夜はさらに更けてきている。 詠に去り際に言われた通り、三人の間者は解放していた。 もう、判断の余地はない。ここから曹操の目をごまかすために、なにもなかったことにするしかなかった。覚悟を決めて、この状況のなにもかもを、飲み込むしかない。 それも、きっと詠の描いた絵図どおりなのだろう。 なにも、言い返せなかった。 信頼を預けているつもりが、彼女にとって俺は、行動をカモフラージュするためだけの、便利な隠れ蓑にしかすぎなかったということだろうか。 実力以上のことをやった、ツケが、まわってきている。思えば、あれだけの軍師を、無利子無担保で使って、反動がないはずもない。 自分自身が情けなかった。 ただの道化。魔法が解けているのにも気づかない、裸の王様のようだった。 ──自問する。 詠なしでどうやって、これから先の状況を切り抜けていけばいい? いや、こうやって考えることすら馬鹿馬鹿しいまでに、結論は明快だった。 無理だ。 どうにもならない。 北郷隊の舵取りは、ほぼすべて、彼女の言うがままにしてきた。 前方に呂布、背面に曹操の監視がついていて、詠がいない状況で、今までのように立ち回れるわけがない。 俺は天幕のなかで、これからのことについて思案しながら、なにをするでもなくゴロゴロと横に転がっていた。なにひとつ解決しない。このままこうやっていると、人間が腐っていくような気がしてくる。「なにをしているの。あなたは」 俺の様子をみにきたらしい蓮華が、目を丸くしている。「──話は、聞いた、か?」「ええ、詠さんのことでしょう。一通り、事のあらましは理解しているつもりよ。あと、詠さんには監視として、思春をつけているわ。彼女がここから出ていくはずもないし、方法もないだろうけれど、一応念のために」「あ、ああ」 蓮華は、黙って俺のすぐそばに腰を下ろした。 目をつぶって、なにも言わない。そのまま沈黙が横たわって、夜気が肌に染みるようだった。 そのままの態勢で、茶をたてるぐらいの時間が過ぎてから、彼女はその口を開いた。「少しだけ、話をしてもいい?」「ん、ああ」 きっと、気をつかってくれているのだろう。 今は誰の顔もまっすぐに見れなそうだが、せっかくの好意だった。ただ聞くだけなら、さして負担にもならない。俺は、なんとかそれだけを答えた。「とある呉という土地に、英雄を父にもつ少女がいました。その少女には、姉がひとりいます。志半ばで父が亡くなったあとで、その姉は、父の夢を受け継ぐことに決めました」 孫策と蓮華の話らしい。 落ち着いた語り口は、心を落ち着かせてくれた。滾々と流れるような話を、俺は口を挟むでもなく聞いていた。 続けられた話で語られたのは、父の死。すべての終わり。家臣が散り散りになり、それをかき集めて袁術の下で再起を図ったこと。そして──「姉さまが、人を集め始めて、はじめに集まってきたのは、冥琳だったわ。決して裏切らず、同年同月同日に死ぬと言った姉とその親友を見て、少女はああなりたいと思ったの。そのときの誓いは、脳裏に焼き付いているし、暗誦もできるわ」「なんて、いうんだ」 興味が沸いていた。 ──孫策と周瑜の、断金の誓い。 鉄をも断つぐらいの固い絆ということらしいが、本物に立ち会った彼女の話は、より立体的で、迫真に迫っていた。「──ふたり心を同じくすれば、その利きこと金を断つ。同心の言は、その香り蘭のごとし。われらふたり、義姉妹の契りを結び、ここに断金の交わりをもたん。天を父と拝し、地を母と拝す。香を焚き誓いをもうけ、天に順い道を行う。父を輔け、呉の安寧を明月に誓う。神明照覧あれ。われら、同年同月同日に生まれるを願わず、ただ同年同月同日に死すことを願うのみ」 なめらかに、詠うように、蓮華はそのかつての「誓い」を口にした。