アーチェリーのフライト競技(矢をどれだけ遠くに放てるかを競う)におけるワールドレコードは、実に800Mを遙かに越すらしい。合金から削りだした弓と、カーボン製の矢、安定装置と照準装置、クリッカー等々、職人の研鑽と、現代技術を発達が、それだけの限界飛距離を実現したのだろう。 むろん。俺の持っている弓は、そこらにある木から削りだした粗末なものだった。目算で計ったところによると、どんな熟練者がもっても、この弓の限界飛距離は、約60Mといったところか。 それも60Mという距離はあくまで、矢の届く距離というだけで、実戦で人を射殺すには、まったくもって力が足りない。 矢が、俺の手から離れてから──皮の鎧を貫き、相手兵士に致命傷を与えられるだけの貫通力を維持できる距離は、たかだが20Mが限度だった。 三国志最強の武将である呂布が、自分の城の外壁から、曹操の幕舎の矢を射かけたというエピソードがある。たしか北方センセーの小説だったか。その時の距離は、およそ200M。特大の長弓から放たれた矢は、狙いを過たずに、曹操本人の横にあった、鎧に突き刺さったとされる。 で。 呂布が、おれは今、お前を殺すことができた。命を貸しにした代わりに、ひとつ願い事をきいてもらいたい、という問いを、曹操にするわけだった。これはまあよくある誇張に誇張を加えられた創作として、置いておくことにする。 まあ、それはいい。 例外中の例外をそのまま目標にするわけにもいかない。 この時代における弓矢の射程範囲は、この距離だ。 一般の兵士レベルが敵の鎧を貫ける距離は、やはり20Mが限度である。ここからは距離を伸ばすことは考えず、動く目標にどう当てるのかを考えた方がいい。 もう一度、スタンスを取り直す。 目標に向けて弦を引いた。 ──重い。 当然だ。この動作で、ともすれば人の命が消える。 仮に、これが人の命の重さであるというのなら、もっと重くてもいい。 この世界に放りこまれてから、剣と弓の修練は欠かしてはいないが、今でも日が暮れる頃には、両腕とそれに連なる筋肉が棒のようになる。 うちの県の刺史(現在でいう行政長官)が、黒騎兵という私設の親衛隊をつくったことで、そのための軍馬が大量に必要になった。なお、その黒騎兵というのは、見目麗しい女性しか入れない曹操様ファンクラブである。大陸中から(無駄に)精鋭を揃えたらしく、(無駄に)大陸最強との呼び声も高い。 はぁ、うらやましい。 こっちは、日が昇ってから暮れるまで、ひたすら軍馬の世話だった。馬に糧秣を与えるのだって、立派に軍の役にたっていると頭領は言うが、こればかりやって一生を終えるわけにはいかない。この国で、曹孟徳の名は隅々まで轟いている。そこに仕官できるのなら、元の世界に戻るための手がかりのひとつも見つかるかもしれない。「よう、一刀。精がでるな」「あ、頭領。すみません、仕事を放りだして」「いや、お前だけじゃない。昨日から、うちの若いのは、みんな仕事なんてしやしない。どいつもこいつも、剣やら矛やら斧やらを担ぎ出して、兵士の真似事だ。馬糞にまみれて生きるなんて、今の若いのには退屈なんだろうなぁ」 頭領が、愚痴をこぼす。 いい人なのだ。基本的に。そこいらの山賊が尻尾を撒いて逃げ出すぐらいの悪人顔だけど。しかし、たしかに否定できない。巷で話題になっている天の御使いでなくても、人はなにかの使命をもって、生まれてきたのだと思う。 この世界に腰を落ち着けて、三ヶ月になるが、俺は最近、そう思うようになってきた。 記憶喪失で行き倒れていた俺を助けてくれて、こうして軍馬の世話という仕事まで与えてくれている。ここで、身よりのない自分にとっての、家族のようなものだった。この人に助けられなければ、そこらに跋扈する盗賊に殺されているか、のたれ死にしていた可能性もある。感謝など、いくらしても足りない。 けれど── 俺は、この人たちに嘘をついている。記憶はそのままだ。この世界に放り出された直後以外、記憶はなにひとつ欠落していない。 俺の名は、北郷一刀。 この世界のひとたちが、当たり前に持っているような字は、ない。実家は鹿児島。今年、十七歳になった。日本で普通に日常を送る、どこにでもいるような、聖フランチェスカ学院の二年生。人に誇れる特技といえば、爺さんから教わった剣の扱い方ぐらい。朝起きて、学校に行って、いつも通りの授業を受けて──、そして、また当たり前の日常を過ごしていくと、なんの根拠もなく、そう信じていた。なにもかもが変わってしまう、三ヶ月前まで── 目を開けると、見覚えのない景色が広がっていたあの日から。 おれの運命は、変わってしまった。 もう一度、繰り返す。 おれの名前は、北郷一刀。 十七歳。 所属クラブは剣道部。 そして──この三国志の世界に放り込まれた、たったひとりの、異邦人だった。 