俺は昔の話を思い出していた。 元の世界で聖フランチェスカに通っていたころ、及川や早坂や芹沢さんなどと一緒にバーベキューをやった時のことだ。 たしか最高気温を更新しようとかという真夏のことだった。あんな時期によく焼けた鉄板や燃え上がる黒炭と向き合う勇気を持てたものだと今更ながらに思う。あのとき、俺達はたしかに勇者だったかもしれない。 ――と、それはいいとしてその問題はその後だった。 引き取り手が来るまで網やら本体などのバーベキューセットを俺の部屋にしまっておくことになった。きちんと後始末をし、バーベキューの痕跡を消し、紙皿やら割り箸やペットボトルなどもすべて捨て終えたあとのことである。 それから一週間ほどが過ぎた。 部屋を常に、五、六匹のショウジョウバエが飛んでいた。うっとおしくてまともに部屋にもいられない。なにかハエを引き付けるものでもあるのだろうかと、原因を探ろうと部屋をひっくり返し、俺は放置されていたバーベキューセットの入ったダンボールに手をかけた。つまり、俺はその瞬間破滅のドアを開けたことになる。 そして、そこで俺は地獄を見た。 凄まじい悪臭が吹きつけた。 原因はまぎれもなく、ダンボールの底で息を潜め、誰からも忘れ去られていた白くブヨブヨになったパック入り牛肉セット。(放置期間、一週間) ――それを贄として蠢く、ハエの黒い塊が一斉に解き放たれ、俺の部屋は一瞬にして地獄へと叩き落とされた。 昔の思い出である。 真夏に生肉を常温で一週間ほど放置すると、どれだけの地獄が現出するのかというちょっとした体験談である。 ――夏。 それは、ひとり暮らしをはじめた学生が、この世の地獄を体験する季節。さあ、みんなも気をつけようね。肉を真夏に常温で放置するとか、狂気の沙汰だよ。食べ物を腐らせない。当たり前のことのように思えるが、これを実践している実家の母は偉かったのだなぁと思うことしきりである。 まあ、今はそんなことはどうでもいい。 田豊の虎牢関落としは、つまりコレを何十、何百倍の規模でやる大規模な嫌がらせ作戦であるらしい。 先の戦いで死んだ敵味方の死体は、よい具合に腐敗、発酵が進んでいる。 強烈な直射日光にさらされ続け、さらに先日雨が降ったせいで水を吸って肉がグズグズになり、肉が崩れ落ちた腐乱死体を虎牢関の正面に並べる。 風向きはまっすぐに酉の方角(西)。 つまり田豊は、貴重な食料を食いつぶしながら、この風向きを待っていたようだった。風向きの予測は軍師の基本技能であるが、ここまで物騒なことを考えられるのはこのガキか孔明ぐらいだろう。 火をつけると、脂の乗った人の死体はよく燃えた。なんの着火剤もいらないぐらいだった。そして殴りつけられるような腐臭を含んだ黒煙が、虎牢関へと吹きつけていった。 吐くほどの悪臭を付与しながら、火元の袁紹軍の連中でさえ耐えられないぐらいの似非科学兵器みたいなものが完成していた。 分厚い壁に遮られて、向こうの様子はまったく伝わってはこない。 ここで一斉に戦いを仕掛けるべきかと思うが、袁紹軍が相手の軍へプレッシャーをかけるための『見せ』兵を置いているだけで、直接戦うことまでは想定していないらしい。この煙だけで、田豊は勝負をつけるつもりのようだった。 詠の言っていたことを思い出す。たしかにこれは袁紹軍の美学と対極にあるような策だった。真桜によると、唐辛子とかを煙に含めば、リスクを少なく効果も縮小されるものの、同じような効果が見込めるということだが、それもいいかもしれない。唐辛子爆弾という言葉を聞いたことがあるが、きっとそういうことなのだろう。 袁紹軍から聞いたことによると、この――『蚊遣り火』は、とか言っていたので、最初は虫を燻す生活の知恵かなにかを軍事転用したものだと推測される。 ふと。 思い出した。 黒田官兵衛の漫画かなにかで、こんな策を使っていたことを思い出す。 そして、俺はあのガキの恐ろしさに背筋を震わせた。 戦国時代でも随一の軍師と同じ策を思いついたとかそんな理由ではない。黒田官兵衛は、これにより現出したあまりの地獄と敵の民衆ごと巻き込んだことにより、策を実行した本人として、精神に深い傷を負ったとされる。 