史実において、袁紹と曹操が雌雄を決する戦いである──官渡の前哨戦にて、関帝が一合の元に、顔良を斬り捨てた話は有名である。 曹操麾下の勇将である魏続、宋憲、徐晃を次々に打ち破り、袁紹軍の二枚看板と呼ばれる強さを存分に見せつける顔良。 その鬼神のような猛将に対抗する手段がなく、手駒が尽きたところで、曹操は、当時、彼の元に身を寄せていた関羽を投入することを決めた。 ほんの一合で顔良の首を挙げた関羽。 ──結果的には、顔良は関羽のかませ犬としての役割でしか、歴史に名を残せなかった。いや、それはいい。 俺がしたいのは、関羽の話でもなければ、顔良の話でもない。 関羽のかませ犬である顔良。 それはいいとして。さらにそのかませ犬のさらにかませ犬にされた連中の心情は如何ばかりか。徐晃はまだいいところを見せたが、呂布陣営からの降将である魏続と宋憲なんかは、あっさりと首を刎ねられてしまった。哀れ以外の感想が浮かんでこない。 ──が、話の本題は、このかませ犬のかませ犬として描かれる、魏続と宋憲である。 呂布陣営からの降将とか言っている時点で、なにが言いたいのか想像がつくと思う。最後に、呂布を裏切ったのが、このふたりである。さて、史実においてはこいつらが裏切ったせいで呂布は死んだ。この世界では、どうなるのやら。 すでにこの時点で、俺がもっている三国志の知識は、敵の能力評価ぐらいにしか役に立っていない。正攻法で呂布を討ち取る方法を考えるべきなのだろう。 さて。 詠に聞いた話によると、董卓軍最強の将である飛将軍──呂奉先の配下として仕える八将が、 張遼。 高順。 魏続。 宋憲。 威覇。 曹性。 成廉。 郭萌。 ──である。 あ、あとは軍師である陳宮か。 張遼は大将軍の地位について、呂布よりも偉くなってしまっているので、この戦場には姿を現さないだろう。呂布配下筆頭のひとりがいないだけで、ずいぶんと楽になるはずだった。 魏続、宋憲の説明は終わったので、ここから数人ピックアップするとなると、やはり呂布の副官である高順、そして──史実にて夏侯惇の目を抉ることになる、曹性だろうか。 野にひしめく数万の軍隊が、こちらに向き合っていた。林立する旗は、前述した『高』、『魏』、『宋』、『威』、『曹』、『成』、『郭』──であり、ゆえに距離を挟んで展開されている軍は、呂布の率いる精兵に間違いはない。「おかしいですねー。大将旗が見えないところです。どういうことなのでしょう?」「ああ、『呂』の旗がないのはどういうことだ?」 ──呂布が、いない。 俺の視力では、この距離から、荒野になびく旗の文字を読み取ることは不可能である。「凪。なにか見えたら教えてくれるか」「はい。隊長。おまかせください」 俺は横に凪を置いていた。 彼女は、俺の副官扱いになっている。 剣道にも、一眼二足三胆四力という言葉がある通り、目の良さは、なににつけても大切だった。彼女を傍においておけば、目の前の兵力の動きを逐次教えてくれるし、雰囲気とかで、埋伏の場所などを指示してくれるかもしれない。事実、隊を分けての調練では、彼女の隊の生存率はずば抜けていた。 曹操軍が布陣しているのは、なだらかな丘の上だった。ここからは、広い戦場のほとんどが見渡せる。虎牢関から数里、やはり──董卓軍は虎牢関に依って戦うつもりはないらしい。 戦場に、波紋が広がっていく。 鯨波(とき)の声が広がった。 先頭には、『高』の旗があった。 高順が、その騎兵隊を率いているようだった。すべてが黒く染め上げられ、馬も馬甲をつけて凛々しさは増していくようだった。 曹操の黒騎兵と、威容はひけをとらない。 ならば、実力は? 高順が率いる、大陸最強の黒の騎兵隊。 5000のそれが、固まって動き始めた。一際目立つ名馬に乗った精練な将が、先頭になって突っ込んでくる。 ほぼ、一騎駆けに等しい速度で駆ける高順に、磁石で吸い付いたように後続の兵士たちが続いている。 縦の陣形。騎兵隊そのものが一本の強靱な槍となって、陣形が楔をつくる。それを迎え撃つのが、横一列に並んだ公孫賛の白馬陣だった。