「……ここか」
曲がりくねった山道の最中で、アキラは車を止めた。
久しぶりに運転する車での山道は少々緊張するものだったが、それも終わりかと安堵する一方で、これからが大変だと思い溜息をつく。
コンクリートで固められた道路の途中に、細長い丸太を並べて階段代わりにした小さな道が伸びている。アキラの記憶にあるよりもさらに朽ちた丸太を見れば、もう何年も人の手が入っていないのはすぐに分かった。
だがこの先に行かなければ。そうアキラはかつて操られるように歩き、今こうしてまた自らの意思で歩み始めようとしている。
「……人目は無いな」
人どころか車すら滅多に通らない場所ではあるが、一応周囲を確認すると、アキラは竹刀袋から刀を取り出し、ズボンとベルトの間にさしこむ。
そして一度目の前の山を見上げると、ゆっくりと歩き出した。
病院での探索が空振りに終わった後、アキラは動揺を抑えて仕事をこなした。
何故あの病院が廃墟となったのか。何故その際の記録が曖昧なのか。それらの答えはスティーブンの通信記録を見た時点で、ヒメにも予想がついていることだろう。だがアキラはそのヒメ以上に、核心に近付いていた。
しかしそれを口にする事が躊躇われる。そして何より、確信へと至るための欠片が揃っていない。
だからそれを探すために、アキラは突然無理を言って休みを貰い出かけることにした。ヒメにすら目的地を告げず、幼少の曖昧な記憶を頼りに、この山へとやってきたのだ。
深海家代々の墓の裏手に、この山は鎮座している。
向こう側へと続く道路が一本だけ伸び、他には農家の小屋くらいしか建物の無い、人の手の入っていない山。その山へとアキラが迷い込んだのは、父が死んだ直後の事だった。
父は厳しい人で、いつも仕事ばかりで、帰宅するのは決まってアキラの眠った後だった。どうして父さんは早く帰ってきてくれないのと、母に言って困らせた事を覚えている。
それでも父は、たまの休みには車を出して、アキラを色々な所へ連れて行ってくれた。夏になれば海へ行ったし、探検だといって山へ行き植物の名前を教えてくれた事もある。
何かを作るのが得意な人だった。
割り箸でゴム鉄砲を作るのなんて朝飯前。山から大きな木の枝を拾ってきて、それで弓を作ってくれたりもした。
家電が壊れれば、どこからか部品をたくさん持ってきて、がちゃがちゃと弄っていつの間にか直してしまうほどだ。
そんな父に憧れて、アキラは工作や機械弄りが好きになっていたのだ。
絵は下手なのに、ぬいぐるみや模型を作るのは得意で、小学校に入ってからは色々な賞だって貰った。
だけどそれを一番褒めてほしい父は居なかった。
十七年前のあの日に、父は死んだ――。いや、殺された。
深海アキラを、自身の子を守るために、父は殺されたのだ――。
丸太の階段が途切れると、すぐに道と呼べる道は無くなった。獣道とすら呼べない木々の間を、アキラは腰まである草をかき分け進む。
よく子供がこんな所を歩き通せたものだと、昔の自分を褒めたくなった。生い茂った草は足元を隠し、地面の石や折れた木の枝に足をとられそうになる。ここに子供の頃に作った、足をひっかける草の罠を作れば、殆どの人が気付かず転ぶだろう。
それほどまでに山は歩きづらく、重ねて蒸すような暑さがアキラの体力を奪っていく。
「……暗いな」
ふと空を見上げたが、太陽は木々に隠されて見る事ができなかった。
昼だというのに不安になるほどの暗さを考えれば、雲が出て太陽そのものを隠してしまっているのかもしれない。太陽の熱から逃れることが出来るのは良い。しかしこのまま太陽が隠れたままでは、アキラたちにとって良くない事態となるかもしれない。
天気予報によれば、明日から明後日頃にかけて雨になるという。九峨と戦った白装束の言葉を信じるならば、それが彼らの作戦の合図となる。
それまでに、戻らなければならない。敵が何者であるか、それを知った上で。
「どこへ行くの?」
不意に、聞こえないはずの声が聞こえた。
「どこへ行くの?」
繰り返すように、同じ声が、同じ問いをする。
視線を向ければ、一人の少女が草木に埋もれ、守られるように佇んでいた。
一面の緑の中に浮かぶ、白い肌と金色の長い髪。見覚えのある、以前見た通りの姿で、少女はアキラの前に現れた。
「どこへ行くの?」
三度同じ問いが放たれる。以前とは違うその語りかけは、以前とは状況が違うからだろうか。
引き止めるのでは無く、ただどこへ行くのかと問う少女の顔には、不安と期待が入り混じっていた。
「……妖精の国へ」
