――呼んでいる
傾斜した地面に挑みかかるように、アキラはひたすらに歩いていた。
行く手を阻むように生い茂る草は肩の上まで伸びており、いくら手で掻き分けても途切れることは無い。
アキラは何故自分が前へ進んでいるかも分からずに、ただそうすべきだという思いに突き動かされ、賽の河原で石を積む子供のように、ひたすら草を掻き分け歩き続ける。
「そっちに行っちゃ駄目だよ」
しかしそんなアキラを優しく、だが力強く引き止める手があった。
その手の主は、白いワンピースを纏った長い金色の髪の少女。その少女を見上げて、アキラはやっと自分の体が子供のように……否、子供になっていることに気付く。
だがアキラはそんな自分の体に疑問を持つことも無く、ただ少女の顔を見上げながらゆっくりと首を横に振った。
「どうして?」
頑なに歩みを止めようとしないアキラに少女が問いかける。
「呼んでる」
それにアキラは自分でも意識しない内に答え、そして歩き出そうとする。
だが少女はそれでもアキラを引きとめようと手を伸ばし、問いかける。
「山の向こうはあの世に繋がってるよ? 一人で行くと危ないよ?」
「お父さんがいる」
アキラの答えに少女は困ったような顔をする。
しかし良い事を思いついたとばかりに手を合わせると、慈愛の込められた優しげな笑みでアキラに呼びかける。
「なら私のお父さんにも会って行って。もしもあなたが危ない目にあっても、お父さんならあなたを守ってくれるから」
そう言って手をとってくる少女の手を、アキラは拒まなかった。
今まで誰かに呼ばれるように動いていた足は、少女の手に導かれるように山の奥へと進んでいた。
・
・
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「……?」
手では無く額に何かが触れているのに気付き、アキラは怪訝に思いながら視線を巡らせる。そしてまず気付いたのは、自分が瞼を開いていないことだった。
そんな当たり前の事にすら気付けないほど認識能力が働いていないまま、アキラはゆっくりと瞼を開きながら上半身を起こした。
当然のように自身がもぐりこんでいた布団を持ち上げる。
下から現れたのは、見覚えの無い白いシャツとゆったりとしたズボンを着た自分の体。それを少し疑問に思いながら、アキラは朦朧とする意識につられる様に焦点の合わない視界のまま、特に目的意識も無いまま周囲を見渡した。
まず目に付いたのは、太陽の光を遮ろうとする白い障子。そこから徐々に視線を動かしてみれば、そこが六畳の座敷部屋だという事が分かった。しかし少なくとも、この場所がアキラの自宅の座敷では無い事は間違い無い。
「……自宅? 俺……は……」
自宅の細かい間取りどころか、自分が何者かという事すら思い出せず、アキラは目元を覆うように右手で頭を押さえながら思考する。
幸い記憶の喪失は一時的なものだったらしく、数分ほどすればアキラは自身の事に関する記憶を脳から引き出せるようになった。しかし思い出せなかった間の焦燥感は凄まじかったらしく、その顔には汗がにじんでいた。
「……?」
汗ばんだ顔に張り付く前髪を払おうとしたところで、アキラは額に何かが張り付いているのに気付く。一度気付いてしまうと気になってしょうがないため深く考えずにはがしてみると、それは冷却シートだった。
何故こんなものを自分がしているのかと、疑問に思いつつ冷却シートを裏返す。すると調度表にあたる部分に、黒い太字で一字書かれていた。
<肉>
「………………」
あまりにお約束過ぎるその一字にしばし呆然とするアキラ。
しかし何か反応を示すと、これを書いたであろう人物が子供のように喜びそうな気がしたので、無言で冷却シートを丸めると近くにあったゴミ箱へと投げ捨てる。
「……というか顔にも落書きして無いだろうなあの人」
ペタペタと顔に触れながら呟くアキラだったが、それで確認できるはずも無く、鏡は無いかと周囲を再度見渡す。
「あ、起きたんアキラくん」
「え?」
突然障子とは反対側の襖が開き、アキラの看病ついでに遊んだのであろうヒメが入ってくる。
