「照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子」
僧侶の唱える読経だけが聞こえる部屋の中、アキラは誰とも顔を合わせようとせず、ただ手元の般若心経の書かれた紙へと視線を落としていた。
ミコトが死んでから――アキラがミコトを殺してから四日後。司法解剖を終えたミコトの遺体はようやく遺族の元へと返され、こうしてしめやかに葬儀が行われている。
ミコトの死は、通り魔の犯行によるものと警察から発表された。事件の概要を明かせるわけが無い以上、カバーストーリーが作られるのは当然だろう。
ミコトの遺族や関係者からしてみれば、犯人が不明というのは怒りの矛先を向ける相手がハッキリせず、辛いものになるかもしれない。アキラは特に何も聞いていないが、今回の事件に何らかの決着がつけば、藤棚かあの吸血鬼を犯人に仕立て上げるのかもしれない。
いずれにせよ、アキラがミコトを殺したという事実は闇に葬られる。事情が事情だけに、それも仕方が無い事だろう。
アキラ自身も、それについて殊更に罪悪感を覚える事も無く、ただ自分が自覚していれば良いと割り切っている。アキラのような人間にとっては、罪を自覚しながらそれを裁かれない方が罪悪感が募るだろう。
「……不生不滅。不垢不浄。不増不滅。是故空中」
だが今はその罪悪感に囚われている時では無い。
アキラは意味も知らない般若心経を僧侶に合わせて読み上げる。ただミコトの魂の安息を願いながら。
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焼香を終え別れの儀も済ませ出棺が終わると、ミコトの体は火葬場へと運ばれた。
棺いっぱいの花の中で眠るミコトの体は、伸びたはずの爪や牙も無ければ、アキラが切り落とした首も縫合されていて綺麗な姿になっていた。それこそ、名前を呼べば瞼を開き起きて来るのではないかと思ってしまうほどに。
しかしその体も、焼かれて灰となり骨だけの姿になる。所々崩れた骨は、ミコトが小柄だった事を考えても小さく見えた。その骨を、習わしに従って二人一組で箸を使って持ち骨壷へと収めていく。
アキラと一緒に骨を拾ったのは、ミコトと同じ年頃と思われるショートカットの活発そうな少女だった。その沈んだ様子からして、以前ミコトが話していた友人というのは彼女なのだろう。
少女の方もアキラの正体に気付いたのか、離れる間際に小さく「ありがとう」と呟いた。
ミコトの事を大切に思い、純粋な感謝の気持ちから放たれたのであろうその言葉が、アキラの心には痛かった。
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火葬場を後にする頃には、来たときにはほぼ真上にあった太陽が傾き始めていた。
六月も中旬に入り、陽射しも強くなってきたが、アキラは黒いスーツを脱ぐ気にはならなかった。それは別にスーツの下に、銃やナイフといった凶器を仕込んでいるからでは無い。
葬儀に出席するにあたり、アキラは身の危険が増える事を覚悟で一切の武装をGUMPも含めて身に着けてこなかった。それはミコトの遺族への配慮もあるが、アキラの自己満足とも言える配慮でもある。
「おにーさん。ちょっとドライブいかん?」
だからだろうか。火葬場から少し離れた所で、聞きなれた声がアキラを待っていたように呼びかけてきたのは。
「……所長」
「お疲れさま。お別れはちゃんとすませたみたいやね」
視線を向けた先には、黒いスーツに身を包んだヒメが、銀色の愛車にもたれるようにして立っていた。右手に預けたGUMPを持っているという事は、早めにアキラの非武装状態を解除するために、わざわざ届けに来たのだろう。
「すいませ……ブッ!?」
「おお。愛のヘッドバッド?」
手間をかけさせた事を詫びようとしたアキラだったが、ヒメの後ろから現れた何かが勢いよく顔にぶつかってきたため、最期まで言えずに衝撃で後ろへとのけぞる。
何事かと右手でぶつかってきたものを引き剥がすと、いつも一緒に居た小さな妖精が、不満たっぷりな様子でアキラを睨みつけていた。
「……ごめんなさい」
「弱!?」
手の平サイズの妖精に睨まれて謝るアキラに、ヒメが思わず声を上げる。
まあアキラとしては、今まで一緒に居たにも関らず、自分の気分が落ち込んでいたから呼び出さなかったという負い目があるので、謝罪は当然とも言える。
しかしピクシーはまだ不満があるのか、アキラの手の中で手足や羽をバタバタと動かして抗議している。
