ヒメが出張で居なくなってから数日後。四月も下旬に入り桜も散り始め、前日から降り始めた豪雨によってそれはより顕著になってきていた。
ヒメが居なくてもデザインスタジオは休みにはなっていないのだが、アキラは豪雨の中動き回る気も無く、仕事が終わるなりさっさと自宅へと帰っていた。
既に闇に包まれている窓の外は雨だけでなく強い風も吹き、時折勢いよく雨粒を窓へと叩きつける。
その様子を退屈なのか窓辺に座って眺めているピクシーと、それを横目に幼い頃から使っている机の前に座り、銃の確認をするアキラ。
そこにはテレビとパソコンくらいしか家具が無く、そのどちらも電源が落とされているため、室内には窓に叩きつけられる雨音と、時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。
「整備の時には弾を抜く……。弾倉が空でも装填されているものとして扱う……」
帰宅したというのに着替えもせずに、未だに慣れないのかヒメに教えられたことを復唱しながら銃を見るアキラ。
別に毎日手入れをしろ等とは言われていないのだが、物騒なものを持っている以上はどうしても神経質になってしまい、布団に入る前にちゃんと弾丸とナイフ一式を確かめないと眠れなくなっていた。
「……しかしこれ夏場はどうするんだ?」
上着を着ないと隠しようがないショルダーホルスターを横目に、アキラは点検を終えた銃を置いてナイフをシース(鞘)から抜く。
アキラは知らないことだが、そのナイフが銃と同社製の物なのは偶然かそれともヒメの趣味か。どちらにせよ実戦に向いてないのは事実なので、他に無かったというのは本当なのだろうが。
「ん?」
突然ハンガーにかけていたスーツの上着から携帯の着信音が鳴り、アキラは咄嗟に部屋の壁にかけられた時計を見る。その針が示す時刻は、そろそろ深夜と言っても差し支えない。
嫌な予感がする。
アキラは漠然とした不安を感じながらも携帯電話を取り出すと、見覚えの無い番号に首を傾げながら電話に出た。
「はい、深海です」
『あ、深海さん? 白山ですが、ご無沙汰しとります』
「ああ、白山さん。お久しぶりです」
聞こえて来た声はミコトの父親のもの。だがその声は以前聞いた以上に落ち着きが無く、焦っているように聞こえる。
『いきなりすいませんが、うちの娘のこと何か知りませんでしょうか?』
「ミコトさん? 退院してから会ってませんけど……まさか何か?」
嫌な予感が質量を増していく。
胸の奥に何かが居座っているような不快感を覚えながらも、アキラは平静を装って聞き返したが、帰ってきた答えは最悪のものだった。
『それが、さっきまで居ったと思ったら、いつの間にか居らんなっとったんです。まだ足ギブスで固めとんのに、松葉杖も置きっぱなしで……』
「………………」
声が出ない。
不自然な状況で消えたミコト。さらわれたか、あるいは以前のように“呼ばれた”か。
どちらにせよ危険な状態だと、アキラの直感が告げていた。
『……もしもし! 深海さん!?』
「あ……すいません。俺は何も聞いてませんが、とりあえず心当たりのある場所を探してみます」
『そうですか。こんな夜遅くに本当申し訳ありません。あんなことあったばっかりなんで、心配でたまらんのです』
「ええ、分かってます。それじゃあ、何か分かったらお知らせします」
アキラは手早く携帯を切ってズボンのポケットに入れると、脳が状況を認識しきる前に銃のホルスターとナイフを身に着け、スーツの上着を着ていた。
そして部屋を出ようとしたところで、ピクシーがアキラの目の前に躍り出て来る。
その顔はどこか怒っているようであり、同時に不安をはらんでいるようだった。自分を心配しているのだろうとアキラは気付いたが、かと言って本来なら頼るべきであるヒメは居ない。