「姉さま(孫策)と、冥琳(周瑜)の、断金の誓い──よ。私は、あのときのことを、よく覚えている。私の原点みたいなもの、といえるかしら。いつか、私もあのふたりのようになれたら、と思って。──まだ、その夢は叶うことはなさそうだけれど」「そうか。思春は、違うのか?」「思春は思春よ。そういった目で見たことはないわ。思春はむしろ、股肱というよりは、身につける剣のようなものね」 あー、どちらかというと、曹操における春蘭みたいなのか。 たしかに、まったく違うだろう。春蘭がいなくても、曹操は曹操であることを辞めたりはしない。どちらが欠けても成り立たないぐらいのものを、蓮華は求めているか。孫権にとっての軍師といえば、陸遜以外ないのだろうけれど。「刎頸の友と同じか。たしかに、その場に立ち会いたいとも思うな。そんな人と人との誓い、一生に一度見られればいいほうか」「ええ、私も、そう思っていたわ。でもね、つい最近、この誓いと同じものを見たの。息が止まるかと思ったわ。姉さまと冥琳のふたりと、同じだけの重さをもった誓い。どちらが欠けても成り立たないような誓いよ」「なんだそれ。大物なのか?」「大物よ。少なくとも私だけは、そう信じているもの」 蓮華の瞳に、慈愛の色が混じっていた。「まあ、そうだけど。それで、どんなのだ?」「ええ、こんなのよ。あんたの苦しみは肩代わりできないけど──それでも、横にはボクがいる。どれだけの困難が立ちふさがっても、あんたが往く道はすべてボクが拓いてみせる。あんたには、ひとりの男として、そして、北郷一刀として、あんただけにしかできないことがあるわ。虚名でも、これだけのことができた。ううん、虚構なんて言わせない。ボクは、北郷一刀という虚構を、本物にしてみせる。だから、ボクを信じてくれる限り、あんたが、負けるはずはない──って、ちゃんと、今でも暗誦できるのよ。私は」「うあ」 息が止まった。 ──俺と詠の誓い。 あれから、まだ二ヶ月もたっていない。 けれど、今では、なんの意味もない。すべてが壊れてしまっていた。どれだけ他人の気持ちを揺さぶったとしても、もうそれに価値があると思えない。 すべて間違っていた。 けれど、手遅れになった今になって、その言葉で胸が痛むのを感じた。それは、なんなのだろう?「実際、それを聞いて、私はあなたたちについていくことを決めたのよ。私はね。こう思っている。この詠さんの言葉に嘘なんてなかった。あなたたちふたりの関係は、私が羨むぐらいのものよ」「でも、俺は」「一刀、ひとつだけ言わせて」 彼女は、そっと両手で俺の頭を抱え込んだ。「──あなたは、なにも間違っていない」 その言葉で。 ──霧が晴れた。 蓮華のそのたった一言で、頭の中のすべてが明瞭になるのわかった。 顕微鏡のピント合わせのように、視界のすべてがクリアになる。 俺は、顔を上げた。 そのままで、まっすぐに、蓮華の顔を見つめていた。「ひとりよがりだなんて言わないで。私から見たら、あなたたちは、私にとって理想の主君と臣下よ。あなたと詠さんを知っている人なら、誰でもそう答えるわ。あなたがするべきことはなに? こうやって腐っていること? 違うでしょう。あなたがやるべきことは、昨日までの自分を続ける事よ。いつものあなたは、こんなつまらないことで倒れたりはしないはず」 彼女の言葉一つが、土に染みこむように俺の言葉をうった。 そうだな。 彼女は、俺を高く見積もりすぎているきらいがあるが、今ぐらいは彼女の望む自分であるべきだ。 すると、いくつか疑問が出てくる。「蓮華、なんで、詠はあんなことを言ったんだと思う?」「その場にいなかった私には、詳しいことはわからないわ。