軍議だった。 洛陽、何進の私邸のさらに奥まった一室に、綺羅星のような英傑たちが集っている。最も上座に座っているのは、この会議の主催者にして、十常侍、蹇碩を殺し、ついに西園八校尉をその手中に収めた、外戚──大将軍、何進。 華琳が『何進おばさん』などと言っていたために、俺による彼女のイメージは、老舗ラーメン屋の姑とかそんなのだったのだが、実際の何進大将軍は、それを裏切るようにずっと若かった。二十代前半だろう。思えば、帝の寵愛を受けた妹がいるのだ。その姉も国を傾けるほど美しくて、なんの不思議もなかった。 長く白い脚線美を見せつけるように、横に伸ばし、胸元をはだけさせているさまは、閨(ねや)で殿方に愛を睦むようだった。「みなのもの、集まったようじゃな」 なんというか、おばさんよりお姉さん、お姉さんというよりも女狐、って感じだろうか。唇に塗られた紫の紅が、すごく色っぽい。正直、目のやり場に困るなぁ。 護衛もすべて外に出され、ここには最小限の人数しかない。 何進に、曹操軍からは、華琳と、相談役である俺、袁紹軍からは、袁紹と、その参謀である 田豊(12歳の少年だった)。袁術軍からは、袁術と、その世話役である七乃さん。董卓軍からは、董卓と、その軍師である賈駆(かく)。 四軍からふたりずつ。 そして主催者である何進を加えた9人のみが、密室に詰めている。「それでは、今の状況を説明しますね。ええと、十常侍の張譲さんと段珪さんが、何進大将軍が董大后を毒殺したとの流言を振りまいていることを確認してます。これは大変ですよぉ。このまま行くとあらぬ疑いをかけられて、窮地に陥りかねません。宦官さんたちは、完全に敵にまわりましたね。いますぐ宦官さんたちを始末しておくべき、これが我々の基本方針です」 袁術軍の七乃さんが代表して、今の事態を説明していた。「それはそれとして、機密は本当に大丈夫ですの? 武力は我々の足下に及ばないとしても、あのタマなしどもの手勢は、どこにでも沸いてきますわよ。連中、ゴキブリのように、どこにいるかもわかりませんもの。霊帝が即位した時、ときの大将軍薹武が我々と同じ事を企てたそうですけど、結局機密が漏れて殺されてしまったそうですから」 華琳の姉である袁紹が、田豊少年に耳打ちされつつ、言った。 けれど── 彼女の言いたいことは、また別にあった。 袁紹の視線が、そのまま瞳に力のない少女に突き刺さっている。「袁紹さま。我が主君になにか不満でもあるのですか?」「よ、詠(賈駆の真名)ちゃんっ」「ええ、黄巾党討伐のときに、ただ震えているだけの臆病者だった董卓さんは、ここにいて本当に大丈夫なのかと。袁家は四代にわたって三公を輩出してきた名門ですけれど、それでもあのタマなしどものやっかいさは知っていますわ。相手は、ある意味、帝そのものですのよ」 袁紹は、かわいそうなものを見るような目で、言った。「なにが、言いたいんですか?」 董卓は、引かなかった。 虫一匹殺せなさそうな全身に、かすかな怒気が溜まっている。「これはあくまで私の意見です。董卓さま、州牧の印綬を返上してください。戦えない州牧など、笑い話にもなりません。州牧は、民を率いる印です。自分の職務を果たそうとしない人間は、漢王朝を腐敗させた宦官にすら劣ります」 田豊の言葉に、全員が、絶句した。 というか、主(あるじ)である袁紹すら言葉を紡げないようだった。ここまで言い切るとは誰も想像していなかったのだろう。 田豊、というとあまりにきつい正論を繰り返したために、主に殺された忠臣として有名だが、さすがに、これはない。俺の三分の二しか生きていない子供なのに、どうしてここまで腹が据わっているんだ。「あんたに何がわかるのよっ。月(董卓の真名)は、優しいからっ!!」「控えなさいっ!!私は、董卓さまに聞いているのです。敵の前に立てない人間に、なにも守る資格はないのですよっ!!」 一喝だった。 食い下がってきた賈駆を、一蹴する。 おい、これは直言とかそういうレベルじゃないだろ。しかも、他の領土の州牧に。12歳の少年に、場のすべてが呑まれていた。