崩壊は、一瞬だった。 風切音よりも速く射出された『何か』に、ぶつかって、馬上から人が消えた。 首から上がなくなった死体は、まだマシなほうだった。腕が千切れ飛んだり、上半身そのものが消し飛んだものもいる。腸や内蔵をぶちまけながら、身体の一部を欠損させ、破裂した肉の塊になって、地面に投げ出されていく多くの兵士たち。 ──こうなってしまえば、いくら呂布の騎兵隊といえど、立て直しようがなかった。袁紹軍の強弩は、数多くの問題を孕んでいるが、逆にいえばそれさえ克服すれば、戦力差も突破力も無視して、一部隊を消し飛ばすぐらいの力はもっている。 袁紹軍の強弩は、台車に乗せて、馬の馬力を使い、五人がかりで弦を引かなければならない。野戦兵器というより、性質は攻城兵器に近く、命中率を気にしなければ、射程は一キロ近い。 故に、一射一殺。 呂布の突進力などこれに較べれば、なんの役にも立たない。 逃れるすべなどあろうはずもなく、あとに残るのは、人の姿を止めないほどに破壊された兵士たちの残骸だけだった。「ぐ、ああっっ──う」 呂布は、泥濘のなかで呻いていた。 なにか細い糸のような殺気の塊に、身体の左半身を抉りとられた。 彼女が理解できたのはそこまでだった。 大型の槍ほどもある矢が、呂布の鎧と身体を貫通してもなお勢いを緩めず、さらに二、三人を巻き込んだことなど、彼女に理解できるはずもない。 もとより、このような待ち伏せは、完全に意識の外にあった。 袁紹軍最強部隊、麹義(きくぎ)の弩隊の放ったうちの一矢が、愛馬、赤兎の首から上を血と脳症と体液と肉の塊に分解し、さらに呂布自身に致命傷を与えていた。右肩から先が吹き飛び、彼女は泥のなかで、冷たくなっていく自分自身に必死に抵抗していた。「ちんきゅ──?」 近くに、屍体が転がっている。 いや、それを屍体とすら、形容していいのか。 泥で汚れてしまっているが、その軍師の着る一張羅は、呂布のよく知る彼女のものだった。ただし、彼女が確認できたのは、胸から下だけだ。 陳宮の身体には、胸から上がついていなかった。 頭があった場所にはなにもなく、残された身体は、ピクピクとわずかに痙攣を繰り返している。 元から小さな身体は、さらに小さくなって、ただ身体に残った血液を吐き出し続けていた。「────ァァッ!!」 叫んだはずだった。 魂が毀れそうなぐらいの絶叫を響かせたはずだった。 けれど、彼女の慟哭は、うめくような声にすらならなかった。 陳宮の死を悲しむだけの生命力はもう、呂布には残されていない。 彼女自身も、状況はほとんど変わらない。 ショック死しなかっただけで僥倖。 かろうじて、人のカタチを維持しているだけで、生きているのが奇蹟と思えるレベルだった。このままだと、周りの部下達と同じ結末を迎えるだけだ。「ううん。あらぁ、呂布ちゃん。あっけないわねぇ。三国最強がこんなところで死んじゃうなんて、視聴者が納得しないんじゃないの? 世が世なら、放送事故レベルよもう」 軍馬と兵士達の苦痛のうめき声が響くなかで、たった今、築かれた屍体の上に体重を預けている少女は、その地獄にはまるでふさわしくない。 けれど──彼女が喜悦の感情を見せるだけで、彼女自身がその地獄を作り出したように錯覚させてしまう。 どこから現れたのか、どこにいたのか。 そんなもの、歴史の観測者である彼女には、まるで最初から意味を持たない質問だった。「さて──どうしようかしら。私もね、ここまで呂布ちゃんがあっさり殺されるとは思ってもみなかったのよ。だから──私とあなたで、取引をしたいと思うの」 陳寿は、そうやって笑いかけた。 それに対する、呂布の意思表示は、明確だった。 少なくとも、陳寿はそう判断した。 返ってくるのは、死の淵にあってなお煮えたぎっている視線と、パンパンに張った袋に針を刺したときに出るようなヒュウヒュウ、という呼吸音のみ。「答えはノーね。でも、まあ、仕方ないわね。これは貸しでもなんでもなく、ただの私の純粋な好意としてあげる。 ──天地の理に従い、坤よ降れ、陽の気よ上れ。天地和合して万物生み育て、上下和合して心を通じ合え。象に曰く、雷の地中にあるは複なり。先王もって至日に関を閉じ、商旅行かず、后は方を顧みず。