まずは、呉の──いや、孫策の置かれている状況について整理してみよう。 最初に語るべきは、孫堅について。 実は、孫策、孫権の父である孫堅ひとりを語れば、呉の九割を語ったことになる。 それほどまでに彼の生涯は鮮烈であった。 すさまじい英傑だったらしく、もし生きていたとすれば、曹操ですら一歩も二歩も遅れをとっただろう。弱小である一豪族が、いっさいの裏工作をせず、ただ自らの武力のみで長沙の太守にまでのし上がるさまは、その武力が尋常でなかったことを示している。 袁術に予州刺史に任じられ、破虜将軍という号を貰っている。 彼はひたすらに漢に対する忠義を掲げていた。彼を動かし、闘い続けた理由はひたすらそれのみだったといっていい。 孫堅はその37歳という短すぎる生を終えるまで、ひたすらに漢王朝への忠誠を貫いた。 さて、ここが大事なところである。 衰退した漢の復興を助けることで、自らの勢力の正当性を示し、名のある武将やスポンサーを引き込む。その名声が、のちに袁術から独立する正当性と大義名分を与えることになると考えたのかはわからない。 けれど、孫策自身は、そう信じているはずだった。もっとも、もしかしたら孫策はそこまで考えていなくて、ただ偉大すぎる父親の影を追っていただけなのかもしれない。 まあ、ともかく、孫堅の悲願──果てた炎漢を復興するために戦い続けること。のちに孫呉の誇りとして、自らの娘が思い描こうとする思想。 これを、『漢室匡輔』 ──という。 しかし、圧倒的な武力はそれが失われたときに反動としてかえってくる。 孫堅の死後、抑えていた勢力は霞のように霧散した。 家臣団も、バラバラになって袁術の勢力に組み込まれている。各々の家臣たちは、孫策と別の場所に配置され、連絡を取り合うことすら一苦労だった。 それでも、諦めることだけはできないはずだった。誇りのために、彼女の父が果たせなかった夢を叶えるために、彼女の生の意味はある。 叛乱の時を待ち、袁術からの独立の秋(とき)を見定めている。 いつか、呉という国が、大輪の華を咲かすことを信じて──「──と、そういうことなんですよー。あはっ。いい話ですよねー」 七乃さんが、孫堅と、そしてその娘である孫策の、いままでの状況を、語り終えた。語りに、淀みも歪みもまったくない。「勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた烈士である」 ──これはまあ、あの天の御遣いであり、元は三国志を編纂した、陳寿の評である。 七乃さんの評価は、歴史が孫堅に下した評価と、ほぼ一致する。 やや想像で補うところもあったが、基本的にはただ冷徹に、事実だけを述べていた。孫策の最大の敵であり、袁術の懐刀である彼女が、当人の孫策自身以上に、孫策のことを理解している。不気味だった。自分とさして歳も変わらないだろう彼女が、人を喰らう魔物のように見えた。 ああ──と、ふと、確信に近い思いがあった。 「なにがいい話かというと、その叛意をはじめとして、隠れ家や、重要な家臣団の能力、物資の流れから、叛乱の規模まで、すべて私にばれていて、私が下す命令ひとつで、その夢がはかなく消えてしまうことです。 あー、もう。孫策さんも、かわいそうですよね。分不相応な夢をみるピエロさんって、こういうひとのことを言うんでしょうか」 ──孫策は、彼女に殺されるだろう。 ここで、話は、半日ほど前にまで遡る。 寿春。 反董卓連合の集合場所である、曹操の陳留からもっとも近い場所として、袁術の兵隊は現在進行形でここに集められている。 俺たちの目的地である長江への通り道であって、物資の補充や噂の収集などのために、ここで一泊していくことになった。