「いや、あの時は切羽詰ってたし。相手が相手だから俺が一人で相手すべきかなと」
「アキラくん。気持ちは分かるけど、独り言にしか見えんけん車の中入ろか」
心底困った様子でピクシーに言い訳をするアキラ。その様子を見ていたヒメは、苦笑しながらGUMPをホルスターごと差し出して車の中へ入るよう促す。
アキラはそれを受け取ると、ヒメに促されるままに車の助手席へと乗り込む。ピクシーの事もあるが、本物の銃では無いとはいえそれらしきものを往来の真ん中で堂々と身に着けるわけにもいかないだろう。それに車の中には、一緒に預けた銃もあるはずだ。
「何かアキラくん結構落ちついとるなあ」
ヒメの言葉に、アキラはホルスターをつける手を止めると、確かに涙も流していなかったと今更気付く。しかしそれは、自身の心境を省みればすぐに理由が分かった。
「悲しみや憎しみよりも、虚無感みたいなものが強いみたいです。本当に、胸に穴が開いたみたいで」
「ああ、私も父さん死んだ時にそんなんなったなあ」
ヒメが納得する声を聞きながら、アキラはホルスターを着けるために脱いでいたスーツを狭い車内で苦心しながら着なおす。
敵がミコトを巻き込んだことに対する憎悪よりも、ミコトが死んでしまったことに対する悲哀よりも、もうミコトに会えないのだという喪失感がアキラの心を占めていた。
それは自己の一部を失ったような欠落感にも近いかもしれない。
「それに、事を企んだであろう張本人が死んだから、憎む相手も居ないわけですし」
「ああ……。本当に何がしたかったんやろね」
吸血鬼の電撃によって炭化した死体は、鑑定の結果藤棚ラン本人である事が確認された。
実は生きていて、密かに催眠誘導で鑑定結果を捏造した可能性も考えられる。しかし鑑定には、催眠誘導が効かないアキラを無理を言って立ち合わせたので、その可能性は低い。
ヒメの言うように、何がしたかったのかは謎のままだ。吸血鬼の言っていた通り、藤棚は狂人だったという事なのだろうか。
「……所長がいつも着てるスーツって喪服ですか?」
会話が途切れた所でアキラが放った問いに、ヒメは表情を変えずにピクリと眉を動かした。そして困ったように鼻の頭をかくと、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「あー……まだ私もアヤちゃんも駆け出しの頃に、父さんが私らを庇って……ね」
「……」
庇ってどうなったのかは、アキラも聞かずとも察した。先ほどヒメ自身が、父が既に死んでいることを話したのだから。
「やけどこれは供養というより……戒めかな。いつ死ぬか分からん場所に身を置いとる以上、いつか死ぬ自分への喪服」
「自分への……ですか?」
死んだ父親へのものでない事も驚いたが、ヒメが自分が殺される事を想定していることにも驚いた。しかしそれは、戦いに身を置いているならば覚悟して当然の事でもあるのだろう。
アキラにとって赤猪ヒメという女性は、自身から遠い高み居る憧れ。手の届かない眩しい太陽のような存在といえる。
しかしそれはアキラの勝手な憧憬で、ヒメだって殺されれば死ぬ普通の人間だ。故に死を覚悟するのは勿論、それが唐突に訪れることも知っている。
「……覚悟せないかんのよ私らは。いつの日か……戦い続ける限り……無様に負けて悲惨な最期を迎えるって」
間に何度か入った沈黙は、ヒメが言いたい事を全て言わず、ただ事実だけを告げようとしたためだろう。そのヒメの言葉に、アキラは何も返せず視線を左手にある数珠へと向ける。
確かにアキラは吸血鬼に無様に負けて、そのまま最期を迎えかけた。それを忘れたわけでは無い。
そしてその中で恐怖を刻み付けられながらも再び戦う事ができたのは、不謹慎な言い方だがミコトが犠牲になったからだろう。
自分の身一つで贖える事が出来ればまだ良かった。だが事態はアキラだけの問題では終わらなかったし、これからもそうなるのだろう。
ならばガタガタ震えて逃げ続けるわけには行かない。何も出来ないからと言って、何もしないで良いという事にはならない。やれる事をやろうと、そう決意した。
「……」
一方のヒメはアキラの様子を見て、なるほどこれは大変だと溜息をついた。
どうやって立ち直らせようかと悩んでいたら、突然騒動に巻き込まれて勝手に立ち直っていた。話だけ聞けばなんと手のかからない弟子だろうか。
しかし立ち直った後のアキラの様子と瞳の力強さを見て、この青年は厄介なタイプの人間だとヒメは感じ取った。
