「あら、タタリクスったら、死んじゃったんだ」
「!?」
どれほどそうしていたのか。物言わぬ骸となったシオンのそばで立ち尽くしていたアキラの耳に、不快な女の声が聞こえてくる。
「……ファントム」
「はい? ああ、感動の再会かしら……『深海くん』」
馴れ馴れしく呼ばれ、アキラは彼にしては珍しく眉間に皺を寄せて嫌悪を露にした。
その様子を見て、新たに現れた白装束の女はクスクスと笑う。
「不快だった? その子の真似をしてみたのだけど」
「ああ、最悪の気分だ。だけどそのおかげで幾つか分かった事がある」
「あら、何かしら?」
アキラはファントムと話しながらも、己の戦力を確認する。
「一つ。おまえらは完全に個なんて存在しないのかと思っていたが、そうでもないらしい。おまえと名持はどう足掻いても別人だ」
「それは貴方の感傷……と言いたい所だけど当たりよ。私たちも肉体という檻に縛られている。幾ら精神を共有しても、完全な一個の存在として統合される事は無いわ」
N686の弾は正真正銘撃ちつくした。迂闊な事に、刀は倒れた九峨のそばに転がったままだ。
念のために持っていたSSAはあるが、装填されているのは通常弾だ。ファントム相手では、大した効果は望めないかもしれない。
「一つ。故におまえたちはその力を完全には共有できてない。だから俺に名持が譲渡したケルベロスの制御を奪い返せない」
「……否定してもバレバレね」
忠実な僕のように、脇に控えるケルベロスを見ながら言う。しかしそのケルベロスも、催眠誘導で容易くアキラの敵になるだろう。
故に話しながらアキラは歩みを進める。刀を拾い接近戦に持ち込む。戦闘になった場合、それ以外に対処法が無い。
「一つ。おまえたちと俺は絶対に相容れない」
今更で、しかし重要な事実を告げる。
「あら? 何故かしら?」
心底不思議そうに、ファントムは言った。
ああそうだろう。不思議に違いない。彼女たちにとってアキラという存在は、最も近しいが故に憎らしい存在なのだから。
気付くための材料は幾つかあった。記憶を封じられた状態ならまだしも、思い出したならば気付いてしかるべきだ。
「……あいつは――ダンダリオンは何処に居る?」
問いには答えず、アキラは確信を持ってその名を――かつて己が契約していた悪魔の名を告げた。
「……ふふ……うふふふふふ……アハハハハハハッ!!」
その意味を理解したのだろう。ファントムは一瞬黙り込むと、可笑しそうに、愉しくてたまらないとばかりに、狂ったように笑った。
「ハハ……アハハハハハ。認めるの? 認めちゃうの?『貴方は私と同じ』だって『貴方のせいで私が生まれた』って認めちゃうんだ!?」
「……」
ファントムの言葉に、アキラは何も返せず沈黙した。
深海アキラは救われた。父の手によって救われた。大多数の悪魔に魅入られた子供と違い、ただ一人救われた。
――救われなかった子供たちが居るとも知らずに。
「アハハハハハ!『貴方』が『私』なら良かったのに! 貴方がこちら側なら私たちは私たちだった? それとも私たちは私ですらなかった? アハハ、それは不幸? それとも不運? 私という存在の是非は何処!?」
「……」
狂ったように、笑いながらファントムは言う。
他人が聞けば意味不明なその言葉の羅列を、アキラは理解していた。
ダンタリオン。ソロモン王の72柱の悪魔の内の一柱。
幻影を見せ、術者に人の心を読み操る力を与え、自らもまた人心を操る力を持つ悪魔。
アキラという少年と、サトリの末裔である深海と、あまりにも相性が良すぎた悪魔。
「私たちは所詮貴方の代用品。あの子に貴方が魅入られたように、あの子は貴方に魅入られた。貴方という魂が欲しくて、私たちという器で誤魔化した。私たちは貴方にすらなれなかった!」
「ぐっ!?」
苛立ちを叩きつけるように、形にならない魔力の奔流がアキラに叩きつけられる。
ケルベロスがアキラを庇い前に出たが、それでもその余波はアキラに少なくないダメージを与える。
「貴方があの子のものになれば良かった! 貴方が居るから私は私になれない! 貴方という存在が私たちを歪めた!」
「クッ!」
言葉と共に、次々と叩きつけられる魔力。それをその身に受けながら、ケルベロスはアキラへ問うように視線を向ける。
――何故耐える? 何故戦わない? 何故敵を殺してしまわない?