「ガタガタブルブル。あ、あのちびっこ。ものすごくこわいのじゃ」 あ、袁術(華琳の妹)なんて、ものすごくびびっていた。自分も同じちびっこだろ、なんてベタなつっこみは誰もやらない。「あらあらお嬢様。おもらししたらダメですよぉ」「まだ漏らしとらんわっ!!」 ええと、落ち着け袁術。 それから、すべての視線が董卓に集中した。彼女は目を閉じている生命活動を行っているのかと疑うほどに、静かに──目を閉じていた。華琳に抱きつかれて三回転半してから、俺はしばらく董卓を見ていたが、どこにいてもいるような、普通の少女だった。むしろ、その心優しい普通の少女が、このような重荷を背負わされているあたりに、彼女の不幸があるのだと思う。 華琳と、同じだ。 華琳は、戦争とかにおける頭のネジが緩いからまだいいとして、彼女は人の生き死にを見るのには、随分と優しすぎて。それはきっと、雨が降るように人が死んでいくこの乱世において、君主としては致命的な欠点なんだろうと思う。 けれど──「田豊さんの言うとおりです。戦えない州牧なんて、むしろ、滅びたほうがいいんでしょうね」 鈴が鳴るような神聖さで、彼女は言った。 大人でも怯むような獣の視線に射すくめられて、彼女は最後まで目を逸らさなかった。「心配してくれて、ありがとうございます。でも、私は、私自身の手を汚してでも、勝利を掴んでみせます。大切な人たちを、守るためには、そうしなきゃいけないと思うから。人を殺めることに、躊躇いはあります。でも、それでも、理想を語るには、誰でもできるけれど、私は一生をかけて、理想を現実に近づける努力をしていこうと思っています」「──失礼しました。董仲穎さまのお覚悟。たしかに見定めさせていただきました。ご無礼を、お許しください」 田豊が、頭を下げた。「こほんっ。それでどうする。宦官を誅滅するための、なにかいい意見はあるかえ?」 何進が、議題を本題に戻す。「いますぐ近衛全軍を率いて、殴り込みをかけるんじゃダメなの?」「おおっ、さすが姉上。素晴らしい意見じゃ」 華琳の意見に、袁術が賛成した。 いや、まあ──実に身を蓋もない。「華琳さんの意見に賛成ですわね。宦官ごとき、我々の武力をもってすれば、ケチョンケチョンのぽっぽこぴーですわ。田豊、それでよくて?」「──問題ないでしょう。国の行く末を案じた懸案のすべてを十常侍は握りつぶし、そうした忠臣達をすべて謀殺しています。もはや、生かしておいてなにひとつ使い道はない連中かと」 冷え冷えとした声が、密室に響いた。 重い。さきほどの董卓との一幕で、田豊の意見は不思議なほどの重みをもっていた。もはや、子供の意見だと笑い飛ばせる人間は、ここにはいない。 けれど── 本当にそれで正しいのか? 宦官は生殖の機能を奪われ、謀を巡らすだけの動物だという。この田豊クラスの謀略家が、相手側にいないとも限らない。「鶏を捌くためには、牛刀で一息にやったほうがいいと思うけどな。追い詰めると、想定外の手に出てくるんじゃないか?」「想定外の手、って?」「……何進大将軍の、妹さんを人質に、とか──」 ふと思いついたことだったが。 反応は激烈だった。全員の目が、こちらを向いた。ええっ、と後ずさりしてしまう。さっきの董卓のあれが、どれだけの精神力に支えられての言葉だったのかが、よくわかる。「たしかに一刀の言う通りよ。なにか策を考えて、何大后をこちらに呼び出しましょう」「あまり策に拘りすぎると臭いをかぎつけられるわ。ボクにまかせて。むしろ、十常侍に、何大后を差しださせるようにするから」「……どうするのじゃ?」「何進大将軍が、弱気になっている、という噂を流せばいいわ。十常侍の連中は、何大后に取り入っているんでしょう? 喜んで、何大后を通じて兄を説得に当たらせようとするわよ」 賈駆の策に、田豊の瞳の燐気が強まった。 ──恐い。 いや、気づいている。田豊がおそらく一番警戒しているのが、間違いなく、この賈駆だ。明らかに、袁紹が領土を広げていく上で、この賈駆文和が、最大の邪魔になると考えている。わかる。気づいたのは、むしろ必然だった。 