なんたらかんたらるーららるーるー、じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ、以下省略──」 地面に転がる屍体に、淡い緑色の光が集まっていく。 蜜を集める蝶のように集まっていく光の洪水。光の淡雪が、戦場を一種、幻想的な風景へと変じさせていた。「途中から人名になってましたが」「いやねえ干吉ちゃん。ノリよノリ。こんな長い呪文に意味なんてあるわけないじゃない。でも、じゅげむじゅげむが人名だなんて、よく知ってるわね」「はあ。あちらの世界に行く際に、一通り知識は仕入れましたので」「いい子ね。やる気ない左慈ちゃんに見習わせたいわ」 軽口を叩いているが、さすがの彼女にも疲れの色が見えた。 息が弾み、疲労の極みで、目が落ちくぼんでいる。それも、彼女が為し得た奇蹟と較べて、あまりに軽すぎる代償ではあったが。 集まった光がすべて溶けて消えることには、屍体の群れのすべてが息を吹き返していた。 どれほどの奇蹟をもちいれば、こんなことが可能なのか。 約、三千人に及ぶ人間の瞬間蘇生。視界に入る分、彼女が把握できる限り、何人でも生き返らせることができる。 たやすく行使された奇蹟に、干吉が息を呑んでいた。 自分が本調子でも、これほどの奇蹟は為し得ない。この世界で、彼女は神に等しい。彼女に与えられたゲームマスター権は、ここまでのことを可能にしている。「まあ、これはこれでいいのかしら。 ──聞いているかしら、呂布ちゃん? 改めて言っておくけれど、私は、あなたの強さも命の総量にも、なにも手を加えていない。ここから逆転するなんて狂気の沙汰だけれど、それもいいかもね。呂奉先は、ただ持っているものだけで最強であらねばならない。気高く誇りを胸に抱いたまま、血に狂うといいわ」 陳寿は、目を細めた。「いいえ、そんな気遣いはいらないわね。呂奉先に足りないものなど、なにもない。足すという行為自体が、あなたに対する侮辱であったはず。そのまま、その姿があなたの一番美しい姿なんだもの。──この世界の主として、ひとつだけあなたに、絶対の真実をあげる。──その誇りを失わない限り、まぎれもなく、あなたが三国最強よ」 生き残ったのは、五百にも満たない。 そのはずだった。半死半生の騎兵隊が、こちらに突っ込んできた。 突然、地からわき出てきたように、三千ほどの騎兵隊が出現している。 歯を食いしばる。 呂布の突撃。 半分近くまで減っているとはいえ、その突破力は、決して侮れるものではない。そうわかっていたはずなのに、第一陣が、まるで勝負にならずに突破される。圧倒的な機動力に、こちらはもう後手に廻るばかりだった。 黒きけものが、四つに割れた。 そのそれぞれが独立した生き物のように、曹操軍を翻弄している。 一つ目のけものの突撃に対応しようとすれば、二つ目のけものに横腹を食いやぶられる。それをフォローしようとしたところで、三つ目、四つ目がそれを予測していたように動き始めている。 隙は見えない。 死角など、そんなものはおそらくない。 戦場はすでにパニックになっている。 俺の元に、指示を求める伝令の体をなしていないような悲鳴が山のように届いていた。それでも、なにもできない。俺たちは、ただ耐えるしかない。いくら呂布の騎兵隊とはいえ、二万いる曹操軍を全滅させるだけの動きなどできるはずもないのだ。 駄目だ。 一撃で、包囲網を粉砕された。 ここを崩すわけにはいかない。出口を作られたが最後だ。 完全な包囲殲滅という前提が崩されれば、ここから勝敗をひっくりかえされることもあり得る。包囲網は、どこか一カ所を空けておいて、敵を追い詰めすぎないようにするのが定石だったが、今回の戦では政治的な要素が、それを許さなかった。 この野戦が実現しているのは、双方において短期決戦が必要な事情があるからで、ここで連中を逃がしたなら、そのまま亀のように虎牢関に閉じこもって、二度と討って出てくることはないだろう。 ──最悪なのは、曹操軍が全滅することではない。 相手側に虎牢関に閉じこもられて、籠城されるのが俺にとっての最悪である。そうされたなら、すでにガタガタになっている反董卓連合は崩壊する。難攻不落の虎牢関を墜とすだけの士気と兵力はもうどこからも沸いてこない。 