「所長は居ない。ならアヤさんか……」
アヤの実力は分からないが、少なくとも自分よりは頼りになるはず。
だが件の川がアキラの自宅から二百メートルも離れていないのに対し、アヤの実家はその十倍以上は離れている。どう考えてもアキラのほうが速く現場につく。
「……連絡しないよりはマシか。行こうピクシー。動かずに後悔するより、動いて後悔した方が良い」
そう断言すると、部屋を出てアヤへ電話をかけながら玄関へと向かうアキラ。
そのアキラをピクシーはむっとした顔で見ていたが、諦めたのか溜息をつくとアキラの後を追いその肩へと腰掛けた。
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母に知り合いに会いに行くとだけ告げて自宅を出ると、アキラは雨具も無しに自転車で川へと向かった。
時間が惜しいのか、アヤと電話が繋がっても自転車をこぎながら話をしている。
「……それで、どうしたらいいと思いますか?」
『そうですね~。私もすぐに向かいますから、とにかく女の子の保護を優先してください~。悪魔と遭遇しても絶対に戦わないで、とにかく逃げてください~』
「ミコトさんを保護しながらですか? きつそうですね」
『……最悪の場合は~』
「見捨てるのも難しいですよ。そういう時は、理屈じゃ無くて感情で動いてしまうだろうし」
アヤが一瞬の間を置いて言おうとしたことを察したアキラは、先にそれに難色を示す。
咄嗟に冷静な判断をする自身などアキラには無い。悪魔を前にしたらわき目もふらずに逃げ出すだろうが、ミコトを置いて逃げるかどうかはアキラ自身も分からない。
恐怖が勝り逃げ出すか、助けたいという思いが勝り無謀な真似をするか。
どちらに転ぶにせよ、アキラはその後に精神的に傷つくか、肉体的に傷つくだろう。後者の場合は死の可能性すらある。
『……アキラさんは~冷静なタイプだと思ってたんですけど~』
「俺は性根は自分勝手で感情的ですよ。良くも悪くも……人は変わりますから」
以前ミコトに言った言葉を自嘲するように吐き出すアキラ。そんなアキラ声を拾ったピクシーが、突然アキラの頬を両手で叩く。
それに気付いたアキラが視線を肩の上へと向けると、怒っているのか鋭い視線を向けているピクシーの姿が目に入る。
その表情は普段の無邪気さが消え、少女のような印象も薄れるほどに凛としており、それだけ真剣であることが窺える。
「…………」
『アキラさ~ん? どうかしましたか~?』
「え、いや何でもないです。そろそろ切りますね」
『はい~。無茶はしないで下さいね~』
アキラはピクシーの様子が気にはなったが、相変わらず話は出来ず言いたいことが分からないので、保留してアヤとの通話を終わらせる。
携帯電話をしまい改めて視線を向けると、ピクシーは視線をアキラから外し、何やら決心した様子で間近に迫った川を見つめていた。
「……ちっさいのに頼りになるな」
その様子に引きずられたのか、不安が少しやわらぐアキラ。そして気を引き締めると、アキラは自転車のペダルを踏み込み、川のそばにある土手へと駆け上がった。
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流れる水が伏流水となっており、普段は干上がっているように見えていた川は、ここ数日の豪雨のためか地表にまで水が溢れ、濁流と表すほどでは無いが飛び込むのは躊躇する様相を呈していた。
アキラが家を出てしばらくすると雨はやんだが、目の前の川の勢いはしばらく衰えないだろう。
元々この川は古くは「暴れ川」と呼ばれており、今アキラが走っている土手が整備されるまでは何度も氾濫し、多くの被害を出していたらしい。
