなさいなんて、華琳さまは絶対に使わない言葉で、華琳さまには一番相応しくない言葉だったから。そんなときにだ、北郷──「華琳さまが、お前と一緒にいるところを見た。華琳さまは笑っていた。私が、今まで一度も見たことがない。本当に魅力的な笑顔だった。そのときに、彼女が、笑えるということを、私ははじめて知ったんだ」「……馬に乗りたいって、言われたんだ。秋蘭たちのために、その曹操さまに少しでも近づきたいって、そう言ってたよ」 その俺の言葉に、秋蘭は、笑っていた。 背負った荷物を、すべて下ろしたようだった。「私が亡くしてしまった華琳さまへの忠義を、北郷、お前は持っている。おそらく、姉上にも負けないぐらいに。だから、私の夢を、華琳さまではなく、お前に預けよう。お前が絶望して、天下を諦めてしまうまで──」「秋蘭」「私は、姉上と同じように、華琳さまの一降りの剣だ。剣に意志など必要ない。あの方は、もっともあの方に相応しい生き方ができていればそれでいい。天下に覇を唱えることも、戦場で勇猛を奮うことも、一軍を手足のように操ることも、詩を作ることも、楽典を奏でることも、花を愛でることも、どれも彼女らしく、どれも曹孟徳らしい生き方だ。お前が、それを気づかせてくれた。だから──」 秋蘭が、空を見上げた。 この世界でも、空は蒼い。降り注ぐ日差しの明るさだけは、誰にも平等で、天井のない世界に、鳥が舞っている。 「だから、華琳さまを守ってくれ。私を、二度も主を守れなかった、無能な臣下にしないでくれ」「正統な権利を取り戻すために。復讐するは我に有り。私が天下に背いても、天下が私に背くのは許さんっ!!」 おー、っと華琳が右手を思いっきり天に突き上げていた。隣には桂花もいる。ええと、どこから突っ込んだらいいんだろう。とりあえず、くだらないこと(断言)で、そんな名台詞を使うな。「あ、聞いて一刀。秋蘭がひどいのよ。お菓子を食べるのは仕事を終えてから、とか。私が部屋に隠しておいたお菓子を、秋蘭が全部没収しちゃったのよ。悪虐だわ。ひどい悪虐の所行だわ」「………………華琳は悩みがなさそうでいいなぁ」「というわけで、一刀。ちょっとそこ歩いてくれる?」「なにがそういうわけで、なのかわからないが、ええと、こう──か。ってええっ!!」 地面が抜けた。 踏みしめていたはずの靴に、何の感触もなくなって、自分の身体が数メートルほど落ちていく。一瞬の浮遊感があって、俺は穴に敷き詰められた大量の飼い葉にまみれていた。「やった、成功ね。桂花の意見は間違いがないわ」「はい。誰かを陥れるときは、この荀彧にお任せください」 数メートル上で、華琳と桂花が話している。 っていうか、この落とし穴は桂花の悪知恵か。「ちゃんと人が落ちるということはわかったわ。あとは秋蘭をおびき寄せるだけね」「いえ、華琳さま。生憎、これではあと一歩、衝撃が足りないでしょう」「え、じゃあどうするの?」「カエルやイモリなどの爬虫類や両生類を中に仕込んでおくのが妥当かと。とりあえず、そこの北郷を実験台に使いましょう」 くくくくく、と桂花の、地獄の底から響くような笑い声が聞こえた。「すばらしい意見だわ」「ちょっと待てえっ!!」 俺の意見は届かずに、華琳と桂花の声が遠ざかっていく。「でも、なんで? こんな優秀なのに桂花の名前を、姉さまのところで聞いたことないけど」「はい。袁紹さまは、私の献策を取り上げてくださいませんでしたので」「人の意見を聞かないことが、姉さまの唯一の欠点だから。まあ、仕方ないわね。これからも私に仕えなさい」「おーい。人を無視するなぁっ!!」 結局、一時間後に通りかかった秋蘭に引き上げて貰うまで、俺はずっとそのままだった。ああ、もうやだ。寒いよう。暗いよう。 次回→『華琳、匪賊討伐の指揮をとり、平原に八門金鎖の陣を敷く、とのこと』