二度と、董卓ちゃんを助ける機会など、廻ってこないだろう。 一直線に本陣に。 呂布の『黒きけもの』がとる軌道は、予測した、そのままだった。 けれど、それを止められない。 止めることができない。 土嚢で堤防を築いても、圧倒的な流れが、すべて押し流してしまう。前線が抜かれるなかで、背後を見る。本陣に、変化が生じていた。「おい──ちょっと待て。なんだアレ?」「おおっ。おにーさん。華琳様は、あれで呂布を止めきれないことを見越して、自らを囮とした戦闘を望んでいるみたいですよ。本隊をそのままに、夏侯惇(春蘭)将軍と夏侯淵(秋蘭)将軍の部隊を、左右に布陣させてます」 程昱が、それを報告する。 呂布を相手に、陣地に引き込んでの殴り合いは、狂気の沙汰と呼ばれるものだった。「いや、戦力差が開いてるとはいえ、無茶だろ。くそっ、呂布と正面から殴り合うなんて、正気の沙汰じゃない。全員、呂布隊の後背に食らい付けっ。本陣をやらせるなっ!!」 どれほどの訓練を積めば、あんな動きができるのだろうか。 馬群そのものがひとつの生き物に見えるほどに、統率された呂布の騎兵隊が、本陣の歩兵を切り崩しにかかっている。 ──ただ、粉砕されている。 表現としては、それが一番近いだろう。 凄惨という言葉も、生ぬるいほどの地獄が現出している。 人が輪切りにされ、原型など止めてはいない。一秒前まで人だったものが、陶器を砕くようにして土に還っている。飛び散る人の手足と、水たまりができるぐらいの血の河ができていた。 屍山血河となった戦場で、未だ戦意を保てているのが、奇跡と思えるぐらいだった。 むろん、曹操軍が弱いわけではない。 なにせ本隊だ。募集された兵士たちから、特に優秀な者たちが選りすぐられている。大陸でも最高クラス兵の質をもってして、兵力の数で圧倒してなお、ここまで一方的に蹂躙されている。 そして、 乱戦のなかで、ひときわ異彩を放っているのは、方天画戟を振るうひとりの鬼神の姿だった。 なんだ、 なんなんだあれは。 違う。 違いすぎる。 かつて見た彼女と、流琉の作った肉まんを頬張っていた彼女と、類似点を見つけることが、どうしてもできない。どうやっても消せなかったはずの、まとわりつくような気怠げな雰囲気は、もう一切ない。「あああああああああああああああああああああっ」 訊くものの魂が砕けそうな咆吼が、戦場を圧している。 迷いも願いも想いも救いも、すべて切り捨てるように、彼女はただ、敵を屠るために、一撃一撃に全存在を賭けていた。目に映るすべてを敵と見なして、目の前の兵士たちを肉片に変えている。飛び散ることすらできない血煙が、呂布の全身を深紅に染め上げていた。 人を殺すためだけの特化された生物。 あれの前に立つということは、自殺することと変わりがない。 それでも── 怯え、腰が引ける軍勢のなかを、切り裂く彗星のように突き進む閃光が、呂布の進路を塞ぐ。 夏侯惇と、夏侯淵。 つまりは、春蘭と、秋蘭。 ともに、曹操軍の最高戦力だった。 秋蘭が、馬上で餓狼爪を引き絞る。 一度に装填された三本の矢が、それぞれ呂布の急所に合わせられていた。そして、風を裂く音がした。 ──放たれた矢は、三本。 しかし、風音はひとつに重ねられている。釣瓶打ちした矢がそのまま呂布の喉元、そして残りの二本が、乗っている馬の胴体を狙いすます。 逃れられるものはいない。 ひとつの間違いもなく、標的をあの世に送ってきたレーザーのごとき、必的の矢。 それに対して、呂布はなんの反応もしない。「えッ──?」 矢が、鎧を貫いたのだと確信した瞬間に、呂布の左手がわずかに動いた。なめらかに、そっと麦の穂を撫でるようにして、俺が気づいたときには、呂布は放たれた矢すべてを摘み取っていた。 おい。待て。 それは、どれほどの神業なのか。あまりに自然すぎて、息をすることすら忘れてしまうほどだった。「はああああああああっっ!!」「たああああああああああっっ!!」 季衣と流琉が、鉄球と大型ヨーヨーを呂布に向けて放った。宙を裂く鉄球が、横薙ぎに振り落とされる。同時に、巨大ヨーヨーが、地面を削りながら、唸りをあげて迫っている。 四対一。 それで、ようやく互角に廻っている。 剣戟音とともに、刃の光が乱れ飛ぶ。 