陳留一武道会開催のお知らせ。(飛び入り歓迎) 先日、そう書かれた高札が、陳留の四隅の門に立てられた。この陳留で武道大会を行うということで、ルールやら参加資格が書き連ねてある。目覚ましい活躍をしたものには、賞金が与えられた上に、隊長並みの給料で、兵士として取り立ててもらえる。さらに優勝したものには、客将としての地位まで約束されるという。 当然のように高札の前には人が群がり、張り付いている役人に、高札の内容を読んでもらっていた。これの観戦は、鍬を持ったことがあっても、武器の使い方なんて知らない人々の、唯一の楽しみといっていい。 数えて三回目となるこの武道会では、誰が優勝するのかという賭けの要素が強い。まあ、県の主催する公営ギャンブルという奴で、古代の剣闘士さながらに、どちらが勝つのかに札を張る、といった感じだった。 数々の出場者の中で、優勝候補は、やはり夏侯惇だった。 三國志においても、最強クラスの将である。前大会で、その武勇を目にする機会があったのだが、まさしく鬼神というにふさわしかった。 猪突猛進が似合う猛将であり、誰からも分かりやすい戦いをする、曹孟徳の右腕だった。それでも万が一、彼女を打ち破ることができるのなら、あらゆる障害を飛び越えて、一足飛びに、曹孟徳直属の将軍の地位を手に入れられる。 ただし── 前二回の武道大会で、ただひとりの例外を除き、彼女に傷一つつけるどころか、三合打ち合ったものすらいないという。立ち会ったものは皆、その恐ろしいまでの闘気に呑まれて降参するか、棒と棒を合わせた次の瞬間に、どこかの骨を砕かれている。 で、ただひとつの例外は、前回の準優勝者だった。 観客たちは、前回の第二回陳留武道会、決勝の『夏侯惇VS華蝶仮面』の熱戦が、まだ瞼の裏に焼き付いているらしい。 そういう事情で、当日の熱気は凄まじいものだった。会場自体が、喧噪の坩堝と化している。隣の済陰や東からの見物客も合わさって、全体がお祭り騒ぎのようだった。 まったくもって他人事ではない。俺としては、これが登竜門といったところだった。将軍にまで登りつめるのなら、彼女との対決は不可避である。避けて通るわけにはいかないのだった。大会の前のくじ引きで、俺は一回線の第一試合を引き当てた。参加するのは、農家の次男三男とか、盗賊まがい恰好をした男とか、旅の武芸者やらが数多くいた。件の夏侯惇は、第二試合だった。 トーナメント制でシードなどはないから、つまり、双方が順調に勝ち進めば、二回戦で激突することになる。まあ、いいところを引いた、と思っておこう。俺の目的は、優勝ではなく、夏侯惇に勝つこととなっている。なら、そこにたどり着くまで、なるべく手の内は晒したくはない。切り札を使うには、試合前の準備が必要なのだ。『アレ』なしでは、俺の身など十秒ももたないだろうから、一回戦に、なるべく弱い相手がきてもらわないと困る。 我ながら、ものすごく都合のいいことばっかり願っているが、仕方ない。人外じみた猛将と事を構えないといけないわけだから、この程度の運は引き寄せられるべきだ。 そして意外や意外、その願いは叶えられることになる。うん、天の御遣いさまありがとうございます。俺は乱世に光を纏って現れるらしい英雄さまに、感謝の念こめた。くじ引きが終わり、トーナメント表の虫食いが全部なくなった。心臓の高鳴りを押さえ込みながら、対戦相手の名をを見ると── 「はい──?」 ──荀彧という名前があった。『陳留の皆様こんばんはっ。さあ、この陳留一武道会も、好評に好評を重ね、ついに三回目に相成りました。まずは、『江東の二喬』、小喬ちゃん大喬ちゃんの二人のユニット、『天星黎明ついん★ず』によるオープニングです。では、どうぞ。『やっぱり世界はあたし☆れじぇんど!!』──ですっ!』 放送席から、司会進行をつとめる眼鏡少女の呼び声と共に、姿を現した双子の少女が、どこからともなく照らし出されたカクテルライトとビームに照らされながら、歌っている。さすが、歴史に名を残す美少女というところか、しばし舞台の上を跳ね回る彼女たちに見とれてしまった。付き従うような管楽器部隊が、音楽と歌声に合わせて、高らかに空気を震わせた。観客のボルテージがさらに上がり、もうすでに叫ぶだけのひとつの生き物のようになっている。 なんという熱気。 大陸では、『天星黎明ついん★ず』は、『数え役萬☆しすたぁず』と、人気を二分している。興行という興行に引っ張りだこで、彼女たちを見に大陸の端から来ている人たちだって、決して少なくないだろう。「青龍の方角からは、東の果ての小国からやってきた、北郷一刀選手。祖父に教わった剣術で武を証明するとのこと」 俺は舞台の上にあがった。手には、二メートルほどの棍を持っている。武器はすべて刃止めされているので、なら最初からこちらの方が身軽でいい。