長い髪は編みこむようにして後頭部でまとめられており、着ているのはこの場にある意味合っている青い作務衣。それを着ている人間は容姿からして、座敷にも作務衣にも合っていないように思えるのだが、不思議と彼女の存在はこの場に溶け込んでいるように見える。
「どしたん? まだどっか痛い?」
「……いえ大丈夫です。ここは?」
現れた人物は予想の範囲内でも、今現在の状況が把握できない。アキラは未だに霞がかったように上手く働かない頭を押さえながら、ヒメへと問いかける。
そしてその問いへの答えは予想外のものだった。
「ここ? 私ん家」
「……何故?」
何でヒメの家で寝ているのだとか、何故自分は熱を出していたのだとか、そもそもこの純日本家屋に住んでんのかよという様々な意味を込めてアキラは呟く。
だがそんなアキラの思いもよそに、ヒメはアキラの隣に苦笑しながら正座する。
「何故と言われてもねえ……アキラくん昨日の事覚えてないん?」
「昨日……?」
ヒメに言われてアキラは昨日の事を思い出そうとするが、思い出せるのは昨日より前の事ばかりなうえに、その時系列も上手く把握できない。
それでも必死に記憶を繋ぎ合わせようとするアキラをヒメはしばらく見つめていたが、埒があかないと思ったのか、静かな声でアキラの記憶を呼び起こしていく。
「朝はミコトちゃんとデートに行ったんやけど、それは思い出せる? 前に助けたお礼に、映画のチケット貰って」
「……ああ、確かそのまま夕方までは……ミコトさんと一緒に居たはずです。……その後は……中学の時の同級生と会って……」
「中学の?」
流石にそこまでアキラの行動を把握していなかったヒメは、思わぬ登場人物に驚き、そして次に眉を顰める。
しかしそんなヒメには気付かずに、アキラは記憶を徐々に意識の奥から引き上げていく。
「それで話がしたいと言われて水岐タウンに……そこでラーメン屋に入って……食事を終えた後に……地震が――!?」
そして巻き込まれた異変の発端が脳裏を掠めた瞬間、フラッシュバックするように一連の出来事が目の前を駆け巡る。
その惨事にアキラは思わず怯えた子供のように頭を抱えて体を縮め、しかしそれでも冷静な一部の思考で自身の右腕が折れていないことに気付く。
「怪我が……治ってる?」
「私が治したんよ。でも、精神的なダメージは結構大きいみたいやね」
「……え?」
どちらかというと色黒なはずのアキラの顔は白く染まっており、普段なら相手を揺らぎ無く見据えている瞳は小刻みに揺れている。
殺されかけた事を考えれば当然の反応だが、アキラ自身がそこまで酷い事を自覚していない様子なのがヒメには厄介に思えた。
「まあ何はともあれ、落ち着くまでしばらく寝とき。……詳しい経過が聞きたいなら、話したげるけん」
そう静かな声で告げるヒメの言葉には、聞かなくても――このまま日常に逃げ帰っても責めはしないというニュアンスが含まれていた。
しかしアキラがそれに答えを示すことは無く、ヒメが部屋から出て行くのをただじっと見つめていた。
『アキラ殿は起きられましたか』
庭に面し、太陽の光に満たされれている廊下をヒメが歩いていると、不意に正面から現れた白い騎士が言葉をかけてくる。
それにヒメは驚く様子も見せず、溜息をつきながら答える。
「ああ、起きたんは起きたんやけど、やっぱ精神的にまいっとるみたいやね。下手すれば殺されかけたんがトラウマになって、まともに戦うことが出来んなっとるかもしれんなぁ……」
『そう……ですか』
ヒメの言葉を聞いて、騎士は見ているほうが心配になるほど悲愴な表情で項垂れる。
その様子をヒメはしばらく眺めていたが、ふと視線を庭へと反らすと独り言のように話始める。
「アキラくんが何者かなんて、私は知らんよ。やけんアンタが何でそこまで忠誠心みたいなん持っとんかも、何であんな強力な加護を受けてんのかも気になっとるけど、あえて聞きはしやせん」
『……申し訳ありません』
いっそこちらが謝りたくなるほどに沈んでいる騎士に、ヒメは叱り付けたい気分になってきたが自重した。もし仮にこの騎士を叱る必要が出た時は、ヒメの仲魔にうってつけの者が一人居る。
「ただちょい一つだけ聞きたいんやけどね。アキラくんに加護を与えとる悪魔……アキラくんの行く末を縛り付けるような存在なん?」