うちの詠を見て貰えれば分かる通り、軍師などというものは本人の引いたモラルと、畜生にも劣る反則的な行為を天秤にかけて常に苦しんでいるような職業だ。 おそらく、黒田勘兵衛のそう長くもない寿命を削りとった外道極まりない策をもちいてなお、あの田豊とかいう糞ガキはなんの良心の呵責も感じていないのではないかと思わせる。あのガキの恐ろしいところは、そこだ。 だが、これは。 軍師の資質としてはともかく、軍閥の一端としてはまぎれもない弱点ですらあり、あるいはこれは、袁紹のカリスマ性を失わせる愚策であるのかもしれない。 三国時代屈指の名門である袁紹が、こんな策をとったという事実は、決して彼女の風評にいい影響をもたらさないだろう。 ――とか思ったのだが、さて?「つまり、狙うべきは人ではなく馬です」 田豊はそう言った。 作業服のようなものを着ている。袖とか裾のあたりがダブダブになっているあたり、その筋のお姉さんたちにはたまらないものがあるのかもしれないが、今はそんなことを考えられる状況でもない。ツンとした刺激臭が、胃の奥を突き上げさせた。 こびりつくような腐臭。 ――というものは、歴戦の武将たちにとっても耐えられないものであるらしい。袁紹陣営のの大天幕に詰めている武将たちは、誰一人この策を支持しているものはいない。俺や華琳や劉備や関羽や孫策や趙雲やら、そろそろ顔なじみになってきた面々も、一様に顔を顰めさせている。 田豊は、自らの体にこびりついたその匂いだけで話の主導権を握っていた。 染み付いた匂いも、天幕が密閉されているのも、そのまま意図的であることは間違いない。 なんていうか、言葉足らずの説明自体も、このガキの策の一端なのだろう。田豊の武将ホイホイにかかって、すでに追及の手は止まりつつある。 以下。 このガキの説明はこういうところだった。「呂布の立場からすれば、この虎牢関を守りきっても、洛陽の本隊が破られればなんの意味もないという状況です。この呂布の部隊自体が董卓軍本隊への後詰めの意味をもっている」「ふむ」 言われてみればそうだ。 ここを凌ぎ切っても、後方で董卓ちゃんを討たれればなんの意味もない。 馬超の西涼軍はすでに洛陽への布陣を終えているらしい。こちらの反董卓連合と挟撃ができるのが理想だったが、それも絵に書いた餅になりそうである。「だったら答えは簡単です。直接対決の必要はありません。相手に選択肢を与えて、迷えるだけ迷わせておけばいい。虎牢関を防衛すること自体が割りに合わないとあちらが判断してくれれば、自ら洛陽まで下がってくれるでしょう」「狙うのは、馬といった意味は?」「あの煙は人よりむしろ馬を狙ったものです。馬は繊細な生き物ですから、強烈なニオイを嗅がせれば体調不良に落ち込むでしょう。馬さえ無力化すれば、呂布の部隊は洛陽までたどり着けません。さらに、実力の八割以上を封殺できます」「…………」 いいことずくめだ。 効果的といえばここまで効果的な策もない。 馬ね。馬か。 厩で馬の世話をしていた俺としては、あまり馬を痛めつけるのは感心できないのだが。いやむしろ、これは俺が考えつかなければいけない策だったのかもしれない。「理屈はわかる。効果的であることもわかっている。だが、この一件で我らが盟主(袁紹)の評判は地の底に落ちるだろう。これから先もこのような策を続けるつもりなら、この連合自体が危うくなるという考えはないか?」「なにが言いたいのです?」 切り込むように発言したのは、周喩だった。 田豊は周瑜がなにを言いたいのか、おおむね気づいてはいるのだろうが、効果的な位置でカウンターをとるためなのか、まずは相手の出方を待っている。「我々が第二の董卓となるわけにもいくまい。天下の安寧を願い、天子をお救いするためには、誰にも恥じる必要のない戦いを見せる必要がある」 ああ、これは。 正論に見せかけた暴論だ。 が。 れっきとした言いがかりではあるものの、連合から離脱する理由として、十分な正統性が認められてしまう。 この時代、評判というものはれっきとしたひとつの力であり、なければなにもかもまわっていかない。