俺もそうだから、気づけた。 さきほど、董卓に難癖をつけて、賈駆の発言権を叩き潰しにいったことからも、それがわかる。あれは董卓の覚悟を問うのでもなく、資質を確かめるのでもなく、単純に彼女の軍師である賈駆の出鼻を挫くためだけのものだった。 田豊は、俺と同じく、この賈駆が自分の主にとって、最大の敵だと考えている。 そうだ── 劉備より孫策より、未だ表舞台に出てこない曹操より、俺はこの賈駆が恐い。 三國志における、ターニングポイントはいくつかある。赤壁がそのひとつだった。曹操軍は、諸葛亮と呉軍の計略にかかり、八十万の兵隊を焼き殺され、天下への足がかりを失った。 それは、いい。 連環の計、だったか。タネの割れた手品など、なんの驚きもない。計略なら、タネさえ知っていれば、俺のレベルでさえ返し技のひとつやふたつ、思いつく。 そもそも、劉備自体、警戒に値するのか疑問だった。 天下三分にて、劉備は曹操と並んだ、とされているが、逆に言ってしまえば、そこが劉備の限界だったはずだ。 赤壁と斜道(鶏肋のあれ)を例外とすれば、劉備が曹操自身を追い詰めたという事実はない。それでも警戒はしてもしたりないぐらいだったが、今は出てきてもいない登場人物に考えをとられるよりも、目の前の少女の恐ろしさを再確認しておいたほうがいい。 賈文和(駆)。 袁本初(紹)。 呂奉先(布)。 そして、馬孟起(超)。 曹孟徳という姦雄を討ち取る寸前までに追い詰めたのは、おそらくこの四人に限られる。謀略戦において、天才である賈駆を最大の驚異として認識するのは、むしろ当然といえるだろう。「噂を流すとなると、待ちの姿勢になりますねぇ。相手の行動を待つとなると、どんなに早くても一週間はかかりますよ」「それでは、他にだれぞ、意見はあるか?」 何進の問いに、誰も、手をあげない。 今日のところは、これで解散となった。「美羽ちゃん美羽ちゃん(袁術の真名)。おみやげよ。とってきて間もない新鮮なハチミツ。美羽ちゃんのために持ってきたの」「まことかっ。華琳姉さまー、大好きなのじゃー」 抱きつく。華琳が、袁術を膝の上に乗せて、彼女の髪をくるくるに編んでいた。さっきまで、血も凍るような会議が繰り広げられていたとは思えないほどにのどかな光景だった。「おお七乃、そこの下民(俺?)が、わらわの美貌に見とれておるぞ」「それはそうですよぉ。お嬢様がかわいすぎるのがいけないんです」「ふっ、そうであろ、そうであろ。──、って、ぎゃーっ!!」 袁術が、いきなり悲鳴を上げた。「ま、まさか、一刀が変態幼児性愛者だったなんて」 華琳は驚愕しつつ、袁術の胸をギリギリと締め付けていた。「いや、信じるなよ」「だって、一刀ってば、いつの間にか七乃さんを真名で呼んでるしっ」「いや、だってお嬢様のような人間が天下にふたりもいるなんて、思わないじゃないですかぁ。一刀さんのこと、他人だとは思えなくて」 くらっとくる台詞だった。 これは愛の告白だと勘違いしていいだろうか。「ああっ、そういえば私の妹だけじゃなく、何進おばさんにまで色目を使って。あなたに節操とかそんなのはないのっ!!」「いや、いいがかりだろそれはっ」 俺は叫んだ。 話がまずい方向に転がり始めている。「部下の欠点を矯正するのも、主君としての役目よ」「主君の欠点を矯正するのも、部下としての役目だけどな」 華琳と俺はにらみ合っていた。 ふと気づくように、袁術が周りを見渡す。「そういえば、あ奴はどこに行ったのじゃ。客将ということで連れてきたはよいが、まともに姿も見せぬではないか」 客将、といえば──あ、孫策か。 「そういえば、見ませんねえ。まあ、なるべく行動を束縛しないって条件で召し抱えたじゃないですかー」「そうじゃったか? まあよい。う、ううっ、厠はどこじゃろ」 袁術が、ぶるっと震えた。 ちょうどそこを通りかかった武将に、声をかける。「おい、華なんとか。厠まで案内してたもれ」「……私は、小間使いではないのだが?」「知っておる。何進の武将であろ。わらわのような名家の人間に、借りをつくらせてやろうと言っておるのじゃ。