すべて白い毛並みで揃えられたそれは、外側から折れ曲がるように、V字型に高順の騎兵隊を、包囲していく。 白の軍と、黒の軍が大地を鳴動させて激突した。 ──理想的な左右からの挟撃、だった。 公孫賛の戦術に間違いはなく、左右から高順はただ押し包まれて首を討たれると──誰もが思った。 高順が手勢の騎兵を二手にわけ、左右からの敵の包囲に対処する。そのアクションを起こすには、高順が一手遅れた形になる。ほんの一拍の決断のはやさは、公孫賛の方が勝っていたと、見ていた誰もが思う。 けれど── そこから高順隊は、すべての予測を撥ね返した。 ──加速。 直前で、高順隊の速度が上がった。 ただ一直線に。左右からの包囲が完成する直前──高順が兵の壁をまっすぐに打ち破り、駆け抜けていった。 ──正面を抜かれた。 遠くで見ていてわかるほどに、白馬騎兵の動きが混乱していた。一度抜かれただけで、統率のとれない烏合の衆のようになっている。騎馬の後ろに備えていた歩兵達が、戟で槍衾をつくってなんとか崩壊を喰い止めているが、それでもすでに立て直せるような状況じゃあない。 副官である凪が、目を見開いた。「公孫賛将軍、──敗死」「──は?」「言葉の通りです。はじめの突撃で、公孫賛将軍の、首が跳ね上がりました」「……ちょっと、待て。こんな、あっさりとか?」 信じられない。 冷や水を浴びせられたようだった。凪の眼を疑うわけではないが、一軍の将がここまであっさりと負けるような展開が、あっていいのか? ──公孫賛が、死んだ。 この無様なまでの白馬騎兵の混乱っぷりは、そう考えれば理解できる。けれど──汜水関を落としたという驕りがあったとはいえ、一撃で討ち果たされるなど、屈強と音に聞こえた白馬陣が、あまりに簡単に破られすぎている。 ──迂闊すぎる。 そうとしかいえない。呂布に首を落とされるならまだしも、ここまでたやすく負けていい理由はないはずだ。先鋒というのは、負けてはいけないからこそ先鋒なのである。そして、その俺の疑問に答えるように。 「ああ──そういうことですか」 馬の上で、程昱がそっと呟いていた。 壊乱しながら抵抗を続ける目の前の両軍を、冷たい目で見つめている。「なにかわかったのか。──というか、わかることなんてあるのか? 見たままじゃあなくて?」「いえいえ、おにーさん。とんでもないです。これはですね、詰め碁のような精緻な策といえます。よくもまあ、これほどまでに性質の悪い策を思いつくものだと、私はおもうのですよ」 珍しく、相手の策に感服したように説明を続ける程昱に、俺は疑いのまなざしを向けた。彼女は、両手の指を組み合わせて、俺に向けて説明を始めた。「相手はですね。公孫賛軍の突撃を誘って、正面から首を落とした。結果としても現実としても、やったことはこれだけなのですが、裏では十重二十重の情報戦がくりひろげられていたはずです。おにーさん。戦いの前の、公孫賛将軍の様子は、どんな感じでした?」「そうだな」 言うまでもない。 部下を二度と見られないような有様にされ、先鋒を、盟主である袁紹に願い出ていた。 「部下を二度と見られない形に切り刻まれて、怒り狂ってたな。あまり表には出さなかったけれど、俺にはよくわかった。先鋒をかってでたのも、そのためだし──っておい。ちょっと待て。この敵の策って、もしかして──公孫賛だけを狙いうちにしたものなのか?」「──おそらくは、そうなのでしょうね。 話を続けると、こうなります。部下の敵を討ちたい公孫賛将軍からみれば、自分の騎兵隊の実力を見せつけたいところです。相手が同数で、さらに大陸最強の騎兵隊の名をもっているのなら、なおさらでしょう。けれど、彼女の白馬騎兵は、横一列の陣形でこそ真価を発揮する部隊。相手の挑発に乗ってしまったばかりに、ただの一撃で首を落とされることになった、ということでしょう」「──それだけ、なのか?」 疑問があった。 程昱の説明は、簡潔にすぎる。「──それだけ? いいえ。一見ただのぶつかりあいに見えたでしょうが、ずいぶんと手が込んでいましたよ。