でも、詠さんが、言うべきことでないと判断したのなら、きっとそれが正しいんだと思う。それが、あなたにとって不都合なことであるはずがないでしょう」「でも、敵への内通だぞ。いくらなんでも、俺に一言だけでもあるべきだろう。俺は、詠に信頼されていないのか?」「むしろ、逆じゃないかしら。詠さんの前の主は、董卓さんでしょう。その董卓さんの人となりはわからないけれど、彼女に、詠さんは策のすべてを話していたと思う?」「………………」 ──ないな。 断言できる。 詠の性格だ。なんでもひとりで抱え込もうとするのが、彼女の悪癖だ。董卓ちゃんを汚れさせないために、汚れ仕事をすべて自分で抱え込んで、知らせることすらしなかった。そうに決まっている。董卓ちゃんと詠の関係性を知っていれば、それぐらいは推察できる。「言われてみれば、あいつらしい行動じゃないか」 ──なんだ。 情報はあったじゃないか。 信頼に胡座をかいていたのは俺の方だ。 こうなる前に、詠の異変に、俺は気づくことができたはずなのだ。彼女が、董卓ちゃんのために責任を背負い込むことはわかりきっていたことなのだから。「なぁ、蓮華。あいつは、詠は、俺を利用するだけ利用しただけだったのか。それとも、責任を背負い込んで、俺の分の貧乏くじまで全部抱え込んで、裏切りの汚名も、かつての味方殺しも、董卓ちゃんがやった暴虐の責任も、ぜんぶ抱え込むつもりだったのか。いったい、どっちだと思う?」「それは──もうわかっているんでしょう?」「そうだな」 ──なんて絶望的な不器用さだ。 あれだけ自在に策を使いこなし、あらゆる軍勢を手玉にとる詠が、実は自分の気持ちひとつコントロールできないなんて。「そうだな、董卓ちゃんがいないんだから、せめて俺がついててやらないと駄目だな」 蓮華が言ったことの真意は、すべてここに集約されるのだろう。 まったく、さっきまでの自分は、なにをやっていたんだ。悲劇の主人公を気取って、彼女に責任のすべてを投げ渡して、あげくの果てにこんなところで蓮華に胸を借りている。「そういう言い方も、よくないわよ」「ああ、俺の軍師は、あいつだけだ。それは、絶対に変わらない。思春に頼んでくれ。詠を連れてくるように」「いいけど、彼女を説得する策なんてあるの?」「その場のノリとかじゃあ、だめかな?」「基本としては、それでいいと思うけど、どうせ口で言いくるめられるぐらいなら、こんなのはどう?」「──あー、もしかして、言われてみればそれしかないのか?」「ボクの処分は決まった?」 彼女の態度は、ふてぶてしいほどだった。 与えられる死を前にして、彼女の瞳には微塵の怯えも見られない。そこには、諦めも狂気の色もなにもなく、ただ自分の置かれている立場を、冷徹に第三者の立場から見ているひとりの謀略家がいた。それが、どれだけの覚悟から発せられているものなのか、今になってようやく俺にもわかった。「ああ、言っておくことができた。あの時の誓いは、全部白紙に戻す。董卓ちゃんを助けるのも、共犯者の話も、全部まるごと無しだ」「え──?」 なにか言葉を返そうとする詠に、俺はたたみ掛けた。「詠。頼みがある。今まで、一度も言ったことがなかったけどな、今までの関係すべてを精算して、改めて、俺の部下になってくれ」「……それはなに? 命を助けてやるから、言うことを聞かそうってこと?」「いや、今までとなにも変わらないってことだ。俺は詠を利用して、詠は俺を利用する。──いや、それも違うな。とりあえず、最初に董卓ちゃんのために死ぬのをやめてくれ」 ──部下の顔を全部覚えている真桜なんてイレギュラーさえなければ、彼女は、最後に、自らの命を絶って、情報を流したという汚名もすべて被って、それで終わらせるつもりだったのだろう。「なんなのさ。それ。ボクになにを求めてるの?」