甘寧をこちらに引き入れるための最終確認や、曹仁をおびき寄せるためのエサの調達から、七乃さんに後ろ盾になってもらうなど、この寿春でやることはいくらでもある。 街はにぎわっていた。 兵士たちが集まっているということで、その恩恵を預かろうと商人たちが中央通りに軒を連ねている。忙しく働き廻っている人。人々が談笑している姿が見えていて、それは花を敷き詰めたような情景だった。「あーっ。これ阿蘇阿蘇の最新刊なの」「なぁ隊長。茶店でお茶していこうやー。ここんとこずっと野宿やったし、冷たいお菓子とか食べたいやん」「こらっ、ふたりとも、我々は遊びにきたわけではないのだぞ」 騒ぎ立てる沙和、真桜、凪の三人は、予想の範疇だった。 俺たちは真桜の案を取り入れて、外でお茶できる茶店のようなところに腰を落ち着けた。実際、彼女の言うとおり、陳留から寿春まで、野宿ばかりで、落ち着いて休む暇はなかった。 山道越えがなかったのが、唯一の救いだったが。 馬に乗ってばかりで、腿もパンパンに張っている。 あまり休んでばかりもいられない。特に、俺の乗っている絶影は一目をひく。袁術が今いるという王城のほうで預かってもらわないと不安で仕方ない。いや、盗まれるのが、じゃなくて、馬泥棒が絶影に返り討ちにされるのが、である。「ヘンね」「そうだな」 詠と俺は眉をひそめた。 まがりなりに、俺と部下の三人は、陳留の治安を守る仕事をしている。詠は董卓ちゃんの下で、彼女のすべての人が幸せに暮らせるように、という夢を実現させるために働いていた。 そんな俺たちだから、疑問におもうことがある。 袁術といえば、あの袁術である。 統治が、いきすぎている。 善政が敷かれているのは一目でわかった。 七乃さんがブレーンについているとはいえ、あのちびっこに、これほどの統治能力があるか? たしかに、このクラスの統治をずっと続けられるのなら、孫策の這い出てくるような隙間はいっさいなく、劉備、曹操、孫策、袁紹らに負けずに互角以上に張り合えるだろう。 それでも、釈然としない。 そもそも、史実において袁術といえば、私欲を優先し、民衆を顧みない典型的な暴君として通っていた。 命からがら敗走したあと、とある農家で水を求めると、農民は水が入った瓶を倒して「さっきまで水はあったがね。今なくなっちまった。血ならまだ少しは体に残っているが、それ以外は、全部お前に吸い取られてしまったからな」と応えた。それに対し、袁術は「おおっ、私は民に水一杯も恵んでもらえない領主だったのか」と、そこで初めて気づき、血を吐きながら絶望して死んでいった。 ──という話が、横山版三国志にある。 まあ、これは完全にフィクションだが、おそらく袁術の死に様としては、これが一番有名なはず。 おかしなカリスマはあるにしろ、あのちびっこにここまでできるとは思えない。 それより。 とりあえずはまあ、七乃さんに会うことである。 これで疑問にある程度の答えは出るだろう。『私たちの本拠地に来ることがあれば、これを門番に渡してください』 別れ際に、七乃さんから貰った『1/16美羽ちゃん人形メタリックフレーム』だった。袁術の勢力圏では、このフィギュアが割符や通行証代わりとして機能する。見せるだけで、門番の顔色が変わった。「こ、これは張勲さま(七乃さん)が、たったひとりしか作らなかったという美羽さまメタリックフレーム版っ!! このツヤやかなテカリと風を孕んだような服のエッジ。袁術さまのツルペタを引き立てるようなこのフリルの配置が絶妙じゃないか。豪邸と引き替えにしても手に入れたい好事家も多かろうに」 ええと、そんなすごいのか。 たしかに、七乃さん作成の美羽さまフィギュアは、手に取ったものを魅了するだけの魔力があった。 