事実、袁紹の勢力が今の時点で最強を誇るのは、武力よりも人材よりも、まずはその名声に拠るところが大きい。 多分、周瑜としては本気で言っているわけでもないのだろう。一撃ガツンとやって、話の主導権を握るのが目的なのか。田豊自らが得意そうな誘導法だった。なんというか狐と狸の化かし合いといった感じもしてくる。「うるさいですわね貴方たち。朝っぱらから、いったいなにをやっていますの?」 そして、話の中心人物はいつもどおり遅れて現れた。 袁紹だった。そのまま寝起きだった。この人相変わらずこっちのほうが可愛らしい。寝起きのロールにハリがないのが、いい感じに作用している。まあ事態を飲み込んでいなさそうなのはいつものことだから、いまさら気にするような神経の細い奴はいない。 さて。 田豊の策をどう呑み込んだのか。 袁紹の盟主としての器が試されるところでもある。 周瑜のそれはただの言いがかりとしても、少なくとも袁紹にはこの連合をまとめる盟主として、その疑問に答える義務がある。「うわっ。なんですのこの臭い。なにか腐ってません? 貴方たち、よくこんなところに居られますわね?」 もうダメだこれは。 想像したとおりといえば想像したとおりだったのだが、袁紹は袁紹だった。この時点で取り返しがついていない。いっそのこと曹操でもいれば『この無能』と『このちびっ子』という不毛極まりない足の引っ張り合いでもみれたかもしれない。「それで、どういうことですのこれは」「つまりえーと」 なぜか俺が説明するはめになった。田豊が悪辣極まりない策を高じた。それに対して、勝ち方が優雅で美しくないと他の諸侯が文句をつけている。 ちょっと事実からは異なるが、袁紹への説明としてはまず分かりやすさが優先される。まあ、文句が出ることもないだろう。「どこに謝る必要があるのかわかりませんわ」 袁紹は、そう言った。 周瑜が眦を釣り上げる。 ここにいる諸侯の望みは、一言で言えばまず旗幟を明確にしろ、なので――この一言は待ち望んでいたことだった。わかりやすく言ってしまえば、数秒前の彼女には、田豊の策を支持するのかしないのかという選択肢があった。 そして、彼女は田豊の策を、完全に支持することを決めてしまった。「そもそも貴方たちの言っていることはおかしいですわ。ただ貴方たちが無責任なだけではありません?」 むぅ――? 袁紹の切り返しに、周瑜が少しだけ怯む。「責任というのは、高貴な家柄であるわたくしのような人間のみに与えられるものですわ。貴方たちの口から責任という言葉が出てくること自体、ちゃんちゃらおかしいことですわね」 おや。 意外と、というか明確に筋が通っている。 単独で虎牢関を落とした以上、本来誰からも非難される云われはない。周瑜が言っていることも、相手が盟主という座にかこつけて、-ちょっと叩いてみようというだけのものだった。 一度袁紹が本気になった以上、力関係も実績においても、なにひとつとして袁紹を非難できるものなどいない。「だから――」 袁紹の声に、やわらかなものが混じっている。「田豊、貴方もそんな自分だけが責任を背負い込むような真似をしなくてもいいんですのよ」「は?」 本人にとっては不意打ちだったのだろう。 田豊は袁紹にそのまま抱き上げられてしまう。袁紹は諸侯たちの中でも背の高いほうだった。二十センチぐらいの身長差があることがよくわかる。 未だ強烈な腐臭が田豊にこびりついているが、袁紹はそれをものともしていなかった。 腐臭。 というのは、なににも例えようがないとよく言われる。 人間には拭い切れない生理的な嫌悪感というものがある。袁紹は嫌悪感もなにもかもを、完全に押し殺していた。これは、見た目ほど容易いような行為ではない。 茶番劇だ。 なのに、足に力が入らない。 なんだこれ。 足ががくがくと震えている。突き上げる感動に、胸がいっぱいになっている。「困ったことなら、わたくしに相談すればいいだけの話ですわ。そんなことでわたくしは怒ったりしませんのに」 いつの間にか、ほんのりといい話になりかけていた。 納得できない。こんなもので納得するのは劉備ぐらいだ。 