四度目の問いかけの前に、アキラは答えた。すると少女は驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私が案内してあげる。一人で行くと危ないから」
そう言って、少女は草の間をすり抜けるように動くと、アキラの手を握った。そして山の奥へと歩き出す少女に、アキラは引かれるように続く。
握った手は小さかった。
見上げたはずの背は見下ろすほど低かった。
十年以上も前に出会った時と変わらない少女。その得体の知れない少女を疑う事もせず、アキラはその手を握り返す。
だって彼女は、死に惹かれていた自分を助けてくれた。
そしてずっと自分を側で守ってくれていたのだから。
少女の手に引かれるまま、山道を歩く。少女は足元が見えないほど生い茂った草木を気に止める事無く、浮いているかのように前へと進んでいく。それに引かれるアキラは、躓かないようにするのに精一杯だった。
どれほど歩いたのか、アキラの足は疲労を溜め始め、それなりに時間が経ったことが分かったが、太陽の見えない森の中では判断する事が出来ない。
ただ目的地はもうすぐだという確信だけが、アキラの中で強くなっていく。
「お待ちください」
しかし目的の場所へと辿り着く前に、二人を止めるように白い影が立ち塞がった。
白銀の鎧を身に纏い、呪いの槍を携えた騎士。その姿を認め、少女はムッとした様子で呟く。
「……邪魔をするの、クー・フーリン?」
「え?」
少女が言葉に、アキラは思わず懐のGUMPへと視線を向けていた。
クー・フーリン。クランの猛犬を意味する名を持つその騎士は、ヒメからアキラの護衛にと預けられた仲魔のはずだ。
アキラの使っている悪魔召喚プログラムは、あくまで召喚を補助するためのシステムでしかなく、PCの中に悪魔そのものが収まっているわけでは無い。故にプログラムを起動していなくとも、現世に居る事は不思議では無い。
しかしこのタイミングで現れるのは、クー・フーリンをケルトの英雄としか知らず、妖精の騎士という立場を知らないアキラには、不思議で仕方が無い事だった。
「貴女こそ、何故あの方がアキラ殿の記憶を封じたかお忘れか。我々と深く関れば、アキラ殿は本当に戻る機会を失ってしまう」
「それこそ今更でしょう。アキラの性質も異能も先天的なもの。年端もいかない子供の頃に悪魔と契約を交わした時点で、解放は免れないものだった。分かっているのでしょう。後戻りはできないと。だから貴女は、偶然出会った彼の守護を引き受けた」
少女の言葉に、クー・フーリンは口をつぐむ。
「知らない事は時間稼ぎにしかならない。だからもう、全てを明かしましょう」
「残りの時間を、私たちで守るという道もあるはずです」
「いやよ」
「何故!?」
プイと顔を横に向け、子供のように拒否する少女。それにクー・フーリンは詰め寄りながら訳を問うた。
それを少女は睨め付けるように見上げながら答えた。
「私が隠し事をせずにアキラと一緒に居たいから。もう我慢できないの!」
少女の答えは、我侭のような叫びだった。騎士は呆然と少女を見つめ、一方の少女は言ってやったとばかりに胸を張る。
その二人の姿が、アキラにはとてもおかしなものに見えた。
「……ハハッ」
「あ、アキラが笑った。珍しいね」
「珍しいのか?」
「うん。笑う事はあったけど、声に出して笑ったのは初めて見た」
そう言って微笑む少女につられて、アキラももう一度笑った。
ああ間違いない。彼女はずっとアキラのそばでアキラを見ていたのだ。半信半疑だった彼女の正体に、これでようやく確信が得られた。
「クー・フーリン。俺の事を気遣ってくれてる事は感謝します。しかしピクシーの言い分は置いておいても、俺は知らなくてはならないはずです」
アキラの言葉に、少女――ピクシーはどこか不満そうな顔をすると、抗議するように両手でアキラの手を握り締める。
そんな光景を、クー・フーリンは睨むように見つめる。
「貴方を決意させたのは、死んでいった人々ですか?」
「かもしれません。だけど、例えあんな事件が起きる前にここに辿り着いたとしても、きっと俺は逃げたりはしなかった」
「何故?」
たった一言の問い。それが重い。
逃げ続けて命を拾ったというのに、何故この場ではどんな状態であっても逃げないと言えるのか。
アキラは自分でも何故かと思い、しかしすぐに答えを見つけた。
「もう子供じゃ無いから……かな。理不尽な運命ならともかく、自分が背負わなければならないものから、逃げるわけにはいかない」