もし、わらわが召し抱えたときには将軍にしてやろうぞ」「わー、お嬢様。その貸しを押しつけるような尊大な態度、びっくりしちゃいましたー」「ふふふ、そうであろう。わらわの名門の血あってのものじゃな」「ぐぅ、主の客人でなかったら、とっくに斬り捨てているものを」 華なんとか将軍が、美羽の手を引いていく。 先生と、受け持ちの子供のようだった。「七乃さん。あの女の人は?」「たしか、おかゆとか、かゆうまとかいう将軍さんですねー」「華雄だっ!!」 聞こえていたらしい。 廊下の角からそんな声が聞こえた。 え、でも──「華雄っていうと、董卓の配下じゃなかったか?」「ええ、でも、呂布将軍と華雄将軍は、さっき言ってたとおり、董卓さんのところじゃなくて、何進大将軍の下で黄巾党討伐に参加していましたから、実質、何進大将軍の部下でもあるみたいですねー」「へえ」「では失礼します。ああ、待ってください。お嬢様。私も行きますよー」 ぱたぱたと、七乃さんが走っていってしまう。 静かになった。動くのは、こっちの首を絞めようとしてくる華琳だけだ。いや、もうひとり。 「主が、ご迷惑をかける」 すっ、と影の中から出てきたようだった。 また、見たことのない女性だった。先の尖った宝石のよう、といえばいいのか、雰囲気としては、そんな女性だった。「袁家の客将さんか」「うむ、美羽さま(袁術)の元で世話になっている」 孫策、ではない? 春蘭から、孫策の特徴は耳にタコができるほど聞かされた。南の人たちは、皆、肌が浅黒いという。けれど、目の前の武将は、まったくもって彼女から聞いていた条件に一致しない。肌は雪を溶かしたように白く、戦うための武将としては美しすぎる。それでも、その手に担いでいる槍とその佇まいは、たしかに一流のものだった。「君は──」 ──だれだ?「北郷さぁんっ、華琳さまぁっ、大変大変。この屋敷、完全に敵に囲まれてますっ」 走ってきたのは、香嵐(黒騎兵総隊長)だった。「はあっ。どういうことだ、それ?」「わかんないですよぉ。旗とかもなくて、今、夏月と李華と水が応戦してます」 俺は右手で棍を掴み、青釭の剣を腰に佩いて、左手で華琳の首すじをひっつかむと、外に出た。かすかに、喧噪が聞こえていた。一段高い三階建ての建物が本宅で、周りを取り囲むようにしてあるのが別宅である。俺たちがいたのは別宅の方だった。というか、この屋敷広すぎるんだよ。 ここからだと、どこに敵が、どれだけの数、いるのかがまったくわからない。「なぁ、これはいったい何の騒ぎや」「あ、張遼さん」 張遼文遠。 董卓軍の将軍だった。 なぜか関西弁を喋る、活きのいい姉ちゃんである。 昨日、その青龍偃月刀かっこいいですね、って言ったら、違う、これは飛龍偃月刀や。ここ、ここの部分が違うやろ、とか武器について小一時間レクチャーされた。「正体のわからない軍隊に、囲まれてるんです。ああぅ、どうしてこんなことにぃ」 香嵐が頭を抱えている。「む、状況はつかめてないんやな。よっしゃ、ウチにまかしとき。ウチのそばから、離れるんやないでっ!!」 ぶんぶんと、飛龍偃月刀を振り回した。 すごい頼もしい。その後で、季衣と流琉と合流し、どこまでも続く整地された石畳の上を歩き、正門を目指す。 まばらに襲ってくる連中を、棍で突き倒す。 なんだ、こいつら、まともに連携もとれていない。急遽、集められただけの烏合の衆のようだった。 なにせ、俺でさえまともに撃ち合えるぐらいだ。それでも、それなりに数はいる。飛んでくる矢は、すべて流琉の鉄戟が撃ち落としている。「ああうっとおしいなぁ。そもそも、出口はどっちなんや。戦いにくいことこの上ないわ」「なら、ボクにまかせてっ」 季衣は鉄球を振るうと、そのまま外壁に向けて──「だああああああああああっっ!!」 遠心力で強化された一撃を、叩き付けた。けたたましい音と共に、外壁が破壊された。ぼっかりと穴が開いて、壁の外への道ができる。 外を見ると、見える範囲には、二十人ほどの手勢がいた。旗もなければ、鎧に特徴もない。こちらに気づいた連中は、張遼将軍が相手をしてくれている。