だが―― あんな年下の子供を、よってたかっていたぶろうとしていたのかというバツの悪さだけが後味として残った。 だけれど、もう誰も袁紹の盟主としての格を疑うものはいなかった。 彼女には明確なひとつの連合体を背負って立つ志の高さがある。こんな真似は劉備にすらできない。華琳にも、無理――か? つまらない謀略よりも、袁紹の器が上回った。それだけが俺にもわかる事実として残った。 解散した後のことである。 あのあとすぐに、虎牢関陥落の一報が入った。 というより、気づいたときには虎牢関はもぬけの空だった、というのが近いらしい。投稿を前提とした非戦闘員たちだけを張り付かせ、ギリギリまで発覚を遅らせたというのが真実だったようだった。 どのみち、相手のほうが足は早い。 即座に見破ったからといって、追撃できるわけでもない。あっちはこちらの数分の一ほどの人数なのだ。撤退だけに専念されたならまず追いつくことはできない。 こちらの連合軍のほうは、準備を整えつつ、整然と進んでいくしかない。 よって、逆襲のリスクをほぼゼロにできるまで踏み込まなかった袁紹軍というか田豊の対応はおそらく正しい。 決戦は、洛陽でつけることになる。 馬超の西涼軍と洛陽の本隊が入り混じり、戦力比もなにもかもどうなるのか俺には理解がまず及ばない領域だった。 とりあえず、俺と華琳が次にとる行動は決まっている。 詠の立てた策を基本方針として、董卓ちゃん救出のためのタネを、いまのうちに蒔いて置く必要があった。 「というわけで、董卓ちゃんをふんじばってごめんなさいさせないといけないわよね」「まあそうですわね。あの司州の田舎者がごめんなさいごめんなさいとぺこぺこ謝る姿を想像するだけでご飯が三杯ほどいけますわ」 華琳と袁紹はずいぶんとほのぼのとしていた。 本当にごめんなさいと連呼させただけですべてが解決するのならなんて素晴らしいことだと思うが、実際それで許されるはずもない。 彼女が暴虐の限りを尽くしたことの代価は、本人の命以外に交換できるものもないだろう。「というわけで、いまのうちに割り振りとかしたいのよ。マトモに探すと日が暮れても終わらないのは前回ので身にしみたし」「――?」 頭の上にはてなマークを浮かべている袁紹に、田豊が耳打ちする。 ああ、と前に洛陽宮での宦官掃討のことを、ようやく思い出したらしい。「そうですわね。十常侍たちを取り逃がしたせいで、そもそもこんなややこしいことになっていたのを忘れていましたわ」 袁紹が思い出したところで、本格的に洛陽に着いてからの手順を詰めることになった。どこから手をつけるのか、董卓ちゃんがどこにいるのかを田豊からの意見を聞きつつ絞り込んでいく。 董卓ちゃんは嘉徳殿にいるという情報は、さすがにバレてはいないようだった。あとは近くのエリアを探すことを申し出ればいい。実際洛陽に入ってしまえば、どこの誰も、他の諸侯の足取りを追う余裕はなくなるだろう。 そして、これはあくまで華琳と袁紹のみの決め事だ。 他の諸侯は必要ない。 言っても聞くような連中ではないだろうし、好きにさせておいて問題無いだろう。この時点でいろいろと策を巡らすと、逆に意図を辿られる危険性が高い。 袁紹は洛陽の地図へと目線を落とした。 彼女はただ、視線を這わせただけだった。「――じゃあ、わたくしはここを最初に探しますわ」 心臓に凍った針を通された。 脳が理解を拒絶していた。盤石だった詠の策に胡座をかいていたせいで、反応が一瞬遅れた。「えーと、姉様。なんでそこなの?」「この嘉徳殿とかいう偉そうな建物が気に入らなかったんですのよ」「…………」 待て。 こちらの前提を、一撃で潰された。その表情に裏はない。引き寄せられるように、袁紹は一発で正解を引き当てていた。 ああ、そうだなぁ。 むしろ袁紹がここを選ぶということは、華淋が得た情報の正しさを証明している。きっと董卓ちゃんは間違いなく嘉徳殿に篭っているのだろう――と確信さえ持てる出来事である。 ――まずいだろこれ。 袁紹の想定の上を行くということそのものがこちらの浅知恵だったのだろうか。董卓ちゃんの救出は、ほぼ不可能ごとだという実感はあった。 だが、想定の時点で躓くとはさすがに思ってもみなかった。 