幼い頃に近所のお爺さんから聞いた知識を思い起こしながら、アキラは川に異変が無いか注視しつつ、ミコトが飛び降りた橋へと急ぐ。
「だれか……居る!?」
橋のたもとまで近付いて目を凝らしたアキラの視界に、右足をギブスで固めた少女らしき人影が佇んでいるのが目に入る。
ミコトと思われる少女が居るのは以前と同じ橋の中央。いつ飛び降りてもおかしくは無い。
「ピクシー、捕まってろ!」
念のためにピクシーに忠告すると、アキラは上半身を屈め競輪選手のようなスタイルで自転車をこぎ始める。
偶然通りかかった大型トラックと並走する勢いでミコトの元へと走るアキラだったが、まるでそれから逃げるようにミコトの体が橋の欄干の上へと移動する。
『――オギャア!』
「!? この声!」
アキラの手がもう少しで届くという所で、以前聞いた赤ん坊のような声が響き、ミコトの体が中空へと投げ出される。
前と違い下には水が流れている。だが水深はそれほどあるとは思えない上に、半ば意識の無いミコトが溺れるのは目に見えている。
「ふ……ざけんなァッ!!」
それを見たアキラは自転車から飛ぶようにして降りると、地面に一度着地すると同時に片足で跳躍する。
そしてそのまま欄干を両手で掴んで跳び越えると、不自然な体勢で落ちていくミコトの体を抱き寄せた。
「……どうしよう?」
落下による浮遊感を味わいながら呟くアキラと、その横を本当に浮遊しながら大慌てのピクシー。
無我夢中で飛び出したのは良いものの、そこでミコトを抱いたまま橋に片手でぶら下がるなどという映画のような真似をアキラが出来るはずも無い
アキラはそれなりに痛い目にあう事を覚悟すると、ミコトを抱え直しそのまま川の中へと落ちていった。
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『くふ……やはり面白い』
アキラとミコトが川へと落下し、水飛沫が上がるのを眺めながら呟く影がある。
橋のたもとの街灯に照らされて浮かび上がったのは、ヒメの仲魔であるベリスの姿。先日ヒメはベリス以外の仲魔をアキラの守護につけようかと考えていたが、結局ベリスを信頼してそのまま守護を継続させていた。
『報告は……しなくていいから黙っていろと言っていたな』
その信頼をベリスは屁理屈をこねつつ現在進行形で裏切っているのだが、何が面白いのか兜の下から笑い声を漏らしている。
『あの一瞬で体勢を整え足から着水……なるほど。無計画なようでいて、無自覚であれ後の対処は考えられている。ただの馬鹿では無いな』
やはり水深はそれほど無かったのか、ミコトを抱えてすぐに浮いてきたアキラを見つけて、ベリスは馬に移動を命じる。
アキラかミコトが死にかけるぎりぎりまで……否、アキラはともかくミコトは見捨ててもベリスは手を出さないつもりでいた。それはベリスがアキラの事をそれなりに評価しているためでもある。
他人には多くを求めないにも関らず、自身には平然と重荷を課す大馬鹿者。何かを守るために強くなり、何かを失ってもまた強くなるだろう。
そのとき“人間”のままでいる保障は無いが。
『かと言ってあの小娘を死なせれば主が騒ぐか……。くふ……残念だな……実に』
ベリスは少しも気落ちしていない、むしろ楽しくてたまらない様子で見えない笑みを浮かべると、水流に流されるアキラたちを追った。
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水の中に落ちたアキラは、まず予想以上に浅かった川底に足をしたたか打ちつけることとなった。
以前ヒメの言っていた通り、アキラは足の筋肉だけは他に比べて逞しいが、だからと言ってビルの三階に相当する高さから落ちて平気なわけが無い。