誰の策かはわかりませんが──馬超が参戦していない今、最強の突破力をもつ白馬騎兵の力をひとにぎりたりとも発揮させてもらえず、怒りで状況の判断力を鈍らせて、犠牲を出さず、将の首だけを断つ。とても、──これは、曹操さまでも防げなかったでしょう。黒騎兵自体に通じない策なので、相手側が標的にできなかっただけかと思われます」 坦々としているが、言っていることはとんでもなかった。「それほど、なのか?」「はい。騎兵隊の力の源は、その突破力ですねー。 けれど、突撃の瞬間を相手に読まれれば、その威力は半減します。 騎兵というのは歩兵と連携し、その機動力を利用できるからこそ最強の兵種であり、単純に正面からぶつかったのでは、その優位性は半分以下になります。それを踏まえた上で──敵の高順隊は、あえて正面から突撃してきた。敵の先鋒は下策。それは、公孫賛将軍にも、わかっていたはずです」「………………」 俺は考えていた。 ただ布陣するということそのものを、公孫賛への餌として撒いたということか。 「しかも、想像ですが、敵は突撃の速度を、あえて緩めていた。目の前に、自分より練度の低い(ように見える)騎馬隊がいる。味方を拷問され、判断力をなくした公孫賛将軍が、どういう気持ちになるか。北郷将軍にも、わかりますよね」「──その程度か。本物の騎兵運用というものを見せてやる、と思うな」「ええ、そうです。 相手と同じ陣形で、正面から蹴散らす。公孫賛将軍は、それで勝てると思ったでしょう。けれど、陣形も戦術も、汜水関を抜かせたのも、わざわざ公孫賛将軍の配下をむごたらしく拷問にかけたのも、すべては──」 程昱は、目を閉じた。「──公孫賛将軍の、奢りと油断と、怒りを誘うために」 俺は唸っていた。 たしかに、精緻に考えつくされている。騎兵という兵種は、指揮官の資質がまず勝敗をわけると教えられた。 怒りに身をまかせた時点で、陳宮のてのひらの上だった。 ──なら、どうすればよかった。 戦場で相まみえたときには、すでに勝敗を占うような時期ではなかったのだろう。そう、勝敗はずっと前に、公孫賛の人となりを捕まれた瞬間に決していたはずだ。 部下と領民に優しく、部下は精強で、仲間を決して見捨てない。戦術構想そのものは凡庸で、初戦で奇策をうってくる可能性はゼロに近く、それでいて、無視できないだけの戦闘力がある。 ──そうか、策に嵌めるには、うってつけか。 ぞく──と、背筋が凍っていた。 まるで詰め将棋のようだ。 花を摘むように、たやすく、命を奪う。「そこまで裏の裏の裏までを考え尽くすものか?」「優れた謀士なら、これぐらいはやるとおもいますよ。兵法にも適っていますし」「いや、おそらくもうひとつ理由があるんじゃないか。劉備に白馬騎兵は使えない。いや、ここにいる諸侯の誰にもだ。つまり、敵は将ひとりを討ち取っただけで、この戦場にいる10000の兵力を、そのまま無力化したってことだ。これが意味するのは、つまり──」「ええと、おにーさんが言いたいのはこういうことですか? この、呂奉先の軍隊だけで、この反董卓連合すべてを殲滅するだけの秘策と自信があると」 程昱に言い返す暇はなかった。 そして、その間にも事態は推移している。 「曹孟徳さまからです。北郷隊は、今の陣から百歩前進するように」 本隊からの伝令だった。 囮に使われる、という懸念はすぐに振り払った。どのみち、先鋒である。血を流すことを、覚悟しなければならない。 けれど──その疑惑はすぐに晴れた。 隣の春蘭隊も、同じように動きはじめた。ということは、後詰めである曹仁と曹洪も動くだろう。他の陣営は、誰も動けないでいる。なぜ──公孫賛が討たれたか、誰も把握していないのだろう。 動き始めたのは、曹操軍本隊だった。 その用兵は、神速に近い。 曹操は、最強である黒騎兵の1000だけを連れて、俺が気づいたときには、高順隊の側面に回り込みつつあった。 待て待て待て。 信じられない。たった今、不用意に前に出て、首を刎ねられた大将の姿を見たばかりである。あえて、同じ愚を重ねるというのはどういいうことだ。「さすが華琳様。