それは騎士がアキラに加護を与えた悪魔を知っている事が前提の質問。
だが騎士はそれを気にする素振りも無く、しばらく考える仕種を見せた後に重い口を開いた。
『ある意味で縛ることにはなりましょう。ですがそれは、今のヒメ殿がやっている事と同じ事なのです』
「……そか。何となく分かったわ」
ヒメがアキラにやったこと。それはアキラを悪魔達の居る世界で生き残るための術を教えた事。
一見すればアキラが選択したように見えるその道は、選択せざるを得なかったという側面もある。
深海アキラは悪魔に狙われ続ける。
いくら上手く異常を避け続けても、いつかアキラの存在は悪魔達に発見される。そして既にアキラは悪魔達の居る世界に片足を突っ込んでしまったのだ。
ヒメはアキラには言わなかったが、加護の事については会って間もないうちに気付いていた。
そしてその加護はアキラを守ると同時に、アキラの存在が悪魔達に知られ始めれば、むしろ上位の悪魔の興味を引いてしまう可能性があることも。
だがそれはさしたる問題では無い。問題なのは、アキラが生きれば生きるほど、悪魔たちの間で大量のマグネタイトを保有しながら生き残っている人間が居ると知れ渡るという事だ。
いつどこから湧いて出るとも知れない悪魔達から、逃げ続けることは難しい。誰か他のデビルサマナーなり退魔士なりに護衛を頼むという選択肢もあるが、一生護衛を雇い続けるほどの大金をアキラが用意するのは難しいだろう。
かと言って無料でアキラの一生を背負ってくれるような存在も、生まれが普通の人間でしかないアキラには居ない。
戦い続けるしかないのだ、深海アキラと言う人間は。
いつかその体が朽ち果てるその時まで。
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「……」
ヒメが去った部屋の中で、アキラは一人無言で佇んでいた。
左手には枕元に置いてあったGUMP。ディスプレイにはジャックフロストのデータが表示されており、それを見る限りはジャックフロストの状態は良好らしい。ベリスの言った通りヒメが何とかしてくれたのだろう。
当のベリスがどうなったのかアキラは少し気になったが、あの手の奴は殺しても死なないだろうと思い頭から切り離す。
「――SUMMON……」
召喚プログラムを起動しようとして、止めた。
何故止めたのかはアキラにも分からない。ただ左手に持ったGUMPが、実銃よりも重いようにアキラには感じられた。
「……駄目だな俺」
足を投げ出すように壁を背にして座りながら、アキラは自嘲するように呟く。
ヒメには大丈夫だといったが、アキラは一つの異常――ある意味で正常な自分の状態を自覚していた。
いくら集中しても、精神感応能力が使えないのだ。今まではいくら抑えようとしても消えなかった力が今は欠片も感じられず、そんな力を持っていたのが夢だったようにすらアキラには思えてくる。
理由はアキラにも予想がついている。
あの吸血鬼。
あの吸血鬼からダイレクトに受け取った殺意が、アキラの脳裏にタールのようにへばりついて離れない。
アキラは自身の精神感応能力は、ピクシーの心を「受け入れる」のをきっかけにして発動したものだと推測している。
そして吸血鬼の殺意に恐怖してしまい、他者の心を「受け入れる」事が出来なくなったために、精神感応能力が消えてしまったのだろうと。
「……情けない」
右手で目元を覆いながら、アキラは様々な感情を抑えようと努める。
だが理不尽に人が殺された事に対する嘆きも、仲魔や自身を傷付けられたことに対する怒りも、
腹を貫かれ、腕を折られ、身動きが取れなくなるまで追い詰められ殺されかけた恐怖に塗りつぶされる。
もっとやれると思った。
誰かを助けられると思った。
危機に陥っても諦めなければ何とかなると思った。
だが強くなったと思ったのは幻影で、助けるどころか助けられ、なすすべも無く殺されかけた。
それが深海アキラのリアル(現実)だった。
「世界って、こんなに静かだったっけ……」
他者の存在が感じられない世界。
少し前まで当たり前だったその孤独が、今のアキラには痛みを伴うほどに残酷なもののように思えた。