抱えていたミコトは意地で川底に接触させなかったが、当人の足は衝撃でまともに機能しなくなっていた。そのため水深自体はへその辺りまでしか無いにも関らず、水流に逆らうことも出来ずに、流されっぱなしになっている。
もっとも水が頭の上まで来ていたら、とりたてて泳ぎの得意なわけでは無いアキラは、ミコトを助けるどころか一緒に溺れていただろうが。
「痛いけど生きてる……よな。自殺は出来なかったのに、きっかけがあれば飛び降りられるもんだな……」
一連の出来事に心のどこかが麻痺しているのか、遠い目で呟くアキラ。ピクシーはそのアキラの頭上から呆れた視線を向けている。
だがいつまでも呆けているわけにもいかず気を取り直すと、アキラはミコトが無事か確かめる。
暗闇の中ではろくに確認できないが、呼吸は穏かで出血している様子も無い。気絶してはいるが、すぐさまどうにかなる事は無いだろう。
「ミコトさんにも怪我は無し。このまま……」
『――オギャアッ!』
足の痺れがとれ次第に川岸へと向かうつもりのアキラだったが、背筋を何かが駆け上がるような感触と共に赤ん坊の声が聞こえて来て、驚いて黒い水面を見渡す。
ピクシーもゆっくりとアキラのそばに降りてくると、アキラの肩の付近に陣取って周囲の警戒を始める。
伏流水の中に居たはずの悪魔が、この増水で地表へと現れても不思議では無い。そして何より、先ほどからアキラの胸の奥で、恐怖とも嫌悪とも知れない何かの存在が大きくなってきていた。
何かが近付いてきている。それをアキラは感覚だけで確信した。
「……ピクシー、援護頼む。だけど所長みたいに電撃使うのは勘弁してくれ」
ピクシーが頷くのを確認し、ミコトを左手で抱きしめリボルバーを抜こうとしたアキラだったが、そのリボルバーは左のショルダーホルスターに入っているため、ミコトと密着していては抜けない事に気付く。
そのためミコトの体を少し離そうとしたのだが、突然胸の悪寒が強くなったため反射的に両手でミコトの体を抱き寄せる。そして結果的にそれがミコトの命を救うことになった。
「!? 何か……居る!」
唐突に流れとは別の方向に引きずられるミコトの体。何事かと思ったアキラが闇を溶かしたような水の中に視線を向けると、細長い何かがミコトの足に伸びているのが微かに見えた。
その間にも水の中へと引きずり込まれそうになるミコトの体。アキラは一瞬の判断でミコトの体から右手を離すと、腰のナイフを抜いて水の中の何かへと突き立てた。
『ぎゃァッ!』
「痛ッ!?」
水の中に居るはずなのに聞こえて来た悲鳴と激痛に、アキラは驚きつつもミコトの体を左手で抱えなおす。
水からナイフを持っている右手を上げると、手の甲が切り裂かれて血が滲んでいた。アキラの刺した相手が離れざまにやったらしい。
すぐさまピクシーに傷を治してもらい周囲を警戒するが、何かが来る気配は無い。だが胸の奥の悪寒はおさまらず、むしろ強くなっている。
「……? 中洲?」
急に水かさが減った事に気付いたアキラが視線を下流へと向けると、川の真ん中に人が一人辛うじて座れる程度の広さ、地面が顔を出しているのを見つける。
このまま水に浸かったまま迎撃するよりはマシだと思い、アキラはミコトを抱えたままラッコのように後ろ向きで中州へと接近し、そのまま後ろ歩きで水から上がる。
「……で、どうすればいいんだ俺は?」
安全圏に来たのは良いが逃げることも出来ない状況に、アキラは答えが返ってくるわけも無いのに自嘲しながらそう呟く
もう一度水の中に入るのは勇気がいる。相手の姿が見えないというのは、戦いなれていないアキラには精神的な負担となるし、何より対処が遅れてしまう。
しかし悪魔が自ら出てくる可能性もある以上、中洲が安全とも言い切れない。
「アヤさんが来るまで……その前に何か来そうだし」
アヤの増援に期待しようとしたアキラだったが、その前に再び悪寒が強くなったので悪魔の襲撃を警戒する。