あんな光景を見せられた直後、突撃など、誰にもできません。敵も、それを織り込んでいたはずでしょうし」「同じ愚を二度重ねることで、敵の裏をかく、か」 公孫賛を討ったのは、こちらの全軍に心理的なブレーキをかけるのも目的のひとつだったか。 それが、曹操にだけは通用しなかった。たしかに、理性でそれが敵の裏をかけるとわかっていても、誰にもやれないだろう。それをあえてやるのは、他の諸侯など比較にならないほどの、自らの軍への信頼なのか。「黒騎第一隊から、第四隊まで、突撃ッ!!」 曹操が倚天の剣を中空に掲げ、愛馬である爪黄飛電にまたがり、黒騎兵の先頭に立って駆けはじめた。 黒騎兵。 すべて女性で固められた曹操直属の親衛隊は、その軍勢を1000まで膨れあがらせていた。黒の具足と馬甲で固められた、曹操の意のままに動くとされる、大陸最強の一角だった。 第一隊隊長、であり総隊長である香嵐(こうらん、黒騎兵その1) その麾下である、 巴音(りおん、黒騎兵その5)、 白湖(はくれい、黒騎兵その9)、 吹雪(すいせつ、黒騎兵その12)。 第二隊隊長、夏月(かげつ、黒騎兵その2) その麾下である、 青青(せいせい、黒騎兵その6)、 文華(ぶんか、黒騎兵その10)、 芳鈴(りんほう、黒騎兵その13)。 第三隊隊長、李華(りか、黒騎兵その3) その麾下である、 暁宝(ぎょうほう、黒騎兵その7)、 彩華(あやか、黒騎兵(裏)その10)、 小明(しゃおめい、黒騎兵その14)。 第四隊隊長、水(すい、黒騎兵その4) その麾下である、 睡蓮(すいれん、黒騎兵その8)、 菲(ふぇい、黒騎兵その11)、 末莉(まつり、黒騎兵その15)。 黒騎の兵が、四隊に分かれて突撃する。 曹操の命を待たず、それぞれの隊長と小隊長の指示で、どんな乱戦でも壊乱せずに戦い続けられる、大陸でも唯一の軍勢だった。 打ち鳴らされる鉦鼓と共に、曹の旗が掲げられた。 程昱が俺に説明してくれたことを、おそらく曹操は、ただの一拍で理解しているからこその速度だった。味方すら欺くような勢いで、壊乱する白馬騎兵ともみあう高順隊を横殴りに殴りつけた。 さらに左翼に布陣していた孫策軍がそのまま面包囲を行う。 兗州軍を率いる鮑信ちゃんの軍勢が、二万の兵力で正面から敵を押し包んでいく。 反董卓連合軍と、虎牢関を守護する呂布の軍隊との戦いは、序盤戦にして、四軍が入り乱れる地獄絵図と化した。 曹操軍は、閉じられていく包囲網の出口に、神経質なほどに注意を払っている。 高順隊は、曹操と孫策と鮑信ちゃんに、三面包囲をかけられて、もうすぐで水も漏らさぬ包囲網が完成するところだった。 外に敵が大量にいる時点で、内側に包囲をかけるのは、賭け以外のなにものでもない。包囲している側は、内側の敵を閉じこめるのに夢中で、外側の圧力にはまったくの無防備になる。ほんのわずかな手勢でも、通すわけには行かない。 曹操が、そんな賭けにでたのは、あの高順隊だけは、今ここでどうやっても討ち取らなければならないと決意したからだろう。つまり、練度や動きの早さから判断して、今押し包んでいるのが、董卓軍50万のうち、最強の5000である。 あれを、呂布が率いたら、と考えると──寒気がするほどだった。ここで、一兵も残らず殲滅するしかない。 だから。 包囲網の完成まで、敵を近づけないのが俺たちの役割になる。 宋憲。 ほぼ同数の相手と、俺たちはにらみ合いを続けている。 敵を動かさなければ、それでいい。タイムアップでも、俺たちの勝ちだ。 春蘭のほうは、魏続を抑えている。 曹洪が、威覇を。 曹仁が曹性を抑えて、こちらのカードはすべて切り終えている状況だった。 俺は俺で、宋憲とのにらみ合いを崩すわけにはいかない。 なにか敵に一アクションでもあれば、その隙をついて責め上がれるのだが、敵は不動の姿勢をとっている。同じ兵力で同じ兵力が拘束できている以上、これ以上の働きを求められるのは酷だった。 そこで── 敵の陣地の裏側から、抜け出てきた、300ほどの騎兵隊が、眼に入った。 すべてが騎馬。 