飛龍偃月刀が閃くたびに、ふたつ、みっつの首が落ちる。軽やかな動きとともに陣羽織がはためくさまは、おそらく敵ですら見惚れるほどだった。「で、連中の、身元を示すものとか、ないか? なにか、手がかりでも」 旗がないんだから、まず期待できない。「あの、一刀。私、いつまでこの扱いなのかしら」 左手に吊られたままで、華琳がぼやいていた。 そこへ、あっけらかんとした声が割り込んできている。「裏で糸を引いているのは、十常侍、ではないですよねぇ。あの妖怪たちが、こんな直接的な手段にでるとは考えられませんし。おそらくは、敵対する董大后の手の者か、この間、何進さんに殺された蹇碩(西園八校尉筆頭、十常侍のひとり)の残党たちでしょうね」 いつのまにやら、傍にきていた。 答えを言ったのは、七乃さんだった。 厠へ行ってから、そのままこっちに来たのだろう。華雄将軍と袁術もいる。 「なんというか、意趣返しってやつかな」「まあ、何進大将軍もいろいろと恨みをかっていますからね。宦官と外戚の対立って、ほんとに根深いんですよ。四代前の帝の頃から続いてるんですから」「うーん。他の連中、大丈夫かな」「兄さま。大丈夫、だと思いますよ。屋敷の警備兵の人たちだっているんですから」 流琉のいうとおりだった。 今日の密議をするにあたって、いつもより警備兵は増強されているのだろう。 賈駆が董卓に対する備えを忘れるはずもないし、あとは袁紹か。「あの、兄ちゃん。なにか聞こえない?」 耳を澄ます、までもなかった。 天に木霊する高笑いは、一度聞けば二度と忘れるはずもない。「おーほっほっほっほっ。おーっほっほっほっほっほっほ」「………………」「兄ちゃん。これって──」「アホや」 張遼将軍が簡潔にまとめた。「さ、さすがお姉様。こんな緊迫した状況で笑えるなんて、見事すぎるわ」 華琳が感心していた。 声の方に目をむける。言うまでもないが、そこにあったのは、俺が想像したとおりのものだった。「おーっほっほっほっほ。あなたたち、お出迎えご苦労ですわ」 俺たちを迎えた袁紹は、高笑いをしていた。 事態は、すでに掃討戦に入っている。うちの軍の夏月と李華と水は、もう呆れたように、壁にもたれるように立ちつくしているだけだった。「いつまでぐずぐずしてますの。文醜さん、顔良さん、張郊さん。三人とも、さっさと片付けてしまいなさい」「わかってるって、まかせな、姫っ!!」 戦場を奔っているなかで、大刀を担いでいる少女が、敵の固まりに突撃した。 おらあぁあああっっ、と叫び声を上げながら、策もなにもなく突っ込んでいく。とても当たり前のことながら、敵は少ない兵力すべてを集めて、彼女を囲みにかかった。逃げ道を塞ぐように、槍が突き出される。彼女は、自らの背ほどもある大刀の柄に手をかけた。 ──光刃が閃いた。 彼女の大刀が抜き放たれてから、一秒。 縦横無尽に奔った──鞘から払われた斬山刀の光が、突き出された槍の群れを斬り落とし、包囲の一角を削り落とした。 血の詰まった袋を解体したように、一秒前まで兵士だったもの達が、朱色の液体をぶちまけながら、裁断されてただのバラバラの細切れに落ちていく。「おーっ、囲まれる私たち、そして、指揮をとるのは袁紹さま。これこそ、まさにっ、絶体絶命の危機っ、燃えてきたぜぇーっ!! 行くぞ斗詩、麗寒」 その少女が、大刀を水平に掲げて叫んだ。「ああっ、もう、文ちゃん、待ってよぉー」「うん。貴様らすべて、我が主(あるじ)を呪う黒魔術用の生け贄にしてくれよう」「ちょっと、張郊(ちょうこう)さんっ! 今、なにか聞き捨てならないこと言いませんでしたことっ!?」 初めて、戦場で見る。 あれが──袁家の『三枚看板』か。 人間の骨など軽く打ち砕く、肉厚の大刀を振るっているのが、文醜将軍。 鬼神のような強さだった。 当然だ。彼女は、武力のみでいえば、三國志の登場人物のなかで、ベスト10に入るほどである。三國志では、関羽の引き立て役にされる役回りなのだが、まあ逆に言えば関羽クラスの実力者でなければ討ちとれないということでもあるのだろう。春蘭ですら相手が悪い。 