ミコトを左手で抱えたまま自分へもたれかけさせ、ナイフを腰のシースへとしまうと、何とかホルスターから銃を引き出す。そして慣れない動作で撃鉄を上げると、即座に撃てるように構えた。
そして構えてから数秒と経たないうちに、右方向の水面からイルカのように人型の何かが飛び出して来た。
「うわァッ!?」
情けない悲鳴を上げながらも銃口を向け発砲したアキラだったが、慌てて撃った弾は標的の左脇を素通りし、離れた水面へと着弾した。
しかしそれを確認する余裕も無く、アキラは飛び出して来た人型――カワアカゴの姿を見て硬直してしまう。
大きさは十歳前後の子供と同じくらいだろうか。その表面は鱗のようなもので覆われ、僅かに届く光を反射して輝いている。
大きく口を開けた顔はカサゴに似ていて、河童というよりは魚人といった方がしっくりとくる。
だが何よりアキラの目に焼きついたのは、妊婦のように膨れ上がったその腹部。
最初は手の平ほどの大きさの染みに見えた。だがよくよく目を凝らしてみれば、それは泣いているように歪んだ赤子の顔だと分かった。
「な……あァッ!?」
そのカワアカゴの不気味な姿に恐怖を覚え、アキラは何度も引き金を引くが、銃はそんなアキラを無視したように沈黙し反応しない。
ますます混乱するアキラに向けて迫るカワアカゴ。そして鋭い爪の生えた手がアキラの顔に届く刹那、反射的に顔を庇った右腕に四つの線が走り、闇の中に血飛沫が舞う。
『――!』
『ぎゃァッ!?』
そのままカワアカゴはアキラに組み付こうとしたが、間に入ったピクシーが放った衝撃波を受けて真後ろへと吹き飛ばされる。
そしてそのまま水中へと没すると、再び距離をとったのかアキラの中の悪寒が薄くなる。
「あ……、何で……どうしろってんだ!!」
危険が遠のいた。そう認識した瞬間にアキラは意味も無く叫んでいた。
視界を狭める闇。
スーツごと切り裂かれ、熱を帯びて脈打つ右腕。
不気味な敵に撃てない銃。
そしていつ襲われるか分からない恐怖。
逃げ出したくてたまらないのに、僅かに残った理性と、水に濡れた服越しに伝わるミコトの体温がそれを許してくれない。
「……? ぶッ!?」
冷静さを失い混乱するアキラ。そのアキラの眼前を飛んでいたピクシーが突然振り返ると、両手で挟み込むように、力いっぱいアキラの頬を叩いてくる。
素直に痛いと言ってしまいそうな意外な威力にアキラが呆気に取られていると、ピクシーが「しっかりしろ」と言わんばかりに睨んでくる。
『――何を恐がってるの?』
「……え?」
ピクシーの眼力にアキラは思わず視線を反らしそうになるが、不意に聞こえて来た声に呆気にとられ周囲を見渡す。
聞こえて来たのは女性の声。だがミコトの声では無いし、何より左手に抱えているミコトは未だに意識を失っている。
「ピクシー……か?」
視線を合わせ聞いてみるが、それに答えること無く声はアキラに語りかけてくる。
『あなたは何もかも“受け入れる”事の出来る人だから。私を、他者を、世界を受け入れて』
「……受け入れる」
『だから――』
――汝に我が加護を与えよう――
「ッ!?」
頭に響く声。最後に聞こえたそれは女性のものでは無く、まだ幼さを残した青年のような声だった。そしてその声を聞いた瞬間、世界が――アキラが変わった。
目に入るのは、相変わらず間近からこちらを見てくるピクシーの姿だけ。だがアキラにはそのピクシーと抱きしめたミコトの存在が一層強く感じられ、闇と同化した水の中に潜む存在すら感じ取ることが出来た。
突然現れたそれらの感触にアキラは戸惑うが、その感覚は目を閉じても消えることが無かった。
「……受け入れるって言うのはそういう事なのか?」
ゆっくりと目を開きながら呟いたアキラの問いに返ってきたのは、表情をやわらげ嬉しそうに見てくるピクシーの笑顔。