今のファントムは理性を失っている。ケルベロスの力をもってすれば、一瞬で勝負を決する事も可能だろう。
だがアキラは動けなかった。動く事ができなかった。
彼女の苛立ちは当然のものであり、その凶刃は正当な報復だった。
「……俺がダンダリオンと契約を続けていれば、おまえたちは生まれなかったかもな」
「そうよ! 貴方のせいよ! 貴方のおかげで私は!?」
それは意味の無い『もしもの話』だ。
もしもアキラがダンダリオンと契約を続けていたとすれば……アキラを気に入っていたダンダリオンの事だ、案外上手くやれていたのかもしれない。
しかしそんなのは希望的観測だし、アキラが契約を続けていても、ダンダリオンはファントムを生み出したかもしれない。
所詮は過去の話。確定した事実に『もしかしたら』といちゃもんをつけても、何も変わる事は無い。
だけど、それでも、アキラはファントムという少女たちへの負い目を振りきる事ができなかった。
「全部おまえのせいだ!」
言葉と共に叩きつけられる魔力。それを予期して衝撃に備えるアキラ。
しかし幾ら待っても、衝撃は訪れなかった。
「……まったく、うるさくて寝てられん」
「……九峨……さん?」
ケルベロスと並ぶように、九峨が立っていた。両手を広げ、背後に居るアキラを庇うように。
「深海。おまえは悪くない。悪人というのはな、己の意思でもって悪事を働く連中だ。……ただの子供だったおまえは、ただの被害者だ」
「邪魔をするな!」
「!?」
さらなる魔力の衝撃が九峨を襲い、血飛沫が舞い、彼のCOMPである懐中時計が砕けて落ちる。
「まだ……だ」
「九峨さん!?」
それでも、空気を漏らしたような、掠れた声で九峨が言った。
その身に無事な箇所など無い。至る所の骨が折れ、肉は裂け、血にぬれていない場所を探す方が難しいほどに血塗れだ。
だというのに――
「生き延びろ」
――アキラを庇って九峨は立ち上がった。
「何故!? 何で俺を!?」
「俺は人殺しだ。それは変わらない。だから救わなければならない」
それはどのような想いだろうか。
悔い、しかし変えられず影を落とす過去。その過去を背負い、誰かを救うために足掻く姿は、強迫観念に突き動かされた罪人のようで。
「アハハ。貴方も醜い残骸ね。貴方が戦うのは償いのため?」
「償い……いや違う」
しかし許しを請いたいわけでないと、九峨はファントムの言葉を否定した。
「ただ胸を張って生き、誇りを抱いて死にたいだけだ。後悔にまみれて、未練を残したくないだけだ」
「身勝手ね」
「そうだな。だがそれでも、救ったものは礼を言った。俺などに、俺のような人殺しに、笑顔を向けてくれたんだ」
ただそれが嬉しかった。
自分のような人間にも、まだできることがある。
やり直せずとも救われるものがある。それがたまらなく嬉しくて、切なかった。
「……呆れた。闇に身を浸しながら、それでも人を信じているの? ……凄く目障り――ブフダイン!」
吐き捨てるように言って、ファントムは最高位の氷結魔法を放つ。
「――アギダイン!」
「――ザンダイン!」
しかしそれを、最大級の火炎魔法と衝撃魔法が相殺した。
「こいつらは……!?」
ピクシーとクーフーリン、トロール。並び立つアキラの仲魔たち。だが今の火炎と衝撃波は彼らでは無い。
九峨の仲間――チュルルックとセンリがそこに居た。その背後にはGUMPを構えたアキラの姿。そのGUMPから伸びるコードが、九峨の砕けた懐中時計に繋がっていた。
「契約の譲渡をする暇なんて無かったはず。まさか他人のCOMPの認証を突破して起動させたというの!?」