華琳も、さすがに冷や汗をかいている。下手に抗弁しようものなら、隣の田豊の目をくぐり抜けられると思えない。最悪、こちらの目的まで見抜かれる恐れもある。「なにを焦っているんです?」「いや」「まさかそこに、敵の首魁が隠れているわけでもないでしょうに?」 ――こ、このガキイイぃぃぃっ!! ほんの一瞬だけ、全身が硬直した。 そして、田豊にはその一瞬のみで十分だった。 凍りついた世界を、田豊の双眸が蛇の舌が這うように行き来した。カマをかけられた、と気づいたときにはすべてが遅い。「――ああ」 田豊がわずかに、口元を歪ませた。 その動作だけで確信する。 こちらの意図を読み取られた。 おそらくはすべて。 董卓ちゃんがここにいること。そして俺達がそれに気づきつつ、なにもいわなかったことまでが、一発で白日の下に晒された。 ゾクリと、悪寒が走り抜ける。 余裕をもって袁紹と田豊の主従関係を観察していたが、出てきた結果はとんでもない。まるでドリームチームだった。袁紹が暴走しているとか田豊が暴走しているとか、そのような見方はほんの表面上のことだった。 お互いに、能力のすべてを引き立てあっている。あまりに噛み合いすぎて、ノミの一撃を打ち込む隙間もない。おい、本気で劉備と孔明や、俺と俺の詠さえ超えるぞこのコンビ。「すまん。ちょっともおよしてきた」 とりあえず、一時撤退を決め込む。 華琳の首根っこを掴んで、天幕の外へと避難した。 オーバーヒートした頭を、外の空気に触れることで冷やしてみる。自問する。さて――そどうするかなんて決まっている。「華琳、どんな手段を使ってもいい。袁紹の足を止める手段はないか?」「え?」 華琳の顔がぱあっと輝いた。「本当に、『どんな』手段でもいいのね?」「ごめんなさい。暴力関係はすべて抜きでお願いします」 いきなり不安になった。 さすがに劉備の時のように、後ろから鈍器で殴りかかるような真似はしないだろうが、華琳だから正直なにをやってもおかしくはない。「仕方ないわね。麗羽姉さまを騙すのは心苦しいけど、董卓ちゃんの命がかかってるわけだから」「おおっ!!」 なんか華琳なりの案があるらしい。 どのような事態を引き起こすか不安ではあるものの、袁紹には華琳をぶつけるのが最適解だというのは間違い無いだろう。 天幕の中に引き返す。「なんだ?」「いえ、別に」 田豊はこちらがもがく様を楽しんでいるつもりらしい。 いや、違う。 いちいち袁紹にこちらの意図を説明する手間を惜しんだということだろう。まあ、袁紹に事の通りを理解させるのがものすごい手間を要するというのはなんとなくわかる。くくくくく、今にその余裕を後悔させてやる。「あのね、姉さま。さっきから気づいてはいたんだけど」「はい。華琳さん。どうしました?」 華琳は遠慮がちに袁紹に向き直った。「――ねーさま。すごく臭い」 鼻を抑えつつ、華琳は年頃の女子が父親に言うようなことを言い放った。 たしかに臭い。 華琳は嘘を言ってはいない。 腐臭というのは一度こびりつくとちょっとやそっとでは消えないらしい。 田豊を抱きしめたときの残り香は、どうやっても消えずに袁紹の身体に残っている。「はうっ」 そして、その一言は袁紹を一撃で昏倒させた。 電撃に撃たれたように、そのまま地面にダイブする。「匂いが完全に伝染ってるわ。人としてどーかと思うぐらいの臭さよ」「あわ、あわわわわわわわっ!!」 自分ではわからないのか、袁紹はくんくんと自分の袖あたりのニオイを嗅いでいた。「麗羽さま。先ほどから黙っていましたが、実は目の前のふたりの意図は――」「そんなこと今はどうでもいいことですわっ!!」 クソガキが、袁紹の胸に抱きしめられてバタバタともがいていた。そのまま田豊はおっぱいの海に溺れている。 あ。 そのまま締め落とされた。 がくんっと、白目を剥いた田豊の首の角度が、なかなかヤバイ方向に曲がっている。 ちなみに、この瞬間俺のこのガキへの呼び方が、糞ガキからエロガキにランクアップした。袁紹を間接的に利用し、華琳は董卓ちゃんを助けるにあたり最大の障害である田豊を手早く処理したあと、さっそく本丸の攻略に手をつけていた。