相変わらず何も話さないが、アキラにはピクシーが歓喜し、同時に安堵しているのが感じ取れた。
「誰かが居るってだけで落ち着くか……。ありがとなピクシー」
恐怖は未だにあるものの落ち着いたアキラは、ピクシーに礼を言いながら視線を合わせる。
ピクシーはそれに応えるようにアキラの右腕を再び癒すと、そこが定位置であるかのようにアキラの右肩の上へと戻った。
それを視認せずに感じ取ったアキラは、調子を確認するように右腕を何度か振ると、親指で銃の撃鉄を起こす。
アキラがヒメから受け取った銃はコルト・シングルアクションアーミー。
その名の通りシングルアクション――撃つたびに撃鉄を起こす必要のある銃であり、先ほどのアキラのように引き金だけ何度も引いても撃てるはずが無い。
ヒメにもちゃんと説明を受けたというのに、混乱したアキラはそれを忘却してしまっていた。その事を反省しながら、アキラは今度こそ撃鉄を起こし闇へと銃口を向ける。
「見えないのに分かるか……変な感じだな」
頭の中に響いた青年の声によって目覚めたアキラの力。それはアキラの自己を確立すると共に、他者の存在を確固たるものとしていた。
今のアキラには、例え一寸先が闇であろうとも、自分と他者の存在を感じ取り、世界を把握することが出来る。
「ピクシー、次で決めよう。銃口の先からあいつは来る」
自信に満ちたアキラの声にピクシーが頷き、銃口の向けられた先へと意識を集中する。
――カワアカゴはピクシーの放った衝撃波――ザンを受けてそれなりにダメージを受けていた。
しかし警戒するという事を知らないのか、しばらく周囲を意味も無く泳ぎ回ると、調度アキラ達の正面から速度を上げて近付いてくる。
同時に向けられた敵意が強くなるのをアキラは感じ取る。敵意の主は徐々に加速し、水面へと上昇してくる。
「――来る!」
アキラが警告するのに少し遅れて、カワアカゴが水面を突き破り宙を飛ぶ。
それを予想していたアキラは銃の狙いを定め――
それに反応したピクシーは意識を集中し――
――引き金を引いた。
――衝撃波を放った。
『ギャアァーーーー!!』
「ッ!?」
左目に銃弾を受け、衝撃波を正面からまともに受けたカワアカゴが、耳をつんざくような絶叫を上げて顔を覆う。そして勢いを失ったその体はアキラ達に届くことも無く、仰向けに近くの浅瀬へと落下した。
ダメージが大きかったのか、カワアカゴは顔を覆ったまま微かに痙攣をしている。
その様子に尻込みして逃げ出したくなったアキラだったが、川に落ちてからずっとミコトを左手で抱えていたため、そろそろ彼女の体を支えるのも限界が近かった。
これで最後にするために、アキラは足を引きずるようしてカワアカゴへと近付いていった。
「…………」
『……オギャア……ギャァ……』
微かに鳴き声を漏らすカワアカゴ。そしてそれに同調するように泣く腹に浮かび上がった赤子達。
その体から感じられる感情は恐怖、悲しみ、そして寂しさ。
“彼ら”は寂しかったのだと、アキラは理解した。
「……でもな、この子を連れて行っちゃ駄目だ」
赤子達の孤独を理解しながらもアキラは断言し、銃口をカワアカゴの頭へ向けると撃鉄を起こす。
哀れに思う。悲しくも思う。
だがそれでも、彼らの願いを叶える事はアキラには出来ない。
「この子はまだ生きてるから……おまえ達は……先に逝け」
その言葉と共に銃口から一発の弾丸が吐き出され、カワアカゴの体が跳ねる。
そしてそれを最後に、カワアカゴの体は動かなくなり、まるで最初から存在しなかったかのように水の中へと溶けていった。
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『……よもや助けを必要としないとはな』