父の死から逃れるために、アキラはこの山へと迷い込んだ。そして子供には重荷になる記憶を置き去りにした。そのツケが回ってきたから、アキラは今回の騒動に巻き込まれたのだろう。
ならば、そろそろ責任を果たさなくてはならない。
「俺の悪魔(敵)は、俺が倒さなくてはならない」
それが、わけの分からぬままに悪魔を召喚してしまった、かつて子供だった青年の精一杯の強がりだった。
「――ならば、汝を我が国へと招こう」
「え?」
不意に、ピクシーでもクー・フーリンでも無い、少年のような声が響いた。
それと同時に白く染まる視界。目の眩むそれから腕で顔を庇い、光の嵐が過ぎ去るのを待つ。
そしてようやく静かになった周囲を見れば、そこは既にアキラの知らないはずの、だけどどこか懐かしい場所へと変わっていた。
草木に覆われた中で、アキラたちの居る場所だけ、何かに削り取られたような空間が広がっている。
その中心には湖が広がり、しかしそこには魚が泳いでいない。泳いでいるのは、透き通った体を持つ女たちだった。
改めて周囲を見渡せば、草の間や木の葉の裏に隠れるように、木の葉の衣を纏った少年や、どんぐりの帽子をかぶった小人のような少女たちが、アキラを好奇の目で見つめている。
「妖精……の国?」
「その通り。私が治める。私の王国です」
かけられた声に振り向けば、いつの間に現れたのか二人の妖精が宙に浮いていた。
一人は背中に揚羽蝶のような羽を持ち、どこかの国の王子のような赤い服を着た男の妖精。その体は他の妖精たちより大きいが、それでも人間の子供ほどしかない。
もう一人は透明の羽をはばたかせる、緑のドレスを纏った女性の妖精。こちらは人間とほぼ同じ大きさで、浮いているため分かりづらいがアキラよりも背が高いかもしれない。
目の前の二人の妖精。そのどちらもが大きな力を持つことを、アキラは本能で感じ取った。その証拠のように、クー・フーリンが二人の前に跪く。
「貴方は……?」
「私の名はオベロン。隣は私の妻のティターニアです。説明は必要ですか?」
「オベロン……妖精王オベロン!?」
多くの物語や歌劇に登場する、妖精たちの王。呪いをかけられたためにその姿は子供のまま成長しないが、その身には大きな力を秘めており、時に天候にすら影響を与えたと言われている。
もっとも天候に影響を与えるのは、主にティターニアと夫婦喧嘩をしている時だと言われているが。
「あら。オベロンの事は知っているのに、私の事は知らないのかしら?」
「え、いえ。知っています」
「まあ、ありがとう」
どこか不満そうにティターニアに言われ、アキラは慌てて付け加える。その反応が面白かったのか、ティターニアはクスクスと笑い、アキラをどこか気恥ずかしい気分にさせる。
「知っているなら話は早いですね。ようこそ妖精王国へ」
自分たちの名を聞き驚くアキラに満足したのか、オベロンは頷きながら歓迎の意を伝えた。
しかしアキラの傍らに居るピクシーに気付くと、怒ったように顔をしかめる。
「ピクシー。また貴女は先走りましたね」
「別に良いじゃないですか。全部思い出して無くても、アキラは自分の意思でここに来たいと願ったんだから、案内くらいしても」
叱るように言ったオベロンに、ピクシーは拗ねたようにそっぽを向く。反省の色の無いピクシーにオベロンはさらに言い募ろうとするが、それを遮るようにティターニアが口を開く。
「別に構わないでしょう。ピクシーはずっと待っていたのだから。それにしても、あの子供がこんなに立派になるなんて。やっぱり私の手元で育てたかったわ」
「まったくですね。クー・フーリンが邪魔をしなければ実現したでしょうに」
聞き捨てなら無い事を口走るティターニアに、オベロンは戒めるどころか同意する。それを聞いたアキラは呆気にとられ、クー・フーリンは頭を抱える。
「お二人とも、今の時代にとりかえ子などすれば、大騒ぎになって我々が退治される破目になると何度言えば分かるのですか」
「また? クー・フーリンは口うるさいわね」
「生前はあんなに豪快だったというのに、何故こんなに堅くなってしまったのやら」
クー・フーリンの注意を煩わしそうに流す妖精二人。それを見てクー・フーリンは再び頭を抱えると溜息を吐いた。
人の形に似ていても、やはり妖精。根本的な考え方が人間とは違うのだろう。元人間であるクー・フーリンは、感覚の違いから日々胃を痛めているのかもしれない。
「……大変ですね」
「……はい。とても」
同情的なアキラの言葉に、クー・フーリンは疲れたように項垂れた。