静寂が辺りを包んでいた。
その場に居た三人は誰もが力尽きたように倒れ伏し、死んだように身動き一つしない。
そんな中で一番まともな姿をしていた青年――アキラはゆっくりと目を開けると、頭を振りながら立ち上がった。
「……かすっただけでこれか」
九峨の蹴り。爆発の余波で軌道はそれたというのに、それでもアキラを昏倒させる威力を保っていた。直撃すれば首の骨が折れるどころか、サッカーボールみたいに頭だけ吹っ飛んでいたかもしれない。
その事にぞっとしながら近くに倒れている九峨を見やるが、どうやら生きてはいるらしく胸が僅かに上下している。下手に近付いてまだ操られていたら危険だ。そのためアキラはそちらは放置して、残り一人が倒れている場所へと向かう。
「……名持」
「……」
呼びかけに答える声は無かった。もしかしたら答える力も残っていないのかもしれない。
名持シオン。彼女の体は、お腹の辺りを境に二つに分かれていた。辺りにはむせ返るような血の臭いが漂い、地面には何かが混じった血溜まりが広がっている。
どう見ても、助かるような状態ではなかった。
「……どう……して」
そんな有様だというのに、シオンは呟くように言った。
それは何に対する疑問だったのか。アキラが自分を撃った理由か、それとも自分が負けた理由か。それを考えていたアキラだったが、不意に辺りを覆っていた不快な圧力が消えたことに気付く。
『どうして、深海くんは六発確かに撃ちつくしたはずなのに』
そして聞こえてきたのは、シオンの心からの問いかけ。恐らくは自身の精神感応能力を封じたのだろう。だからアキラには、容易くシオンの心を見る事ができる。
「この銃はS&W N686+ ……ステンレスを使うことによって上がった耐久性を生かしてシリンダーの穴を一つ増やした、装弾数七発の拳銃だ」
『……なるほど。聞いてみれば自分の迂闊さに笑えてくるわ』
以前ヒメに近代兵器を勉強しろと言いながら、N686にそんなバージョンがあるなんて知らなかった。
いや、そもそもリボルバー式の拳銃には、装弾数六発以上のものは幾らでもある。つまらない先入観で勝負に負けるとは、油断していたとしか言いようが無い。
『私の正体にあんまり驚いてなかったね。気付いてたの?』
「……むしろ気付いて欲しくて隙を見せたんじゃなかったのか?」
アキラの言葉に、シオンは目に不思議そうな色を宿す。それに呆れながら、アキラは口を開く。
「おまえは大病院の娘で、その大病院である深山総合病院は十七年前に廃墟になってる。関係者は全員死亡か行方不明。その中には偶然病院に来ていた名持シオンも含まれていた。……だったらおまえは何者だ?」
『……調べたの?』
「ああ。おまえら催眠誘導に頼りすぎて、物理的な証拠隠滅してなかっただろ。他の誰かなら怪しまないんだろうけど、俺には催眠誘導が効かないからな」
アキラがそこまで言うと、シオンは口元をかすかに動かして笑った。
「それでも俺は確信が持てなかった。ファントム……おまえらは、精神を共有した存在。精神を共有する故に個を持たない集団。それで合ってるか?」
『ええ。だから藤棚が死んでも、彼女の意識は私たちの中に残っている。いえ、そもそも私と藤棚に違いは無い。どちらもファントムという群体の端末に過ぎない。違うのは肉体という器だけ』
自嘲するようにシオンは言った。己の存在に大した価値など無いと、吐き捨てるように心の中で言い放つ。
「なら……何で十年前俺を」
藤棚がアキラを排除しようとした事。それはファントムの総意……いや、そもそも彼女たちに個々の意見などと言うものは無いはずだ。
にも拘らず、シオンはアキラを助けようとした。
『はは、何でだろうね。私……ただ君の事が……』
「……え?」