美羽さま人形の、ぱっちりとしたふたつの目が、こちらを見上げていた。感情の無さが、逆にその無垢さを引き立てるようになっている。その存在感が、袁術の一番かわいい一瞬を切り取ったのだと確信させていた。 疑問はあるにせよ、絶対に複製が不可能、という意味で、きちんと通行証としての役割は果たされている。 女性四人は、宿の手配やら必需品の買い出しやらで、ここには俺しかいない。特に詠は、いろいろとむずかしい立場だった。 元董卓軍の軍師である。この寿春に顔を知っているものはおそらくいないだろうが、袁術の城に顔を出すことで、最悪敵との内通を疑われかねない。 というわけで、ここは俺ひとりだった。 凪は最後まで俺がひとりで行動することを渋っていたが、さすがに、袁術の城の中で、命の危険はないだろう。 と、思い。 そして、俺はその判断を、いきなり後悔した。 玉座で繰り広げられているのは、斬った張ったに発展しそうな状況だった。可視できそうな濃密な殺気が、玉座の間全体を押し包んでいる。「それでは、どうあっても、呉の旧臣たちを呼び寄せる許可は貰えない、と?」「当然じゃろ。おぬしに二万の兵力を指揮させてやろうというのじゃ。将も過不足なく用意させてある以上、そこまでする必要もあるまい」「しかし──この間の黄巾党のときは許可をっ!!」「あのときとは状況が違いますからねー。あれは結局、兵を出そうとしたらもう黄巾党のみなさんは解散してしまってましたし。曹操さんがおかしなことやって、あっという間に解決しちゃいましたからねぇ」「うむ、さすが華琳姉さまじゃの」 あー、なんか知らんが、もめてる理由は俺のせいなのか。 玉座の袁術に喰ってかかっているのは、浅黒い肌をした女性だった。すらりとした肢体に、可憐さと凶暴さが、矛盾無く同居している。 その女性は、袁術に対する抵抗を諦めると、なにが起きているのかわからない俺の横を通って、高く踵を鳴らしながら去っていった。 ──あれが、孫策伯符か。 江東の虎、とはよく言ったものである。 すれ違っただけで、全身が粟立った。 あれは、誰にも恭順しない、孤高のいきものだ。 目と目が合っただけで、喉元に刃を突きつけられたかと思った。あのプレッシャーは、曹操と較べてまったく遜色がない。 ──誰にも、飼い慣らせないだろう。 手を差し伸べようとすれば、腕ごと喰いちぎられるだけだ。『──いますぐ殺せ』 俺なら、そう言うだろう。あれを部下として使いこなす器量は、俺にはない。「あらー。北郷さん。しばらくです。私に会いにきてくれたんですか。だめですよぉ。私に惚れられても、私にはお嬢様がいますから」 七乃さんが俺に気づくと、こちらに駆けてきていた。「そうだったらよかったなぁ。いや、ほんとうに。今度会うときは、ただ七乃さんに会うためだけにここに来たいなぁと思うんだけど、とりあえず今回は違うということで」「あら、残念です」「それより、なにがあったみたいだけど。今のは孫策将軍、かな。ずいぶんと怒らせるような真似をしてたみたいだ」「うむ。七乃。下民に説明してやるがよい」「はいー。反董卓連合の軍編成で、孫策さんが文句をつけてきたんですよ。こんな感じなんですけど」「なんだ。これ」 七乃さんから、渡された割り振り表を見て、俺は色をうしなった。 総司令官、袁術。 大将軍、張勲(七乃さん)。 その下にくる上級将軍の位にあるのは、四人だった。 破虜将軍である孫策、 冠軍将軍である紀霊、 揚烈将軍である華なんとか(華雄) 威烈将軍である趙雲。 さらに、その下に袁術の八大神将がくる。 そこまではまったく問題ない。 問題は、次の三人だった。 外交担当の陸遜、 内政担当の周泰、 財政担当の呂蒙。 なにやってるこいつら。 どういうことだ。 不得手ってレベルじゃあないぞ。 