この手のタイプは一度走り始めたら止まらない。ブレーキが壊れているのか最初から存在しないのか、自身の限界まで血反吐を撒き散らしながら進み続けてしまうのだ。
倒れるときは前のめり。それを冗談でもなんでもなく実行してしまう。
これが普通の人間なら「頑張りすぎて倒れました」で済むかもしれないのだが、戦いに身を置くものが同じ意気込みでやれば「頑張りすぎて死にました」となりかねない。というか絶対になる。
現実には過労死する人間も居るのだし、アキラは普通の人生を送っていても、布団の上では死ねない人間なのかもしれない。
死を覚悟するのと死に急ぐのは違う。そう諭そうかと思ったが意味は無いだろう。アキラはその程度の事、言われなくても知っているのだから。
つまり知っているのに自重しない。なんと厄介な弟子だろうか。いつか冗談抜きで力ずくで止める時がくるかもしれない。
「何ともまあ。人生長いのだから、もう少し肩の力を抜いたらどうだねお兄さん」
重い空気が漂っている車内に、どこかのんびりとした調子の男の声が外から聞こえてくる。
二人が揃って視線を向けると、僧侶にしては体格の良い袈裟姿の中年男性が、窓から車内を覗き込んでいた。その姿を見て、アキラは「あっ」と軽く驚いた様子を見せる。
「ミコトさんの葬式に来てた……」
「小埜リショウと申す。まあ見ての通りの坊主じゃ」
「ついでにこの町の中でも上位の退魔士やで」
リショウの自己紹介に補足するようにヒメが言ったのを聞いて、アキラは目を見開きながら両者を交互に見る。
それにリショウはにんまりと笑って見せると、今度は申し訳なさそうな顔でヒメに向って話しかける。
「乗って来たスクーターがどうもご臨終のようでしてなあ、すみませんが寺まで乗せてってもらえんでしょうか」
「はあ、まあいいですけど。坊さんがスクーターに乗るってどうなんですか」
剃髪した頭を右手で撫でながら聞いてくるリショウに、ヒメはスクーターに乗っている僧侶の姿を想像し、何とも微妙な感想を抱いた。
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「四苦八苦というのは元々仏教用語でしてな、その八苦の内にあるのが、聞いたこともあるでしょうが愛別離苦なわけです。愛する人と別れるのは、八つしかない苦の中に入れてしまうほどの苦だと昔の人は言ったわけですな」
「なるほど」
「……」
リショウの寺に向かっている車中。最初は他愛も無い話をしていたのだが、リショウがアキラのどこか危うい悲壮とも言える思いに気付くと、いつの間にか説法へと突入していた。
大切な人を亡くしたばかりの人に、死について説くのはどうなのかとヒメは思ったが、本職の僧侶であるリショウがその辺りの事を考えずに発言する事は無いだろうし、何よりアキラが素直に聞き入っていたので黙っておいた。
これはアキラの心理状態云々以上に、その貪欲とも言える知識の吸収力が、他の者ならばつまらないと思いそうな話を聞き入らせているのだろう。アキラはネットという便利なツールが手に入るまでは、分厚い百科事典を適当に開いて読み始める事を暇つぶしにしていたという、ある種の変人である故に。
因みにアキラの肩に座っているピクシーは、退屈なのかすでに舟をこぎ始めている。一応はイギリス出身の彼女からすれば、仏教の教えなど知ったこっちゃ無いだけかもしれないが。
「よく坊さんの話はネガティブに聞こえると言われるのですが、それは仏教が死を前提に生を捉えるからでしょうな。「頑張って明日を生きよう」では無く「いつか来る死をどう受け入れようか」と考える。
それに先ほど出た四苦は生老病死の四つで、死はもちろん生きる事すら苦であると言っているわけです」
「それでは人は永遠に救われないのでは?」
「そうですな。故にどうにかしてその苦しみを克服出来ないかと、お釈迦様は考えたわけです。時の流れの中で生まれた教えは様々ではありますが、その内の一つを簡単に言い表すならば、「生も死も思うままにはならない故に、思うままに生きて死ねば良い」という事です」
「……矛盾してませんかそれ?」
助手席から首を窮屈そうに向けながら問うアキラに、後部座席に座るリショウは「ハッハッハ」と朗らかに笑ってみせる。
「一種の開き直りですな。生きるも死ぬもままならない、世の中はそういうものだと「あきらめる」のです。この「あきらめる」というのは、断念する事では無くそういうものだと受け入れる――「明らめる」という事です」
「ああ……」
それを聞いてアキラの心の中で何かがストンと落ちた。