黒の具足を身に纏い、そのすべてがひとつの生き物のように戦場を無人の野をゆくがのごとく駆けている。 鳥肌が立った。 凪がうめき声をあげる。旗もない。だが、尋常な調練であのような動きにはならない。戦場で敵を殺したわけでもない。それでも、存在そのものが異常だった。 ──わかる。 300騎の統一された軍馬の質は、その一頭一頭が、絶影となんの遜色もない。「隊長。アレはっ!!」 凪が震えている。 顔面が蒼白になっている。 精鋭は、強い気を放つ。それを感じ取って、兵の強弱を見抜くのだと彼女は言っていた。けれど、あれは俺にもわかった。見ただけで魂が消し飛ぶかと思った。 あれが、本命だ。 冗談でも何でもなく、あの300騎が、こちらを全滅させるだけの力を持っている。 おそらく、曹操も気づいただろう。 けれど──動けない。 ここで包囲を解いたら、あの300騎と内側の高順から挟撃を受ける。俺たちは魏続とにらみ合い、曹操軍と孫策軍、兗州軍は、外からの攻撃に無防備になっている。 ──まるで、あの300騎を駆け回らせるために、すべてがお膳立てされているのではないかとすら思った。 詠の言葉を思い出す。 俺が、敵の狙いを絞れるかといった時に、彼女はなんて答えただろうか?『絞るまでもないわ。陳宮の策はただひとつの方向にしか働かないから。つまり、呂布の騎馬隊を、どう効果的に運用するかだけど──』 ──まさか。 その、300騎に立ちふさがったのが、鮑信ちゃんの本隊だった。 予備隊扱いになっている。こちらの5000を抜けられたら、もう遮るものはない。彼女の号令と共に、歩兵が槍衾を作った。 ──勝敗は、この瞬間に、決した。 今まで、微動だにしなかった右翼の宋憲と、左翼の魏続が連動して動き始めた。 動きに、一糸の乱れもない。 なめらか──と表現されるほどの動き。 左右から押し包まれた兗州軍の前衛が、左右から押し潰される。無防備になった本隊に、300騎が突っ込んでいった。 概念だけは知っていた。 今使われたのは、ややオリジナルとやや異なるが、日本でこの1000年以上のち、戦国の世で使われることになった、寡兵をもって大軍を討ち果たす高等戦術。まず、囮でもって敵を引きずり出し、前衛を本隊から引き離したところで、囮が反転、さらに左右に伏せさせた伏兵で、突出した部隊を、蛇の頭を断つように狩る。 芸術的なまでの、三面殲滅。 悪夢のようだった。こちらが三面殲滅をしようとしたはずが、敵にそれを奪われている。 ──方天画戟が、風をくらって銀閃を描く。 島津のお家芸であるその戦術を、俺は畏怖とともに呟いた。「──釣り、野伏」 ──鮑信ちゃんの、首が、落ちた。 頼るべき将を失って、すでに包囲網など維持できるはずもない。 決壊した濁流のように、大軍が寡兵にさんざんに翻弄されている。曹操も、孫策も、将を討たれて混乱する味方の兗州軍を前にして、包囲のために広げた自軍を再編するのが精一杯のようだった。 俺たちも、混乱の中で、魏続と宋憲を追うどころではない。次のアクションをとる余裕がない。 全方位からの圧力を支えきった高順の騎兵隊は、ほとんど目減りしていなかった。こわれた包囲網を抜け、海に生きる魚が、魚群を作るように無名の300騎を中心として、再編される。 その軍勢はわずかの時間で、5000にまで膨れあがった。 ──旗が、掲げられた。 それは、深紅の──『呂』の牙門旗。 先頭にいるのは、三国最強である──飛将軍、呂奉先。 その旗を中心として、敵はまとまっていた。黒の騎兵隊が、ひとつの生き物のように動き始める。『黒きけもの』のように、ひとつの生き物とすら見まがうそれは、大陸最強の将と、そして──大陸最強の騎馬隊だった。「やられました。兵に兵を隠せさせる、全面埋伏ですか」 程昱の言葉が遠い。 兵士たちが、パニックに陥っている。 呂布を出すのなら、たしかにこのタイミング以外ない。ただ旗を掲げるだけで、全軍の戦意を奪ってしまった。 誰も追いつけない。奔りながら再編し、5000騎にまで膨れあがった呂布の騎馬隊は、そのまま、背後で機をうかがっていた、袁術軍四万に襲いかかっていった。