俺はその紙片を睨みながら、これについて考えていた。 これを理解するには、少しばかり三国志の知識が必要になる。 陸遜は、三人の中で一番有名だろう。 三国志の後期に、蜀の諸葛亮と、魏の司馬懿仲達、それと並んだのが呉の陸遜だった。彼(彼女?)を評価するのなら、ただ一言、呉で最強の将軍という言葉だけで事足りる。欠点としては、どうも空気が読めなかったらしい。それぞれに別の皇太子を担ぎ出して、首脳部がふたつに割れた際(二宮の変)、どちらにつくか、という選択を迫られたときに──どちらをも批難するような正論を言ったため、結局、両方の恨みをかって、粛正されている。 というわけで、そんな陸遜を外交担当につけるのは、資源の無駄どころか、おそろしいまでの暴挙である。 残りふたりも同様だ。 周泰は、全身が傷だらけの名将で、諸侯が集まった宴の際、孫権は服を脱がせ、自分を守るために全身に刻まれた傷のひとつひとつを本人に解説させ、諸侯を納得させた、というエピソードが残っている。 呂蒙は、関羽を討ち取った武将として有名だが、それよりもまず、獣王クロコダインが言っていた、『男子三日会わんとすれば、刮目して見よ』の語源となった人物である。なんで、ここまで鮮烈なエピソードの残る武将を、内政担当と財政担当にするのかさっぱりわからない。 「なにか、おかしいところでもありましたか?」「おかしいといえば、この寿春自体がおかしいと思うなぁ。ここまでの善政を敷く理由なんかあったっけ?」「いえ、私もここまでのことをするつもりはなかったんですけど、たわむれに閑職へ追いやった孫策さんの部下達200人ぐらいが、意外に活躍してくれているんですよ。まあ、慣れないことで、本人たちは不眠不休らしいですけど」「それで、孫策が文句をつけにきた、と?」「はい。だって、目に見えて効果を上げている以上、そんな簡単に役職を動かせないですし、民衆から英雄と慕われている孫策伯符の名に、傷がつきますよと教えてあげたんですけど、どうして怒っちゃうんでしょうねぇ──お嬢様」「うむ、不思議じゃの」 袁術が眠そうになっていた。 むずかしい話に、頭がついていけなくなっているのか、頭がぐらんぐらん揺れている。「あ、ちょっと待ってくださいね。北郷さん。お嬢様を寝かしつけてきますから。そのあとで、ちょっとした昔話をしましょうか」 袁術をあやしながら、七乃さんは言った。「孫策さんの父親である、孫堅さんのことです──」 そして、時間は冒頭へと巻き戻る。 俺は戦慄していた。 孫策の考えを、この時点で七乃さんほど読み取っている人間はいないだろう。 孫策の力を削ぐ、ということは誰だって思いつく。 俺でさえ危険に感じたぐらいだ。粛正という選択肢は、地位さえあれば、どんな愚鈍な人間でも思いつくぐらいの、三流の策とすらいえる。 ただ── どうして、彼女が──この時点で無名とすらいえる陸遜、周泰、呂蒙の力量と資質を完全に把握しているのか。 こういう人事ができるのなら、彼女らを最大限に生かすような使い方もできるはずだ。だから、このままだとこの三人が、いや、孫家のすべての武将が、歴史に名を刻むようなこともなく、闇に葬られるだろう。「私が、会ったばかりのひとに真名を許すような、あたまユルユルな女に見えましたか?」 愛の告白のようだと、そう思った。 俺を見る七乃さんの瞳には、愛情から恋慕、憎しみから哀れみまで、あらゆる感情が嵐のように荒れ狂っているようにみえる。「──たいしたことないですよ。優秀な人材を飼い殺しにする。策略としては下の下ですし、北郷さんにだって、これぐらいはできるでしょう」 刺さった。 七乃さんの言葉の刺が、深く刺さった。「無理だよ。