アキラはどうにもならない現実を受け入れて、自分が成すべきだと思った事を成した。それは「思うままにならない故に、思うままに行動した」という事だろう。無論仏教におけるそれが、アキラの出した結論と同じとは限らないが。
「……俺のような若輩者が生と死について悟れたわけでは無いでしょうが、「明らめる」という事は理解できたような気がします」
「ハッハッハ、それは恐らく勘違いですな」
控えめに行った言葉をあっさりと否定され、アキラの眉間に皺がよる。これ以上無いと言うくらいに感銘を受けたと思ったのに、その思いを引き出した人物に否定されたら心象が悪くなるのはしようがないかもしれない。
「若い時分にはありがちな、生き急ぐ者の目が消えておりません。生き急ぐ人間というのは完璧主義な者が多く、何か諦めきれない事があるから足掻く事をやめられないのです。
貴方は確かに何かをあきらめましたが、何かを捨てきれずに居る。アキラさんのような人の死を心底悼む事の出来る方ならば、あきらめられないのは他者であり、あきらめたのは自身の生ですかな」
「それは……」
違うとは言い切れなかった。確かにアキラは戦いの場に身を置くために、自分の命を掛け金に出した。それは当然の覚悟とも言えるだろう。
「しかし命を奪うつもりなら、命を奪われる覚悟がいるのでは?」
「確かに。……最近等価交換という言葉を良く耳にしますな。厳密には違いますが、それに似た考えは仏教にもあります。因果応報と呼ばれるそれです。悪因悪果。命を奪ったという因縁は、命を奪われるという結果によって完結すると考えるべきでしょうな」
「なら……」
「ならば、命を救うという因縁は、どのような結果によって完結するのですかな?」
その問いにアキラはしばらくの間考えがまとまらなかった。
答えは死という対価かと思ったが、それならば先ほどの命を奪った場合と結果が変わらない。等価交換という観点から見れば、それはある意味で間違いでは無いかもしれないが、因果応報という考えからすれば間違いだろう。
「情けは人のためならず。善因善果。他者を救った因縁は、自身を救う結果としてもたらされるべきでしょう。誰かを救いたいと願うのならば、自身の生を軽んじてはいけません。
そもそも自身を救えぬものに、何故他者が救えましょうか。貴方がもし怪我をしたときに、血まみれの人間から傷薬を渡されて素直に受け取れますかな?」
「……例えが極端すぎる気がしますが、言いたいことは分かります」
足元がぐらついている人間が、他人を支えようとしても一緒に転ぶだけだろう。いくら覚悟があっても、それに伴うものが無ければ破滅へと至る。
「まあ自身が足りないのならば、誰かを頼ってはいかがですかな。幸い貴方は良き師に恵まれているようですし」
「OK.どんと来ぃやあ」
リショウの言葉を受けて、前を見たまま左手だけハンドルから離して掲げてみせるヒメ。
アキラはそれを見て二人の言いたい事を理解しつつも、かなり切迫しない限りヒメを頼る気になれそうに無かった。それは以前までには薄かった意地であり、アキラが自立心を高めた故の反発心でもある。
それはあたかも親に反抗する子供のような心境。本人が自覚している通り、アキラは良くも悪くも精神的にまだ子供だという事かもしれない。
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「……」
抜き身の刀を青眼に構えたまま、アキラは顔の前を走る刀身越しに無言で目標を見定める。そしてそのまま時が止まったかのように態勢を維持すると、小さく息を吸い込んだ後に刀を水平に構えなおす。
そして静寂に包まれた中でも微かにしか聞こえないほど静かに、一度だけ呼気の音を響かせると、その静寂ごと引き裂かんばかりに刀を左から右へと水平に振りぬいた。
刀は目標であった巻き藁に食い込み、芯にあった竹を切断し、その半身を中へと舞わせる。
それは普段の稽古でも斬り下すか斬り上げることしかしないアキラには不慣れな剣筋であり、本人も納得がいかなかったのか巻き藁に刀身が半ばまで食い込んだところで眉をしかめていた。しかしそばで見ていたヒメにとっては予想の範疇らしく、軽く手を叩くと笑顔でアキラに評価を下す。
「途中で引っ掛かりがあったみたいやけど、初めはそんなもんやけん気にせんで良いよ。それに試し切りでは横切りが一番難しいて言われとるけん、刀歪めずに切れただけで凄いし」
「……そうですか」