アキラ達の居る中州に近い土手の上。戦いを見守り、手を出すタイミングを計っていたベリスは、驚きと呆れの混じった声を漏らした。
カワアカゴの攻撃を受けたアキラが冷静さを失った時は潮時かと思ったが、そこへピクシーが何かをしたと思えばそれまでの混乱は消えていた。
しかもその後はカワアカゴが見えているかの様に狙いを定め、放たれた銃弾は狙っていたであろう頭部に命中。銃の扱いをろくに知らず、試射すらしていないアキラには到底不可能な芸当だ。
『偶然もあるのだろうが、あの反応は異様……。何よりあの妖精が行ったのは……まあいい』
いずれにせよ予想外ではあるが、ベリスにとっては面白いの一言で終わる話だ。
『くふ……興味深い』
「そうですね~」
『!?』
笑い声と共に漏らした言葉に応じる声があり、ベリスは驚いて背後へと視線を向ける。
そこに居たのは左手で傘をさし、右手に竹刀袋を持ったアヤ。いつもは明るい色のゆったりとした服を着ているのだが、今はヒメが着ていたのと同じ黒いスーツを着ている。
「それで? どうしてベリスさんはここに居るんですか~? どうも悪魔はアキラくんが倒しちゃったみたいですけど~」
『……中々奮戦していてな。手を出す機会を逃した』
「へ~。奮戦する前に助けなかったんですか~」
『…………』
いつもと変わらない穏やかな口調のはずなのだが、その声が噴火直前の火口の溶岩のように震えている気がして、ベリスは下手な言い訳をせず黙ることにした。
『……む、小僧の体力が限界のようだ。助けに行かねば』
「はいどうぞ~」
『…………』
アキラをダシにして、その場を離脱しようとするベリス。そしてそれを看破しているであろうにも関らず、素直に送り出すアヤ。
調子が狂う。そうベリスは思い兜の下で溜息をつく。
彼の主と違い、このアヤという女性はからかいがいが無い上に、揺さぶりをマイペースに受け流すのでベリスは苦手だった。
これ以上この不思議空間に引き込まれ無いうちに、ベリスは馬にアキラのもとへ向かうように命じる。
そしてベリスの馬が嘶き、急流の上を飛ぶように駆けていく。その様子を眺めながら、アヤは安堵して息を吐く。
ヒメの居ない間にアキラに何かあったらどうしようかと心配していたのだが、アキラは自力で初陣を切り抜けたらしい。
もっとも、妙に彼に懐いている妖精の助力はあっただろうが。
「こんな状況で勝っちゃうなんて、アキラさんは異常ですね~」
空は雲に覆われ月明かりも無く、街頭の光も届かず足場の悪い川の中。しかも相手が水妖とくれば、最悪の条件が揃ったと言っても過言では無い。
それでもアキラは生き残り、ミコトを守りきった。
「ヒメさ~ん。早く帰ってこないと、アキラさん勝手に成長しちゃいますよ~」
アヤはこの場に居ないアキラの師匠役に向けて呼びかけると、ベリスの馬に揺られて川を越えてくるアキラとミコトのもとへと歩き始めた。
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悪魔全書1
・幽鬼 カワアカゴ(川赤子)
川や沼地に現れ、赤子の泣き声で人を騙し川へ落とすと言われる妖怪。河童の一種とされ、その姿は人間の赤子に似ている。
明確にその存在を示す民間伝承が少ないため、伝わっている行動はその姿から想像されたものだという説もある。
本作に登場したカワアカゴは、その特徴や行動が一致したために「川赤子」の名を借りているに過ぎず、種族としては河童の変種だと思われる。
古くから日本では奇形児や流産した子を川に流す習慣があり、本作のカワアカゴはそういった赤子達の魂を集めるうちに自我を失い、赤子達の魂の欲するままに母親を探していたと思われる。
赤子の魂から力を得ようとしたのか、それとも赤子を哀れんだのか。当のカワアカゴが消滅してしまったので、その理由は不明。