俺には、七乃さんのようなことはできない」 七乃さんは、無駄に俺を評価してくれているらしい。 が── 俺が孫策に感じたのは、畏怖以外のなにものでもない。「絶対に、懐かないような虎を飼っているようなものだろ。隙を見せたら、喰い殺される」「はい。私だって同意見ですよー。でも、お嬢様が使える物はなんでも使うとの申し出ですから」「待て。すると?」「はい。これは、お嬢様の案です。曹操さんの教育で、ある程度、自分が置かれている立場っていうのが、わかってきてるみたいですね」「華琳の教育で、あのちびっこ。人の動かし方を覚えたか」 ──性質が悪い。 それも、君主の資質と言われれば、それまでだが。「こういうお嬢様の行動って、ええとー、なんていうんでしたっけ?」「陰険、いや、違う。──狡猾、かな?」「あ、はい。それです」 七乃さんは、夢見心地になった。 ぱっちりとした瞳に、キラキラと星が瞬いている。 夢見るような眼差しだった。「お馬鹿なお嬢様もいいですけど、あのお馬鹿極まりないお嬢様が、少しずつ成長していくのを、見届けるのも楽しいかなぁと、最近思ってきまして」「まあ、気持ちはわかる気がする」「あと、北郷さんについて、心の底から、よかったと思うんですよ」 ふふっ、と七乃さんが微笑んだ。 彼女が素でみせた、思わず魅きこまれそうな笑顔だった。「なにが、です?」「はい。──お互いが、敵でなくて」 一瞬だけ、空気が凍り付いた。 殺気に限りなく近しいものが、俺と七乃さんの間だけに漂ったと思う。「……それで、北郷さんの用事を、まだ聞いていませんでしたけど」「ああ──そういえばそうだった」 俺は、曹仁のことについて語った。 長江の辺りに、盗賊を集めて待陣しているらしいので、その手勢を引き取りにきたということ。ついでに、敵対する錦帆賊もどうにか籠絡してみよう、ということ。「うーん。その錦帆賊なんですが、ちょっと気になることがあるんですよー」「へえ、聞かせてもらいたいなぁ」「実はですね。孫策さんが、密かに旧臣たちに連絡をとっている疑いがあるんですよ」「疑い、か。形跡じゃなく?」「はい。それが問題です。見える流れとかはすべて潰しているはずなんですけど、どうしても物資や人の流れを見ていると、ほんの一時だけ掴めない瞬間があって。物の流れとかも、どうも帳尻が合いすぎているような気が」「つまり、錦帆賊が盗賊稼業の傍らで、孫策と繋がっている疑いがある、と?」「そうです。ただし、証拠はありません。泳がせてボロを出すのを待っているんですけど、なかなか尻尾をだしてくれないんですよね」 ──甘寧か。 やはり、孫策と繋がっているのか。「つまり、甘寧はすでに孫策と繋がっているってこと?」「いや、この場合、どっちかっていうと、孫権だな。妹のほうだ」 あのあと、七乃さんが持っているありったけの情報は貰ってきた。一時期、孫権のボディーガードというか、剣術指南役をやっていたらしい。 まだ、どこかでつながりが、ある、と考える方が自然だろう。 宿に泊まった後で、俺と詠とで、情報を見聞する。 三人娘のなかで、真桜と沙和がぎゃーぎゃーと騒いでいた。「えー、ウチの力作どないすんねん。これ作るのめっちゃ骨が折れてんでー」 真桜の抱えているのは、空気で膨らませる等身大ダッチワイフだった。胸の辺りに、ペンで『かんねい』と書かれている。髪をつけて、目と鼻をつけただけの粗末なつくりだった。この時点で、最大限に相手を愚弄していることこの上ない。「そうなのー。隊長ひどいー。せっかく練習したのにー」 沙和が、そのかんねいダッチワイフを抱き上げて、裏声で囁く。 『ワガハイ、かんねいでござるよ(例文1)』、『この短刀のきれあじ、きさまのからだでためしてみるがよい(例文2)』、といった感じで、具体的に言うと、相手が言った台詞をそのままこの、かんねいダッチワイフに喋らせるだけで、相手を激昂させられるという優れものだった。