納得したように言いつつも、明らかに納得していない様子のアキラ。ヒメはそれに苦笑を返すと、あらかじめ並べておいた他の巻き藁を好きに切ってみるように言って、道場の隅に退がる。
力をひたすらに求めるのは良い傾向とは言えないが、欲が出てきたのはアキラが変わった証拠だ。ずっと受け身だったアキラが、自らの意思で変化を望み始めた。
それはリショウが諭しヒメが危惧するような危険も孕んでいるが、生き抜くためには少なからず必要な事だ。万が一間違えたなら引き戻す。以前マスターが言っていた通り、この真っ直ぐすぎる青年を導くのは大変なのだと、ようやくヒメは理解した。
「本当に基本に忠実やな。出来ることなら実戦なんかせずに、うちの道場継いで欲しいんじゃが」
「アキラくん一人息子やけん、婿養子はむずかしいと思うで」
いつの間にか隣に居たゲンタの言葉に苦笑しながら、ヒメは壁を背にしてその場に正座する。
基本を疎かにしないあの姿勢は、早熟なものでは無いが晩年大成するものの片鱗が見える。例え天賦の才が無くとも、生涯を引き換えにした努力のみで高みへと登ることが出来る。それも一種の才能だろう。
「まあでも生き残らんと晩年も何も無いわけやし」
「そのへんは心読めるせいで、異様に感知能力が高いけん大丈夫じゃ無いかのう。まあ試し切りが終わったら、心が読めてもどうしようもない状況を教える必要があるじゃろうけど」
「ほやね。そろそろ私らも本気出そか」
そう言ってニヤリと笑いながら顔を向き合わせる二人。邪悪な気配を察したのか、巻き藁を切ろうとしていたアキラの手元が狂って刀が足元に落ちる。
それでも何事も無かったかのように刀を拾っているのは、強がりかそれとも現実逃避か。アキラの性格的には後者の可能性が高いが。
「しかしヒメちゃんの方は少しゆらいどるな。どないした?」
「あー……。ちょいと自分に不甲斐無さを感じてね」
ゲンタの指摘に、ヒメはしばらく言葉を失った後に笑いながら話したが、その笑みにはいつもほどの力は無かった。
「アキラくんの知り合いの事なら、ヒメちゃん一人の責任や無いで?」
「それについてはもう割り切っとるよ、私もアキラくんも。問題はアキラくんがどっか焦っとることかな。その事について、小埜さんがアキラくんに説法してくれたんやけどね。もし私がおんなじ様な事言っても、小埜さんほど重みのある言葉にはならんかったやろうなと思て」
「そりゃ説教で坊主の右に出るもんはおらんやろな」
リショウの話しぶりからも分かるように、仏教は哲学的な一面を持っている。成り立ちからして古代インドの思想や哲学に影響を受けており、仏教哲学と呼ばれるものもある。
古くから伝わる教え、その語り継がれてきたものは決して軽くは無い。しかしヒメには、リショウの言葉が重い理由がそれだけとは思えなかった。
「おっちゃんが言うても、私より説得力があると思う。まあ何というか、自分はまだ人生経験が足りんというか、若造なんやなあと」
「……四捨五入したら三十路やろ」
「女の四年を四捨五入で片付けんな」
「ハグゥ!?」
呆れたように言うゲンタのわき腹に、右手をそえて威力を増した左エルボーを叩き込むヒメ。ゲンタにとっては完全に不意打ちだったらしく、呻くような悲鳴を上げるとそのまま上半身を折り曲げるようにして悶絶している。
その様子を横目でみていたアキラは、ヒメが何気に一年サバを読んでいることに気づいていたが、つっこまずにスルーする事にした。
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「――もし全てを明らめることが出来る人間が居るならば、その人は生への執着すら明らめる事になります。その上で他者を救う事だけに執着し生きることが出来るならば、それは正に菩薩の生き方です。
一切の執着を捨てその上で他者を慈しむ。一方的な自己犠牲のようにも見えますが、それは違うのだと個人的には思いますな。
愛は見返りを求めない。何の偽りも無い無償の奉仕から愛は生まれるのです。
ただ救うのでは無く、人々に愛の種を蒔く。それこそが菩薩の生き方では無いかと私は思うわけです」
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あとがきみたいなもの
スーパー説法タイム(誰得)。法事とかでお坊さんが話してくれる事は、ためになるものが多いです。
しかし作中に出てきたリショウの言葉は、作者なりの解釈や願望が混じっているので、仏教の教えに興味がある人は鵜呑みにせずに自身で調べる事をお勧めします。