「そんな事できるわけ無いだろ。認証誤魔化して召喚データを吸い出しただけだ」
ファントムの予想を否定するアキラだが、やってることの無茶っぷりでは大差無い。
だがその無茶を、かつてやってのけた男が居た。
「父親と同じ……でも大学時代の深海アキラにそんな異才は……」
平凡。
それが深海アキラという青年を表すのに最も適した言葉だ。
そう、言葉だった。
「……いえ『深海アキラは異常者』だ」
父親はサトリの家系で、恐らくは母方も何かしらの異能の血をひいている。
そんな存在が『平凡』であるはずがない。そうであるかのように偽装されていたのだ。悪魔の中でも有数の力を持つ妖精王オベロンによって。
「ピクシー。九峨さんの治療を……」
「いえ……既に九峨殿は……」
アキラの声にピクシーが応える前に、センリが搾り出すように言った。
「チッ……九峨よう……何あっさり逝ってんだよ」
チュルルックの言葉通り、九峨は既に死んでいた。
地を足に着け、両手を広げたまま、何があっても守りきると誓うように。
「九峨さん……」
また一人目の前で命を落とした。
その事実に漏れそうになる声を飲み込み、アキラは顔を上げる。
アキラは九峨と殆ど話したことなど無い。
ただ師であるヒメにも信頼されていて、この深山でも指折りの実力者であることだけ知っていた。
そんな実力者があっさりと逝ってしまった。
自分などを守って。
「……頼みます。今だけでも、力を貸してください」
それでも。だからこそ。
アキラは九峨という男の死に様を継がねばならない。九峨という男の生と死が無駄では無かったと証明しなければならない。
いや、そんな大層な理由など必要ない。
この人に報いたい。ただアキラはそう思ったのだ。
「無論です。九峨殿の死、無駄にはしません!」
「へっ、ちょいとイケてねえ坊やだが仕方ねえ。暴れさせてくれるっつうなら、従ってやろうじゃねえか!」
そのアキラの思いに応えるように、センリとチュルルックが気勢を上げる。
そしてその瞬間、契約は正式なものとなる。
「っく! デジタルデビル――」
『――待て!』
ファントムが悪魔召喚プログラムを起動しようとした刹那、重い声が響いた。
「――え?」
『もう十分だ。通せ、ファントム』
それは老人の声のようであり、若い女の声であり、幼子の声のようでもあった。
その声に命じられ、ファントムはフリーズしたように動かなくなってしまう。
「……この声は」
「……声だけで強いのが分かるぞ。まるでトールに追っかけられたときみたいな恐さだぞ」
クー・フーリンが驚愕に目を見開き、トロールは怯えたように巨体を縮こまらせる。
他の仲魔たちも反応は似たようなものだ。
誰しもが声を聞いただけで理解した。
「――これが……魔王」
『その通り』
ピクシーの呟きに返すように声が鳴り響き、ぼうと光が灯るように人型が浮かび上がる。
『久しぶりだな――アキラ』
そして現れたのは、本を持った老人。
いや、それは快活そうな青年であり、妖艶な女であり、無垢な子供のようでもあった。
「おまえ……は」
目の前のそれは幻影でしかない。
だというのに、その姿は生々しく存在し、アキラの心を侵食する。
『分かるだろう。それともこの姿の方が良いか?』
そう言ってあらゆる男女の顔を浮かべる悪魔――ダンダリオンは姿を変える。
金髪の少女。
一時のことではあったが、アキラを導いた姿。
アキラの深層意識に未だ濃く残る憧れと罪の象徴。
『久しいな――アキラ。瞬きの間にあの坊やが戦士に変わるか。これだから人間は面白い』
そう言うと、少女の姿をしたダンダリオンはニヤリと笑った。