「ん、率直に言おう。──俺のものになれ」「なっ──」 詠の顔が、紅葉のように赤く染まった。 蓮華曰く、詠さんを口説き落とすには、得意の理屈に持ち込ませないことと、なにを言われても、聞く耳なんて持たず、自分の要求だけを突きつけること、だそうだった。多分、蓮華もこのやりかたで思春を落としたのだろう。「なに考えてるのあんた。ボクがそんなことを承諾するとでも思う?」「ふざけんな。この状況でお前を失って、俺にどうしろっていうんだ。スパイ疑惑までかけられてるんだぞ」「そんなこと? こういうのは第一容疑者になっちゃえば逆に安全よ。あんたに迷惑はかからないわ」 詠が言いたいのは、よく刑事ドラマでわざと自分を疑わせるようにし向ける犯人とかがいるが、それと根本的には同じ事だろう。「それが余計なことなんだよ。曹操を裏切っているのは、──俺だ。詠じゃない。そんなところにまで気を遣われるのは、よけいなお世話を通り越して、俺への侮辱に等しいだろ」「ちょっと、さっきと言ってることが違うわよ。ボクにどうしろっていうのさ」 さっきまで言っていたことを、一瞬にしてひっくり返す俺に、詠はあとの言葉を紡げないようだった。蓮華によると、この時の言い分は理不尽であればあるほど効果的らしい。このタイプは、理屈立て反論してくるので、それを封じられると弱い。つまりは馬鹿に話は通じない、ということだ。 ──うむ、詠を正面から論破するのは不可能だが、俺はこういうのだけは得意だ。「俺を見捨てないでくれぇ。助けてくれよぅ」 俺はそう言って、詠の腰にすがりつく。 両腕で彼女にしがみついて、絶対に離さない構えだった。うむ、孔明の庵を訪れた劉備の気持ちがよくわかる。27歳の若造に一団の舵取りを任せようとした劉備は、きっとこれぐらい必死で、かつ、なにも考えていなかったに違いない。「さっきから、あんたなにがしたいのよ」「言ってるだろ。いいから俺のものになれ」「それが、わけわからないって言ってるのっ!!」「俺のやり方は、わかるはずだ。できるだけ、犠牲を少なくして、この戦いを終わらせる」「綺麗事ね。できるはずがないわ。月(ゆえ)の救出だって、上手くいくかもわからないのに」「俺だけなら、な。でも──詠なら、なんとかできるはずだ」「はぁっ!? 結局、全部ボクに丸投げなわけ?」「ああ、そうなるな」「──ちょっと、なにそれ」「ただし、それさえ守ってくれるなら、なにをしてもいい。全部の責任は俺が負う。俺を囮にしてもいいし、むしろこういうのはもっとやれ」「ボクに、そんなことは──」「できる。──できるに決まってる。賈文和という謀略家の実力を、俺ほど評価してるやつは、どこにもいない。だから、このとおりだ。おまえにしか、頼めないんだ。だから、一方的に利用する関係でもなくて、利用しあう関係でもなくて、共犯者でもない。俺が、誰よりも信頼できる、一番の部下になってくれ」「結局、泣き落とししか、できないの?」 詠の返事は、相変わらず冷たい。 が──それでも、俺の気持ちは彼女に届いている。 詠も、迷っているはずだ。 さっきから、無意識なのか意識的なのか、彼女は俺への明確な返事を避けている。「だな。でも、詠を、泣き落とせるのは、俺しかいない。だろ?」「むぅ」 腰にすがりつく俺を見下ろして、詠はしばらく考え込んでいるようだった。「……わかったわよ。やるわよ。やってやるわよもう。ボクの意志も、頭脳もなにもかも、あんたに預けるわ。好きなように使いなさい。──ただし、返品はきかないわよ」「ああ、もう頼まれても離さないからな」 詠をぎゅーっと抱きしめる。「ちょっとどこ触ってるのよ。そこは自重しなさいよ。このヘンタイがっ!!」 次回→『賭 博 黙 示 録 レ イ ハ』