命のやりとりにならない以上、むずかしいことを考える必要もないし。 会場は詰めかけた人々で一杯になっていた。仕切りの板で観客席が分けられているだけで、舞台となる場所は、街の外の荒れ地だった。馬と馬を使う一騎打ちや、夏侯淵の弓矢を使った演目も用意されているので、少し板を組み替えるだけで会場を伸張できる。「続いて、白虎の方角からは荀彧選手。おおっと、無手ですが、これはどういうことでしょう?」 出てきたのは、猫耳頭巾をかぶった少女だった。 出てくる有名人のことごとくが女性なのは、もう慣れたとして、なんでこんな武道会に参加しているのだろう。というか、武器さえ持っていない。 俺の記憶に間違いがなければ、荀彧というのは、軍師だったように思う。三國志の軍師として、諸葛孔明を除けば、一番か二番ぐらいに有名なんじゃないだろうか? 政治はもちろんのこと、軍師としても超一流で、曹操が遠征をしている際の、本拠地の防衛責任者として、呂布、陳宮、張漠、郭萌を相手に、ひとつの城も抜かせなかったとされる。 俺は、棍を構えた。 外見はなんの変哲もないかわいい少女だった。立ち振る舞いに、違和感はない。武道を習ったもの特有の、矯正された動きは見えない。ただ、目の奥にぎらつく燐気のようなものが見えた。相手が武器をもっていないからといって、手加減できるような余裕は、こちらにない。、仙術かなにかで、影かなにか飛ばしてきても驚かないだろう。コーエーのゲームからして、軍師の必殺技はビームと相場が決まっているのだ。この世界に、そんなものがあるのかはさて置いて。 ともかく。ここまではいい。そこまでは、普通の試合だった。 そして──荀彧は、司会役から拡声器を奪い取ると、自分の考えをぶち上げ始めた。 陽の光を反射して、刃が反射している。 荀彧の喉元に、凶器が突きつけられていた。愛用の黒刀を手に、殺意に似た感情を発しているのは、夏侯惇だった。炎を具現化したような闘気が、彼女の全身を覆うように、揺れる陽炎に変じさせている。「念のために訊いておく。華琳(注、曹操の真名)さまを愚かと扱き下ろすのは、それだけの理由があってのことか?」 観客席は、シンと静まりかえっている。 ひとりの女性の怒気に、会場全体が金縛りにあっている。舞台の上にいながら、俺だって一歩も動けない。主役を奪われて、俺には怒る権利はあるはずだったが、もうそんな状況でもない。 「愚かとは言っていません。ただひとつ、曹操さまに足りないものがあると言っているのです」「ほう? 聞かせてもらおうか。華琳さまに足りないもの、とは?」 夏侯惇の声に、剃刀のような殺気がのっている。 彼女にとっての、正念場だった。言葉の重さが一斤足りないだけで、突きつけられた黒刀が、彼女の首を刎ねるだろう。「──私です」「はぁ?」 夏侯惇の目が、点になっていた。 だれひとり状況が掴めていない。荀彧は続けた。曹操様にただ唯一足りないもの、それは、私です。 ええ、私です。曹操様の目的のために、この荀彧をお使いください。突きつける刃すら目に入らない様子で、曹操のいるであろう貴賓席に囁く様子は、まるで場違いな愛の告白だった。 ざわり、と周りの空気が動いた。観客席の熱気すべてを引き受けて、一段上に作られた貴賓席のカーテンの向こうから、少女がきざはしを下ってくる。 曹操である。「荀彧といったわね。その大言、覚えておくわ。そして、あなたはなにをもって功となすつもりかしら」「──軍馬は、乗り手の意志によって進むもの。如何様にもお申し付けください」「そうね。それだと──」 彼女は、ふと思案するように、視線を宙にさまよわせた。 そして、俺と目が合った。あ、やばい、なにかものすごく嫌な予感が。「──そこの北郷一刀を、夏侯惇将軍に勝たせてみなさい」「「はぁっ!!」」 あまりにあまりな提案に、俺と荀彧の叫びが重なった。 やばい。絶対巻き込まれると思ったが、これはいったいどういうことだ?「………………」 俺は視線で、華琳に訴えかけた。 どうなってるんだおい、最初の打ち合わせと話が違うぞ。「………………」 それに対して、華琳がわずかに視線を動かした。 うるさいわね。こっちの方がおもしろいじゃない。さっさとやりなさい。と、その瞳が雄弁に語っている。「………………」 俺は別に将軍になりたくなんてないのに、横暴だコノヤロウ。 ──と、華琳に向けてアイコンタクトする。 つい。 ──あ、目を逸らしたよ。 こいつ、都合が悪いとすぐこれだよっ!!『え、ええと、話がよく掴めませんが、荀彧選手試合放棄により、北郷選手、二回戦進出となりますっ』 そういうことになった。 俺と華琳の関係は? 俺が将軍にならねばならない理由とは? そして、肝心かなめの夏侯惇との試合の行方は? さらに、夏侯惇戦における、俺の切り札とは? ──すべて投げっぱなしにして、次回へ続く。