「大丈夫よ姉さま。私が聞いた噂によると、ここから洛陽への道を東に逸れたあたりに――」 華琳はさきほど使っていた地図の一点を指し示す。「伝説の秘湯ハコーネがあるらしいわ」 華淋がそんなことを言い出した。 華淋が、またバカなことを言い出していた。 華淋が、性懲りもなく頭のおかしいことを言い出していた。 おい、それ俺がこっちの世界に来たときに持ってきてた修学旅行のパンフレット説明じゃないのか。目ざとくそれを見つけた華琳に、修学旅行先の箱根に対して、実に適当な説明をしておいたことをいまさら思い出す。 俺の故郷有数の温泉街であり、ときに神の使いが襲撃し、有事は要塞都市になり、汎用人型決戦兵器が地下からせりあがってくるという日本人なら誰でも知っている常識をこと細かに説明しておいたことが、なんか今になって役に立っているようだった。「伝説の秘湯ハコーネ。そうですわね。こんなニオイをさせたまま、洛陽までは踏み込めませんわ」 袁紹は洛陽攻略の手順やらアレコレを完全に白紙に戻していた。 今にもハコーネを探す旅に出かけそうな有様である。 なんというか、恐ろしく巧妙な心理トリックだった。 そういうことにしておかないと、もうそろそろ俺の精神がもたない。むしろ真面目に考えていた俺はなんだったんだろう。ちなみに田豊は、まだ口の端から泡を吹いたままそこらへんの端っこに転がされていた。 最後の決め手はニオイだった。 倫理的に問題のある策を使い、最後にはその策そのものに足を掬われたあたり、世の中はよくできているのだなと言うしかない。 袁紹の豪運も、田豊の知略も、最後にはすべて華淋が自分のかわいらしさだけで握り潰した。「一応確認しておくが、ハコーネなんて本当にあるのか?」「あるわけないじゃないそんなもの」 よかった。 あったらあったでどうしようかと思うところだった。「当然でしょ。あったらとっくに占領してお風呂屋を始めてるわよ」「まあそうかもしれないが」「こんなところね。すべて後腐れなく解決したでしょ?」「助かった。たしかに助かったんだが、いっさいのフォローなしでいいんだろうか? ハコーネなんて実際存在しないわけだし」「なに言ってるのよ」 華琳はわかってないわね、と首をすくめた。「大丈夫よ。姉さまなら、歩いているだけで温泉の鉱脈ぐらい自力で見つけ出すから」「マジでやりかねないあたり怖いなそれ」「まったく、肩ぐらい揉みなさい。さすがの私もこんなでまかせと適当さで何回もやっていけないわ」「いや、いつもどおりだろ。というか、お前の人生そのものだろそれ」「一刀。なにか私に含むところでもあるのかしら」 華琳のぽかぽかというミッキー・ロークばりの猫パンチが俺に直撃していた。 俺はちゃんとそれにつきあってやる。 ぎゃあー、とかぎゃはー、とか適当に奇声を上げていると、どんどん華琳の顔が険しくなってきていた。「なにしてますの、貴方たち?」「姉さま止めないで。今日こそはこの男に自分の立場をちゃんと思い知らせないといけないのよ」「そんなことよりも――」 袁紹が華琳を正面に置く。「わたくしの留守はあなたに預けますわ。盟主として、私の代わりに皆さんをまとめるんですのよ?」「はーい」 華淋がかわいく手を挙げた。 彼女は、俺にちょっと耳打ちする。「というわけで、ついでに盟主の座も譲ってもらったわ。思いもしない副産物だったわね」「……………それを副産物の一言で片付けられるお前がたまに怖い」 そのあとで華琳は本格的に盟主の引き継ぎ作業に入った。 しきりに華淋が袁紹の手を引っ張っている。 いまさら言うことでもないが、本当に仲のいい姉妹だなこいつら。「ねえねえ。麗羽姉さま。盟主ってなにすればいいのかしら?」「決まってますでしょう。華麗なこと、ですわ」「わーすごい。じゃあ、全軍に姉様を称える歌でも歌わせておけばいいの?」 俺は何も知らない。 俺は何も聞いてない。 今までのはすべてただの前哨戦なのだとは思いたくもない。 俺にはここから、華琳を止める気力など残っていない。 目の前で行われている恐ろしい決め事に対して、俺は完全に不干渉を貫くことに決めた。 次回→『華琳VS月 その2』