いや、多分甘寧の口調って、そんなんじゃないけどな。 当初は、これと桂花直伝の落とし穴を組み合わせた大捕物を予定していたのだが、甘寧についての情報を総合した結果、ボツになった。「仕方ないでしょ。ボクの見立てだと、甘寧って、義理と侠で動くような堅物っぽいから。こんなの出したら、一生追いかけ回されるわよ。ボクは面白いからいいけど、コイツの首を飛ばすのは、月を助け出してからにしないと」「……詠。途中から本音が漏れてるような気がするが」「まあ、策が通用しないぐらいの堅物っていうのはね。逆に扱いやすいということでもあるわ」「無視かよ」「つまり、甘寧の心を動かせるのは、たったひとりだけ。まあ、なんとかなるんじゃない?」 孫策に、将軍位を与える代わりに、彼女はずっとここに囚われているらしい。 いわゆる軟禁。 人質、というヤツだった。 護衛と監視を兼ねた侍従が数人。 あとは、囚われのお姫様本人。 この大きな屋敷から、一歩も外に出ることを許されていない。並みの貴族の息女たちと扱いは変わらないにしろ、その囚われの姫の心は、ずっとまだ見ぬ戦場へと向いているはずだ。 「何者だ?」 声が、かかった。 俺は一目で、彼女に、目を奪われたのだと思う。 彼女自身を構成するすべてが、誇りで煮固められたような少女だった。 紫髪翠眼の、美貌の少女である。 見慣れない俺に、警戒の眼差しを向けている。こんな状態でも、気品はまったく失っていないようだった。「これから、甘寧を、口説き落としにいく」「──!?」 彼女は、表情は動かさず、驚きを喉の奥に押し込んだようだった。「元の主に、なんの挨拶もないのは、礼儀に外れると思ったんでな。──とまあ、そういうことだ」「何者だ。きさま」「北郷一刀という。珍しい名前だけど、あまり気にしないでくれ。漢民族の出じゃないんだ」「なるほど。おまえが、曹孟徳の懐刀か」 そこで、孫権の睨むような視線が、より強まった。「あれ、俺のことを知ってる?」「当然だ。おまえが早々に黄巾党を叩き潰さなければ、姉様が孫家の再編をする時間が稼げたはずだ」「あー、ごめん。それは悪いことをした」「おまえは、私をからかいにきたのか?」 ちょっと、呆れたような声だった。「いや、ちょっと外に出てみないかと、誘いをな。甘寧はおそらく、お前に対する忠義を通すだろう。つまりだ。孫権仲謀。だからその場に──立ち会え。あんたには、そのための義務があるはずだ」「拒否権は?」「とりあえずない。なに、孫策の立場はわかっているつもりだ。そっちは配慮する。返事ははやく頼む。できれば、手荒なことはしたくない」 隣には、凪を控えさせている。彼女に当て身を喰らわせて、ここから連れ出すなど、朝飯前だった。 孫策に対する袁術預かりの人質が、今度は甘寧に対する俺預かりの人質になる。 俺が言っていることは、つまりそういうことだった。 俺の言葉に、孫権が目を閉じた。 目を開いたときには、その目には、揺らぎようのない力があった。「いいだろう。今から、おまえを、見定めさせてもらう。──連れて行け」 ──彼女の返事は、べつに必要なかったのだが。 まあ、抵抗されるよりはいい。 というわけで、俺は孫権に対して、監視の侍女に怪しまれずに、この屋敷を抜け出す方法について、説明を始めた。 あとがき。 ええと、ヒロインが乗っ取られそうな感じが。 華琳さまは大丈夫なんでしょうか。 はやくしろー。まにあわなくなってもしらんぞー(棒読み) よって、次回より、蓮華さまLV40がはじまります。 なんで、蓮華か。 このサイトに彼女がメインヒロインの話が、一個もなかったからだよっ!!