呂布は、四人がかりで繰り出される、煌めく刃の光、そのすべてを見切っていた。いや、檻を破って暴れまわる凶暴な獣を、四人でかろうじて押さえ込んでいるといった方が正しい。数の有利などなんの慰めにもならない。曹操軍の四人は、たちまちに防戦一方に追い込まれていった。 春蘭、 秋蘭、 季衣、 流琉、 一人欠けただけで、この包囲は崩れ落ちる。そして、それは時間の問題に思えた。だが、それを食い止め、状況を変えたのは、意外にも流琉だった。 流琉の巨大ヨーヨーが、変則的な動きを見せる。 俺が動画で見たヨーヨープレイを元に、真桜にいろいろ魔改造させた流琉の伝磁葉々は、いくら呂布といえど見切れまい。俺が監修したベアリングと遠心クラッチで、やばいぐらいに性能があがっている。 アラウンド・ザ・ワールドの軌道を描く巨大ヨーヨーを、呂布は方天画戟で防いだ。なんのダメージも見受けられない。それでも、ヨーヨーの使い手である流琉は表情を動かさず、専用の手甲をつけた右腕のバレルロールで、ヨーヨーの糸を巻き取った。 ブレインツイスターブランコの動きを見せるヨーヨーの糸が、蛇が獲物に巻き付くようにして、呂布の利き腕の動きを絡めとった。綾取りにも似た神業に、呂布は絶対に対応できない。それほどの、魔術を見ているような動きだった。変幻自在の動きで、自らの全身を縛っていく糸に、呂布の表情が歪む。 そして、 その瞬間を狙い、空間を埋め尽くすように、踊る三次元の刃たち。春蘭の七星餓狼、矢継ぎ早に放たれる秋蘭の矢と、季衣の鉄球と、絡みついたままの流琉の巨大ヨーヨーが、呂布の死角を縫って、四つ同時に襲いかかる。 すべてが必殺。 ひとつよけ損なった瞬間に、勝敗は決定する。 呂布は、命切るほどの雄叫びをあげると、一瞬で、そのすべてを迎撃した。 呂布は、絡み取られた右腕に見切りをつけると、右足で方天画激を跳ね上げた。 季衣の鉄球に、方天画激がぶつかる。方向を逸らされた鉄球が、正面から飛び込んできた春蘭の全身を横殴りに直撃した。「か、はっ──」 春蘭の体が、ぐらりと傾いた。 続けて、咳き込む。それは、回復不能なほどのダメージを喰らったと、人目で理解できるほどの状況。 呂布を包囲する一角は、崩れた。 あとは、もう打開策はない。残りの三人が、血と肉と骨に摺り潰されるのを、ただ見ているだけっ。「凪っ!!」 俺は叫んでいた。 白い影が、俺の横から消えた。 戦場へ飛び出た彼女は、瞬くほどの速度で、呂布に向けて突進する。勝機はない。けれどもう、こうするしかない。 秋蘭も、流琉も、季衣も、戸惑っていた。 凪は俺の部下だ。 けれど、それをあの三人はほとんど知らない。攻撃の方法のわからない味方と、歩調を合わせることが、できるだろうか。 呂布が、方天画戟を振りかぶった。 風圧だけで人を殺せそうな一撃が、凪を直撃した。 柄での一撃だったが、それでも人間の身体を二十メートルほど吹き飛ばすぐらいの威力はあった。そのはずだった。 大質量同士の正面衝突のような、凄まじい音がした。 呂布という大砲から撃ちだされた方天画戟の直撃を受けて、それでもなお、両足を地につけて、凪はその場に立っていた。 呂布の顔に、驚愕が張りつく。 方天画戟の感触に、異質なものを感じ取ったか。 硬気功。 凪の切り札である。少林派、ならびに中国拳法の奥義だった。自らの体に気を充填させ、一時的に体の強度を上げる。 呂布は、ぶっ叩いた凪の身体に、鋼鉄の感触を感じたはずだ。「ウチも忘れんといてやぁーっ!!」 真桜が、螺旋を描く大型ドリルを槍に見立てて、空中から呂布を強襲する。「たいちょーから、特別手当をもらって、お洒落するのーっ」 沙和が、愛用の双剣を手に突っ込んだ。 呂布の表情が、はっきりと歪んだ。 持ち主である真桜の身体をすっぽり覆い隠すほどに巨大な、螺旋を描く大型ドリルが、受け止めた方天画戟と接触し、耳障りな音と共に、火花を散らす。三人の戦術は完璧だった。連携としての総合力だけなら、先ほどの四人を遙かに凌ぐ。 未だ流琉のヨーヨーで右腕を封じられている呂布には、完璧な連携をみせる三人は、やや相手にしづらいようだった。このまま、季衣と流琉と秋蘭の三人が加われば流石の呂布とて打ち破れる。 そして──そう思わせることが、三人の狙いだった。