袁家最強の将の名は、飾りでも何でもない。 そっちを崩せないと見たのか、もうひとりのほうの少女に敵の群れは襲いかかっていった。直線的な動きだった。そのまま一息に匕首をもって、全身を前に進むだけに使っている敵を、顔良将軍は、超大型のハンマーで横薙ぎにぶん殴った。 がんっ──っ!! ──前に進むための推進力など、横殴りに加わった力に完全に掻き消され、かろうじて人の原型を留めたままで、敵は真横にバウンドして、そして二度と動かなかった。 そして、三人目。 おそろしく無造作だった。気だるげに右手を突き出すと、偶然その先に、敵の心臓がある──そんな戦い方にしか見えなかった。両手に槍を持ち、適当に振るったように見える槍の一降り一降りが、ひとつの空振りもなく敵の首を刎ねている。 無駄というものをすべてそぎ落とすと、おそらくはああいう戦い方になるのだろう。 愛用の槍には、墨で──『袁紹さま呪殺用、まじかるすてっき』と書かれていた。どこからどこまでが本気なんだろう。ともかく、これが張郊将軍だった。 ともかく、あっちはほぼ片付いたらしい。 まだ伏兵がいるかもしれない。黒騎兵の四人に、警戒を命じてからぞろぞろと屋敷に戻る。うじゃうじゃといた。この屋敷を守る警備兵と、兵士達があちらこちらで斬り合いを続けていた。「う、動くな」「黄巾の真似事か。お主とて、それなりの主人に仕える身であろう。婦女子を人質にとるなど、恥ずかしいとはおもわんのか」 屋敷の廊下、庭を見下ろせる縁側のようなところで、にらみ合うように兵士数人と、さっきの袁術の客将だという少女が向かい合っていた。所属の知れない兵士は、おそらく逃げ遅れた小間使いの女性に短剣を突きつけ、人質をとっている。「コノヤロウ。さっきから人を見下しやがって、丸腰でなにができるっていうんだ」「聞こえなかった。もう一度、言ってもらおうか」「なんだとっ!!」 彼女は、首をすくめるように、掌を上に開いた。 まったく完璧なタイミングで、中天の太陽の下に──おそらくは屋根の上から落ちてきた朱槍が、そのまま彼女の掌の中に収まった。軌道が半月を描く。ひぅん、と風が鳴ったが最後── 彼女の腕が翻る。 ──神の速度で奔った槍が、男の顔を穿ち貫いていた。 遠くから見ても、残像と光しか見えなかった。 轟雷に撃たれたように、おそらく男は、自らが死んだことにすら気づかなかっただろう。横にいた仲間が、悲鳴をあげて、弾かれたように動き始める。 ただ右足と左足を交互に動かして、より遠くに逃げようとしていく。そして、右足と左足の動きに割り込んできた槍の一撃に、動作を中断させられていた。 単純に、速度の桁が違う。 槍の一撃で弾けた頭蓋が、ザクロを割ったようになっていた。彼女を囲もうとする兵士たちをただひとりも目に入らないように、彼女はこちらに向けて歩き出す。自らに向けて振り下ろされる剣と戟を、彼女は見もしなかった。「ふ、美を介さぬ無頼の輩どもよ。我が槍の贄となるがいい」 ただ、右腕を一降りする。 刃が太陽の光に煌めくように、雪片が飛び散るがごとく、その白光に首が刈り取られていく。それは、まるで荘厳な一枚絵をみるようだった。彼女の前に立ちふさがるものは、ただの朱槍の一撃で砕かれていた。 敵の真ん中を歩くように、無人の野を往くがごとく、彼女は袁術の前で歩みを止めた。 強い。 ただ、理由もなく、ただ強い。 おそらく、この場にいる誰よりも。 それほどの技量だった。袁術の客将だというその女性は、氷の様な相貌をもって、自らの腕と一体になった朱槍を振るっていた。「おおっ、よくやったの。趙雲。褒めてつかわすぞ」「はっ、ご随意に」 ──え? ──ええっ? ──ええと、袁術。 このちびっこ。今、なんて言った? 常山の趙子竜。 三國志を読んだことのあるもので、流石に趙雲を知らないものはいないだろう。 ふと思い出した。彼女を称える、あまりにも有名な詩がある。 昔日(せきじつ)長坂に戦い 威風なお未だ滅せず 陣を突きて英雄を顕わし 囲まれて勇敢を施こす 鬼哭と神号と 天驚併びに地惨 常山の趙子竜 一身、都(すべ)て是れ肝なり