その言葉はおかしなものだった。それはシオンに、他のファントムとは違う明確な意思が在ったという事に他ならない。
今しがた個の意識など無いと認めたというのに、あっさりとそれを否定する。その矛盾を、シオンは語る。
『私は所詮ファントム(亡霊)。私という個はあの時死んで、自分を突き動かす明確な意思なんて存在しなかった』
アキラの心に伝わる言葉は、泣くような、血を吐きながら絞り出しているような色だった。
己という殻を失い、本来拒絶すべき他者と意識を共有し、そしていつしかそれに慣れ己自身を失う。
それは幼い少女にとってどれほどの恐怖だったのだろうか。あるいは、恐れという感情すら抱く事もできず、虚ろな心を明け渡すしか無かったのだろうか。
『それでも、この想いだけは……手放しはしない』
それでも尚、彼女――名持シオンは己を完全に捨てはしなかった。風に揺れる灯火のように微かな熱をやつらに、他の女たちに踏みにじられる事だけはしたくなかった。
「……!?」
いつの間にそこに居たのか、一匹の魔獣が倒れたシオンの顔を覗き込むように頭を垂れていた。
ケルベロス。冥府の番犬。邪龍エキドナの子である最高位の魔獣。
「……」
それまで指先一つ動かさなかったシオンが、ゆっくりと右手を上げてケルベロスの顔を撫でる。するとケルベロスは、子犬みたいにか細く、切なげに鳴いた。
その様子にシオンは満足したように微笑むと、己の血に塗れた口をゆっくりと開いた。
「ケルベロス……最期の命令よ。この時より……主を深海アキラへと変え……彼をあらゆる災厄から守り抜きなさい……」
「名持……何を?」
「ごめんなさい……。私が……もっと強ければ、亡霊なんてふりきって……貴方を傷つけたりしなかったのに……」
そして出来れば、アキラの隣に立っていたかった。そんな思いをシオンは即座に頭からかき消した。
そんな図々しい願いを彼に悟られてはいけない。抱く事も許されない。
いくら言い訳を重ねようとも、彼の大切な人を死に追いやったのは己であり、裁かれるべきなのも己なのだから。
しかし、それでも。
「都合が良いって……分かってる。だけど……」
ゆっくりと伸ばされた手をアキラが掴む。その手は死人のそれとしか思えないほど冷たく、固かった。
「これだけは、信じて。私は、名持シオンは、貴方が……深海アキラという人が……大好きだった。だから――」
――貴方の幸せを祈らせてください。
「……名持?」
言葉は最後まで紡がれず、微かに残っていた命の温もりが消えた。
『――』
主の死を弔うように、ケルベロスが遠吠えをあげる。
それをどこか遠い出来事のように思いながら、アキラはいつかと同じように、自分が殺してしまった女を無言で見つめていた。
・
・
・
「……ん? 何や?」
不意に体を、街全体を覆っていた違和感のようなものが消えた。
それと同時に、今までどこか曖昧だった黒木の気配がはっきりと感じ取れるようになる。
「……彼女が負けたか」
「彼女?」
黒木の呟きにつられてそちらを見れば、そこにはどこか憂いをおびた顔があった。
その手に銃は無い。やはり先ほどまでの事は幻影だったのかと、ヒメは納得する。
「……行きたまえヒメくん。もう僕には君を足止めする力は無い」
「……少しくらい説明が欲しかったんやけど」
そう言ってみるが、急いでいるのは違いない。ヒメはスーツについた埃を払うと、黒木など最初から居なかったように、気にもせずに走り出した。
「……穴が空いたか。彼女たちにとっては蟻の穴だろうが、堤防が決壊するには十分な穴だ」
残された黒木は一人漏らす。
「さあ、最期まで見届けよう。彼女たちが生きている限り、僕の娘は死ぬ事もできないのだから」
そう言うと、何の力も持たないただの男は、悪魔の蠢く場所へと歩み始めた。