「……六人、がかり」 呂布のつぶやき。 完璧な伏線だった。 呂布の意識の外からの、『七人目』の奇襲。完璧なタイミングで、さらに無音で飛来した殺意の塊に、呂奉先は反応できない。 そのはずだった。 だから、それを避けられたのは、魔性の勘というしかない。その反応速度は、野生の黒豹を思わせた。予備動作なしに、瞬間移動に近しい速度で、横に飛ぶ。 ありえない。 遠くから見ていて、それでも一瞬見失うほどだった。明らかに、人間の反射神経というものを、超越している。 ──勘なのか。やはり。 戦場というフィールドにおいて、その勘の精度は、孫策のそれを凌駕する。 それでも、避けきれなかったのか、思春が放った短刀が、二本、呂布の左手に収まっていた。「………………」 七人目。 戦場の逆光に溶け込んでいた思春が、苦虫を噛みつぶしたような顔になる。彼女の短刀に塗られた致死性の毒。それを使わせたことは、思春のプライドをズタズタに引き裂くものだ。 だからこそ、効果は絶大だった。 傷をおわせなくとも、触れただけで骨を侵す猛毒であり、その対象は、短刀をつまみ取った呂布の五本の指も例外ではない。 どす黒く肥大した自らの左指に、呂布は顔をしかめた。 短刀を地面に投げ捨てるも、すでに遅い。短刀をつまみ取った小指と薬指、中指が元の二倍以上の大きさに肥大していた。皮を焼き、骨を侵し、神経を引き裂く猛毒に浸されている。 これで、両手の自由は完全に奪った。 呂奉先の代名詞である方天画戟は、これで使えない。 方天画戟が使えないなら、曹操軍の武将七人の波状攻撃を防ぐ方法は、存在しない。「降伏しろ。──最強と名高い呂奉先の命、ここで潰えるには惜しい。貴様ほどの武将ならば、我が主も高く遇してくれよう」「………………」 秋蘭の言葉に、戦場の時が止まる。 呂布が、この降伏勧告を受けるかどうか。 秋蘭自身にも、返答は予測できているはずだった。それでも、多対一という負い目も重なって、そう言わずにはいられなかったのだろう。呂布が、董卓ちゃんを、見捨てるはずがない。それができるのなら、彼女はこの戦場にはいない。 案の定、呂布の返答は、予測したとおりだった。 ふるふる、と、首を振っただけで、彼女はその誘いを拒絶した。 そして── 呂布は、毒に蝕まれた三本の指を自ら口に咥えると、そのまま、勢いよく食い千切った。「────ッ!!」「──ひっ!?」「………なん、だと?」 周りの驚愕を意に介さず、そのまま呂布は、噴出した自身の血液で、付着した毒を洗い流している。「指が二本あるなら、方天画戟はつかえる。……おまえら、強かった」「な、なめるなぁあああああっっ!!」 秋蘭が、餓狼爪を構えた。 標的を探す一瞬、そのときには、すでに呂布は彼女の視界にいない。「が、ああっっ………っ」 飛び散る鮮血。まずは、秋蘭の体が、串刺しにされた。 その返しの一撃で、流琉の身体が吹き飛んだ。「──もう、おまえたちの動きは、見切った」 呂布の背後から、ドリルを構えて突進した真桜が、気づいた瞬間には、呂布と正面から正対してしまっている。 タイミングを、完全に外された。振りかぶった致死の一撃が、カウンターで真桜と捉えた寸前、その交差上に、凪が割って入った。 ──凪が、両足を広げて、歯を食いしばる。 骨が砕ける音。ガードした腕がありえない方向に折れ曲がっている。まともにくらえば、背骨を完全に粉砕され、即死を免れない衝撃を、凪は硬気功で、大部分を殺しきった。「ぐはっ………………」 ──凪の身体が、血を吐いて崩れた。 無効化するどころではない。生きているだけで、幸運に感謝しなければならない。一撃目で、ヒビの入った全身に、二撃目が止めとなった。 倒れた彼女に、呂布が方天画戟を向けようとしたところに、地面に伏していた春蘭が跳ね起きた。小回りがききにくい方天画戟の反対側から、最短の突きを繰り出す。 血飛沫が散った。 呂布の貫手が、春蘭の右目を抉っていた。 けれど、切っ先は鈍らない。春蘭は、抉られた右目などなんの障害にもしなかった。この瞬間を掴むために、片目の代償は安すぎる。 春蘭が七星餓狼を突き出す。 ──最後まで、目標を貫くことなく、呂布のカウンターの一撃を受けて、七星餓狼は、コナゴナに砕け散った。 次回、『華琳と曹操 その2』